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2006年9月30日 (土)

すばらしいのは

聖書とコンピュータシリーズ NO.3

 コンピュータのソフトでよく活用されるのはワープロソフト、表計算ソフトです。
 ワープロソフトを用いて文書を書くと、手書きに比べてよいことは何でしょうか。
 まず、頭に浮かんだことを、とにかくどんどん書いて、後から編集できるということがあげられます。字数の決められた原稿を書くときも消しゴムがいりません。 
 図や写真と組み合わせるときも糊やはさみを使わずに文章の好きな位置へ好きな大きさで入れることができます。
 それから、ワープロで作成した文章がすぐプリンタで印刷できることも大きな長所です。長時間かけて文章を書いても文字がくずれず、清書し直す必要がないのは魅力です。
 三つ目に、一度書き上げた文章は保存でき、電話線やケーブル、ときには無線で送ることが簡単にできます。そして受信した相手が、その文章を加工することも可能です。

 表計算ソフトはワープロソフトに次いでよく使われるソフトです。一瞬にして膨大な計算を成し遂げ、数値を変えるとそれもすぐに再計算して結果を表示してくれます。なにしろコンピュータを訳して電算機というほどですから、コンピュータにとって計算は得意中の得意、面目躍如といったところでしょうか。データをグラフにしたり、たくさんのデータから特定の条件に合うものをとりだしたりすることも素早くできます。

 さて、今まで時間をかけ苦労して手作業していたことをそれこそ瞬く間にコンピュータがやってのけると「すごーい。」「なんて賢いんだろ。」と感心し、賞賛の声が上がることがあります。ここからが本題です。

すごいのは、そして、賢いのは何でしょうか。
 コンピュータ、そしてソフト?・・・それもありますが、もっとすばらしいのはそれを発案し、創り上げてきた人間です。コンピュータの便利さ、優秀さを実感するたびに「私たち人間はすばらしい」と思えばいいのです。たとえば、チェスの名人を負かしたコンピュータがありました。でも、よく考えてみてください。あれも、本当は一人のチェスの名人と多数のコンピュータプログラム技術者チームとの対戦・・・人と人の対決だったのです。

  コンピュータや出来のいいソフトに感心するのはいいとして、それ以上に、すばらしいものを創り出し、活用している人間にもっと感心するようにしましょう。
 そして、自然に対しても、たとえば山の雄大さに心打たれるのはいいことですが、その山を神格化するのでなく、そうした山も含めて地球、宇宙全体を創造された神様にこそ目を向けることが大切だと思います。

 ディズニーの数ある名作の一つ、「ピノキオ」の主題歌「星に願いを」は多くの人に親しまれている曲で、私も好きです。けれど、もうお分かりいただけたかと思います。そうです。「星を創られた方にこそ願いを」というのが今日の結びです。
    聖書の言葉
  初めに、神が天と地を創造した。

創世記1:1  ※ 聖書の最初の言葉です。

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2006年9月29日 (金)

最新鋭機の誘惑

聖書とコンピュータシリーズ NO.2

 コンピュータ関係の技術の進歩は目覚ましいものです。動作する速度が速くなると、画像を取り入れたり、加工したりすることなど、いろいろなことが速くできるようになります。いくつかのソフトを立ち上げておいて、その間を行ったり来たりしながら一つの資料を手際よく仕上げていくこともできるようになります。

 けれど、実際にそういう作業が必要な人はどれくらいいるのでしょうか。自分がコンピュータを使ってしようと思うことが実現できるのであれば、高いお金を出して、それ以上の性能を追い求める必要はないわけです。
 たとえば、文章を書くことにパソコンを使う人の場合、頭に言葉が浮かぶ速度より速く文字を表示できる性能のコンピュータがあっても、文章を速く書けるようになるわけではありません。現在あるコンピュータは、間違いなくその速さはクリアーしています。

 目的に合った動作をしてくれるならば、高いお金を出して最新鋭機を買う必要はないのです。それは、ちょうど、畑で収穫した野菜を運ぶには荷車があればよく、高級車と言われるロールスロイスなどを欲しがらなくてもよいということに似ています。

 そうは言っても、最新鋭機を持っていると、「僕のコンピュータは今一番速いCPU(中枢演算装置・・・車でいうとエンジンに相当する)を積んでいるんだぞ。」と自慢することができます。ただし、今日最速を誇っているCPUが明日も最速だという保証は、どこにもありません。最新鋭機を持っているという喜びは、つかの間のものでしかないのです。それでも高いお金を出して最新鋭機を手に入れようとしている人は、実はそれを使いこなしている自分の姿に憧れながら見果てぬ夢を追いかけているのかも知れません。

 ソフトも本当に必要かどうかを考えて購入することが大切です。たとえば、外国語を翻訳してくれるソフトも大分よくなっています。けれど、ちょっと考えてみてください。自分の語学力を越えた文をソフトに翻訳させても、本当に正しく訳せているかどうかを判断することはできませんよね。「使い手自身の語学力のところまでしか翻訳ソフトは使えない。」という法則が成立するように思います。また、大きな組織でのスケジュール調整にはネットワークを組んだパソコンが威力を発揮しますが、手軽に個人のスケジュールをメモしたり確かめたりするのには、小型の手帳のほうに分があるのではないでしょうか。

 パソコンに限らず、夢中になるうちに本来の目的を見失って、手段や道具が目的化することのないように気を付けましょう。いかなる豪速球もキャッチャーのミットという的(まと)をはずすと、単なる暴投になってしまいます。私たちのかけがえのない人生も、正しい目標を見失うことのないように、的(まと)を見つめて進みたいものです。

    聖書の言葉
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。 

  マタイによる福音書6:33

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2006年9月28日 (木)

本当に必要なのは

聖書とコンピュータシリーズ NO.1
 
 岐阜ラジオで月曜日から土曜日まで、 毎朝6時15分から「さわやか世の光」が放送されています。讃美歌などの美しい音楽と、聖書からのメッセージを聞きながら一日が始まるのは、精神的なぜいたくの一つかもしれません。(さわやか世の光のホームページは次のところです。)
 ある朝、その「さわやか世の光」からこんな話が聞こえてきました。
 
  イタリアの高名な画家の家を一人の少年が訪問して、応対した奥さんに 頼んだそうです。「ぼく、絵描きになりたいんです。ご主人の使っている絵筆をください。それで描いたらきっといい絵が描けると思うんです。」
  懇願された奥さんが絵筆を贈ると、少年は喜んで早速描き始めました。 ・・・でもどうもうまくいかないようです。首をかしげている少年に奥さんは言いました。わかったでしょ。絵筆じゃなくて、あなた自身なの。」
 
 この話を紹介させていただいたのはコンピュータを連想したからです。
 コンピュータの発達によって文字、音声、画像をデジタル化して一元的に扱えるようになり、それらを組み合わせて加工したり、送受信したりすることができるようになりました。情報伝達の速度は速くなり、範囲も広くなりました。
 けれど、肝心の情報の質が、伝達される速度や範囲の向上に釣り合うものになっているかというと、大いに疑問です。道具としてのコンピュータの発達を人間がどう生かすかこそが課題なのです。先の話に戻りますと、「大切なのはコンピュータじゃなくて人間自身なの。」ということではないでしょうか。
                         
 コンピュータに限らず、すべての科学技術は人間の備えている良い可能性を大きく伸ばし、よい願いを実現するために進歩させることが大切です。
 そうでないこと、たとえば「核兵器の安全性を高めるための臨界前核実験」などというのは、情けないですし、言葉としても矛盾を感じてしまいます。真の科学のねらいはそんなものであってはならないと思います。
 人間が正しい方向に歩むために聖書はあやまりのない指針です。神様に私たち人間の目を開いていただき、正しい方向に進んでいきましょう。
 
   聖書の言葉
  私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇(くす)しいことに目を留めるようにしてください。
                     詩篇 119: 18
 

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2006年9月27日 (水)

人類最初の猜疑心(さいぎしん)

 つたないブログですが、開設して昨日まで、十の文書をアップロードさせていただきました。何人もの方からお励ましをいただき、感謝申し上げます。さて、クリスチャンというと、さぞ堅苦しい人物ぞろいだろうとお思いの方にここ数回の文書は拍車をかけたように思いますので、そうばかりではないですよというお話を今回は書かせていただきます。 これはいのちのことば社からごく最近(なんと9月15日です!)発行された「世界傑作ジョーク250」という本の最初から10番目に載っているお話です。税別900円のこの本を購入した私が、紹介目的で一つだけ載せるということですので著作権のこと、どうかお許しくださいますように。

   ◇  ◇  ◇  □  ○  □  ◇  ◇  ◇

 エデンの園をアダムとエバが歩いていた。エバがアダムにたずねた。「ねえ、アダムぅ。あなた本当に私を愛してるの?」するとアダムがぶっきらぼうに答えた。「このエデンの園に、ほかにだれがいるんだ。」真夜中にエバはそっと起き上がり、アダムの骨の数を確かめた。

  ◇  ◇  ◇  □  ○  □  ◇  ◇  ◇

 この本の帯に「ふたりの牧師が苦節40年、心血注いで探し歩いた」と書いてあること自体が大いなるジョークだと私は思います! ただし、まじめなクリスチャンの方からは、どうもおしかりを受けそうですし、聖書を読んだことのない方には「どこがおもしろいのか分からない。」とご意見をいただきそうです。それで、この本からの紹介は今回限りとさせていただきます。それはともかく、上の話のもとになっている聖書の箇所をご紹介いたします。

 神は深い眠りをその人(アダム)に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。 神は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女(エバ)を人のところに連れて来られた。

    創世記 2章21節・22節

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2006年9月26日 (火)

目からうろこが落ちるとき

 「神様からの手紙」とも呼ばれる聖書には、聖書にふれる機会がほとんどなかった方もよく耳にされる表現があります。
「狭き門」、「迷える小羊」「汝の敵を愛せ」、「人はパンのみにて生くるにあらず」などの言葉は文学の世界だけでなく、多くの場面で引用されて います。
 「目からうろこが落ちる」も、聖書を源としている表現の一つです。
  イエス・キリストを救い主として受け入れて生きる人々をクリスチャンといいますが、そのクリスチャンを迫害し、死に至らせることを生き甲斐とする人物が いました。2千年近い昔のことです。
  その彼が新しい獲物を求めて、殺害の息をはずませながらある町へ向かっているとき、イエス・キリストが彼に現れたのです。
 
 それまでの彼は闇の中に居たのですが、「目からうろこが落ち」、イエス・キリストの愛を述べ伝えながら光の中に生きるクリスチャンとなりました。この人の名はパウロといいます。
 
 聖書は66巻から成る書物ですが、その中には神様がこのパウロを用いて書かれた13巻が含まれています。    
 
 ところで、「アメージング・グレース」という曲をご存じの方も多いと思います。 多くの歌手が歌い、コマーシャルにもよく登場しています。 
 「アメージング・グレース」・・・直訳すれば、びっくり仰天するような恵みという意味です。
 この曲の作詞者ジョン・ニュートンは、少年期から生活をくずし、ついには奴隷船の船長になってしまった人でした。
 
 その彼がアフリカからイギリスへ戻る途中で大きな嵐に遭い、すんでのところで命を失う経験をしたことがきっかけとなって神様を信ずる人に変えられたのです。
 
 やがて、彼は牧師となりましたが、82歳で天に召されるまで、彼の生涯を変えた劇的な神様の恵みにびっくり仰天するのをやめなかったということです。まさに「目からうろこが落ちた」生き方ですね。
 歌詞をご紹介いたします。 (聖歌 229番 いのちのことば社 刊)
1 驚くばかりの恵みなりき この身の汚れを知れる我に
2 恵みは我が身の恐れを消し まかする心を起こさせたり
3 危険をもわなをも避け得たるは 恵みのみわざと言うほかなし
4 御国に着く朝いよよ高く 恵みの御神をたたえまつらん
 イエス・キリストに出会い、神様の愛にふれるとき、どの人にも新しい人生が開けてきます。ぜひキリスト教会にお出かけください。
 
 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(イエス・キリスト)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。   【聖書マタイによる福音書11章28節】
 

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2006年9月25日 (月)

目の中の梁(はり)

   夜間、すれ違う車に一方のヘッドラ イトが消えているものが時々あります。
 (危ないなあ、わかりそうなものだけれど・・)と、そんなとき思うのですが、その私が知人を車で迎えにいったある夜、「左側が点灯していないよ」と教えられました。 他人のことは指摘できても、自分のことはなかなかわからないものですね。
 聖書の「山上の垂訓」と呼ばれている箇所に次のような言葉があります。
 なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には気がつかないのですか。
 兄弟に向かって「あなたの目のちりを取らせてください。」などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
 偽善者たち。まず、自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からもちりを取り除くことができます。
【マタイによる福音書7章3~5 節】
 
偽善者たち・・・きつい言葉ですね。
 イエス・キリストという方は、もっと優しい人だと思っていたのに・・・そりゃあ、私は自分には他人に対するより寛大かも知れないけど、「偽善者」というのは言い過ぎじゃないですか、もっと優しい言い方があるのでは・・・と思われる方も多いのではないでしょうか。
 しかし、これを体のことで考えてみたらどうでしょうか。
  あるとき、ひどい腹痛を起こした私は病院へ行きました。しかし、お医者さんがお腹を押えたとき激しい腹痛を感じたのに、おおごとになるのを恐れて正直にそのことを言いませんでした。そのため急性虫垂炎と判明せずに帰宅し、ついにこらえきれなくなったときには腹膜炎を起こしていました。幸い手術でことなきを得ましたが、危ないところでした。
 表面は何事もないようにとりつくろって返事しても、内部の悪いところは着実に健康をむしばんでいたのです。
 
 私たちの心に清くない部分があり、それが放置されれば心はむしばまれ、生き方も病んだものになってしまいます。それを正すのに必要なのは他人に対して表面をとりつくろうことではなく、清くない部分を正面から見つめて取り除くことです。
 
 キリストの言葉が時に強すぎるように響くのは、魂を救うために心からの愛に根ざして語られるからなのです。

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2006年9月24日 (日)

何に向かって励んでいますか?

 うなりを生じてキャッチャーミットにおさまる速球。懸命に振るバットにかすらせもしないで三振、また三振・・・プロ野球の魅力の一つはこんなところにあります。
 三振をとるのに球は速いにこしたことはありませんが、球速はそれほどでなくても大きな活躍をする投手がいます。緩急の付け方やバッターとのかけひきも巧みなのですが、何といってもコントロールがいいのです。
 逆にいうと、どんなに速い球も、的(まと)をはずさないコントロールが伴わなかったら、使いものにならないのです。
 さて、親は子どものためにいろいろなことをしています。父親の部屋と子ども部屋のどちらが優先して作られるかといえば、子ども部屋のほうが圧倒的に多いでしょうね。また、家事の手伝いと受験勉強のどちらが優先かとなると、「茶碗洗いはお母さんがするから、あなたは勉強していらっしゃい」という傾向が強そうです。
 愛情はたっぷりなのですが、こうした親の努力は、望ましい的(まと)に向けてなされているでしょうか。最悪の場合、親の目の届かない部屋で、仕事を免除された子どもが感謝の気持ちもいだかないで好き勝手なことをしているということになりかねないのです。共通の的(まと)を見つめて歩いていないと、親と子や夫婦であっても、大事な生き方がすれちがってしまうのです。
 今は放映されていませんが「大草原の小さな家」(NHK教育テレビ土曜日午後放送)には、家族がそろって教会に行く場面や、祈る場面がよく出てきました。夫婦、親と子が同じ信仰に立って歩むことの素晴らしさが伝わってくる番組でした。
 「さわやか世の光」(岐阜ラジオ・平日朝6時15分から10分間)・「ハーベスト・タイム」(岐阜テレビ・日曜日午前7時半)もお薦めできる番組です。時間は異なるようですが他の局でも放映されているようです。ぜひご視聴ください。それぞれホームページで番組内容も紹介されています。
「ハーベスト・タイム」http://www.harvesttime.tv/
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神  である主を愛せよ。」
 「あなたの隣人を自分と同じように 愛せよ。」
この二つより大事な命令は、ほかにありません。
【マルコによる福音書12章3031

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2006年9月23日 (土)

斧(おの)を見る日間(ひま)

  ある教育雑誌に上の題で書かれた文章が載っていました。次のような内容です。
エレベーターに乗って、行きたい階の番号を押し、続いて、ドアを閉じるボタンを押そうとしたとき、ふと思った。そのボタンを押さなくても数秒たてばドアは自動で閉じて動き出すのだ。その数秒が待てない人間に自分はいつからなってしまった のだろう・・・と。
懸命に木を伐採していると、いつの間にか斧を振ることだけに没頭してしまい肝心の斧が刃こぼれして切れが悪くなっていたり、柄(え)が抜けそうになっているのに気がつかなくなってしまいがちである。がむしゃらに斧を振り続けるのでなく、時々手を休めて斧をよく見て手入 れすると、ずっと早く木を切り倒せるものだ。
 
暇(ひま)の語源は日間(ひま)であり、文字通り、日光の差し込む空間を意味しているという。日の光が入り込めないほど密集していては植物が大きく生長できないのと同じように、過密なスケジュールをこなすことに追われていると、私たちの心もいつの間にか成長することを忘れてしまう。日常の生活に忙殺されることなく、斧を顧み、手入れする時間を創り出したいものである。
   □   ◇   ◇   ☆  ○  ☆  ◇  ◇  □
 文章の紹介が長くなりましたが大事なことを指摘された思いがして心がひかれたのです。
 
 しばらくまえのことになりますが、こんな会話がけっこう多くのパソコン店でなされていたようです。
「コンピュータを使うといろいろなことができると聞いたから買おうと思って来たのだが、どんなものを買ったらよいか教えてほしい」
「分かりました。それでは、まずあなたがコンピュータを使って何をしたいのかを教えてください」
「・・・・」
「確かにコンピュータはいろいろなことに使えますが、大切なのはあなたがコンピュータを何に活用したいのかということですよ」
「それがいまいちはっきりしないんだなぁ」
 忙しいときほど、自分は何を大切にして、何を目指して歩むのかを見つめる必要があります。
 
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。 【聖書マタイによる福音書16章26節

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2006年9月22日 (金)

ムーミンパパの子はムーミン?

 私の子育てをお話しするとき、いつも欠かせないのがこのムーミンの話です。今は二児の親となっている長男が小学校に上がる前のことですから、三十年近く前のことです。

 その日、私と長男はテレビでムーミンを見ていました。ご存じの方も多いと思いますが平和なムーミン谷に住んでいるムーミンたちのおだやかな生活が展開するアニメ番組です。その日はめずらしく悪人が登場し、主人公ムーミンのガールフレンドが連れ去られてしまいました。怖い相手ですが、ムーミンは必死に勇気を奮い立たせて救出に向かいます。その姿を見ていて、私は長男に語りかけました。「おまえがムーミンのようになってくれたらいいな。」

 かたわらに居た長男が息を呑みました。テレビの画面から目を長男に移すと涙を浮かべているようです。たまの父親の一言はこんなにも感動を与えるものなのか・・・と思いましたが、それにしてはどうも様子が変です。どうしたのかと尋ねると、長男はこう答えました。「父さん、ぼく、あんな顔になりたくない。いつまでも人間の子でいたい。」

 ・・・私は、その日のムーミンのように、ふだんはおっとりしているけれども、勇気をだしてけなげに悪と立ち向かう子になってほしいと語ったつもりでしたが、幼い長男は、画面に映るムーミンの顔かたちのようになれと言われたと思い込んでショックを受けていたのです。

 寝ころんでテレビを見ながら、「アニメの主人公のようになれ。」と語りかけ、子どもが「うん、ぼく、がんばる!」と張り切って育つとしたら、こんなに楽な子育てはありません。まず親自らが現実の世界で必死に生きている姿を見せ、有言無言の内に「我が子よ、このように生きよ。」と示すことが子育ての基本であることを強く思い、反省した出来事でした。

 ところで、身をもって生き方を示すというとき、クリスチャンには聖書というゆるぎのない拠り所があり、そしてイエス・キリストに倣(なら)うことができる大きな幸いがあります。パーフェクトな生き方をすることは人間誰にもできませんが、神様に希望をおいて、「さずかりもの」ではなく「あずかりもの」である子どもを育てていこうではありませんか。

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。箴言22章6節

 箴言・・・広辞苑には次のように書かれています。

(1)いましめとなる短い句。格言。

(2)旧約聖書中の一書。格言・教訓・道徳訓を多く含む。

    ソロモンの 箴言。

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2006年9月21日 (木)

かけがえのない存在

「人生は神様からのただ一度きりの招待である」という言葉があります。
この世に生を受けるということ、自分が生きているということはそれだけで奇跡のような出来事なのです。
けれど、私たちは生きることに喜びよりも苦しみや不満を抱きがちです。たとえば、「どうせ生まれるのならもっと裕福な家がよかったな」とか、「もうちょっと美人に生まれていたら苦労せずに人生が楽しめるのに」などなど・・・・・。
 
難問に正面からぶつかって悩むことは人生を深く味わう力を養うことにもなるでしょうが、不満にはそうした前向きの力を生み出す良さは備わっていないように思われます。
では、人はどうしたら不満を抱かず、喜びながら生きていくことができるでしょうか。
それは、自分が神様に生かされている存在であることを知ること、そして自分が神様に愛されていることを知って受け入れることによって可能になるのです。
 朝、目覚めたとき「ああ、また長い一日をすごさなくてはいけないのか」と溜息をついてスタートするのと、「神様、今日もあなたにいただいた新しい一日を生きることができることを感謝します」と祈って歩み始めるのとでは、ずいぶん大きな違いがあります。
 
 この両者には、たとえば同じピアノに向かっても、習い始めたばかりの幼児は楽譜を音にすることだけで必死なのに、ピアニストは曲想を描き、魂を込めて音を送り出すことができるというほどの開きがあります。(かつて、海の曲を弾くピアニストのお手伝いをしたことがありますが、演奏にかかる前にしばらく瞑想されたピアニストの周囲に一瞬波の音が広がったように感じて驚いたことがあります。)
 歌人、石川啄木は「私は命の一瞬一瞬がいとおしい。いとおしいから詩を作り、歌を詠む」という意味のことを書いています。
 せっかく生かされている毎日・・・愛着と神様への感謝を覚えながら、より豊かな命を注ぎ続けて歩みたいものです。
 
 わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
  【聖書 イザヤ書43章4節】

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2006年9月20日 (水)

人生の音色

 私たちの人生において、何一つ悩みの種がないということはあるでしょうか。
 
仕事のこと、家庭のこと、子どもの将来のこと、経済的なこと、そして健康のこと・・・自分の家族だけでなく、親戚関係まで含めて考えてみると、心にひっかかる心配事のない、天候でいうと快晴の状態ばかりの人はほとんどいないのではないでしょうか。
 
「くよくよしたって仕方がないから考えないようにしている」という方もあるでしょう。それも一つの悩みへの対し方ですが、目をそらすだけでは本当の解決にならないことは明らかです。
 
私が大きな心配事を抱え、重くのしかかる苦しみにあえいでいたとき、次のような文章に出会いました。工藤信夫というクリスチャンのお医者さんの書かれた本の一節です。
「人生の音色」
 リュートという、ギターのモデルになった楽器に亀裂が入った。使い物にならなくなると思われたのに、どうしたことか、それまでの状態の時よりずっと新鮮でずっと美しい音色を発するようになった。
 そのことが評判となり、それ以後リュートを作る職人たちは「いかにして美しい音色が出るように亀裂を入れるか」ということに懸命に取り組むようになったという。
 苦しみのある人はすべて胴部に亀裂のある楽器のようなものだ。そして、実はそうした亀裂が、楽器だけでなく人の場合にもその人の人生を奏でる音色を高めているのではなかろうか。
   ◇   ◇   □   ◇   ◇   ○  ◇  ◇  □  ◇  ◇
 私たちが生きて行くとき、何一つ申し分のない環境、理想的な状態に恵まれるというのはむしろ稀なことで、どこかが満たされず理想からはずれた状態にあるのが人生の普通の状態なのかもしれません。
 
 そしてそこからもたらされる苦しみにくじけずに自分自身の精一杯の音色を奏で続けることこそ、生きるということではないか
・・・上の文章を読んで、そう思うようになりました。
深い苦しみを体験することは、それだけその人の奏でる人生の音色を豊かにする・・・自分が苦しんだ人は、周囲の人が苦しんでいるとき、それを敏感にとらえ、一緒に涙を流し、苦しみに立ち向かうことができる・・・確かに私たちの人生にはそういうことがあると思います。
 
 ある国で、栄養失調のために目が見えない人が出るほど食物が不足したとき、ある地方で食事が配られることになったそうです。食事といっても一人にお椀一杯のおかゆというほどのものだったようですが、それを聞きつけて二日がかりで山を越えてやってきた少年がいました。長い列にならんで順番を待ち、いよいよ一杯のおかゆが得られるというそのとき、その少年は食事が配られる地域の子ではないことが判明しました。
 この地域の人にも十分ではない食事ですから、気の毒だがやれないということになりました。
 
 力を落として帰ろうとする少年を呼びとめて食事を与えた人がいました。
それは、自分自身も何日も食べる物がなくてひもじい思いをし、やっとさきほどそれを得たこの地方の人だったそうです。
 
聖書の言葉をご紹介いたしましょう。
 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。  
   詩篇119篇71節
   
 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
   マタイによる福音書 5章4節
 あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道もそなえてくださいます。
  コリント人への手紙 第一 10 13節
 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(イエス・キリスト)のところに来なさい。わたしがあなた がたを休ませてあげます。            マタイによる福音書11章28
 

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ゆるがぬ土台

  出勤しようとして車のエンジンをかけたある朝、蜘蛛の糸に気が付きました。一生懸命に巣作りに励んだのでしょうが、残念なことにカーラジオのアンテナと近くの木を結んでいたのです。
 
「朝顔につるべとられてもらい水」の句が一瞬思い出されましたが、「蜘蛛の巣に車取られてバス出勤」という訳にもいきません。(見通しももたずに巣を作るからいけないんだぞ)と心の中でつぶやいて車を出しました。
 
しかし、私たち人間も、案外この蜘蛛と同じような失敗をしながら、しかもそれに気付かずに生きていることが多いように思えます。ここしばらくのニュースを振り返ってみても、絶対不変に見えていたのに実はそうではなかったことが明らかになったものがいくつもあります。
 
火山の噴火などの自然現象、社会情勢の変化、交通事故や不治の病気などがいつ降りかかってくるか分からない世界に私たちは住んでいるのです。  
「パスカルの定理」で有名なパスカルは著書の中で次のようなことを述べています。
「神がいないほうに賭けて自分の意のおもむくまま神を恐れぬ生涯を送るのと、神の存在を信じて良心的な生き方を貫くのとどちらがよいだろうか。前者は神がおられたらすべてを失うのに対し、後者は神がおられなかったとしても何も失うものがない。」
 パスカルは決して功利的な意味で上のように述べているのではありません。刹那的な楽しみに人生を費やすのでなく、神への信仰というゆるがぬ土台の上に人生を立て上げることがいかに魂のやすらぎをもたらすかを語っているのです。
 
ぜひ、教会に来て、あなたをかけがえのない存在として愛しておられる神様に出会ってください。
 そして、ご一緒に一度しかない貴重な人生をゆるがぬ土台の上に立て上げようではありませんか。
 
 すべて、疲れた人、重荷を負っている 人はわたし(イエス・キリスト)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 【聖書 マタイ11章28節】 

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2006年9月19日 (火)

敬老の日の短歌

「命ある 今日の一日(ひとひ)をよしとして 友と語らい 食を楽しむ」

  味噌汁の味が思うようでなかったとか、あの一言が気に入らないとか、不満の種は尽きないでしょうが、そうしたことを目や心に長く留めないで、おおむね、よしとすることが自分の心にも家族お互いの精神衛生にもよいのではないでしょうか。

 そんなことをまず自分自身に言い聞かせながらの短歌もどきです。

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2006年9月18日 (月)

初めまして

  エッセイをホームページにアップロードしたいのですが、いざ、取り組んでみると分からないことが多く出てきました。それで、ブログから経験を積むことにしました。よろしくお願いします。

 初登場記念に一句

「同窓会 昔の自分に 会いに行く」

・・・若き日に心をときめかせた相手に会いに行くとすると差し障りも出てくるので、「自分に」としました。「同窓会」は季語にならないでしょうし、字余りですが、おまけして川柳ということにしていただければ・・・。

 それでは、また。

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