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2006年12月31日 (日)

ボン・ヘッファーの祈り

  2006年の大晦日ですね。大晦日、そして新年を迎えるのに静かで力強い祈りを考えていましたら、関根一夫牧師さんのメールレターに次の詩が紹介されていました。それを掲載させていただいて本年度のフィナーレとさせていただきます。

  ドイツの神学者ボンヘッファーによる詩をお届けします。
収容所で書かれた詩です。

 「主のよき力に守られて」

主のよき力に、確かに、静かに、取り囲まれ、
不思議にも守られ、慰められて、
私はここでの日々を君たちと共に生き、
君たちと共に新年を迎えようとしています。

過ぎ去ろうとしている時は、私たちの心をなおも悩まし、
悪夢のような日々の重荷は、私たちをなおも圧し続けています。
ああ、主よ、どうかこのおびえおののく魂に、
あなたが備えている救いを与えてください。

あなたが、もし、私たちに、苦い杯を、苦汁にあふれる杯を、
なみなみとついで、差し出すなら、
私たちはそれを恐れず、感謝して、
いつくしみと愛に満ちたあなたの手から受け取りましょう。

しかし、もし、あなたが、私たちにもう一度喜びを、
この世と、まぶしいばかりに輝く太陽に対する喜びを与えてくださるなら、
私たちは過ぎ去った日々のことをすべて思い起こしましょう。
私たちのこの世の生のすべては、あなたのものです。

あなたがこの闇の中にもたらしたろうそくを、
どうか今こそ暖かく、明るく燃やしてください。
そしてできるなら、引き裂かれた私たちをもう一度、結び合わせてくださ
い。
あなたの光が夜の闇の中でこそ輝くことを、私たちは知っています。

深い静けさが私たちを包んでいる今、この時に、
私たちに、聞かせてください。
私たちのまわりに広がる目に見えない世界のあふれるばかりの音の響きを、
あなたのすべての子供たちが高らかにうたう賛美の歌声を。

主のよき力に、不思議にも守られて、
私たちは、来るべきものを安らかに待ち受けます。
神は、朝に、夕に、私たちのそばにいるでしょう。
そして、私たちが迎える新しい日々にも、神は必ず、私たちと共にいるでしょう。

ボンヘッファー著;(村椿嘉信訳):「主のよき力に守られて」
新教出版社

  関根一夫牧師様、そしてボンヘッファーさん、ありがとうございます。

  ブログを訪れてくださった方々にも感謝申し上げます。どうか、来たる年も神様に祝福されてよき年となりますように。

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2006年12月30日 (土)

聖歌・讃美歌の聴けるページ

 2006年も、あと少しとなりました。今日は、讃美歌などが聞けるホームページを紹介させていただきます。

http://promises.cool.ne.jp/newpraisemidi.shtml

  今日ばかりでなく、多くの方のおかげで続いているブログです。また、充填してオリジナルの内容でお届けできるようにしたいと思います。どなた様も、年の暮れのおつかれが出ませんように。車の燃料は、ガソリンスタンドに行ける燃料のある内に補給する・・・人の心身のエネルギーも、そのように、疲れてしまう前に補充するのが大切ではないかと思うこのごろです。

聖書のことば コリント人への手紙 第二 12章9節

主(神様)は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私(パウロ)は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

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2006年12月29日 (金)

ウサギとカメ

  今日は、♪「もしもしかめよ、かめさんよー」の歌で知られるウサギとカメの話・・・足の速いウサギがカメに負けたのは、ご存じのようにレースの途中で一眠りしたからですが、その油断のもとについて、こんな話をしてくださった方がいます。

 その方は、幼い子どもたちにウサギとカメの話をした後、こう問いかけたのだそうです。「ウサギさんは、何を見ていたのでしょう?」子どもたちは「カメさん。」と答えました。続いて「カメさんは?」と質問すると、ある子がこう答えたそうです。「向こうの山のふもとだと思います。」

 この子は見事に本質をついていますね。そのように導いた質問者もまた見事だと思います。

  私たちが忘れてならないのは、目指すべきゴールで、それはこれから私たちが進む行く手にあり、カメはそれを忘れませんでした。ウサギの誤ちの原因は、前方のゴールではなく、後方のカメとの差を見、優越感をいだいて気を抜いてしまったことにあります。

聖書のことば ピリピ人への手紙 第3章

3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

  これは、パウロという人がピリピの教会の人たちに宛てて書いているのですが、私たちも目先のことにとらわれて大事な本質を忘れることなく、どんな人間として生きたいのかを心に刻みつつ、歩み続けたいと思います。

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2006年12月28日 (木)

北風と太陽

 昨12月27日に掲載の私説「シンデレラ」に続いて本日も、よく知られている話を私なりにアレンジした「北風と太陽」を掲載させていただきます。

  ある冬の日、マントを着て道を歩いている旅人を見て、北風と太陽が競争することになりました。どちらが旅人にマントを脱がせることが出来るか、というわけです。最初に北風が挑戦することになりました。張り切った北風は、マントを吹き飛ばそうとやっきになって旅人におそいかかりました。けれど、北風ががんばればがんばるほど、旅人はマントをしっかりと着込んで寒さから身を守ったので、ついに北風はあきらめることにしました。さて、今度は太陽の番です。

  ところが、太陽がぽかぽかとあたたかい光を送り始めようとしたとき、おお、これはいったいどうしたことでしょう。むくむくと黒い雲がわき起こり、太陽の光も熱もさえぎられてしまいました。

  困った太陽は、北風に頼みました。「北風さん、北風さん。どうかあなたの力であの黒い雲を吹き飛ばしてください。」北風は「おう、まかしてください。」と答えて、見事に黒雲を追い払ってしまいました。この後のことは、皆さんがよくご存じのとおりです。

  もちろん、太陽は旅人にマントを脱がせることができたことを自分一人の手がらにはしませんでした。北風が黒い雲を吹きはらってくれなければ、どうしようもなかったことを認め、二人は力を合わせることのすばらしさをこの日、学んだのです。チャンチャン

 原作者には叱られるかも知れませんが、多様化し複雑になっている現代ですから、これくらいのアレンジは許してもらえるのではないでしょうか。

聖書のことば ローマ人への手紙 第12章

12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、

12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

  他の人の働きがあってこそ自分も何かの役割を果たすことができる・・・「実るほど頭を垂るる稲穂かな」と似たことばに「柳は伸びれば伸びるほど地面に近づく」という表現があります。自信がないのと謙虚さは違うといわれますが、実力をたくわえればたくわえるほど、真に謙虚になることができるのではないでしょうか。

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2006年12月27日 (水)

シンデレラが王子にみそめられたわけ

  2006年もあと少し・・・ガスや電気が普及して「すす払い」ということばを使うところは今は多くないかと思いますが、大掃除をされる方もおありかと思います。そのことと連想が働いて、私流のシンデレラの魅力を書かせていただきます。

  シンデレラが数多くの令嬢がここぞとばかりに着飾って集まるお城のパーティにおいて王子の愛を獲得したのはなぜか・・・魔法使いの助けがあったから・・・といってもそれは豪華な馬車や衣装などの外的な条件整備だけだと思います。

 シンデレラの魅力・・・それは、毎日、家の掃除や洗濯、食事つくりに、命じられるからということだけでなく、心を込めて喜んで取り組んでいたからではないかと思います。それが、召使い達にかしずかれてお稽古ごとにせっせと打ち込んでいたほかのお嬢様方の持ち得ない内面の豊かさをシンデレラに培っていたのではないか、というのが私の考えです。大晦日の近づくご多用のときにお立ち寄りいただきありがとうございました。 

  我田引水ですが、上の説はトイレ掃除を進んでする女性にはとても可愛らしい赤ちゃんが授かるというお話とリンクするようにも思います。

 聖書のことば マタイによる福音書 第25章

25:1 天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
25:4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま、あけてください』と言った。
25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。
25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

  この聖書のことばとシンデレラの話とどこが通じているのだ、とお思いになる方も多いことと思います。そうですね、私も戸惑っていますが、お許しください。なにしろ師走ですから・・・・・・

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2006年12月26日 (火)

ブレンドしていいのでしょうか

 12月25日がすぎてもクリスマスの飾りを急いで片付ける必要はないのですが、お正月の用意に取りかかるとなると、見る見る内にクリスマス用品は姿を消していきます。今年もあと一週間をきりましたが、この一週間で多くの日本人は三つの宗教を、それもあまり意識することなく渡り歩くといわれています。クリスマスを祝い、除夜の鐘を聞いて仏教の教えを心にとめ、そして神社に初もうでに出かけるのです。クリスマスケーキを食べてプレゼントを贈り合うことや、こたつにあたっていると除夜の鐘が聞こえてくるというのは宗教的な行為とはいえませんから、三つ目の初もうでだけがはっきりとした宗教行為ということになるでしょうか。

 拝む、あがめるというのは、自分の全存在をかけて相手にゆだねることですから、自分の信仰の対象が何であるかについて無関心であってはならないと思います。拝む対象ではなく、拝むという行為そのものが大事なのだというのは、剛速球でさえあれば、どこへ投げてもいいということと変わりありません。たとえ、ゆるいボールでも、正しい的(まと)に向かって投げることこそ、まず第一に大切なのではないでしょうか。

  コーヒーなどの場合であればブレンドするといいものができることはあると思います。けれど、何が本質かを考えることなく無意識に宗教をブレンドして世を渡っているとしたら、検討の余地があると思います。

聖書のことば

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

出エジプト記 第20章3節

十戒の最初の戒めです。

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2006年12月25日 (月)

偉大な生涯

 「偉大な生涯の物語」というイエス・キリストの生涯を描いた映画を観たのは、40年ほど前のことでした。その映画に出演した人気歌手パット・ブーンには台詞が一つしかなかったので、周囲は彼が不満に思わないかどうか心配したそうですが、当のパット・ブーンは、何とすばらしいひと言を言えるのだろうと心から喜んだそうです。そのひと言とは「実に主は(イエス・キリスト)はよみがえられたのです。」という天使の言葉でした。周りの人は、心から喜んでいるパット・ブーンの敬虔な信仰に打たれたそうです。さらにすばらしいのは、イエス・キリストは、物語ではなく、実際に歴史に存在しておられるということです。クリスマスは、そのイエス・キリストの偉大な生涯がこの地上においてスタートした日です。

 メリークリスマス メリーメリークリスマス!!

聖書のことば

  神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 ヨハネによる福音書 第3章16節

 下のURLは♪「ホワイト・クリスマス」に続いて、アニメ付きでクリスマス音楽の楽しめるホームページの二つめです。お楽しみいただけたらと思います。トナカイの一つ一つをクリックしていただくことになりますが、公開してくださっている方に感謝いたします。

http://christopher.plaquet.free.fr/christmasday/concertoduperenoel.swf

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2006年12月23日 (土)

♪「ホワイトクリスマス」

 映画「ホワイトクリスマス」の主演は、ビングクロスビーとダニーケイだったでしょうか。  あらすじもある程度覚えているのですが、それ以上に、♪「ホワイトクリスマス」を歌うビング・クロスビーの声に魅了されました。この時期、♪「ホワイト」クリスマス」を耳にする機会が多いのですが、昨日クリスチャンである友人から、この歌をアニメ付きで聞けるホームページを教えていただきました。あまりに楽しかったので何人かの方におしらせしたら、「早速、遅くまで起きている孫と聞きました。」などの返信が深夜に届きました。

 というわけで、ブログを読んでくださる皆様にもここでお裾分けさせていただきます。楽しんでいただけたら幸いです。http://www.thecompassgroup.biz/merryxmas.swf

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2006年12月22日 (金)

星野富弘さん

 星野富弘さんの『山の向こうの美術館』(発行 富弘美術館・発売 偕成社・初版2005年4月)に「聖夜」という文章があります。星野さんの病室は、ほとんどベッドから動けない6人の患者さんたち・・・鉢植えの花キリンに治療用の綿の雪をちりばめ、包帯や点滴の空き瓶などを下げて作ったクリスマスツリー、皆で仰向けのまま歌った♪「きよしこの夜」・・・皆、人生の最も重く苦しい試練の真っ只中で、しかし、今生きていること、クリスマスの会ができたことへの感謝と喜びを話し合われたそうです。

 そこへ、窓の外からクリスマスの歌・・・いつの間にか、手に手にろうそくの灯りを持ったたくさんの人が集まっていて、中庭から音楽を贈ってくれていた・・・心のこもったキャロリングですね・・・ 退院して何年も経つ星野富弘さんですが、クリスマスが来ると今でもそのときの病室の夜がまぶたに浮かんでくるそうです。

 星野さんの文は次のように結ばれています。

 あのとき、あの病室にはきっとイエスキリストが立っておられた。そして私たちを、やさしい眼差しで見守ってくださっていた。

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2006年12月21日 (木)

岸田今日子さん

 我が家の子どもが小さかった頃、マザーグースの歌のレコードを買いました。そのレコードで朗読を担当していたのが、岸田今日子さんでした。アニメのムーミンの声も岸田今日子さんでした。吉行和子さん、富士真奈美さんとの仲良し三人組でもありました。アニメのムーミンの主題歌に♪「ねえ、ムーミン、こっち向いて」という歌詞があります。何かと多用な年末ではありますが、大切なものに目線を合わせ、心をそらさないようにいたしましょう。

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2006年12月20日 (水)

♪赤鼻のトナカイ

♪真っ赤なお鼻のトナカイさんは・・・の歌詞をインターネットで探していたら、手話で歌詞をどう表現するかが掲載されているページにいきあたりました。

http://www003.upp.so-net.ne.jp/bukky/sign-j/main-j.htm

そして、サンタさんのトナカイの名前などが紹介されているページにも到達しました。

http://xmas-count-down.com/b4/rudolph.htm

 というわけで、今日のブログは、以上の二つのページを紹介することで・・・・

  からかわれる対象だった真っ赤なお鼻が、大切なヘッドライトの役割を果たす・・・小学校の国語の教科書に載っている、一人だけ黒い色をしていた魚「スイミー」が大きな役割を果たすことを思い浮かべました。

 こういう逆転というのは、すてきなプレゼントですね。ウーム・・・

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2006年12月19日 (火)

フランダースの犬

 フランダースの犬は、テレビのアニメで広く知られるようになった名作です。52回の平均視聴率が25%、最終回は30%・・・たくさんの子ども、大人に愛されたことがうかがわれます。クリスマスにネロとパトラッシュは天に召されるのですね。原作者のウイダは英国人、物語の舞台は、ベルギーのアントワープです。そしてアントワープから電車で30分ほどのホーボーケンという町が主人公ネロとパトラッシュの故郷ということで、郵便局の前にネロとパトラッシュの像があります。ちなみにこの像が建てられたのは、たくさんやってくる日本人たちへのサービスという意味合いが強いようです。

アニメのあらすじと、ホーボーケンを訪れて写真入りで紹介しておられる方のホームページは下記の通りです。

あらすじ

http://www.bandaivisual.co.jp/flanders/fd_flmf.html

ネロとパトラッシュの像などが出てくるホームページ

http://www.ymmr.com/belgium/page05.html

   最終回がハッピーエンドでないことがだいぶん論議を呼んだのですが、我が家では「天使は教会のシャンデリアの中に住んでいるの?」と子どもが感想を口にしました。ネロとパトラッシュを迎えに来る天使たちが現れるシーンがそのように見えたのですね。それはともかく、あまり悲しい結末だとの声が強く、ハッピーエンドのバージョンも実写の映画にはあるとのことです。そういえば、NHKの大河ドラマなどでもフアンから「義経を殺すな。」とか「信長を死なさないでくれ。」と無理な注文がくることがあるようですね。人気の俳優と歴史上の事実との相克に悩む制作担当者たち・・・嬉しくもあり、つらくもあり、というところでしょうか。

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2006年12月18日 (月)

『氷点』

  先日、三浦綾子さんの『氷点』が二夜にわたって放映されました。朝日新聞の一千万円懸賞小説に当選したこの作品が、三浦綾子さんのデビュー作となったこと、そして、日曜の夜の人気長寿番組「笑点」の名は、この『氷点』が生みの親になって名付けられたことは多くのかたがご存じだと思います。今日は、それに加えて、三浦綾子さんが『続氷点』を執筆しているときに、ごくまれに燃える流氷と呼ばれる現象が起こることを知って、その光景をぜひ見たいと取材に訪れた地で、本当に奇跡的にそれを見ることができ、神様に感謝しながら『続氷点』を書き終えたことをご紹介したいと思います。・・・・・・と書くと、これで文が終わってしまいますね。私は、『氷点』を読み、その映画も観ました。そして『続氷点』も読んでいたのですが、先日テレビの「氷点」で燃える流氷のシーンを目にして、三浦綾子さんがその光景に何を感じて作品に採り入れたのかが、やっと分かったように思ったのです。氷点に達し、さらに低い温度に至って氷の塊となっている流氷が真っ赤になって燃える光景・・・氷点はこの作品では人間の原罪(詳しくは、『氷点』をお読みくだされば幸いです)を表しているのですから、流氷が天からの炎で燃えている光景は人間ではどうにもならない状況への神様からの救いの象徴として描かれているのだと、得心したのです。皆さんは既にそう読んだり、もっと深い読みをしておられるかもしれませんので、何だ、今ごろ分かったのかとおっしゃるかもしれませんが、私としては新鮮な感動を覚えたので、その記念の意味もあって書かせていただくことにいたしました。ここまでお目通しくださったことに感謝申し上げます。

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2006年12月17日 (日)

4℃の水が一番重いわけ

  私が小学4年生の頃だったと思います。学級文庫で野口英世の記事を読んだのです。そこには、ある試験で4℃の水が一番重くなるわけを野口英世だけが正解したこと、おまけに水の分子が密着した状態で並んでいる図まで添えてあったので、採点した先生がとても感心したことが書かれていました。その記事は、上のようなわけで一番比重が重くなっている4℃の水1ccの重さを1gとしたのだと結ばれていたように覚えています。

   それ以来、「なぜ4℃なのだろう」と、納得がいかない気分が私の中にいつもありました。理屈ではわかったけれど、4℃というはんぱな数字でなく、0℃で凍るのなら、そこで一番重くなることにすれば世話がないのに・・・と心情的に落ち着かなかったのです。
  納得がいったのは、それから約30年後、下呂で勤めていて冬の寒さのため表面の凍った池を目の前にして、理科の先生に質問したときでした。
 
「氷の下で鯉が生きられるのはどうしてか。」
彼は即座に答えました。
「池の底には一番密度の高い水が集まるので、限りなく4℃に近くなる。それに、魚は変温動物なので、低温では新陳代謝も極めてわずかになり、酸素の消費量も少なくなり、食べ物もほとんど必要としなくなるので春まで生き延びられるのだ。」

  疑問が氷解するとは正にこのことです。このとき、初めて私には長年の疑問だった「水が4℃で一番重くなるように創造されたわけ」が理解できたのでした。

  自然界の仕組みにはまだまだ素晴らしいものがたくさんあります。たとえばアゲハチョウの幼虫は、その模様が鳥のふんのように見えることによって外敵から身を守る、というような例は数限りなくあることでしょう。 こうした自然の素晴らしい仕組みの背後には創造主である神がおられ、しかも私たちを愛してイエス・キリストを遣わしてくださったこと・・・このことこそ人が知らなければならない最高の真理なのだ、とクリスチャンは堅く信じています。あなたはどうお考えになりますか。

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2006年12月16日 (土)

内側から燃える思い

 クリスマスが近づいてきています。クリスマス特集シリーズもいよいよクライマックス・・・といきたいのですが、私の手持ちの材料が底をついてきましたので、「キリスト教会へのおさそい」に戻らせていただきます。

 今のシーズンこそ、お近くのキリスト教会に足を運んでいただく好機だと思いますし、教会でイエス・キリストに出会うことができたら、それこそが本当のクリスマス、神様からの最大のプレゼントを受け取ることになるからです。

内側から燃える思い

 寒い季節になると、温泉で有名な下呂で勤務していたとき、家族で銭湯に行って戻る車の中で体験したことを思い出します。
   銭湯といっても、下呂の銭湯は良質の温泉で、「石鹸がなかなか落ちないなあ」と勘違いするほどお湯がつるつるしていました。
  さて、銭湯に入りに行ったのは寒い日だったので湯ざめするのを心配していたのですが、帰りの車内では逆に体がぽかぽかとあたたまってきたのです。
「温泉ってすごいなあ」「湯ざめしないどころか、だんだんほてってくるんだものね」と家族で感心したものでした。それは、温泉に芯まであたためられて活性化した体自体のなせるわざだったのです。

 この日、まず自然の恩恵ということを思いました。燃料だけ考えてみても、自然の恩恵はたくさんあります。石油も石炭も人間がつくりだしたものではありませんし、まきを供給する木一本にしても日光や雨などを抜きにしては育たなかったはずです。
 その上、温泉となると、そうした燃料を使わなくても豊富にお湯が沸いて出てくるのですから、ますます大きな恩恵とその背後にある神の愛を感じさせてくれます。

  恩恵の他にもう一つ感じたのは「内側から燃えること」の大切さということでした。
ある宣教師が「教養とは人から与えられるものではなく、その人から奪うことのできないものである」と話されたことがあり、印象の深い言葉として心に残っています。そういう内面的な教養に根ざしていない行動は、周囲に振り回されているだけで、本物になっていないことが多いのではないでしょうか。
  せっかくかけがえのない人生を生きるのですから、他人ではなく、自分自身の内側から燃える思いを大切にして歩みたいものです。

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2006年12月15日 (金)

幸福の王子

幸福の王子

The Happy Prince

オスカー・ワイルド作
結城浩訳

町の上に高く柱がそびえ、その上に幸福の王子の像が立っていました。王子の像は全体を薄い純金で覆われ、目は二つの輝くサファイアで、王子の剣のつかには大きな赤いルビーが光っていました。

王子は皆の自慢でした。「風見鶏と同じくらいに美しい」と、芸術的なセンスがあるという評判を得たがっている一人の市会議員が言いました。「もっとも風見鶏ほど便利じゃないがね」と付け加えて言いました。これは夢想家だと思われないように、と心配したからです。実際には彼は夢想家なんかじゃなかったのですが。

「どうしてあの幸福の王子みたいにちゃんとできないの」月が欲しいと泣いている幼い男の子に、賢明なお母さんが聞きました。「幸福の王子は決して何かを欲しがって泣いたりしないのよ」

「この世界の中にも、本当に幸福な人がいる、というのはうれしいことだ」失望した男が、この素晴らしい像を見つめてつぶやきました。

「天使のようだね」と、明るい赤のマントときれいな白い袖なしドレスを来た養育院の子供たちが聖堂から出てきて言いました。

「どうしてそのようなことがわかるのかね」と数学教師がいいました。「天使など見たことがないのに」

「ああ、でも見たことはありますよ。夢の中で」と子供たちは答えました。すると数学教師は眉をひそめてとても厳しい顔つきをしました。というのは彼は子供たちが夢を見ることはよろしくないと考えていたからです。

ある晩、その町に小さなツバメが飛んできました。友達らはすでに六週間前にエジプトに出発していましたが、そのツバメは残っていました。彼は最高にきれいな葦に恋をしていたからです。ツバメが彼女に出会ったのは春のはじめ、大きくて黄色い蛾を追って川の下流へ向かって飛んでいたときでした。葦のすらっとした腰があまりにも魅力的だったので、ツバメは立ち止まって彼女に話しかけたのです。

「君を好きになってもいいかい」とツバメは言いました。ツバメは単刀直入に話すのが好きでした。葦は深くうなずきました。そこでツバメは、翼で水に触れながら彼女の周りをぐるぐると回り、銀色のさざなみを立てました。これはツバメからのラブコールで、それは夏中続きました。

「彼女はおかしな恋人だね」と他のツバメたちがぺちゃぺちゃ言いました。「財産はないくせに、親戚は多すぎるときてる」実際、その川は葦でいっぱいだったのです。やがて、秋が来るとそのツバメたちもみんな飛んでいってしまいました。

みんなが行ってしまうと、ツバメはさびしくなり、自分の恋人にも飽き始めました。「彼女は何も話してくれないしな」ツバメは言いました。「それに浮気っぽいんじゃないかと思うんだ。だって彼女はいつも風といちゃついてるんだから」確かに、風が吹くといつも、葦は最高に優美なおじぎをするのでした。「彼女は家庭的なのは認めるけれど」とツバメは続けました。「でも、僕は旅をするのが好きなんだから、僕の妻たるものも、旅をするのが好きでなくっちゃ」

とうとうツバメは「僕と一緒に行ってくれないか」と彼女に言いました。でも葦は首を横に振りました。彼女は自分の家にとても愛着があったのです。

「君は僕のことをもてあそんでいたんだな」とツバメは叫びました。「僕はピラミッドに出発するよ。じゃあね」ツバメは飛び去りました。

一日中ツバメは飛び、夜になって町に着きました。「どこに泊まったらいいかな」とツバメは言いました。「泊まれるようなところがあればいいんだけれど」

それからツバメは高い柱の上の像を見ました。

「あそこに泊まることにしよう」と声をあげました。「あれはいい場所だ、新鮮な空気もたくさん吸えるし」そしてツバメは幸福の王子の両足のちょうど間に止まりました。

「黄金のベッドルームだ」ツバメはあたりを見まわしながらそっと一人で言い、眠ろうとしました。ところが、頭を翼の中に入れようとしたとたん、大きな水の粒がツバメの上に落ちてきました。「何て不思議なんだ!」とツバメは大きな声をあげました。「空には雲一つなく、星はとてもくっきりと輝いているというのに、雨が降っているなんて。北ヨーロッパの天候はまったくひどいもんだね。あの葦は雨が好きだったが、それは単なる自己中心だったし」

すると、もう一滴落ちてきました。

「雨よけにならないんだったら、像なんて何の役にも立たないな」とツバメは言いました。「もっといい煙突を探さなくちゃ」ツバメは飛び立とうと決心しました。

でも、翼を広げるよりも前に、三番目の水滴が落ちてきて、ツバメは上を見上げました。すると――何が見えたでしょうか。

幸福の王子の両眼は涙でいっぱいになっていました。そしてその涙は王子の黄金の頬を流れていたのです。王子の顔は月光の中でとても美しく、小さなツバメはかわいそうな気持ちでいっぱいになりました。

「あなたはどなたですか」ツバメは尋ねました。

「私は幸福の王子だ」

「それなら、どうして泣いているんですか」とツバメは尋ねました。「もう僕はぐしょぬれですよ」

「まだ私が生きていて、人間の心を持っていたときのことだった」と像は答えました。「私は涙というものがどんなものかを知らなかった。というのは私はサンスーシの宮殿に住んでいて、そこには悲しみが入り込むことはなかったからだ。昼間は友人たちと庭園で遊び、夜になると大広間で先頭切ってダンスを踊ったのだ。庭園の周りにはとても高い塀がめぐらされていて、私は一度もその向こうに何があるのかを気にかけたことがなかった。周りには、非常に美しいものしかなかった。廷臣たちは私を幸福の王子と呼んだ。実際、幸福だったのだ、もしも快楽が幸福だというならば。私は幸福に生き、幸福に死んだ。死んでから、人々は私をこの高い場所に置いた。ここからは町のすべての醜悪なこと、すべての悲惨なことが見える。私の心臓は鉛でできているけれど、泣かずにはいられないのだ」

「何だって! この王子は中まで金でできているんじゃないのか」とツバメは心の中で思いました。けれどツバメは礼儀正しかったので、個人的な意見は声に出しませんでした。

「ずっと向こうの」と、王子の像は低く調子のよい声で続けました。「ずっと向こうの小さな通りに貧しい家がある。窓が一つ開いていて、テーブルについたご婦人が見える。顔はやせこけ、疲れている。彼女の手は荒れ、縫い針で傷ついて赤くなっている。彼女はお針子をしているのだ。その婦人はトケイソウ〔訳注:(passion-flower)この花の副花冠はキリストのいばらの冠に似ているという〕の花をサテンのガウンに刺繍しようとしている。そのガウンは女王様の一番可愛い侍女のためのもので、次の舞踏会に着ることになっているのだ。その部屋の隅のベッドでは、幼い息子が病のために横になっている。熱があって、オレンジが食べたいと言っている。母親が与えられるものは川の水だけなので、その子は泣いている。ツバメさん、ツバメさん、小さなツバメさん。私の剣のつかからルビーを取り出して、あの婦人にあげてくれないか。両足がこの台座に固定されているから、私は行けないのだ」

「私はエジプトに行きたいんです」とツバメは言いました。「友人たちはナイル川に沿って飛びまわったり、大きな蓮の花に話しかけたりしています。まもなく、みんなは偉大な王の墓の中で眠ります。王もまた、そこの彩られた棺の中にいます。王は黄色の亜麻布で包まれ、香料を使ってミイラになっています。首には青緑色の翡翠の首飾りがかけられ、王の両手はまるでしおれた葉のようなんですよ」

「ツバメさん、ツバメさん、小さなツバメさん」と王子は言いました。「もう一晩泊まって、私のお使いをしてくれないか。あの子はとても喉が乾いていて、お母さんはとても悲しんでいるのだよ」

「私は男の子が好きじゃないんです」とツバメは答えました。「去年の夏、川のほとりにいたとき、二人の乱暴な男の子がおりました。粉引きの息子たちで、二人はいつも僕に石を投げつけました。もちろん一回も当たりませんでしたよ。僕たちツバメはそういうときにはとてもうまく飛びますし、その上、僕は機敏さで有名な家系の出ですから。でも、石を投げてくるっていうのは失礼な証拠ですよね」

でも、幸福の王子がとても悲しそうな顔をしましたので、小さなツバメもすまない気持ちになりました。「ここはとても寒いですね」とツバメは言いました。「でも、あなたのところに一晩泊まって、あなたのお使いをいたしましょう」

「ありがとう、小さなツバメさん」と王子は言いました。

そこでツバメは王子の剣から大きなルビーを取り出すと、くちばしにくわえ、町の屋根を飛び越えて出かけました。

ツバメは、白い大理石の天使が彫刻されている聖堂の塔を通りすぎました。宮殿を通りすぎるとき、ダンスを踊っている音が聞こえました。美しい女の子が恋人と一緒にバルコニーに出てきました。「何て素晴らしい星だろう」彼は女の子に言いました。「そして愛の力は何と素晴らしいことだろう」

「私のドレスが舞踏会に間に合うといいわ」と女の子が答えました。「ドレスにトケイソウの花が刺繍されるように注文したのよ。でもお針子っていうのはとっても怠け者だから」

ツバメは川を越え、船のマストにかかっているランタンを見ました。ツバメは貧民街を越え、老いたユダヤ人たちが商売をして、銅の天秤でお金を量り分けるのを見ました。やっと、あの貧しい家にたどり着くと、ツバメは中をのぞき込みました。男の子はベッドの上で熱のために寝返りをうち、お母さんは疲れ切って眠り込んでおりました。ツバメは中に入って、テーブルの上にあるお母さんの指ぬきの脇に大きなルビーを置きました。それからツバメはそっとベッドのまわりを飛び、翼で男の子の額をあおぎました。「とても涼しい」と男の子は言いました。「僕はきっと元気になる」そして心地よい眠りに入っていきました。

それからツバメは幸福の王子のところに飛んで戻り、やったことを王子に伝えました。「妙なことに」とツバメは言いました。「こんなに寒いのに、僕は今とても温かい気持ちがするんです」

「それは、いいことをしたからだよ」と王子は言いました。そこで小さなツバメは考え始めましたが、やがて眠ってしまいました。考えごとをするとツバメはいつも眠くなるのです。

朝になると、ツバメは川のところまで飛んでいき、水浴びをしました。「何と驚くべき現象だ」と鳥類学の教授が橋を渡りながら言いました。「冬にツバメを見るなんて」それから教授は、このことについて長い投書を地方新聞にあてて書きました。みんながその投書を話題にしました。でも、その投書は人々が理解できない単語でいっぱいでした。

「今夜、エジプトに行きます」とツバメは言いました。ツバメはその予定に上機嫌でした。町中の名所をみな訪れてから、教会の尖塔のてっぺんに長い時間とまっていました。ツバメが行くところはどこでもスズメがチュンチュン鳴いていて、「素敵な旅人ね」と口々に言っていましたので、ツバメはとてもうれしくなりました。

月がのぼると、ツバメは幸福の王子のところに戻ってきました。「エジプトに何かことづけはありますか」と声をあげました。「もうすぐ出発しますから」

「ツバメさん、ツバメさん、小さなツバメさん」と王子は言いました。「もう一晩泊まってくれませんか」

「私はエジプトに行きたいと思っています」とツバメは答えました。「明日僕の友達は川を上り、二番目の滝へ飛んでいくでしょう。そこではパピルスのしげみの間でカバが休んでいます。そして巨大な御影石の玉座にはメムノン神が座っているんです。メムノン神は、星を一晩中見つめ続け、明けの明星が輝くと喜びの声を一声あげ、そしてまた沈黙に戻ると言われています。正午には黄色のライオンが水辺に水を飲みにやってきます。ライオンの目は緑柱石のようで、その吠え声は滝のごうごうという音よりも大きいんですよ」

「ツバメさん、ツバメさん、小さなツバメさん」と王子は言いました。「ずっと向こう、町の反対側にある屋根裏部屋に若者の姿が見える。彼は紙であふれた机にもたれている。傍らにあるタンブラーには、枯れたスミレが一束刺してある。彼の髪は茶色で細かく縮れ、唇はザクロのように赤く、大きくて夢見るような目をしている。彼は劇場の支配人のために芝居を完成させようとしている。けれど、あまりにも寒いのでもう書くことができないのだ。暖炉の中には火の気はなく、空腹のために気を失わんばかりになっている」

「もう一晩、あなたのところに泊まりましょう」よい心をほんとうに持っているツバメは言いました。「もう一つルビーを持っていきましょうか」

「ああ! もうルビーはないのだよ」王子は言いました。「残っているのは私の両目だけだ。私の両目は珍しいサファイアでできている。これは一千年前にインドから運ばれてきたものだ。私の片目を抜き出して、彼のところまで持っていっておくれ。彼はそれを宝石屋に売って、食べ物と薪を買って、芝居を完成させることができるだろう」

「王子様」とツバメは言いました。「私にはできません」そしてツバメは泣き始めました。

「ツバメさん、ツバメさん、小さなツバメさん」と王子は言いました。「私が命じたとおりにしておくれ」

そこでツバメは王子の目を取り出して、屋根裏部屋へ飛んでいきました。屋根に穴があいていたので、入るのは簡単でした。ツバメは穴を通ってさっと飛び込み、部屋の中に入りました。その若者は両手の中に顔をうずめるようにしておりましたので、鳥の羽ばたきは聞こえませんでした。そして若者が顔を上げると、そこには美しいサファイアが枯れたスミレの上に乗っていたのです。

「私も世の中に認められ始めたんだ」若者は大声を出しました。「これは誰か、熱烈なファンからのものだな。これで芝居が完成できるぞ」若者はとても幸福そうでした。

次の日、ツバメは波止場へ行きました。大きな船のマストの上にとまり、水夫たちが大きな箱を船倉からロープで引きずり出すのを見ました。箱が一つ出るたびに「よいこらせ!」と水夫たちは叫びました。「僕はエジプトに行くんだよ!」とツバメも大声を出しましたが、誰も気にしませんでした。月が出るとツバメは幸福の王子のところに戻りました。

「おいとまごいにやってきました」ツバメは声をあげました。

「ツバメさん、ツバメさん、小さなツバメさん」と王子は言いました。「もう一晩泊まってくれませんか」

「もう冬です」ツバメは答えました。「冷たい雪がまもなくここにも降るでしょう。エジプトでは太陽の光が緑のシュロの木に温かく注ぎ、ワニたちは泥の中に寝そべってのんびり過ごしています。友人たちは、バールベック寺院の中に巣を作っており、ピンクと白のハトがそれを見て、クークーと鳴き交わしています。王子様。僕は行かなくちゃなりません。あなたのことは決して忘れません。来年の春、僕はあなたがあげてしまった宝石二つの代わりに、美しい宝石を二つ持って帰ってきます。ルビーは赤いバラよりも赤く、サファイアは大海のように青いものになるでしょう」

「下のほうに広場がある」と幸福の王子は言いました。「そこに小さなマッチ売りの少女がいる。マッチを溝に落としてしまい、全部駄目になってしまった。お金を持って帰れなかったら、お父さんが女の子をぶつだろう。だから女の子は泣いている。あの子は靴も靴下もはいていないし、何も頭にかぶっていない。私の残っている目を取り出して、あの子にやってほしい。そうすればお父さんからぶたれないだろう」

「もう一晩、あなたのところに泊まりましょう」ツバメは言いました。「でも、あなたの目を取り出すなんてできません。そんなことをしたら、あなたは何も見えなくなってしまいます」

「ツバメさん、ツバメさん、小さなツバメさん」と王子は言いました。「私が命じたとおりにしておくれ」

そこでツバメは王子のもう片方の目を取り出して、下へ飛んでいきました。ツバメはマッチ売りの少女のところまでさっと降りて、宝石を手の中に滑り込ませました。「とってもきれいなガラス玉!」その少女は言いました。そして笑いながら走って家に帰りました。

それからツバメは王子のところに戻りました。「あなたはもう何も見えなくなりました」とツバメは言いました。「だから、ずっとあなたと一緒にいることにします」

「いや、小さなツバメさん」とかわいそうな王子は言いました。「あなたはエジプトに行かなくちゃいけない」

「僕はずっとあなたと一緒にいます」ツバメは言いました。そして王子の足元で眠りました。

次の日一日、ツバメは王子の肩に止まり、珍しい土地で見てきたたくさんの話をしました。ナイル川の岸沿いに長い列をなして立っていて、くちばしで黄金の魚を捕まえる赤いトキの話。世界と同じくらい古くからあり、砂漠の中に住んでいて、何でも知っているスフィンクスの話。琥珀のロザリオを手にして、ラクダの傍らをゆっくり歩く貿易商人の話。黒檀のように黒い肌をしており、大きな水晶を崇拝している月の山の王の話。シュロの木で眠る緑の大蛇がいて、二十人の僧侶が蜂蜜のお菓子を食べさせている話。広く平らな葉に乗って大きな湖を渡り、蝶といつも戦争しているピグミーの話。

「可愛い小さなツバメさん」王子は言いました。「あなたは驚くべきことを聞かせてくれた。しかし、苦しみを受けている人々の話ほど驚くべきことはない。度しがたい悲しみ以上に解きがたい謎はないのだ。小さなツバメさん、町へ行っておくれ。そしてあなたの見たものを私に教えておくれ」

ツバメはその大きな町の上を飛びまわり、金持ちが美しい家で幸せに暮らす一方で、乞食がその家の門の前に座っているのを見ました。暗い路地に入っていき、ものうげに黒い道を眺めている空腹な子供たちの青白い顔を見ました。橋の通りの下で小さな少年が二人、互いに抱き合って横になり、暖め合っていました。「お腹がすいたよう」と二人は口にしていましたが「ここでは横になっていてはいかん」と夜警が叫び、二人は雨の中へとさまよい出ました。

それからツバメは王子のところへ戻って、見てきたことを話しました。

「私の体は純金で覆われている」と王子は言いました。「それを一枚一枚はがして、貧しい人にあげなさい。生きている人は、金があれば幸福になれるといつも考えているのだ」

ツバメは純金を一枚一枚はがしていき、とうとう幸福の王子は完全に輝きを失い、灰色になってしまいました。ツバメが純金を一枚一枚貧しい人に送ると、子供たちの顔は赤みを取り戻し、笑い声をあげ、通りで遊ぶのでした。「パンが食べられるんだ!」と大声で言いました。

やがて、雪が降ってきました。その後に霜が降りました。通りは銀でできたようになり、たいそう光り輝いておりました。水晶のような長いつららが家ののきから下がり、みんな毛皮を着て出歩くようになり、子供たちは真紅の帽子をかぶり、氷の上でスケートをしました。

かわいそうな小さなツバメにはどんどん寒くなってきました。でも、ツバメは王子の元を離れようとはしませんでした。心から王子のことを愛していたからです。パン屋が見ていないとき、ツバメはパン屋のドアの外でパン屑を拾い集め、翼をぱたぱたさせて自分を暖めようとしました。

でも、とうとう自分は死ぬのだとわかりました。ツバメには、王子の肩までもう一度飛びあがるだけの力しか残っていませんでした。「さようなら、愛する王子様」ツバメはささやくように言いました。「あなたの手にキスをしてもいいですか」

「あなたがとうとうエジプトに行くのは、私もうれしいよ、小さなツバメさん」と王子は言いました。「あなたはここに長居しすぎた。でも、キスはくちびるにしておくれ。私もあなたを愛しているんだ」

「私はエジプトに行くのではありません」とツバメは言いました。「死の家に行くんです。『死』というのは『眠り』の兄弟、ですよね」

そしてツバメは幸福の王子のくちびるにキスをして、死んで彼の足元に落ちていきました。

その瞬間、像の中で何かが砕けたような奇妙な音がしました。それは、鉛の心臓がちょうど二つに割れた音なのでした。ひどく寒い日でしたから。

次の日の朝早く、市長が市会議員たちと一緒に、像の下の広場を歩いておりました。柱を通りすぎるときに市長が像を見上げました。「おやおや、この幸福の王子は何てみすぼらしいんだ」と市長は言いました。

「何てみすぼらしいんだ」市会議員たちは叫びました。彼らはいつも市長に賛成するのです。皆は像を見ようと近寄っていきました。

「ルビーは剣から抜け落ちてるし、目は無くなってるし、もう金の像じゃなくなっているし」と市長は言いました「これでは乞食とたいして変わらんじゃないか」

「乞食とたいして変わらんじゃないか」と市会議員たちが言いました。

「それに、死んだ鳥なんかが足元にいる」市長は続けました。「われわれは実際、鳥類はここで死ぬことあたわずという布告を出さねばならんな」そこで書記がその提案を書きとめました。

そこで彼らは幸福の王子の像を下ろしました。「もう美しくないから、役にも立たないわけだ」大学の芸術の教授が言いました。

溶鉱炉で像を溶かすときに、その金属を使ってどうするかを決めるため、市長は市議会を開きました。「もちろん他の像を立てなくてはならない」と市長は言いました。「そしてその像は私の像でなくてはなるまい」

「いや、私の像です」と市会議員たちがそれぞれ言い、口論になりました。私が彼らのうわさを最後に聞いたときも、まだ口論していました。

「おかしいなあ」鋳造所の労働者の監督が言いました。「この壊れた鉛の心臓は溶鉱炉では溶けないぞ。捨てなくちゃならんな」心臓は、ごみために捨てられました。そこには死んだツバメも横たわっていたのです。

神さまが天使たちの一人に「町の中で最も貴いものを二つ持ってきなさい」とおっしゃいました。その天使は、神さまのところに鉛の心臓と死んだ鳥を持ってきました。

神さまは「よく選んできた」とおっしゃいました。「天国の庭園でこの小さな鳥は永遠に歌い、黄金の都でこの幸福の王子は私を賛美するだろう。」

<版権表示>

Copyright (C) 2000 Hiroshi Yuki (結城 浩)
本翻訳は、この版権表示を残す限り、訳者および著者にたいして許可をとったり使用料を支払ったりすること一切なしに、商業利用を含むあらゆる形で自由に利用・複製が認められます。

プロジェクト杉田玄白正式参加作品。

<版権表示終り>

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2006年12月14日 (木)

サンタクロースの住む部屋

  今日は、夜になってブログを更新しています。タイトルと直結しないと思いますので、説明を前置きさせていただきます。今日は、本を通して築かれる心の部屋にサンタが住むのだということが書かれている文章ですから比喩ということになりましょか。でも、初めてこのメールをいただいたときから、おりにふれて浮かんでくるすてきな文章なのです。友人に感謝しつつ、紹介させていただきます。

本を通して築かれる心の中の部屋 ーある友人のメールからー
   暉峻淑子さんが2人のお子さんになさった読み聞かせの話を書かせていただきます。ご存じのことと思いますが、暉峻さんは岩波新書『豊かさとはなにか』、『豊かさの条件』福音館書店、『サンタクロースって本当にいるの』の著者でもある経済学者です。現在は、ユーゴの難民支援のためのNGO活動を精力的にされている方、1928年生まれです。

 暉峻さんのモットーは「読書を強制しない」ことです。

 わたしの心に残っていたことは、暉峻家には、いつも子供のための本が選ばれ用意されていたこと。子供に「本を読んで」と言われたら、どんなに忙しくても、やりかけの仕事を放りだしても、当然のことのように本を読み聞かせていらしたことです。
 暉峻さんの膝の上に後ろ向きになって、座って本を見ていた子が遊びだしても、また膝の上に戻ってくることを知っておられるので、ボタン付けなどの仕事をして子供を待たれたようです。

 後半のサンタクロースに関する引用文にも惹かれました。
 松岡享子さんの「サンタクロースの部屋」(こぐま社)のなかのアメリカの児童文学評論誌の引用。

   サンタクロースその人は、いつかその子の心の外へ出ていってしまうだろう。だが、サンタクロースがしめていた心の空間は、その子の中に残る。この空間があるかぎり、人は成長に従って、サンタクロースにかわる新しい住人を、ここに迎えることができる。・・・・のちに、いちばん崇高なものを宿すかもしれぬ心の場所が、実は幼い日にサンタクロースを住まわせることによってつくられるのだ。・・・本当らしく見せかけることによってつくられる本当と、本当だと信じることによって生まれる本当を、子供はそれなりに区別・・・

 上記の松岡さんの文への暉峻さんのコメントの引用。

 子供達は、本を通して、サンタクロースに限らず、いろいろな不
  思議、言葉のもつ深く多面的な意味、そのリズム、目に見えないも
  のを信じる力・・などを心の中に住まわせる部屋(キャパシティ)
  をつくっていくのだ・・・・

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2006年12月13日 (水)

人魚姫

  今日も、昨日ご紹介したサイト「福娘童話集」のお世話になって、アンデルセンの「人魚姫」を掲載させていただきます。

  実は、「人魚姫」のどこにもクリスマスは出てこないので、番外編ということになるのですが、代表作といわれる名作は、クリスマスプレゼントに成り得るということで、お許しください。

深い深い海の底に、サンゴの壁と琥珀(コハク)のまどのお城があります。
 そのお城は、人魚の王さまのお城です。
 王さまには六人の姫がいて、その中でも、とりわけいちばん末の姫はきれいでした。
 肌はバラの花びらのようにすきとおり、目は深い海のように青くすんでいます。
 人魚たちの世界では、十五歳になると海の上の人間の世界を見にいくことを許されていました。
 末っ子の姫は、お姉さんたちが見てきた人間の世界のようすを、いつも胸ときめかして聞いています。
「ああ、はやく十五歳になって、人間の世界を見てみたいわ」
 そうするうちに、いちばん末の姫もついに十五歳をむかえ、はれて海の上に出る日がきました。
 喜んだ姫が上へ上へとのぼっていくと、最初に目に入ったのは大きな船でした。
 船の中はパーティーをしていて、にぎやかな音楽が流れるなか、美しく着かざった人たちがダンスをしています。
 その中に、ひときわ目をひく美しい少年がいました。
 それはパーティーの主役の王子です。
 そのパーティーは、王子の誕生パーティーだったのです。
「すてきな王子さま」
 人魚姫は夜になっても、波の間からうっとりと王子のようすを見つめていました。
と、突然、海の景色が変わりました。
 稲光が走ると、風がふき波がうねりはじめたのです。
 水夫たちがあわてて帆(ほ)をたたみますが、あらしはますます激しくなると、船は見るまに横倒しになってしまいました。
 人びとが海にほうり出されます。
「大変! 王子さまー!」
 人魚姫は大急ぎで王子の姿をさがしだすと、ぐったりしている王子のからだをだいて、浜辺へと運びました。
「王子さま、しっかりして。王子さま」
 人魚姫は王子さまをけんめいにかんびょうしました。
 気がつくと、朝になっていました。
 そこへ、若い娘が走ってきます。
「あっ、いけない」
 人魚姫はビックリして海に身をかくしました。
 すると、娘は王子に気がついて、あわてて人をよびます。
 王子はそのとき、息をふきかえしました。
「あ、ありがとう。あなたがわたしを助けてくれたんですね」
 王子はそして目の前にいる娘を、命の恩人とかんちがいしてしまいました。
 人魚姫はションボリして城に帰ってきましたが、どうしても王子のことが忘れられません。
「人間になれば、王子さまにまた会えるかもしれない」
 そこで、魔女のところへ出かけると、人間の女にしてくれるようたのみました。

 魔女は願いを聞くと、こう答えました。
「わたしの力を持ってすれば、人魚のしっぽを人間のような足にかえることはできるよ。でも、そのかわりに足はあるくたびにナイフをふむようにいたむよ。それと、もしおまえが王子と結婚できなかったら、 二度と人魚には戻れない。いや、それどころか心臓が破れて、海のあわになっちまうんだ。それでもいいね」
「いいわ。王子さまといっしょにいられるのなら」
「それから、ねがいをかなえるほうびに、おまえの声をもらうよ。おまえの声は、海の世界でいちばんうつくしいと評判だからね」
「いいわ」
 そして人魚姫は、口のきけない身となって人間の世界へ戻り、王子の城をたずねました。
 王子は人魚姫をひと目見て気に入り、妹のようにかわいがりました。
 しかし王子の心は、命の恩人と思いこんでいる、あの浜辺で会った娘にうばわれていたのです。
 やがて王子と娘は、結婚式をあげることになりました。
 ふたりは船に乗りこむと、新婚旅行に向かいます。
 王子と結婚できなかった姫は、つぎの日の朝、海のあわになってしまうのです。
 しかし、人魚姫はどうすることもできません。
 ただ、船の手すりにもたれているばかりでした。
 そのとき、波の上にお姉さんたちが姿を見せました。
「魔女から、あなたのためにナイフをもらってきたわ。これで王子の心臓(しんぞう)をさしなさい。そしてその血を足にぬるのです。そうすれば、あなたは人魚に戻れるのよ」
 人魚姫はナイフを受け取ると、王子の眠る寝室へと入っていきました。
「王子さま、さようなら、わたしは人魚にもどります」
 人魚姫は王子のひたいにお別れのキスをすると、ナイフをひといきに突き立てようとしました。
「・・・・・・」
 でも、人魚姫には、愛する王子を殺すことができません。
 人魚姫はナイフを投げ捨てると、海に身を投げました。
 波にもまれながら人魚姫は、だんだんと自分のからだがとけて、あわになっていくのがわかりました。
 そのとき、海からのぼったお日さまの光の中を、すきとおった美しいものが漂っているのが見えました。
 人魚姫も自分が空気のように軽くなり、空中にのぼっていくのに気づきました。
「わたしはどこにいくのかしら」
 すると、すきとおった声が答えます。
「ようこそ、空気の精の世界へ。あなたは空気の精になって、世界中の恋人たちを見守るのですよ」
 人魚姫は自分の目から、涙が一しずく落ちるのを感じながら、風ともに雲の上へとのぼっていきました。

おしまい

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2006年12月12日 (火)

「もみの木」アンデルセン

 サイト「福娘童話集」のお世話になって、アンデルセンの童話「もみの木」を紹介させていただきます。「続きを読む」のアンデルセンの紹介も同じサイトから転載させていただきました。

http://hukumusume.com/douwa/pc/world/12/16.htm

このサイトは、一年中毎日童話が紹介されており、また、毎日の誕生花と花言葉が紹介されているコーナーもあり、感服しています。お世話になり、ありがとうございます。

もみの木
アンデルセン童話 

 むかしむかし、ある森の中に、小さいもみの木がありました。
「あっ、ぼくの頭の上をまた、ウサギがとびこした。いやだな、はやく大きくなりたいな」
 もみの木は、上を見あげては大きい木をうらやましいと思いました。
 お日さまが、それを見ていいました。
「あせらないで、いつかいやでも大きくなるさ。それよりも、若い時をだいじにするといいよ」
 でも、小さいもみの木には、その意味がよくわかりません。
 クリスマスが近づくと、森の若い木が、つぎつぎにきられました。
「ねえ、スズメさん、あの木たちはどこへいくんだい?」
「あれは、クリスマス・ツリーになるのさ。キラキラしたモールや玉でかざられて、そりゃあ、きれいになるのさ」
「ふうん。ぼくも、はやくそんなふうになりたいなあ」
 それを聞いて、お日さまはいいました。
「このひろびろとした森で、おまえは若い時を、楽しんでおくといいよ」
 やがて、もみの木は大きくなり、美しいえだをひろげました。
 とうとう、ある年の冬、きこりがこのもみの木に目をとめました。
「やあ、クリスマス・ツリーにぴったりだ」
 もみの木はきられて、町に運ばれ、ある家に買われました。
 絵やおき物のあるりっぱな広問に、もみの木はおかれました。
「さあ、ツリーをかざろう、きれいにかざろう」
 子どもたちのはしゃぐ声が聞こえます。
 もみの木は、むねがドキドキしてきました。
「あっ、鈴がついたぞ。ロウソクもともった。サンタクロースの人形もいる。星もあるぞ」
 自分につけられるかざりに、もみの木は目をみはりました。
「メリー・クリスマス!」
 子どもたちは、ツリーのまわりで歌ったり、おどったり、そのにぎやかなこと。
 そして、みんなでクリスマスプレゼントのつつみをひらきました。
「わあい、いいな、うれしいな」
「これ、わたし、ほしかったの」
 しばらくして、子どもたちは、ツリーのかざりもわけてもらいました。
 鈴だの、モールだの、それぞれがすきなものをもらいました。
 つぎの朝、この家の使用人が、えだだけになったもみの木を屋根裏部屋にかたづけました。
「暗いし、ひとりでさびしいな。それに寒い」
 もみの木が、ブルッと身ぶるいした時です。
 ネズミがとび出してきました。
「あっ、もみの木さんだ。クリスマスはおわったね。ぼくたちに昨日の話を聞かせてよ」
「うん、じゃあ、聞いてね」
 もみの木は、少し元気が出てきました。
 クリスマスの話をいろいろしたあと、自分が育った森のこともはなしました。
「おもしろいね。それで? それから?」
 ネズミたちは、熱心に耳をかたむけました。
 でも、いく日かすると、あきてきて、
「もっとベつの話がいいよ。ベーコンやチーズがあるところはどこかとか」
「そんなことは、ぼく、知らないんだ」
「つまんないの、じゃあね」
 ネズミたちは、どこかへいってしまいました。
 もみの木は、また、ひとりぽっちです。
 ある日、使用人が屋根裏部屋にあがってきました。
 もみの木は、ひきずられて中庭へ出されました。
「ああ、花がさいている。鳥も歌っている。やっぱり外の空気はいいなあ。何かいいことが、おこりそうだ」
 もみの木は喜びましたが、それどころではありません。
 もみの木は、コーン、コーンと、いきなりオノできられて、まきにされてしまったのです。
 まきになったもみの木は、台所のかまどにくベられて、パシパシともえはじめました。
「ああ、何もかもおしまいだ。お日さまが若い時をだいじにしろといったのは、こういうことだったんだ」
 もみの木は、ふかいため息をつき、音をたててもえていきました。

おしまい

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2006年12月11日 (月)

クリスマスと映画

 クリスマスには視覚的にもストーリー的にも絵になりやすい面があるので、小説や映画の舞台として登場する機会が多いように思われます。「ホーム・アローン」はよく知られているシリーズですね。私などより映画に造詣の深い方は多いのですが、私の思い出、記憶に残っている映画について書かせていただきます。

 「シェルブールの雨傘」・・・全部の台詞が歌われる、けれどミュージカルというふれこみではなかったような気がします。記憶が曖昧で申し訳ありませんが、ラストシーンは雪の降るクリスマスの夜のガソリンスタンド・・・結婚することの出来なかった恋人が思いがけず再会して、そして別れていく場面が美しくも哀しいフランス映画でした。「五つの銅貨」・・・アメリカ映画には、実在のミュージックバンドのリーダーの人生を描いたシリーズがありますが、「五つの銅貨」はコルネット奏者レッド・ニコラスが率いるバンドの名前でもありました。主演のダニー・ケイがルイアームストロングと歌う♪「聖者の行進」や、ダニーケイの奥さんが作曲した主題歌は、別々に歌われた子守歌と見事なデュエットになるという作りで心に残っています。確か、この映画の中に人気バンドゆえにクリスマスの夜も家族で過ごせず、娘が大病になってしまう場面がありました。
ミュージックバンドのリーダーを描いた映画には、「グレン・ミラー物語」や「ベニーグッドマン物語」などがありますが、エディ・デューチンを描いた「愛情物語」は、カーメン・キャバレロの名演奏がショパンのノクターンをアレンジした主題曲「To Love Again」とよくマッチして、懐かしい映画となっています。この映画でキム・ノヴァクの演ずる妻がこの世を去るのがクリスマスの夜でした。タイロン・パワー・ジュニアが演ずるエディ・デューチンが一人たたずみながら涙声で「メリークリスマス」と叫ぶシーンが今も胸に迫ります。

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2006年12月10日 (日)

♪「きよし この夜」

クリスマスの讃美歌の中でもっとも有名でよく歌われるのは、このうたではないでしょうか。

「聖夜(せいや)」

「きよしこのよる」

由木康作詞・グルーバー作曲


きよしこの夜 星は光り
すくいの御子
(みこ)は 御母(みはは)の胸に
ねむりたもう 
夢やすく

きよしこの夜 御告
(みつげ)受けし
羊飼いらは 御子の御前(みまえ)
ぬかずきぬ かしこみて

きよしこの夜 御子の笑みに
めぐみの御代
(みよ)の 朝(あした)の光
(かがや)けり ほがらかに




古い版では一番の歌詞は「御母の胸に」で、50年ほど前に讃美歌が改訂されて「まぶねの中に」となりました。「夢やすく」も同じ時に「いとやすく」となっています。二番の「羊飼いらは」は「牧人(まきびと)たちは」でした。

【この曲の由来】 
 フランツ・グルーバーが聖ニコラス教会のオルガニストだった頃、聖ニコラス教会のヨーゼフ・モール牧師と親交があり、クリスマス前に「クリスマスの真の歌を作りたい」とグルーバーが提案し、二人は意気投合しました。 1818年12月25日午前4時までかかってモールが詞を書き上げ、朝9時まで寝て、詩をグルーバー届けました。しばらくしてグルーバーは楽譜を聖ニコラス教会に届けに行きました。 あいにくその朝は教会のオルガンが故障していたため、グルーバーは壁のギターを取り、モール牧師に歌って聴かせ、二人で3度の和声で歌いました。礼拝の始まる30分前のことでした。礼拝ではグルーバーが歌い、聖歌隊がこれを繰り返しました。

 他の教会の人が聖ニコラス教会を訪れ、この曲の素晴らしさに感動し、楽譜を写して各地の教会に紹介しました。その際に作詞者と作曲者の名前が書かれていなかったため、長い間作者不明でした。

 F.J.ハイドンか、弟のJ.M.ハイドンの作曲ではないかと思われていましたが、1854年にベルリンの宮廷礼拝堂が調べたところ、サルツブルグの聖ペテロ教会の聖歌隊員フェリックス・グルーバーが、その父フランツの作曲であることを証し、二人の作であることがが判りました。

 オーストラリアでは記念切手が発行されたそうです。その写真などごらんになりたい方はhttp://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/3902/christmas/x_carol.html

をごらんください。上記の紹介文もこのページを引用させていただきました。

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2006年12月 9日 (土)

『サンタクロースっているんでしょうか』

この本をご紹介したいと思い、インターネットで検索したら
ニューヨークの遊び方というページ
http://nyliberty.exblog.jp/3819355/に原文と和訳が掲載されていました。感謝しつつ以下に引用させていただきます。

 ご存知の方もたくさんいらっしゃると思いますが、今から100年以上も前のお話です。ニューヨークに住む、8歳の女の子が新聞社(The New York Sun)に出した「サンタクロースっているんでしょうか?」という一通の質問の手紙に、ベテラン編集者のFrancis P. Churchさんはとても素敵なお返事を書きました。しかも、同紙の社説で、です!この社説の文章は、最初に掲載された1897年からその後毎年、1949年にThe New York Sunが休刊するまで再掲載され続けました。今日はこの大きな話題と感動を呼んだ素敵な社説をご紹介します。

まずは事の発端となった8歳の女の子からの手紙をどうぞ・・・。

Dear Editor—

I am 8 years old. Some of my little friends say there is no Santa Claus. Papa says, “If you see it in The Sun, it’s so.” Please tell me the truth, is there a Santa Claus?

Virginia O’Hanlon

(和 訳)
編集長さま、わたしは8才です。わたしの友だちにはサンタクロースなんていないんだといっている子がいます。お父さんは「サン新聞に問い合わせてごらん。新聞社のひとがサンタクロースがいるというなら、たしかにいるんだろう」と、いいました。ほんとうのことをおしえてください。サンタクロースって、ほんとうに、いるんでしょうか?

後に大人になったバージニアちゃんは当時の経緯をこう回想しています。

「私の家庭では、単語の発音や歴史の事実など、どのような疑問でもサン新聞の質問と答えのコラム(Question and Answer column)に手紙を送る習慣がありました。父はサン新聞がそう言うなら、確かにそうなのだろう、というのが口癖でしたし、いつもそうして疑問を解決してきました。だから、このときもいつもの通り、父にサン新聞に聞いてみることにしたのです。父は、『それはいい、サン新聞は正しい答えをいつものように教えてくれるはずだよ』と私に言ったのです。」

なんとまぁ、お父さんは8歳の女の子に、分からないことがあったら新聞社のコラムに質問の手紙を出すように普段から言い聞かせてきたのですね。これはこれで色んな意味で凄いなと思います。ということはバージニアちゃんはいつも新聞を読んでたということですからね、8歳で!子ども電話相談室みたいな感じになっていたサン新聞もたいしたものですね。まさかそこまで頼りにされているとは新聞社の方々も考えてなかったんじゃないでしょうか(笑)

さて、それでは、この「サンタさんっているんでしょうか?」という質問にサン新聞が何て答えたのかみてみましょう。

Virginia, your little friends are wrong. They have been affected by the skepticism of a skeptical age. They do not believe except they see. They think that nothing can be which is not comprehensible by their little minds. All minds, Virginia, whether they be men’s or children’s, are little. In this great universe of ours, man is a mere insect, an ant, in his intellect as compared with the boundless world about him, as measured by the intelligence capable of grasping the whole of truth and knowledge.

(和 訳)
バージニア、あなたのお友だちは間違っています。疑い深い年頃に特有の疑い深さの影響を受けているのです。見えるものしか信じないのです。そのちいさな頭で理解できるもの以外は存在しないと思っているのですよ。バージニア、すべての人々の考えは、それが大人であっても子どもであっても、小さなものなのです。真実や知識の全てを把握するだけの知性によって測れば、この広い世界の中で、人は単なる昆虫、そう、まるでアリのような知性しか持ち合わせていないのです。

Yes, Virginia, there is a Santa Claus. He exists as certainly as love and generosity and devotion exist, and you know that they abound and give to your life its highest beauty and joy. Alas! how dreary would be the world if there were no Santa Claus! It would be as dreary as if there were no Virginias. There would be no childlike faith then, no poetry, no romance to make tolerable this existence. We should have no enjoyment, except in sense and sight. The external light with which childhood fills the world would be extinguished.

(和 訳)
バージニア、サンタクロースはいるのですよ。目には見えないけれど、愛や、優しさや、誰かのために尽くす気持ちが存在するのと同じように。あなたもこういったことがどんなに豊かなもので、あなたの人生に最高の美しさと喜びを与えてくれることを知っているでしょう。そうです!もしこの世界にサンタクロースがいなかったら、どんなにつまらないことか!それはこの世にバージニアがいないのと同じほどつまらないことです。そんな世界には、子どもらしい信じる気持も、私たちに生きる望みを与えてくれる詩も夢もありません。目に見えるものにしか、楽しいと感じることがなくなってしまうのです。子ども時代を満たしてくれる外から包み込んでくれる光が消えてしまうことになるのです。

Not believe in Santa Claus! You might as well not believe in fairies. You might get your papa to hire men to watch in all the chimneys on Christmas eve to catch Santa Claus, but even if you did not see Santa Claus coming down, what would that prove? Nobody sees Santa Claus, but that is no sign that there is no Santa Claus. The most real things in the world are those that neither children nor men can see. Did you ever see fairies dancing on the lawn? Of course not, but that’s no proof that they are not there. Nobody can conceive or imagine all the wonders there are unseen and unseeable in the world.

(和 訳)
サンタクロースを信じないなんて!ならば妖精の存在も信じてないのですか。パパにお願いして全ての煙突を見張らせる人を雇い、クリスマスイブにサンタクロースを捕まえようとして、それでもサンタクロースが見つからなかったとしても、サンタクロースは街にやってきているのです。なぜそうだと分かるのかって?サンタクロースを見ることは誰にもできないのです。でも、それでもサンタクロースがいないということにはなりえません。この世で最も本当のことは大人にも子どもにも見えないものなのです。芝生の上で踊っている妖精を見たことはありますか?もちろん、ないですよね、でも、だからと言ってそこに妖精がいないという証拠なんてないのですよ。この世界にある、見えないものや見ることのできないものが持つ不思議な魅力の全てを知っている人も、いや、それら全てを想像できる人ですら、ただの1人も存在しないのです。

You tear apart the baby’s rattle and see what makes the noise inside, but there is a veil covering the unseen world which not the strongest man, nor even the united strength of all the strongest men that ever lived could tear apart. Only faith, poetry, love, romance, can push aside that curtain and view and picture the supernal beauty and glory beyond. Is it all real? Ah, Virginia, in all this world there is nothing else real and abiding.

(和 訳)
あなたが赤ちゃんのガラガラをばらばらにして、ガラガラと音を出すものを見ることができたとしても、まだそこにはベールに包まれた見えない世界があるんです。そしてそのベールは、最強の男が、いや、これまで歴史上最強と言われた人々が束になってかかっても破ることなんてできないのですよ。唯一、信じる心、詩、愛、ロマンスといったものだけが、そのベールを押し開いてその向こうにある言葉に表せないほどの美しさや栄光を見せてくれるのです。えっ、それって本当なのだって?ねぇ、バージニア、この世界には、これ以上に真実で永遠なものなんてないんですよ。

No Santa Claus! Thank God! he lives and lives forever. A thousand years from now, Virginia, nay 10 times 10,000 years from now, he will continue to make glad the heart of childhood.

(和 訳)
サンタクロースがいないなんて!なんてことでしょう!サンタクロースはいるのです。そして、永遠に生き続けることでしょう。バージニア、今から千年後、今から千年の十倍のまた十倍の後になっても、サンタクロースは子どもの心を喜びで満たしつづけるのですよ。

この社説を書いたFrancis P. Churchさんは、New York Timesで南北戦争の報道をカバーした後New York Sunに移り、20年もの経験を持つのベテラン編集者で、当時、社説の論説委員でした。バプティスト派(クリスチャン)の聖職者の父を持っていたこともあり、特に神学に関係した論説に定評があったそうです。バージニアちゃんからの手紙を受け取った彼は、この小さな少女からの素朴な質問に真剣に向かい合い、このお返事を書き上げたのです。

成長したバージニアちゃんは、その後、ニューヨーク市内にあるHunter Collegeを21歳で卒業すると、 Columbia大学の大学院で修士号を取得し、1912年から教壇に立つ先生となりました。最終的には校長先生にまでなり、47年も教育者として活躍しました。1971年5月、81歳で生涯を終えるまで、彼女はこの8歳のときに書いた手紙のことを知った人々から手紙を受け続け、そのお返事には必ずFrancis P. Churchさんの社説のコピーを添付していたそうです。

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2006年12月 8日 (金)

サンタクロース

  皆さんの家には今年もサンタクロースが来ますか?お子さんの成長に合わせてサンタクロースもいろいろな姿を見せると思います。今日は、我が家の二男にまつわるサンタ物語です。

我が家のサンタ物語

◇ ある年のクリスマス ・・・プレゼントを見た二男が心配そうにつぶやきました。「サンタさん、ちゃんとこのプレゼントのお金を払ってもってきてくれたんかなあ。」

  ぱっと見て喜べるように包み紙をとった状態でプレゼントが枕元におかれていたのでした。

◇  その次の年のクリスマス。 ・・・・・・「サンタさんのプレゼントの仕入    れ先が分かった!! 」

 プレゼントは近所のおもちゃ屋さんの包み紙に包まれていたのでした。

◇  その次の年 ・・・文字を覚えた二男はサンタさんに手紙を書きました。「サンタさん、今年の冬はさむいから、このざぶとんをそりにしいてくださいね。」
    サンタからの返事の手紙 ・・・「ほんとうにありがとう。その気持ちだけであたたまったからざぶとんは自分で使ってください。」

 目覚めた二男いわく、「せっかくおいておいたのに、持っていかなんだ。」

◇  さらに、その次の年 ・・・二男の手紙 「サンタさん、去年よりおとしよりになったから、この毛布を使ってください・・・。」
     サンタからの手紙  ・・・  「ありがとう。今年の冬は寒いからいただいていきます・・・・・」

 二男いわく「あー。ほんとにもっていってしまった。」

◇ その次の年・・・プレゼントと一緒にサンタからの手紙がおかれていました。「毎年、たくさん、赤ちゃんが生まれるので、その子たちにプレゼントを届けたいので、なごりおしいけれど来年からは家族で贈り合ってください。・・・・・・・」

 二男いわく「もうサンタさん、来ないんやと・・・・・・・」

    以上が、我が家のサンタ物語です。皆さんのお家にはどんなサンタ物語がありますか。

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2006年12月 7日 (木)

シュトーレン

 今日もちょっと異なるジャンルから・・・ドイツ出身のクリスマスのお菓子、シュトーレンについてです。まずは、インターネットの検索で見つけたシュトーレンの説明です。その1とその2・・・その2は何だか、壮大ですけれど。

その1 「シュトーレン」ってご存知ですか?

中にオレンジピールやドライフルーツ類を入れて、焼いた
お菓子でイーストで発酵した生地を使うようです。
まわりを砂糖でコーティングするから日持ちもするらしい。
何しろ本場ドイツではクリスマス直前の日曜日から数えて
4回前の日曜日から少しずつカットして食べていくのだそうです。
お店や家庭によって製法は違うらしくパン屋さんのは
ドライフルーツを入れたパン(ぶどうパンみたいなのかな?)の
ようで、ケーキ屋さんのものはパウンドケーキのような感じらしい。

その2

シュトーレンの歴史は大変に古く、クリスマス菓子としては1400年代にさかのぼります。■ 最初の’Stollen’シュトーレンと言う文字は、
1474年にドレスデンホッフにあるバートロモイス病院の診療代に、復活祭前の精進食として記されてます。
長い形のパン類を中北部ドイツでは Striezel 又は Struzel と呼び、そのパンが Striezel markt で販売され、その形(白い粉砂糖を振り掛けられ白い塊のような外形)が降誕祭物語に記されている、『むつきに包まれた子供』、を想像させたのでしょう。 これが由来と思われます。「むつき」は「赤ん坊のおしめ、オムツ」の意

又ドイツのザクセン地方の人々は地方語、方言で、この膨らんだ長いパンを、Stolle又は、Stollenと呼んでいました、そこから思い巡らし、’むつき’と名付けたのでしょう。  1450年に、キリスト教会の求めに応じ、ミルク、小麦粉、イースト、バターにレーズン、アーモンド、フルーツを加えザクセンで作られました。1500年、ドレスデンのシュトゥリーツェルマーケットでこのキリストパンが売られました。
1560年に、は36ポンドのシュトーレンをシュトーレン屋さんが1、2個売ってました。1617年に、宗教祭には必要な食べ物(お供え物)になりました。1730年に、画期的なことが起きます、ツァイトハイナーと言うドレスデン市のパン組合長 が、組合をあげて<1800キログラム>という巨大なシュトーレン を作りました。
これには100人のパンマイスターと助手が一週間かかり、オーブンは庭師ペッペルマンという庭マイスターが作りました。歴史的に観るとこのシュトーレンが原型で、今のシュトーレンに発展したのです。
このシュトーレン は長い車列(馬車)を組み、8頭立ての馬車クルマに載せられ王様の食卓へ運ばれました。
シュトーレンの巨大さは、切り口が1,6メーターの太さで、もともと練りに練った設計図どうりでした。この出来事は第二アドヴェント祭の前日にシュトーレン祭フェストとして催され、19世紀に入ってからプログラムの最高調はシュトーレンフェストになりました。

現在はドレスデンシュトーレン愛好会のメンバー達が、第二アドヴェントフェストの土曜日、3000キログラムの巨大なシュトーレンを作ります。シュトーレンフェスト当日、パンマイスターが長さ1,6メーター、重さ12キログラムのシュトーレン専用ナイフで切り分け、ドレスデン市長に渡し試食を願います。ドレスデン市長は最初の一切れを試食し<売る事を許可します。素敵なシュトーレンむすめ<が、ドレスデンシュトーレンの能書きや、云われを専門用語を交え説明します。副市長は見物客の相手をし、シュトーレン娘は観光客に愛嬌を振りまきながら、シュトーレンを売り、ウンチクを述べ、サービスします。このドレスデンシュトーレンフェス トは10年以上の歴史があります。 ドレスデンシュ トーレン愛好会はドレスデン圏内の150からなるドレスデンのパン屋、ケーキ屋で作られたシュトーレンに、ドレスデン製造の保証を与え、注目されるよう品質保証メダルと、管理番号を与えます。愛好会は、由緒あるドレスデンの地で作られたクリスマス菓子である事を、広く世界に知られるようにします。 続きに、我が家にとってのシュトーレンのことを書かせていただきます。

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2006年12月 6日 (水)

♪風に立つライオン

今日は、少し異色ですが、さだまさしの♪「風に立つライオン」を掲載させていただきます。まずは歌詞をご紹介し、あとでお目にかかりましょう。
風に立つライオン

作詩・作曲 : さだまさし

	突然の手紙には驚いたけど嬉しかった
	何より君が僕を怨んでいなかったということが
	これから此処で過ごす僕の毎日の大切な
	よりどころになります ありがとう ありがとう

	ナイロビで迎える三度目の四月が来て今更
	千鳥ヶ淵で昔君と見た夜桜が恋しくて
	故郷ではなく東京の桜が恋しいということが
	自分でもおかしい位です	おかしい位です

三年の間あちらこちらを廻り	その感動を君と分けたいと思ったことが
沢山ありました ビクトリア湖の朝焼け
100万羽のフラミンゴが一斉に翔び発つ時 暗くなる空や
キリマンジャロの白い雪	草原の象のシルエット
何より僕の患者たちの	瞳の美しさ

この偉大な自然の中で病と向かい合えば
神様について	ヒトについて	考えるものですね
やはり僕たちの国は残念だけれど何か
大切な処で道を間違えたようですね


去年のクリスマスは国境近くの村で過ごしました
こんな処にもサンタクロースはやって来ます	去年は僕でした
	闇の中ではじける彼等の祈りと激しいリズム
	南十字星	満天の星	そして天の川

	診療所に集まる人々は病気だけれど
	少なくとも心は僕より健康なのですよ
	僕はやはり来てよかったと思っています
	辛くないと言えば嘘になるけど	しあわせです

あなたや日本を捨てた訳ではなく
僕は「現在」を生きることに思い上がりたくないのです

空を切り裂いて落下する滝のように
僕はよどみない生命を生きたい
キリマンジャロの白い雪	それを支える紺碧の空
僕は風に向かって立つライオンでありたい

くれぐれも皆さんによろしく伝えて下さい
最后になりましたが	あなたの幸福を
心から遠くから	いつも祈っています

おめでとう	さよなら

  この歌には、モデルがおられると聞きました。それについてはお詳しい方におゆずりし、「この偉大な自然の中で病と向かい合えば 神様について ヒトについて考えるものですね  やはり僕たちの国は残念だけれど何か 大切な処で道を間違えたようですね」という歌詞から思うことを書きたいと思います。物質的には豊かなのに心がこれほど貧しい国がほかにあるだろうか、というのが今の日本だという人がいます。さだまさしの歌詞の言わんとするところはこういうことも含んでいるのではないでしょうか、もっと深いかも知れませんけれど。

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2006年12月 5日 (火)

賢者の贈り物

 クリスマスに関連する物語となると、今日ご紹介する『賢者の贈り物』をあげないわけにはいきません。オー・ヘンリーには『最後の一葉』など、すてきな作品がたくさんありますね。

賢者の贈り物

The Gift of the Magi

オー・ヘンリー作
結城浩訳

1ドル87セント。それで全部。しかもそのうち60セントは小銭でした。小銭は一回の買い物につき一枚か二枚づつ浮かせたものです。乾物屋や八百屋や肉屋に無理矢理まけさせたので、しまいに、こんなに値切るなんてという無言の非難で頬が赤くなるほどでした。デラは三回数えてみました。でもやっぱり1ドル87セント。明日はクリスマスだというのに。

これでは、まったくのところ、粗末な小椅子に突っ伏して泣くしかありません。ですからデラはそうしました。そうしているうちに、人生というものは、わあわあ泣くのと、しくしく泣くのと、微笑みとでできており、しかも、わあわあ泣くのが大部分を占めていると思うようになりました。

この家の主婦が第一段階から第二段階へと少しづつ移行している間に、家の様子を見ておきましょう。ここは週8ドルの家具付きアパートです。全く筆舌に尽くしがたいというわけではないけれど、浮浪者一掃部隊に気をつけるためにアパートという名前をつけたに違いありません。

階下には郵便受けがありましたが手紙が入る様子はなく、呼び鈴はありましたが人間の指では鳴らせそうもありません。その上には「ミスター・ジェームズ・ディリンガム・ヤング」という名前が書かれた名刺が貼ってありました。

その「ディリンガム」の文字は、その名の持ち主に週30ドルの収入があった繁栄の時代にはそよ風にはためいてきました。でもいまや収入は20ドルに減ってしまい、文字たちはもっと慎ましく謙遜な「D」一文字に押し縮めようかと真剣に考えているようでした。しかし、ジェームズ・ディリンガム・ヤング氏が家に帰って二階のアパートに着くと、すでにデラとしてご紹介済みのジェームズ・ディリンガム・ヤング夫人が、「ジム」と呼びながら、いつでもぎゅうっと夫を抱きしめるのでした。これはたいへん結構なことですね。

デラは泣くのをやめ、頬に白粉をはたくのに意識を集中させました。デラは窓辺に立ち、灰色の裏庭にある灰色の塀の上を灰色の猫が歩いているのを物憂げに見ました。明日はクリスマスだというのに、ジムに贈り物を買うお金が1ドル87セントしかありません。何月も何月もコツコツとためてきたのに、これがその結果なのです。週20ドルでは、大したことはできません。支出はデラが計算した以上にありました。支出というものはいつだってそういうものでした。ジムへの贈り物を買うのに1ドル87セントしかないなんて。大切なジムなのに。デラは、ジムのために何かすばらしいものをあげようと、長い間計画していたのです。何か、すてきで、めったにないもの ―― ジムの所有物となる栄誉を受けるに少しでも値する何かを。

その部屋の窓と窓の間には姿見の鏡が掛けられていました。たぶんあなたも8ドルの安アパートで見たことのあるような姿見でした。たいそう細身で機敏な人だけが、縦に細長い列に映る自分をすばやく見てとって、全身像を非常に正確に把握することができるのでしょう。デラはすらっとしていたので、その技術を会得しておりました。

急にデラは窓からくるりと身をひるがえし、その鏡の前に立ちました。デラの目はきらきらと輝いていましたが、顔は20秒の間、色を失っていたのでした。デラは手早く髪を下ろし、その長さいっぱいまで垂らしました。

さて、ジェームズ・ディリンガム・ヤング家には、誇るべき二つのものがありました。一つはジムの金時計です。かつてはジムの父、そしてその前にはジムの祖父が持っていたという金時計。もう一つはデラの髪でした。シバの女王が通風縦孔の向こう側のアパートに住んでいたとしましょう。ある日、デラが窓の外にぬれた髪を垂らして乾かそうとしたら、それだけで、女王様の宝石や宝物は色あせてしまったことでしょう。また、ソロモン王がビルの管理人をやっていて、宝物は地下室に山積みしていたとしましょう。ジムが通りがかりに時計を出すたび、王様はうらやましさのあまり、ひげをかきむしったことでしょう。

さて、そのデラの美しい髪は褐色の小さな滝のようにさざなみをうち、輝きながら彼女のまわりを流れ落ちていきました。髪はデラの膝のあたりまで届き、まるで長い衣のようでした。やがてデラは神経質そうにまた手早く髪をまとめあげました。ためらいながら1分間じっと立っていました。が、そのうちに涙が一粒、二粒、すりきれた赤いカーペットに落ちました。

デラは褐色の古いジャケットを羽織り、褐色の古い帽子をかぶりました。スカートをはためかせ、目にはまだ涙を光らせて、ドアの外に出ると、表通りへ続く階段を降りていきました。

デラが立ち止まったところの看板には、「マダム・ソフロニー。ヘア用品なら何でも。」と書いてありました。デラは階段を一つかけのぼり、胸をどきどきさせながらも気持ちを落ち着けました。女主人は大柄で、色は白すぎ、冷ややかで、とうてい「ソフロニー」という名前のようには見えませんでした。

「髪を買ってくださいますか」とデラは尋ねました。

「買うさ」と女主人は言いました。「帽子を取って見せなさいよ」

褐色の滝がさざなみのようにこぼれ落ちました。

「20ドル」手馴れた手つきで髪を持ち上げて女主人は言いました。

「すぐにください」とデラは言いました。

ああ、それから、薔薇のような翼に乗って2時間が過ぎていきました。 …なんて、使い古された比喩は忘れてください。デラはジムへの贈り物を探してお店を巡っておりました。

そしてとうとうデラは見つけたのです。それは確かにジムのため、ジムのためだけに作られたものでした。それほどすばらしいものはどの店にもありませんでした。デラは全部の店をひっくり返さんばかりに見たのですから。それはプラチナの時計鎖で、デザインはシンプルで上品でした。ごてごてした飾りではなく、素材のみがその価値を主張していたのです ―― すべてのよきものがそうあるべきなのですが。その鎖は彼の時計につけるのにふさわしいとまで言えるものでした。その鎖を見たとたん、これはジムのものだ、とデラにはわかりました。この鎖はジムに似ていました。寡黙だが、価値がある ―― この表現は鎖とジムの両者に当てはまりました。その鎖には21ドルかかり、デラは87セントをもって家に急いで帰りました。この鎖を時計につければ、どんな人の前でもちゃんと時間を気にすることができるようになるでしょう。時計はすばらしかったのですが、鎖の代わりに古い皮紐をつけていたため、ジムはこそこそと見るときもあったのです。

デラが家に着いたとき、興奮はやや醒め、分別と理性が頭をもたげてきました。ヘアアイロンを取り出し、ガスを着けると、愛に気前の良さを加えて生じた被害の跡を修繕する作業にかかりました。そういうのはいつも大変な仕事なのですよ、ねえあなた ―― とてつもなく大きな仕事なのですよ。

40分のうちに、デラの髪は小さく集まったカールで覆われました。髪型のせいで、まるで、ずる休みした学童みたいに見えました。デラは、鏡にうつる自分の姿を、長い間、注意深く、ためつすがめつ見つめました。

「わたしのことを殺しはしないだろうけれど」とデラは独り言をいいました。「ジムはわたしのことを見るなり、コニーアイランドのコーラスガールみたいだって言うわ。でもわたしに何ができるの ―― ああ、ほんとうに1ドル87セントで何ができるっていうの?」

7時にはコーヒーの用意ができ、フライパンはストーブの上にのり、チョップを焼く準備ができました。

ジムは決して遅れることはありませんでした。デラは時計の鎖を手の中で二重に巻き、彼がいつも入ってくるドアの近くのテーブルの隅に座りました。やがて、ジムがはじめの階段を上ってくる足音が聞こえると、デラは一瞬顔が青ざめました。デラは毎日のちょっとしたことでも小さな祈りを静かに唱える習慣がありましたが、このときは「神さま。どうかジムがわたしのことを今でもかわいいと思ってくれますように」とささやきました。

ドアが開き、ジムが入り、ドアを閉めました。ジムはやせていて、生真面目な顔つきをしていました。かわいそうに、まだ22歳なのに ―― 彼は家庭を背負っているのです。新しいオーバーも必要だし、手袋もしていませんでした。

ジムは、ドアの内で立ち止まりました。うずらの匂いにじっとしている猟犬と同じように、そのまま動きませんでした。ジムの目はデラに釘付けでした。そしてその目には読み取ることのできない感情が込められていて、デラは恐くなってしまいました。それは憤怒ではなく、驚嘆でもなく、拒否でもなく、恐怖でもなく、デラが心していたどんな感情でもありませんでした。ジムは顔にその奇妙な表情を浮かべながら、ただ、じっとデラを見つめていたのです。

デラはテーブルを回ってジムの方へ歩み寄りました。

「ジム、ねえ、あなた」デラは声をあげました。「そんな顔して見ないで。髪の毛は切って、売っちゃったの。だって、あなたにプレゼント一つあげずにクリスマスを過ごすなんて絶対できないんだもの。髪はまた伸びるわ ―― 気にしない、でしょ? こうしなきゃ駄目だったの。ほら、わたしの髪ってすごく早く伸びるし。『メリー・クリスマス』って言ってよ、ジム。そして楽しく過ごしましょ。どんなに素敵な ―― 綺麗で素敵なプレゼントをあなたに用意したか、当てられないわよ」

「髪を切ったって?」とジムは苦労しつつ尋ねました。まるで、懸命に頭を働かせても明白な事実にたどり着けないようなありさまでした。

「切って、売っちゃったの」とデラは言いました。「それでも、わたしのこと、変わらずに好きでいてくれるわよね。髪がなくても、わたしはわたし、よね?」

ジムは部屋をさがしものでもするかのように見まわしました。

「髪がなくなっちゃったって?」ジムは何だか馬鹿になったように言いました。

「探さなくてもいいのよ」とデラは言いました。「売っちゃったの。だから、―― 売っちゃったからなくなったのよ。ねえ、クリスマスイブでしょ。優しくして。髪がなくなったのは、あなたのためなのよ。たぶん、わたしの髪の毛の一本一本まで神様には数えられているでしょうね」デラは急に真面目になり、優しく続けました。「でも、わたしがあなたをどれだけ愛しているかは、誰にもはかることはできないわ。チョップをかけてもいい、ジム?」

ジムはぼうっとした状態からはっと戻り、デラを抱きしめました。さて、それではここで10秒間、趣を変えたささやかな事柄について控え目に吟味をしてみましょう。週8ドルと年100万ドル ―― その違いは何でしょうか。数学者や知恵者に尋ねたら、誤った答えが返って来るでしょう。東方の賢者は高価な贈り物を持ってきましたが、その中に答えはありませんでした。何だか暗いことを申しましたが、ここで述べた言明は、後にはっきりと光り輝くことになるのです。

ジムはオーバーのポケットから包みを取り出すと、テーブルに投げ出しました。

「ねえデラ、僕のことを勘違いしないで。髪型とか肌剃とかシャンプーとか、そんなもので僕のかわいい女の子を嫌いになったりするもんか。でも、その包みを開けたら、はじめのうちしばらく、どうして僕があんな風だったかわかると思うよ」

白い指がすばやく紐をちぎり紙を破りました。そして歓喜の叫びが上がり、それから、ああ、ヒステリックな涙と嘆きへと女性らしくすぐさま変わっていったのです。いそいで、そのアパートの主人が必死になって慰めなければなりませんでした。

包みの中には櫛(くし)が入っていたのです ―― セットになった櫛で、横と後ろに刺すようになっているものでした。その櫛のセットは、デラがブロードウェイのお店の窓で、長い間あがめんばかりに思っていたものでした。美しい櫛、ピュアな亀甲でできていて、宝石で縁取りがしてあって ―― 売ってなくなった美しい髪にぴったりでした。その櫛が高価だということをデラは知っていました。ですから、心のうちでは、その櫛がただもう欲しくて欲しくてたまらなかったのですけれど、実際に手に入るなんていう望みはちっとも抱いていなかったのです。そして、いま、この櫛が自分のものになったのです。けれども、この髪飾りによって飾られるべき髪の方がすでになくなっていたのでした。

しかし、デラは櫛を胸に抱きました。そしてやっとの思いで涙で濡れた目をあげ、微笑んでこう言うことができました。「わたしの髪はね、とっても早く伸びるのよ、ジム!」

そしてデラは火で焼かれた小猫のようにジャンプして声をあげました。「きゃっ、そうだ!」

自分がもらう美しい贈り物をジムはまだ見ていないのです。デラは手のひらに贈り物を乗せ、ジムに思いを込めて差し出しました。貴金属の鈍い光は、デラの輝くばかりの熱心な気持ちを反射しているかのようでした。

「ねえ素敵じゃない? 町中を探して見つけたのよ。あなたの時計にこの鎖をつけたら、一日に百回でも時間を調べたくなるわよ。時計、貸してよ。この鎖をつけたらどんな風になるか見たいの」

デラのこの言葉には従わず、ジムは椅子にどさりと腰を下ろし、両手を首の後ろに組んでにっこりと微笑みました。

「ねえデラ。僕達のクリスマスプレゼントは、しばらくの間、どこかにしまっておくことにしようよ。いますぐ使うには上等すぎるよ。櫛を買うお金を作るために、僕は時計を売っちゃったのさ。さあ、チョップを火にかけてくれよ」

東方の賢者は、ご存知のように、賢い人たちでした ―― すばらしく賢い人たちだったんです ―― 飼葉桶の中にいる御子に贈り物を運んできたのです。東方の賢者がクリスマスプレゼントを贈る、という習慣を考え出したのですね。彼らは賢明な人たちでしたから、もちろん贈り物も賢明なものでした。たぶん贈り物がだぶったりしたときには、別の品と交換をすることができる特典もあったでしょうね。さて、わたくしはこれまで、つたないながらも、アパートに住む二人の愚かな子供たちに起こった、平凡な物語をお話してまいりました。二人は愚かなことに、家の最もすばらしい宝物を互いのために台無しにしてしまったのです。しかしながら、今日の賢者たちへの最後の言葉として、こう言わせていただきましょう。贈り物をするすべての人の中で、この二人が最も賢明だったのです。贈り物をやりとりするすべての人の中で、この二人のような人たちこそ、最も賢い人たちなのです。世界中のどこであっても、このような人たちが最高の賢者なのです。彼らこそ、本当の、東方の賢者なのです。

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2006年12月 4日 (月)

マッチ売りの少女

  童話というと希望と夢を与えてくれるものという先入観があるのですが、必ずしもそうではないのですね。アンデルセンの童話にもハッピーエンドといえないもの、暗い色彩で描かれたものがあります。けれど、読む子ども、大人に哀しみや不条理に倒れないで人生に立ち向かっていこうという力を湧き上がらせる何かがあるように思います。だからこそ読み継がれているのですよね。

 それでは、今日もホームページ「福娘の童話集」

http://hukumusume.com/douwa/pc/world/itiran/12gatu.htm

から、『マッチ売りの少女』のあらすじを引用させていただきます。

 むかしむかし、雪の降りしきる大みそかの晩。
 みすぼらしい服をきた、マッチ売りの少女が、寒さにふるえながら、一生けんめい通る人によびかけていました。
「マッチはいかが。マッチはいかがですか。だれか、マッチを買ってください」
 でも、だれも立ち止まってくれません。
「おねがい、一本でもいいんです。だれか、マッチを買ってください」
 きょうはまだ、一本も売れていません。
 場所を変えようと、少女が歩きはじめたときです。
 目の前を一台の馬車が走りぬけました。
 危ない!
 少女はあわててよけようとして、雪の上にころんでしまい、そのはずみにくつを飛ばしてしまいました。
 お母さんのお古のくつで、少女の足には大きすぎましたが、少女の持っている、たった1つのくつなのです。
 少女はあちらこちらさがしましたが、どうしても見つかりません。
 しかたなく、はだしのままで歩きだしました。
 冷たい雪の上をいくうちに、少女の足はぶどう色に変わっていきました。
 しばらくいくと、どこからか肉を焼くにおいがしてきました。
「ああ、いいにおい。・・・おなかがすいたなあー」
 でも、少女は帰ろうとしません。
 マッチが一本も売れないまま家に帰っても、お父さんはけっして家に入れてくれません。
 それどころか、
「この、やくたたずめ!」
と、ひどくぶたれるのです。
 少女は寒さをさけるために、家と家との間にはいってしゃがみこみました。
 それでもじんじんと凍えそうです。
「そうだわ、マッチをすって暖まろう」
 そういって、一本のマッチを壁にすりつけました。
 シュッ。
 マッチの火は、とてもあたたかでした。
 少女はいつのまにか、勢いよく燃えるストーブの前にすわっているような気がしました。
「なんてあたたかいんだろう。ああ、いい気持ち」
 少女がストーブに手をのばそうとしたとたん、マッチの火は消えて、ストーブもかき消すようになくなってしまいました。
 少女はまた、マッチをすってみました。
 あたりは、ぱあーっと明るくなり、光が壁をてらすと、まるでへやの中にいるような気持ちになりました。
 へやの中のテーブルには、ごちそうが並んでいます。
 ふしぎなことに、湯気をたてた、がちょうの丸焼きが、少女のほうへ近づいてくるのです。
「うわっ、おいしそう」
 そのとき、すうっとマッチの火が消え、ごちそうもへやも、あっというまになくなってしまいました。
 少女はがっかりして、もう一度マッチをすりました。
 するとどうでしょう。
 光の中に、大きなクリスマスツリーが浮かびあがっていました。
 枝にはかぞえきれないくらい、たくさんのろうそくが輝いています。
 思わず少女が近づくと、ツリーはふわっとなくなってしまいました。
 また、マッチの火が消えたのです。
 けれども、ろうそくの光は消えずに、ゆっくりと、空高くのぼっていきました。
 そしてそれが、つぎつぎに星になったのです。
 やがてその星の一つが、長い光の尾を引いて落ちてきました。
「あっ、今、だれかが死んだんだわ」
 少女は、死んだおばあさんのことばをおぼえていました。
「星が一つ落ちるとき、一つの魂が神さまのところへのぼっていくんだよ」
 少女はやさしかったおばあさんのことを思い出しました。
「ああ、おばあさんに、あいたいなー」
 少女はまた、マッチをすりました。
 ぱあーっと、あたりが明るくなり、その光の中で大好きなおばあさんがほほえんでいました。
「おばあさん、わたしも連れてって。火が消えるといなくなるなんていやよ。わたし、どこにもいくところがないの」
 少女はそういいながら、残っているマッチを、一本、また一本と、どんどん燃やし続けました。
 おばあさんは、そっとやさしく少女を抱きあげてくれました。
「わあーっ、おばあさんのからだは、とってもあったかい」
 やがて、ふたりは光に包まれて、空高くのぼっていきました。

 新年の朝、少女はほほえみながら死んでいました。
 集まった町の人びとは、
「かわいそうに、マッチを燃やして暖まろうとしていたんだね」
と、いいました。
 少女がマッチの火でおばあさんに会い、天国へのぼったことなど、だれも知りませんでした。

おしまい

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2006年12月 3日 (日)

『クルミ割り人形』

 「クルミ割り人形」はチャイコフスキーのバレエ音楽としてよく知られています。そのもとになったのが、ホフマンという人の書いた物語です。バレエでは主人公の女の子の名前は「クララ」となっていますが、物語ではマリー、あるいはマルシアのようです。

ホフマンの童話

 むかしむかしの、クリスマスの前の晩でした。
 女の子のマリーは、お父さんとお母さんから、とってもすてきなプレゼントをもらいました。
 おいしそうなお菓子、おもちゃのウマ、ネジで動く兵隊(へいたい)さん、それから、とてもすばらしいお城。
 その中で、マリーがいちばん気にいったのは、変なかっこうをしたクルミ割り人形でした。
「あたし、あなたが大好きよ」
 マリーが、クルミ割り人形を抱いて、そういったときです。
 突然そこへ、何十匹ものネズミの大軍が押し寄せてきたのです。
 すると、どうでしょう。
 今まで、ジッとしていた人形たちが動きだして、ネズミの大軍と戦争を始めたではありませんか。
 もちろん、マリーに抱かれていたクルミ割り人形も立ちあがって、いさましく戦いました。
 ところが、ネズミはおおぜいです。
 人形たちは、負けそうになりました。
 そこで思わずマリーは、自分のクツをネズミの大軍に投げつけたのです。
 ネズミたちはビックリして、逃げていきました。
 つぎの晩、また、ネズミの大軍がマリーのへやにやってきました。
「おい、ちびすけ。おれたちにお菓子をよこせ。よこさないと、クルミ割り人形を殺してしまうぞ」
 ネズミたちは、こういってマリーをおどかしました。
 マリーは、クルミ割り人形をしっかり抱いで首をふりました。
 ところが、つぎの晩も、そのつぎの晩も、ネズミたちはやってくるのです。
「ぼくに、刀をかしてください。そうしたら、ネズミたちをやっつけてやります」
 ある晩、クルミ割り人形がいいました。
 そこでマリーが、おもちゃの刀を持たせてやると、クルミ割り人形はネズミの王さまと戦って、とうとう王さまを倒してしまいました。
「刀を貸してくれてありがとう。お礼に、あなたを人形の国に連れていってあげましょう」
 クルミ割り人形は、マリーを楽しい人形の国へ連れて行ってくれたのです。
 朝になって、マリーは家の人にその話をしました。
「マリー、それは、あなたが夢を見ていたのよ」
 お母さんが、いいました。
「そんな、ばかなことがあるはずないじゃないか」
 お父さんも、いいました。
(そうね。夢だったのかも)
 ところが、それから何年かたった、ある日のことです。
 マリーの家に、りっぱな若者がたずねてきました。
 玄関に出たマリーを見ると、若者はやさしい目でほほえみます。
 はじめて見る顔ですが、マリーは、若者とどこかであったような気がしました。
「・・・あなたは、だあれ?」
「わたしは、あなたのおかげで人間にもどることができた、クルミ割り人形です。子どものころネズミののろいをうけて、人形にされてしまいました。でも、あなたがかしてくれた刀でネズミの王さまをたおし、やっと人間になれたのです」
 それを聞いて、マリーは、すっかりうれしくなりました。
「どうか、わたしのお嫁さんになってください」
「はい」
 マリーは若者のお嫁さんになって、銀のウマが引く金の車に乗って、若者といっしょに出かけていきました。
 これはマリーの夢なのか、それとも本当のことなのか、マリーにもわかりません。
 本当なら、すてきですね。おしまい

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2006年12月 2日 (土)

『クリスマス・キャロル』

  今日からしばらくクリスマスに関連のある物語などを、皆様にご紹介するというより私自身が確かめるという思いで掲載させていただきます。

【クリスマス・キャロル】とは・・・

  クリスマス・キャロル (英語Christmas carol) は、キリスト教文化圏において、クリスマス・イヴの夜に人々が歌う「キャロル)」で、「クリスマス聖歌」ともいうような意味である。キリスト教の救世主キリストの誕生を祝い、誕生にまつわる様々な場面や逸話を歌詞にしたうたをいう。

クリスマス・ツリー(ドイツ)
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クリスマス・ツリー(ドイツ)

代表的には、『聖しこの夜 (Holy Night) 』、『荒野の果てに』、『もろびとこぞりて』などがある。クリスマス・イブの夜、教会に集まった子供たちが、街の家々を訪ねて、クリスマス・キャロルをうたう慣習が、欧米にはあり、これを英語では「キャロリング (caroling) 」と言う。

  続きに、物語『クリスマス・キャロル』をインターネットから引用させていただきます。

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2006年12月 1日 (金)

創造主

   この地球上の生物は、創造によってつくられたのでしょうか、それとも進化によって現在のようになってきたのでしょうか。「創造論」と「進化論」は教科書にどのように記述するかという具体的な場面においても大きな論議を巻き起こします。かつてのように進化論一辺倒ではなくなってきているのが世界の趨勢だそうです。進化論を最初に唱えたのは、チャールズ・ダーウインです。彼は、晩年クリスチャンになったそうですが、そのことをもって上記の論争に決着をつけるのはダーウインに大きな役割を押しつけすぎだということになりましょう。少し、問題は広がりますが、科学と宗教について書いてみたいと思います。科学が発達する分、宗教の領域は後退していくという言い方をする人もいますが、科学が進めば進むほど、この世界の整然とした仕組みのすばらしさが明らかになり、科学を通して神様の創造のわざに目が開かれ、創造主として神様を信ずるにいたる人が増えるというケースがむしろ多いのではないかと思います。聖書にはこのように書かれています。

  神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる・・・・・・ ローマ書第1章20節

 「神様を信じているから、病気になっても神様にまかせてお祈りしていれば、薬や手術は使わなくていい。」という考え方もありますが、神様は医学をも発達させることができるように人間を創造してくださっているのだと私は思います。ですから医学の恩恵にあずかり、神様に感謝するのが正しい在り方だと思います。今の医学で解決できない病による苦しみのなかにある方・・・その苦しみについて私などが軽はずみにコメントしてはいけないのですが、次のように書くことをお許しください。その苦しみを神様になぜですかと問いかけ続けることで神様により深く出会っていただければと思います。90歳を越えて現役の医師であり続けるクリスチャンの日野原重明医師の著作なども力を与えてくれるかもしれません。親族の作ったカレンダーは31日分なので、小の月である11月にはご紹介できなかった31日のことばを「続きを読む」で表示させていただきます。月初めの1日の聖書のことばは次のとおりです。これで一か月にわたった「今日の聖書のことば」シリーズの結びとさせていただきます。お読みいただいてありがとうございました。

2006年12月1日
神を信じる人は天国への道を歩いているので、死を恐れません。
箴言 12章28節
In the way of righteousness there is life ; along that path is immortality.
Proverbs 12:28

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