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2006年11月30日 (木)

クリスマスの語源

  クリスマスソングが流れ、クリスマスの飾り付けが見られるようになりました。このごろは、綺麗なイルミネーションで道行く人たちの目を楽しませてくださる家も見られるようになりました。

 さて、このように美しく彩られるクリスマスシーズンですが、クリスマスということば本来の意味は何でしょうか。英語ではChristmasと書かれますが、これは「Christ」=キリスト、救い主 と「mas」=ミサ、礼拝が一緒になったことばです。直訳すれば、クリスマス=救い主礼拝ということになります。意訳してキリスト降誕祭といわれていますね。今日は最初のクリスマスについて書かれている聖書の箇所の一つをご紹介させていただきます。ルカによる福音書第2章の一部です。

2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
2:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
  地の上に、平和が、
  御心にかなう人々にあるように。」

2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

14節を緑色にしたのは、今日の聖書のことばと私の頭の中でリンクする箇所だったからです。旧約聖書においても、新約聖書においても、神様は天でも地でも栄光を現し、時を越えて私たちを愛し続けていてくださるお方なのです。天地をも創造された神様について理解し尽くすことは、海を小さな器で汲み尽くすことができないのと似ていて人間という器ではできないと思います。けれど、地上の一滴の露も満天の星の姿を宿すことができますから、特にクリスマスシーズンには、心を静めて聖書の語る神様の愛を心に映し出したいと思います。

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2006年11月29日 (水)

靴屋のマルチン

 『靴屋のマルチン』は、トルストイが書いた「愛あるところ神あり」という副題のついている小品です。あらすじを紹介させていただこうと思いましたら、ラジオ牧師山下正雄先生のホームページの2002年12月15日のところにメッセージ付きで掲載されていましたので、それを活用させていただくことにしました。

  おはようございます。山下正雄です。
 ロシアの文豪トルストイの作品に『靴屋のマルチン』というお話があります。

 靴屋のマルチンは妻や子供に先立たれ、そんな辛い出来事の中で生きる希望も失いかけてしまいます。周りの人との関わりもだんだん疎ましく感じられ、ただ惰性で続ける仕事に支えられて毎日を送っています。

 ある日、教会の神父さんが傷んだ革の聖書を修理してほしいと、聖書をおいていきます。マルチンは今までの辛い経験から神への不満をもっていましたが、それでも、神父さんが置いていった聖書をちらちらと読みはじめます。
 そんなある日の夜、夢の中に現れたキリストがマルチンにこう言います。

 「マルチン、明日、おまえのところに行くから、窓の外をよく見てご覧。」

 次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外の様子に気をとめます。外には寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはそのおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。

 それから、今度は赤ちゃんを抱えた貧しいお母さんに目がとまります。マルチンは出て行って、その親子を家に迎え、ショールをあげました。

 まだかまだかと、キリストがおいでになるのを待っていると、おばあさんの籠から一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなしをして、いっしょに謝りました。

 そうして、一日が終りましたが、とうとうマルチンが期待していたキリストは現れませんでした。「やっぱり、あれは夢だったのか」とがっかりしているマルチンに、キリストが現れて言いました。

 「マルチン、今日お前のところに行ったのがわかったか」

 そう言い終わると、キリストの姿は雪かきの老人や貧しい親子やリンゴを盗んだ少年の姿に次々と変わりました。

 さて、この話の題材は言うまでもなく、マタイによる福音書25章40節に出てくるイエス.キリストがおっしゃった言葉です。

 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」

 今、キリスト教会では待降節、つまり、イエス.キリストがおいでになることを覚えながら過ごす季節を迎えています。しかし、それはただ天を見上げて、いつ来るかいつ来るかと、キリストが神々しいお姿でやってくるのをじっと待っているのとは違います。

 かつてイエス.キリストは私たちを救われるために貧しい様で私たちのこの世にまで降りてきてくださいました。この地上で生きる私たち人間に最大の関心を払ってくださったのです。

 やがて世の終わりの時にやってきてくださるイエス.キリストを待ち望むとは、決してこの世の苦しみや悲しみから目をそらせることではありません。今日出会う一人一人に対して、目を見開き、手を差し伸べること、あたかもキリストご自身を迎えるかのようにそれらの人々に接することです。接する人間を通して、私たちの思いはますますキリストへと向かうことができるのです。逆説的ですが、人間への関心を深める時に、キリストへの思いも深まり、整えられていくのです。

  山下先生、ありがとうございました。マタイによる福音書25章をもう少し長く引用させていただきます。 

25:31 人の子(イエス・キリスト)が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
  今年の待降節(アドヴェント)は12月3日から始まります。教会にもよりますが、4本のろうそくのついたアドヴェント・リースをつるして、日曜日ごとに点火するろうそくを一本ずつ増やしていく教会もあります。4本全部がともるときがクリスマスです。お近くのキリスト教会を訪れてくだされば嬉しいです。その教会の牧師さんやクリスチャンたち、そして神様が喜んでくださることでしょう。

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2006年11月28日 (火)

『クオ・ヴァディス』

 『クオ・ヴァディス』という文学作品には、ローマ帝国の皇帝ネロによってクリスチャンがコロッセウムでライオンの餌食にされるなどたくさんの人が殺される場面が出てきます。時の権力者に従わずに神様への信仰を貫くがゆえに命を奪われるのですから殉教ですね。『クオ・ヴァディス』の映画を観てから原作を読んだのですが、この殉教ということにまだ少年だった私はいろいろ思いめぐらすことになりました。よりよく生きるために信仰を持つのだろうと思うのに、その信仰を持つがために殺されるとはどういうことなのか、というふうに考えて思考の迷路に入ったのです。ご存じのように、日本のクリスチャンにも殉教の歴史があり、『沈黙』(遠藤周作)という文学作品があります。心の中は誰ものぞけないのだから、口では棄教するといって難を逃れ、心の中で神様を信じていればよいではないか、それをしないで殺されるのはバカ正直というものではないか、とまず思いました。けれど、誰だって命は惜しいはずなのに、なぜ、島原で殉教したクリスチャンは踏み絵を踏まなかったのだろうという問いにぶつかりました。人が何を描こうと、何を刻もうとそれは人の作った物であって神そのものではないのだから踏んでしまえばいいではないか、という考えが頭を去らないのでした。だいぶん時間がかかりましたが、この迷路から抜け出すのに聖書のことばが大きな働きをしてくれました。その中から三つをご紹介いたします。

  からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。マタイによる福音書10章28節

 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

ヨハネによる福音書1章5節

  あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。 ルカによる福音書8章16節

 余談ですが、『クオ・ヴァディス』は最近新たに映画化され、ずいぶん大がかりな作品になっているようです。

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2006年11月27日 (月)

大掃除の要らない生き方

 「何が分からないといって、明日、ハウスキーパーが来るから、とあわてて家の中を片付けている家内の気持ちほど分からないものはない。一体、何のためにハウスキーパーを雇ったんだい?」というジョークがあります。でも、本当はこの夫は分かっているのです。ハウスキーパーといってもやはり、他人様、我が家のあまりにもちらかった状態は見せたくないということが。もう一歩進んで言うと、何軒かの家に仕事に行くハウスキーパーが、我が家の状態を他の家でどう話すかが心配な主婦の気持ちも。これは、パーティなどを開く習慣のある外国の話で、日本では多くの家庭では家族で大掃除すれば、他に人手を頼む必要はないというのがほとんどの場合だと思います。

 けれど、私たちの心の状態はどうでしょうか。以前、ご紹介した八木重吉の「ねがい」という詩「どこを 断ち切っても うつくしくあればいいなあ」のように、美しいところばかりとは言えないことを私たちは自覚しています。

 それに比べ、今日の聖書のことばの人物は、何と落ち着いていることでしょう。自分の心は神様にいつ見ていただいても完璧であるという自信があるからでしょうか。いえ、いえ、罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として魂に迎えて日々を歩んでいる人は、もう既にイエス・キリストと毎日を暮らしているのです。ですから、現実にこの世を裁くためにイエス・キリストが来られても、困ることなく、喜んでお迎えすることができるのです。とは言え、イエス様がお生まれになった家畜小屋よりもみすぼらしいのが私の心の現実です・・・・・・神様のはかりしれない大きな愛を心から感謝いたします。

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2006年11月26日 (日)

藤沢周平

  藤沢周平の原作を、「男はつらいよ」や学校シリーズ、「幸せの黄色いハンカチ」などの山田洋次監督が映画化した時代劇の第一作は「たそがれ清兵衛」でした。藤沢周平には、青年剣士の活躍する「蝉しぐれ」などの作品もあります。その一方で、昔、剣名を馳せ、今はほとんどの人に忘れ去られている初老の武士が大きな働きをするようにと人知れず命じられ、戸惑いながらも修練して昔日の腕前を取り戻し、見事に、あるいは辛うじて使命を全うするというストーリーもあります。年を取るにつれて、記憶力も弱まり、体力的にも衰えていくのが人間の常ですが、いざ自分の身にそれが起こると「おお、自分も順調に発達しているのだなあ。」などと喜んでばかりもいられません。ウルマンという人の詩の一節「青春とは人生の限られた時期を指すのでなく、心の在り方をいう」とか、ワーズワースの「たそがれの空には、昼間は見えなかった美しい星がまたたき始める」というような詩のことばに慰めを覚えるということになります。・・・・・正確な引用ではありません、これも年齢のためとお許しくださいね。聖書には、ずいぶん高齢になってから神様が召し、一緒に歩んで大きな働きをなさせてくださった人物がたくさん描かれています。今日の聖書のことばには、そのような裏付けがあり、信頼するに足ることばだと私は思います。

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2006年11月25日 (土)

セメント袋と高層建築

  『インターネットは空っぽの洞窟』という本の中に、どんなにセメント袋を高く積み上げても、人はそれを高層建築とは呼ばない、という一節があります。インターネットの世界には情報があふれていますが、その全体を責任をもって筋道立てて監修している人はいないので、倉庫に種々雑多な物品がてんでんばらばらに積まれているような状態で、しかも中には信頼の置けない情報もたくさんあるというのがインターネットの世界なのですね。そうした情報があふれる中から自分にとって必要なものを選び取り、体系的に組み立てていくには、明確なビジョンとそれに基づく視点を欠かすことはできません。碁盤に石を並べることはむずかしくない作業ですが、囲碁の対戦となると、名人が意図をもって置く石は、素人の並べたたくさんの石を無駄のかたまりにあっという間に変えてしまいます。今日の聖書のことばから、そのようなことを思いました。  私たちがこの世に生きる日々、「生きていてよかった」と思えるのは、願いの実現に向けてその日まで積み上げてきた一日一日が意味のあるものになったと感じられるときではないでしょうか。神様は、愛してくださっている一人一人が神様を信じて歩む一日一日を、決して空しい時間のかたまりになさらない方です。それとは逆に神様に背を向けて無為に過ごす千日は、あっという間にセメント袋の山に・・・いえ、それ以上に無価値なものの集まりになってしまうおそれをいつも秘めています。

1:1 幸いなことよ。
 悪者のはかりごとに歩まず、
 罪人の道に立たず、
 あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、
 昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、
 水路のそばに植わった木のようだ。
 時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
 その人は、何をしても栄える。

1:4 悪者は、それとは違い、
 まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、
 罪人は、正しい者のつどいに立てない。
1:6 まことに、【主】は、正しい者の道を知っておられる。
 しかし、悪者の道は滅びうせる。
    詩篇第一篇

 世間の目がどうあれ、風に吹き飛ばされるもみがらのようでなく、神様の愛を呼吸してよい実を実らせる水路のほとりの木のような成長の歩みを日々新たな思いで積み重ねられたら、と願うものです。

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2006年11月24日 (金)

チャップリン

  ある牧師さんがたいへん衝撃的な夢を見たそうです。夢の中で、ヒットラーが地獄にいて叫んでいたのだそうです。「だって、誰もおれに神様のことを伝えてくれなかったじゃないか。」と。これは、とっても大きなチャレンジですね。聖書のマタイによる福音書には次のように書かれています。

 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイによる福音書28章18節~20節

  ヒットラーに神様のことを話していさめることをしない言い訳をたくさん数え挙げるのはたやすいことでしょう。けれど、上記の聖書には伝道の対象は、あらゆる国の人々となっていて、ヒットラーは別です、ということにはなりません。とはいえ、猛威をふるう権力者に「あなたのしていることは間違っています。悔い改めて神様のもとに立ち返りなさい。」と直言することは、怒って全身の針を逆立てているハリネズミをなでてやるよりもはるかに大きな勇気を必要とする命がけの行為です。この夢を見た牧師さんは、聖書のことばに忠実な自分でありたいと願い、心から神様に従おうと歩んでいた人だったと思います。そうでなかったら、ヒットラーの夢を見てショックを受けるようなことはなかったと思います。こののち、この牧師さんが信仰の勇者としてそれまで以上に熱心に伝道に励んだことは想像に難くありません。チャップリンは、ヒットラーの全盛期にヒットラーを否定し、強烈に風刺する映画「独裁者」を作りました。ナチスドイツにアメリカが負けたら、そのときにヒットラーがチャップリンをどう扱うかを考えて恐れたら、この映画が作られることはなかったことでしょう。

  イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」ルカによる福音書18章27節

今日の聖書のことばをまず自分自身が受けとめ、そしてその場その場の状況に左右されることなく、世の人々の誰をも例外にすることなく語ることができる勇気、神様を信頼して祈り、その勇気をいただいてこの世に妥協せずに歩むクリスチャンこそ「世の光」、「地の塩」であると思います。

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2006年11月23日 (木)

デジタルハイビジョン

 デジタルハイビジョンの画面は、確かに綺麗です。肉眼で見る月は美しいけれど、望遠鏡で見る月はごつごつに見えるという現象がテレビ画面に映る人物の顔についても起こってしまうのではないかと心配するほどに・・・・・・。でも、だからと言って、現在のテレビを買い換えないと数年後にはデジタルハイビジョンでしかテレビ放送は見られなくなりますよと国が言ってよいものでしょうか。このことに納得がいくまで、我が家ではデジタルハイビジョンを購入することはないでしょう。そもそも、買い換えてまで見るに値するテレビ番組がどれほどあるのでしょうか。テレビと別れを告げて静かに本を読む生活に入るのも賢明かな、おお、ひょっとすると国民をそうした方向へ進ませるための高等政策かも知れない、などと思いをめぐらす私です。こんなことを考えるきっかけになったのが、今日の聖書のことばです。デジタルハイビジョンの放送は、デジタルハイビジョンを持たないと受けることができない。神様が発信している愛は、愛という受信回路がないとわからない。受信機があるから放送局ができたのではなく、電波を送り出す放送局がまずあって、それを受信するための受信機が作られる。そんなふうにお話を展開しようとしたのですが、よく考えてみると、神様の愛とデジタルハイビジョンとは、メッセージの内容も在り方も比較にならないのです。テレビは見なくてもより心豊かに生活することができそうですが、神様の愛から意図的に離れることは魂に何をもたらすでしょうか。そんなわけで、これ以上、私は書き続けることができなくなりました。♪「アメージング・グレース」の詩を書いたジョン・ニュートンのように、神様の愛に驚くばかりです。(「アメージング・グレース」については、9月26日の「目からうろこが落ちるとき」をご参照ください。)

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2006年11月22日 (水)

ユネスコ憲章

  ユネスコ憲章の前文にある次のことばは名言として広く知られてます。 「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」今日の聖書のことばに城壁ということばがあるのですが、そこからの連想で、砦(とりで)について思いをめぐらしました。古い映画の「隠し砦の三悪人」とか「七人の侍」、アメリカ映画ですと「遙かなるアラモ」、スペインを舞台とした「エル・シド」では、砦でなく立派なお城が登場していました。そんな中で一番ぴったりきたのが、このユネスコ憲章の前文だったのです。相手を攻撃するためではなく、この砦の内側にあるものを守りきれなかったら、自分が自分でなくなってしまう、人間としての尊厳を失ってしまう・・・今日の聖書のことばにおける「城壁」ということばもそういうものとして用いられているのではないでしょうか。さて、私たちの心の砦は大丈夫でしょうか。そしてその砦はいったい何を守ろうとしているのでしょうか。

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2006年11月21日 (火)

物忘れの増えてきたある尼僧

 ヨーロッパの修道院に大きな悩みを抱えている尼僧が居たそうです。その悩みとは・・・・・・アルツハイマーが進行していたのでしょうか、物忘れが増えてきたことでした。彼女が一番恐れたのは、その内に救い主であるイエス・キリストのことまで忘れてしまうのではないかということでした。これは、大きな不安、苦しみですよね。命綱が切れて断崖から落ちてしまうのではないかというような・・・・・・ところが、ある日、周囲の人は彼女の顔が晴れ晴れと輝いているのに驚かされたそうです。彼女は、昨日までとは打って変わった明るい表情、明るい声でこう語ったのだそうです。「私は何と愚かな心配をしていたのでしょう。昨夜、分かったのです。たとえ私がイエス様を忘れても大丈夫だということが。なぜって、イエス様のほうで私のことを覚えていてくださるからです。もう、私には不安はありません。」さて、今日の聖書のことばは・・・

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2006年11月20日 (月)

マタイによる福音書6章

  今日の聖書のことばについて、マタイによる福音書6章の33節を引用しようと考えました。けれど、一部分だけなく6章全部を読みたくなり、あなたにも6章全部を紹介させていただくことにいたしました。このように祈りなさいとイエス・キリストが語られた「主の祈り」が含まれていますし、この6章を文語で暗誦している方もおられるほどのところだからです。

 聖書の一つの章をまるまる紹介させていただけるのも、「Jばいぶる」(いのちのことば社)というソフトのおかげです。聖書のことばがすべてデジタル化されて収録されており、語句を検索したり、英語の聖書などの記述と並べて読むことなどもできます。では、マタイによる福音書6章をご紹介いたします。この33節と今日の聖書のことばとが私の中でリンクしたのでした。人にとって真に願うべきことはなんだろうか、と省みています。マタイによる福音書6章

  6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
  6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
6:4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
  6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
6:9 だから、こう祈りなさい。
  『天にいます私たちの父よ。
  御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。
  みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。
  私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
6:14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。
  6:16 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:17 しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
6:18 それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。
  6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
6:22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、
6:23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。
6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、 それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

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2006年11月19日 (日)

救急救命士

  ピーポーピーポーとサイレンを鳴らして駆けつけ、緊急に手当てを必要とする人を乗せて、車内でも必要な処置をしながら病院に向かう救急車・・・いのちを救うために迅速で適切な働きをする救命士の存在は、大きな安心をもたらしてくれます。けれど、救命士に駆けつけてもらうには、その常駐している場所に連絡して出動要請をしなければなりません。道路が渋滞していると救急車はすぐには来られないことがあり、待つ間のプレッシャーは相当のものになりましょう。スーパーマン、ウルトラマン、そして古くは月光仮面などたくさんのヒーローが世の中に登場していますが、私たちの身近に常駐してもらうわけにはいかず、そばにいて活躍してもらう時間も、たとえばウルトラマンは3分間限定となってしまいます。月光仮面には公衆電話をかけている場面もありますし、駆けつける手段はオートバイ(カブでしたっけ)なので、必要とされるところに到着するまではらはらさせられます。鞍馬天狗の馬に比べれば月光仮面のほうが速そうではありますが・・・・・・。見せ場を作るにはそれでいいのですが、現実社会ではいかがなものでしょうか。ちなみに、緊急時に渋滞に左右されずに移動できる日本全体のヘリコプターの数は、アメリカの一つの洲にも及ばないほど少ない時期がありました。さすがに現在は増えつつありますが、まだまだ災害時の対応に充分といえるところまでは来ていない状態です。さて、神様は、遠くから駆けつける必要のない方です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節)と語ってくださっている神様について、今日の聖書のことばでは次のように書かれています。

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2006年11月18日 (土)

イエス・キリスト

 イエス・キリストは今からおよそ2千年前に誕生しました。紀元前・紀元後はその誕生を区切りとしています。そのことを表すB.C、A.Dは何の略語か興味のある方は辞書などでお調べください。ただし、この語源からいいますと今年はイエス・キリストの生誕2006年となるのですが、紀元元年とイエス・キリストの誕生年とは数年ずれていることが分かってきました。どこかで人間的なミスがあったのだと思います。それはそれとして、聖書もキリストのこの世への誕生以前に書かれた旧約聖書と、誕生後に書かれた新約聖書とから成っています。

  さて、神様の目から人間をご覧になると「義人はいない。ひとりもいない。(ローマ人への手紙3章10節)となります。あなたも私も、善を願いながら悪をおこなってしまう弱さを備えています。それで、神様はイエス・キリストをこの世におくってくださいました。聖書に書かれている大切なことを凝縮して表現しているという意味で「小聖書」と呼ばれている箇所をご紹介いたします。

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 ヨハネによる福音書3章16節

  実は、クリスマスは、ここに書かれていることを受け入れ、神様に感謝し、イエス・キリストを自分の心に救い主としてお迎えしお祝いする記念の日なのです。今日の聖書のことばだけではよく分からないという方がおられると思いますが、どうかご質問も含めてお近くのキリスト教会にこのクリスマス・シーズンに足を運んでくださり、本当のクリスマスをお迎えくださるようにと願っています。

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2006年11月17日 (金)

スーパーマン

 スーパーマンの映画に、救出に間に合わなかったスーパーマンが地球を逆回転させることによって時間を巻き戻し、見事に救出するという場面がありました。さすが、スーパーマンです。それに対して、再放映されている「奥様は魔女」では、時間を止める場面はあっても、巻き戻す場面はなかったように思います。(すべての回を見ているわけではないので自信はありませんが。)そういえば、ずーっと以前に「時間よ、とまれ」と叫んで時を止める少年を主人公にしたTVドラマがありましたっけ。それは、ともかく、私たちには、悔やんでも過去を変える力はなく、ひたすら未来に向かう一方通行の道を歩む時の旅人で在り続けることになりましょう。♪「青年は荒野をめざす」という歌もありますが、青年も、そしてそれをすぎた人も、今日の聖書のことばのように前へ前へと望みを抱いて歩んでまいりましょう。毎日毎日が『美しい暦』のように新しいページをもたらす人生でありますように。

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2006年11月16日 (木)

孫悟空

  孫悟空は雲に乗って世界の果てと思われるところまで行って、印をつけてお釈迦さんのところへ戻ってきました。「どんなもんだい!」と得意がる悟空に、お釈迦さんが手を見せると・・・・・・何とそこには悟空が先ほど記した印がついていたのです。今日の聖書のことばから、私はその話を連想しました。

  ただし、神様が人間を指人形のようにあつかって、人間の思うこと、なすことすべてを神様が操っておられるわけではありません。自由に生き、行動することのできる存在として私たちを創ってくださり、そして招いてくださっているところがすごいのです。大きなレストランが和食・洋食・中華などの分野にわたってたくさんのメニューを提示し、さらに特別なオーダーもどうぞ、と言ってくれているような・・・・・・・というのは、食べることの好きな私が今日の聖書のことばからイメージすることですが、「それとはちょっと違うのではないですか」との指摘を受けそうに思います。さて、あなたは、今日の聖書のことばをどうお受け止めになりますか。

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2006年11月15日 (水)

吉田兼好

  ふと思ったのです。どこかへ出かけたり、長時間一緒にすごしたりするには、「貴族」よりも「家族」がいいと。クリスチャンの会合や教会員は○○兄弟」、「□□姉妹」と呼び合います。同じ神様を信ずる家族なのだという意識がそこにあります。まだ洗礼を受けていない人に気遣いしたり、ちょっと照れや遠慮があったりして、あまりそういうふうに呼ばないときもありますけれど。英語だと映画の題に「ブラザー・サン シスタームーン」などとあってもスマートに思えますね。

 そうそう、「家族」「貴族」の話に戻ります。兼好法師は、『徒然草』の中で、あまりに身分の高い人は友とするのによくないと書いています。きっと、人に自慢することもできるけれど、そういう人と付き合っていると窮屈で気詰まりなことも多くなることを知っているのでしょう。また、欲の深い人も友とするのにはよくないと書いています。それなのに物をくれるのはよい友だと書いているのです。こういうことをぬけぬけと書けるのが随筆のよさなのでしょうね。さて、今日の聖書のことばは・・・・・・

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2006年11月14日 (火)

カーナビ

  あなたは車を運転されるでしょうか。運転されるとしたら、初めての土地へ車で行くとき、あなたは何を頼りとされますか。私は、カーナビがあると便利だろうなと思いながら、知らないところへ出かける機会はあまり多くないのでもったいない気もして、できるだけ事前に地図を見て、そしてそこへ行ったことのある人に道順や目印を教えてもらって出かけます。

  ところが、私は、あまり方向感覚がよくなくて(はっきり言うととても悪くって)、目的地には偶然の産物のようにたどり着くことが多いのです。一度行ったところは、偶然でなく、必然で到着してもよさそうなものですが、常に新鮮なドライブコースを走っているような感じで、自分で自分に信頼がおけません。そういうわけで、人に道を教えることも上手ではありません。(はっきり言うと、とても下手です。)

 そんなわけで、私はその内にカーナビを購入するかも知れません。それはそれとして、カーナビ以上に大切な人生行路における揺るぎないナビゲーターはなんでしょうか。それは、神様のことば、聖書です。占いの本を見るように「ぱっと開いてそこを読む」という読み方でなく、じっくりと全巻を通して読むこと、そして、できれば、確固とした聖書信仰に立つキリスト教会に足を運んで、牧師さんのアドバイスを受けながら系統的に聖書を読まれることをお薦めいたします。

  どこにどんな教会があるかをお調べになるには、次のホームページがお役に立つかも知れません。

http://202.238.75.100/doumei/database/db_list.php%20

 さて、今日の聖書のことばは・・・・・・

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2006年11月13日 (月)

ソクラテス

  ソクラテスの妻は、悪妻として有名ですが、本当にそうだったかどうかは分かりません。ある人が「あの人を妻として、あなたは幸せですか?」と遠慮のない質問をしたところ、ソクラテスは「幸せにはなれないが哲学者にはなれる。」と答えたとのことですが、これも本当のことかどうかはわかりません。奥さんの名前は、確かクサンチッペというのだったと思います。

 それはさておき、ソクラテスのことばに「汝自身を知れ。」というのがあります。物理的に言っても、人の目は自分以外のものを見る向きについており、鏡は左右反対に顔を映しますから、ありのままの自分を見ることは難しいのですね。対向車のヘッドライトが切れていることは分かっても、自分の車のライトがどうなっているかは、なかなか分からないものです。

 とかく、人は、自分には寛大で他人には辛口になりやすいものです。そのことが聖書には次のように書かれています。

「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」マタイによる福音書7章3節

 同じ箇所を、聖書を分かりやすく意訳したリビングバイブルでは「自分の目に材木を入れたままで、どうして人の目にある、おがくずほどの小さなごみを気にするのですか。」と表現しています。

 人間同士のレベルでもこうですから、まして自分という人間を神様がごらんになったら、と思うと、次のように神様に申し上げる他はないのではないでしょうか。・・・そして、神様は、イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。そのイエス・キリストを救い主として自分の魂にお迎えすることこそ、本当のクリスマスなのです。

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2006年11月12日 (日)

マザーテレサ

「私たちのしていることは、大海の中のほんのひとしずくかもしれません。けれど、一つ一つのしずくがなかったら、大海もまた存在しないのです。」・・・マザーテレサの生涯はドキュメントで紹介され、ドラマとなってジェラルディーン・チャップリン(チャールズ・チャップリンの娘)やオリビア・ハッセィなどが主演し、大きな感銘を与えました。路上で看取る人もなく寂しく死んでいく人をせめて最後の数時間でもあたたかく世話をし、神様の愛でつつんであげたい・・・・・・彼女の生涯のテーマはこれだったと思います。来日したときも、早朝から彼女が出かけていったのは、よるべのない人々が生活している地域でした。物質的には豊かに見える日本の霊的な貧しさが象徴的に現れているところを彼女は知っていたのです。神様へのゆるぎない信仰をもって志を果たすために行動している彼女のもとには、多くの物資、巨額のお金が寄せられました。そして、彼女はそれを決して自分自身のために用いることなく、この世での生涯を終えました。死に瀕している貧しい人々のために用いるためにしかマザー・テレサは建物や物資やお金を願わなかったのです。

  マザー・テレサが生涯を通じて語り、実行したメッセージはあまりにも有名で、ここで改めて言及することにためらいを覚えますが、一つのことを記して、今日の聖書のことばにバトンタッチさせていただくことにいたしましょう。それは、水力発電のダムについてです。

 ダムは、たくさんの水を集める湖です。では、何のために水を集めるのでしょうか。そうです、放水するときのエネルギーによってタービンを回して発電するためです。ため込むことそのものが目的ではないのです。(大量の雨が一度に下流に流れ込まないようする治水の役割も果たしていますけれど。)私たち自身の生活に、あるいは日本社会のどこかに、「ためる」ことが手段ではなく、目的化してしまっているところがないでしょうか。ただ水をためこむだけのダムで終わったら、はちきれて壊れるしかなく、害をもたらすことはあっても世の中を益することはないのです。「癌」(がん)という漢字をここで思い浮かべます。この漢字をパーツに分けてみますと「品物が有効に使われることなく山と積まれて病んでいる状態」と解釈できませんか。身体的な癌もうれしくありませんけれど、魂が霊的な癌にならない生き方を、と願うものです。

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2006年11月11日 (土)

ヨナ

  聖書は66巻の書物で構成されています。年代的には、イエス・キリストの誕生以前に書かれた旧約聖書39巻とイエス・キリストの誕生後に書かれた新約聖書27巻に大別されます。39巻と27巻ですから「39(サンク)27」と覚えておくと忘れにくくなります。

  今日は、旧約聖書の「ヨナ書」をまるごとご紹介いたします。4章からなる書物ですが、その中に描かれている神様からのメッセージはとてもスケールが大きいものです。ヨナという人物を見ていると、おつかいを言いつけられた小さい子がぶつぶつ不平を言いながら出かけていく姿とイメージが重なるような気がしないでもありません。でも、神様はそんなヨナを用いてニネベの町全体を神様に立ち返らせるという大きな働きを果たさせてくださいました。さて、どんなふうにでしょうか。ぜひ、お読みください。映画解説の淀屋長治さんだったら、「また後でおあいしましょうね。」と結ぶところですが・・・・・・。

[ 1 ]

1:1 アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。

1:2 「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」

1:3 しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。

1:4 そのとき、主が大風を海に吹きつけたので、海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。

1:5 水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。

1:6 船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」

1:7 みなは互いに言った。「さあ、くじを引いて、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったかを知ろう。」彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった。

1:8 そこで彼らはヨナに言った。「だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、告げてくれ。あなたの仕事は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。いったいどこの民か。」

1:9 ヨナは彼らに言った。「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を礼拝しています。」

1:10 それで人々は非常に恐れて、彼に言った。「何でそんなことをしたのか。」人々は、彼が主の御顔を避けてのがれようとしていることを知っていた。ヨナが先に、これを彼らに告げていたからである。

1:11 彼らはヨナに言った。「海が静まるために、私たちはあなたをどうしたらいいのか。」海がますます荒れてきたからである。

1:12 ヨナは彼らに言った。「私を捕えて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」

1:13 その人たちは船を陸に戻そうとこいだがだめだった。海がますます、彼らに向かって荒れたからである。

1:14 そこで彼らは主に願って言った。「ああ、主よ。どうか、この男のいのちのために、私たちを滅ぼさないでください。罪のない者の血を私たちに報いないでください。主よ。あなたはみこころにかなったことをなさるからです。」

1:15 こうして、彼らはヨナをかかえて海に投げ込んだ。すると、海は激しい怒りをやめて静かになった。

1:16 人々は非常に主を恐れ、主にいけにえをささげ、誓願を立てた。

1:17 主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。


[ 2 ]

2:1 ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、

2:2 言った。「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。

2:3 あなたは私を海の真中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。

2:4 私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』と。

2:5 水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。

2:6 私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。

2:7 私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。

2:8 むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。

2:9 しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」

2:10 主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。


[ 3 ]

3:1 再びヨナに次のような主のことばがあった。

3:2 「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」

3:3 ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな町であった。

3:4 ヨナは初め、その町にはいると、一日中歩き回って叫び、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」と言った。

3:5 そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。

3:6 このことがニネベの王の耳にはいると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。

3:7 王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。

3:8 人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを悔い改めよ。

3:9 もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」

3:10 神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。


[ 4 ]

4:1 ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って、

4:2 主に祈って言った。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。

4:3 主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」

4:4 主は仰せられた。「あなたは当然のことのように怒るのか。」

4:5 ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた。

4:6 神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。

4:7 しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。

4:8 太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」

4:9 すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」

4:10 主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。

4:11 まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」

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2006年11月10日 (金)

詩「あしあと」

今日の聖書の言葉を読んだとき、頭にうかんだのは次の詩でした。
日本語訳と、英語の原詩という順序で紹介させていただきます。詩の中の「主」という言葉は、「神」「イエス・キリスト」を指しています。この世に生きるとき、無菌状態のなかで純粋培養されるような人生というのはなく、もしかすると、ひたむきに歩めば歩むほど私たちには思い煩いが現れてきます。けれど、神様はそうした思い煩いをも含めて、私たちを背負って歩んでくださる方なのです。よく、救援投手を守護神と表現する場合がありますけれど、聖書の教えているのは人は人、そして神様は神様であって、人はどんなに立派な人でも、生きている間も死後においても人が神様になることはありません。そして、人生という舞台においてはどんなリリーフピッチャーも、私たち一人一人を愛してくださる神様には遠く及びません。     
あしあと -Footprints-



[あしあと] By M・F・パワーズ


ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、渚を歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生で一番つらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
 「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
  あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
  わたしと語り合って下さると約束されました。
  それなのに、わたしの人生の一番つらい時、
  一人のあしあとしかなかったのです。
  一番あなたを必要としたときに、
  あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
  わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
 「わたしの大切な子よ。
  わたしは、あなたを愛している。あなたを決して
  捨てたりはしない。
  ましてや、苦しみや試みの時に。
  あしあとが一つだったとき、
  わたしはあなたを背負って歩いていた。」
Footprints
One night I dreamed a dream.
I was walking along the beach with my Lord.
Across the dark sky flashed scenes from my life.
For each scenes,I noticed two sets of footprints in the sand,
one belonging to me and one to my Lord.
When the last scene of my life shot before me
I looked back at the footprints in the sand.
There was only one set of footprints.
I realized that this was at the lowest and saddest times of my life.
This always bothered me and I questioned tha Lord about my dilemma.
“Lord,you told me when I decided to follow you,
You would walk and talk with me all the way.
But I'm aware that during the most trouble some times of my life
there is only one set of footprints.
I just don't understand why,when I needed You most,You leave me.”
He whispered,“My precious child,
I love you and will never leave you never,ever,
during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints it was then that I carried
you.”

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2006年11月 9日 (木)

ヨブ

 「○○○心と秋の空」といいますが、人の心は移ろいやすいものです。

(○○○のところには、「おとこ」あるいは「おんな」をお好みに応じてお入れください。)ころころ変わるところから心ということばが生まれたという説もあるくらいです。たとえば、バスに乗り遅れそうな時刻に停留所に向かって走るときには(バスよ、今朝は定刻通りに来ずに少し遅れてきてくれ~)と念じます。ところが、いざ、停留所についてまだバスが来ていないことが分かると、(ああ、よかった)とほっとし、しばらく待ってまだバスが現れないと(遅いなあ、ちゃんと時間通りに来いよ、何のために時刻表があるんだ)などと居直るのです。バスが遅れたからこそ自分が間に合った幸運など忘れて少し待つことに不平を抱いているむしのいい自分であることに気がつくことはほとんどありません。

 けれど、今日の聖書のことばに登場するヨブは、そうではありませんでした。

ちょっと長くなりますが、旧約聖書のヨブ記の第1章を引用させていただきます。順調な人生が、ある日、突然変わったのに、それを受け入れ、神の前に愚痴をこぼさなかった信仰の人、それがヨブだったのです。

1:1 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。

1:2 彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。

1:3 彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。

1:4 彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。

1:5 こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。

1:6 ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。

1:7 主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」

1:8 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」

1:9 サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。

1:10 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。

1:11 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」

1:12 主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。

1:13 ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、

1:14 使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、

1:15 シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」

1:16 この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」

1:17 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」

1:18 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。

1:19 そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」

1:20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、

1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

1:22 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

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2006年11月 8日 (水)

『黄金の日々』

  NHKの大河ドラマの一つに『黄金の日々』(城山三郎著)があります。呂宗助左右衛門を主人公とし、時の権力者、織田信長や豊臣秀吉にもこびへつらわないで独立不羈の姿勢を貫こうとする堺の商人の気概の伝わってくるドラマでした。出演者は6代目市川染五郎(9代目松本幸四郎)、丹波 哲郎、栗原 小巻、緒形  拳、根津 甚八、名取 裕子、高橋 幸治、鶴田 浩二、近藤 正臣、殿山 泰司、十朱 幸代、夏目 雅子、竹下 景子、島田 陽子、津川 雅彦、林  隆三、川谷 拓三、宇野 重吉、などなどです。秀吉によるキリスト教への弾圧が激しさを増すなか、助左右衛門が「私は、秀吉の権力よりも、ルソンの浜で遊ぶ子どもたちの純粋で汚れのない目に自分がどう映るかをおそれる」という意味のことを語る場面が今も印象に残っています。助左右衛門自身はクリスチャンとして描かれてはいませんでしたが、隠れキリシタンの道を選ぼうとする大名に上記のことばを語るところがあったのです。

  さて、今日の聖書のことばは秀吉のもとから去っていく宣教師フロイスがもやの中に姿を消していく舟の上から見送る助左右衛門たちに叫ぶ場面に引用されていました。時の権力者のほうが強く見えても、神様を信ずる人は、まっさかさまに倒されることはないのです。

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2006年11月 7日 (火)

トムソーヤ

  トムソーヤとハックル・ベリーフィンの冒険をわくわくしながら読んだ経験をお持ちの方は多いと思います。映画にもなりました。二人が宝物を探しながら、ここぞと思うところを掘っていた場面に、こんなことばがあったのを思い出しました。「もう、掘るのをやめようか、ここにはありそうもない。」「もう少し掘ってみよう。ある人があきらめて去ってしまった後に来た人が続きを掘り始めたら、たった一鍬で宝の箱を掘り当てたこともあるんだってさ。」今日の聖書のことばを読んでいて、その会話を思い出したのですが、実は、私たちが神様を宝をさがすようにして求めているのではないのです。神様が、私たちを失われた宝のように、いえ、それ以上に大切な存在として、見捨てずに愛し続けてくださっているのです。わたし(神様)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ書43章4節

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2006年11月 6日 (月)

雪化粧

 人間はもともと善い性質をもっているので、それを曇らせないようにして伸ばすという「性善説」と、そうではなく、悪い性質をもっているので教育によってそれを矯正するのだという「性悪説」・・・聖書は、人間についてどう述べているでしょうか。聖書は、人間を失われたもの・・・・・・アダムとイヴが罪を犯して以来、神様に従順に従うことができなくなっているものと述べています。けれど、神様は、人間を失われっぱなしにしておかないで神様に立ち返る道を開いてくださいました。イエス・キリストを救い主として心にお迎えすることこそ、その道です。それは、どんなに地表が汚れて、醜くなっていても空から降った雪によって雪化粧をまとうと美しい銀世界へと一変するのに似ています。そしてイエス・キリストによる救いは、万年雪以上に確かで、地球の温暖化によっても溶けることがありません。イエス・キリストを救い主として心を開いてお迎えすること・・・それこそ、本当のクリスマスです。このブログを読んでくださるあなたに、すてきなクリスマスが訪れますように。

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2006年11月 5日 (日)

野のゆり

  今日の聖書のことばは、イエス・キリストが山に登ってお話になった教え、山上の垂訓の一部です。「野のゆり」という映画がありましたが、この箇所からその題名がとられたのだと思います。新約聖書のマタイによる福音書の6章から、今日の聖書のことばに連なるところをまずご紹介いたします。

6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めるこ ともしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

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2006年11月 4日 (土)

曾野綾子さん

 「苦しいときの神頼み」ということばがあり、「のど元過ぎれば熱さ忘れる」ということばがあります。作家曾野綾子さんは、この二つを組み合わせたような生き方が多くの人に見られることを、どの著書の中でだったか書いておられます。意訳になるようで申し訳ないのですが、およそ次の内容でした。

  飛行機での旅行で緊張するのは、離陸と着陸の時・・・・・・そのときに普段は「僕は無神論者でして・・・」と言っている人が心の中で神に祈ることがある。飛行機が無事に着陸すると、多くの人はまた無神論者にかえる。私は思う。相手が人間であっても何かお世話になったらお礼の言葉を贈ったり、ちょっとした品で感謝を現したりする。それなのに、心が不安になったときに神に支えていただいておいて、平安な状態になるとよりかかったことさえ忘れてしまうのでは、忘恩の徒と言われても仕方ないのではないか。無神論者というなら、どんな不安の時にもそれを通すがよい。不安なときに思わず知らずにでも神に祈るなら、平安が訪れたときにも神を信ずるのが筋の通る生き方ではないか。

  以上の内容が、今日の聖書のことばを読んで、今朝、私が思い浮かべたことです。ここからは、少し余談になりますが最近図書館で借りた曾野綾子さんの『晩年の美学を求めて』(朝日新聞社・2006年4月30日第一刷発行)の最初の章に、家内がいたく心をうたれた表現がありますので、これを正確に引用することで上記の意訳の失礼にかえさせていただきたいと思います。

「  或る時、ふとおもしろいことを考えた。人が年を取ることを老年という。老年に関する研究は最近たくさん出るようになって、私はいい時代に生まれ合わせたものだ、と感じていた。教科書がたくさんできたからである。 しかし、晩年の研究はあまりない。老年はたとえば七十歳以上、というふうに年が確定しているからわかり易いのだが、晩年は当人にいつが晩年かわからないからだ。十九歳二十歳が晩年になった人もいる。五十歳で晩年を迎える人もいる。ゼロ歳の晩年などというものになると、私たちはもうただ月光にさらされるように、清純ないたましさにうたれるだけだ

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2006年11月 3日 (金)

小林カツ代さん

  ある年の11月の夜、婚約式を終えた二男と私たち夫婦は東京の吉祥寺駅近くを歩いていました。軽い夕食を摂るのにすてきな店があるといいなと思いながら、初めての道を。・・・ふと、塀に書かれた「カントリーロード」という文字がわたしの目に止まりました。連想したのは、そうです、あの宮崎駿監督がこの曲を主題歌にしていたアニメ映画「耳をすませば」です。前を行く家内と二男を、こっちへ行ってみよう、と呼び戻しました。何のあてもない私に反対もせず、その道を歩いていくと・・・・・・あったのです、料理研究家、小林カツ代さんが著書やテレビで紹介している料理を実際にメニューにして提供している店、「カツ代グリーン」が!! 前日、そういう店があるそうだと家族の会話に出たけれど、世界のどこにあるのかも分からなかったその店に、上に書いたいきさつだけで、特にさがしても、目指してもいなかったのにたどりついてしまったのでした。・・・ついでに申しますと私には、地図を手にしていてもなかなか目的地に行き着けないという特性があります。(自慢にはなりませんけれど。)その日、レシピ通りなのだけれどやはりひと味違う小林カツ代さんの料理を私たちは神様に感謝しながらいただき、長年、小林カツ代さんと共にお仕事してこられた方との会話まで楽しませていただきました。現在、病床にあるようですが、小林カツ代さんもクリスチャンです。神様は一人一人に立ててくださっているご計画を時にかなって実現してくださる方ですので、小林カツ代さんの上にもきっとその手をのべていてくださることを信じています。

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2006年11月 2日 (木)

トルストイ

  さあ、今日から新しいシリーズ・・・・・・ひめくり式に聖書の言葉を31日分、カレンダーにした親族がいますので、その聖書のことばから私が思い起こすことなどを前半に書き記し、「続きを読む」をクリックしていただくと、その日の聖書の言葉が現れる・・・原則としてそういう展開で一か月続けてみたいと思います。おつきあいのほど、よろしくお願いいたします。

 トルストイの作品に「人にはどれだけの土地が要るか」という小品があります。少しでも広い土地を手に入れることを生き甲斐とする男がいろいろなところを転々とし、朝日が昇ってから夕日が沈むまでの間に彼が足で回って囲んだ土地を自分のものにできるという契約を結びました。

 夜明け、彼は勇んで出発し、目につく限りの好ましい土地を囲んでいきます。あの池もほしい、あの丘もほしい・・・一心不乱に走り続け、ふと気がつくと夕日が沈みかかっています。出発点へと駆け込んだ彼は感嘆、賞賛の声を聞きながら、体力を使い果たして、息絶えてしまいます。

 彼は、葬られました。彼のなきがらを葬るのに要した土地は、ごくわずかだったのです。意味合いは異なりますが「起きて半畳、寝て一畳」という言葉も連想されます。さて、今日の聖書の言葉は・・・・

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2006年11月 1日 (水)

こころ

おかあさまは

おとなで おおきいけれど

おかあさまの

おこころは ちいさい。

だって、おかあさまは いいました

ちいさい わたしで いっぱいだって。

わたしは こどもで

ちいさいけれど、

ちいさい わたしの

こころは おおきい

だって、おおきい おかあさまで、

まだ いっぱいに ならないで、

いろんな ことを おもうから。

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