曾野綾子さん
「苦しいときの神頼み」ということばがあり、「のど元過ぎれば熱さ忘れる」ということばがあります。作家曾野綾子さんは、この二つを組み合わせたような生き方が多くの人に見られることを、どの著書の中でだったか書いておられます。意訳になるようで申し訳ないのですが、およそ次の内容でした。
飛行機での旅行で緊張するのは、離陸と着陸の時・・・・・・そのときに普段は「僕は無神論者でして・・・」と言っている人が心の中で神に祈ることがある。飛行機が無事に着陸すると、多くの人はまた無神論者にかえる。私は思う。相手が人間であっても何かお世話になったらお礼の言葉を贈ったり、ちょっとした品で感謝を現したりする。それなのに、心が不安になったときに神に支えていただいておいて、平安な状態になるとよりかかったことさえ忘れてしまうのでは、忘恩の徒と言われても仕方ないのではないか。無神論者というなら、どんな不安の時にもそれを通すがよい。不安なときに思わず知らずにでも神に祈るなら、平安が訪れたときにも神を信ずるのが筋の通る生き方ではないか。
以上の内容が、今日の聖書のことばを読んで、今朝、私が思い浮かべたことです。ここからは、少し余談になりますが最近図書館で借りた曾野綾子さんの『晩年の美学を求めて』(朝日新聞社・2006年4月30日第一刷発行)の最初の章に、家内がいたく心をうたれた表現がありますので、これを正確に引用することで上記の意訳の失礼にかえさせていただきたいと思います。
「 或る時、ふとおもしろいことを考えた。人が年を取ることを老年という。老年に関する研究は最近たくさん出るようになって、私はいい時代に生まれ合わせたものだ、と感じていた。教科書がたくさんできたからである。 しかし、晩年の研究はあまりない。老年はたとえば七十歳以上、というふうに年が確定しているからわかり易いのだが、晩年は当人にいつが晩年かわからないからだ。十九歳二十歳が晩年になった人もいる。五十歳で晩年を迎える人もいる。ゼロ歳の晩年などというものになると、私たちはもうただ月光にさらされるように、清純ないたましさにうたれるだけだ。」
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