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2006年9月25日 (月)

目の中の梁(はり)

   夜間、すれ違う車に一方のヘッドラ イトが消えているものが時々あります。
 (危ないなあ、わかりそうなものだけれど・・)と、そんなとき思うのですが、その私が知人を車で迎えにいったある夜、「左側が点灯していないよ」と教えられました。 他人のことは指摘できても、自分のことはなかなかわからないものですね。
 聖書の「山上の垂訓」と呼ばれている箇所に次のような言葉があります。
 なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には気がつかないのですか。
 兄弟に向かって「あなたの目のちりを取らせてください。」などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
 偽善者たち。まず、自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からもちりを取り除くことができます。
【マタイによる福音書7章3~5 節】
 
偽善者たち・・・きつい言葉ですね。
 イエス・キリストという方は、もっと優しい人だと思っていたのに・・・そりゃあ、私は自分には他人に対するより寛大かも知れないけど、「偽善者」というのは言い過ぎじゃないですか、もっと優しい言い方があるのでは・・・と思われる方も多いのではないでしょうか。
 しかし、これを体のことで考えてみたらどうでしょうか。
  あるとき、ひどい腹痛を起こした私は病院へ行きました。しかし、お医者さんがお腹を押えたとき激しい腹痛を感じたのに、おおごとになるのを恐れて正直にそのことを言いませんでした。そのため急性虫垂炎と判明せずに帰宅し、ついにこらえきれなくなったときには腹膜炎を起こしていました。幸い手術でことなきを得ましたが、危ないところでした。
 表面は何事もないようにとりつくろって返事しても、内部の悪いところは着実に健康をむしばんでいたのです。
 
 私たちの心に清くない部分があり、それが放置されれば心はむしばまれ、生き方も病んだものになってしまいます。それを正すのに必要なのは他人に対して表面をとりつくろうことではなく、清くない部分を正面から見つめて取り除くことです。
 
 キリストの言葉が時に強すぎるように響くのは、魂を救うために心からの愛に根ざして語られるからなのです。

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