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2006年11月28日 (火)

『クオ・ヴァディス』

 『クオ・ヴァディス』という文学作品には、ローマ帝国の皇帝ネロによってクリスチャンがコロッセウムでライオンの餌食にされるなどたくさんの人が殺される場面が出てきます。時の権力者に従わずに神様への信仰を貫くがゆえに命を奪われるのですから殉教ですね。『クオ・ヴァディス』の映画を観てから原作を読んだのですが、この殉教ということにまだ少年だった私はいろいろ思いめぐらすことになりました。よりよく生きるために信仰を持つのだろうと思うのに、その信仰を持つがために殺されるとはどういうことなのか、というふうに考えて思考の迷路に入ったのです。ご存じのように、日本のクリスチャンにも殉教の歴史があり、『沈黙』(遠藤周作)という文学作品があります。心の中は誰ものぞけないのだから、口では棄教するといって難を逃れ、心の中で神様を信じていればよいではないか、それをしないで殺されるのはバカ正直というものではないか、とまず思いました。けれど、誰だって命は惜しいはずなのに、なぜ、島原で殉教したクリスチャンは踏み絵を踏まなかったのだろうという問いにぶつかりました。人が何を描こうと、何を刻もうとそれは人の作った物であって神そのものではないのだから踏んでしまえばいいではないか、という考えが頭を去らないのでした。だいぶん時間がかかりましたが、この迷路から抜け出すのに聖書のことばが大きな働きをしてくれました。その中から三つをご紹介いたします。

  からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。マタイによる福音書10章28節

 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

ヨハネによる福音書1章5節

  あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。 ルカによる福音書8章16節

 余談ですが、『クオ・ヴァディス』は最近新たに映画化され、ずいぶん大がかりな作品になっているようです。

聖書のことば
私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。
詩篇 56篇11節
In God I trust ; I will not be afraid,What can man do to me?
Psalm 56:11

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