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2007年1月31日 (水)

少年老い易く學成りがたし

 1月も今日までとなりました。「少年老いやすく、學成りがたし。一寸の光陰軽んずべからず。」・・・今の実感は、「老年なお老いやすく、学んだことは忘れ易し。」というところです。

 あるセミナーでは「人の顔は思い浮かぶのに名前がなかなか出てこなくなったというのは心配要りません。それはごく普通のことです。」と安心させた上で「ただし、ご自分の名前が思い出せなくなったら、それはちょっと心配です。」と付け加えられました。

 「細かい文字が読みにくくなった。」と口にしたら、こともなげに「ああ、順調な発達だよ。」と慰めて(?!)くれた人がいました。そのとき、(これからは発達をやめるか、できるだけゆっくり発達したい。)と思いました。

 でも、自分の名前が出てきにくくなったときには、自分に代わって心配してくださる人がいるでしょうし、自分自身はその心配から解放されているようにも思いますので、心配しないことにいたします。

聖書のことば ヨハネによる福音書 第15章16節

 あなたがたがわたし(イエスキリスト)を選んだのではありません。
 わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
 それは、あなたがたが行って実を結び、
 そのあなたがたの実が残るためであり、
 また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、
 父があなたがたにお与えになるためです。

  たとえ、老化が進んで、わたしたちが自分が誰であるかということや、イエス・キリストのことを思い出せなくなったとしても、イエス・キリストのほうでわたしたちを覚えていてくださいます。これは、何と大きな恵みではありませんか。

※ このブログを読んでくださる方には、若い方もおられますから、今日の内容につきあっていただくのは申し訳ない気もします。でも、お許しくださいね。「少年老い易く」、ということに例外はないのだと広い心でお受け止めくださいますように。祝福をお祈りいたします。

    

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2007年1月30日 (火)

なぞること、生み出すこと

 「春の海」という宮城道雄さん作曲の琴と尺八の名曲をご存じの方は多いと思います。この曲をバイオリンとピアノで演奏される場に参加したことがあります。この二人はご夫婦で、奥様がキューバ出身のピアニストでした。私の役割は、ピアノの楽譜の譜めくりでした。

  この「春の海」を弾き始める前、奥様は黙想されました。曲のイメージを心に描いて引き出されるのを常としておられるようです。と、その瞬間、そばにいた私にまで砂浜に打ち寄せる波の音が聴こえたのです。いえ、そう思ったのでした。

  本当に驚きました。下呂の山の中の小学校の体育館で、まさか波の音を聴くことがあろうとは・・・それはピアニストのイメージの中の音であったはずです。

 そのとき思いました。幼い子がピアノを弾き始めるとき、最初は楽譜の音を間違わずに音に置き換えることで精一杯といっていいでしょう。それは、文字を覚え初めの時のなぞりがきに似ています。けれど、書家はなぞり書きをするのでなく、自分の魂の躍動を筆で表現するのでしょう。

 それと同じように、優れたピアニストは、楽譜の音をピアノの上で再現することで精一杯という域を遙かに超えて、その曲に自分の魂を込めてこの世に送り出すのではないでしょうか。

聖書のことば イザヤ書 第44章2節

  あなたを造り、 / あなたを母の胎内にいる時から形造って、 / あなたを助ける【主】はこう仰せられる。 / 「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、 / わたしの選んだエシュルンよ。

※ ヤコブ、エシュルンというのは人名です。この人たちを紹介すると長くなるので、よろしかったら思い切ってご自分の名前を入れてお読みください。神様は、私たち一人一人に命を与えてこの世に送り出してくださっているのです。それは、名演奏家の演奏をはるかにしのぐ神様の創造のみわざです。何と心強いことでしょう。

  私たちの今日語ることば、為すわざ・・・その一つ一つに自分の生き方、真心を込めてこの世に送り出すことができますように。

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2007年1月29日 (月)

過不足なく表現する力

 ある先輩教師は山口誓子に師事した俳人でもあり、次の句が私には印象に残っています。

 雪原を見えざる鉄路つらぬけり

 教師としての歩みにもこの句のようにしっかりとした筋が通っておられる方でした。

 そうそう、次の句もその方の作です。

 女生徒を叱り来て我が寒き椅子

 また、別の大先輩は「書を読めば志ますます高し」とか、「本を読むと出てくる言葉も簡にして要を得たものになる」と端的で深い言葉を聞かせてくださいました。

 もう一つ、「定かなる思想に言葉容易に従う」という言葉も先輩から教えていただいた言葉です。

 私も、冗長にならずに、端的でぴしっとした言葉を力まずして発することができる域にまで達したいです。 道が遠いことが分かってきただけでも進歩でしょうか。

聖書のことば 箴言 第10章14節

知恵のある者は知識をたくわえ、 / 愚か者の口は滅びに近い。

 リビングバイブルという分かりやすさを大切にして意訳をしている聖書では同じ箇所が次のようになっています。

 知恵のある人はことば数が少なく、ばか者は知っていることを洗いざらいしゃべりまくります。 おかげで、余計な心配事をかかえ込むのです。

 ついつい、饒舌(饒舌)になりがちな私には耳の痛いことばです。

 日本では、「沈黙は金、雄弁は銀」とされてきましたが、これからの時代、言葉数にとらわれる必要はないと思いますが、過不足なく思いを伝え合える力は大切に育てていきたいと思います。

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2007年1月28日 (日)

基本と応用

  私は理科系ではなくどちらかと言えば文化系ですが、小学時代に「月世界探検」などのSF物語を読んだり、中学生の時にセットを買ってきて天体望遠鏡を作ったり、高校1年の時にアマチュア無線のライセンスをとるなど、時々理科系へのあこがれをいだいた時期があります。

 そのなごりで、ウインドウズ以外のOSで動くパソコン・・・マッキントッシュや、和製マックと言われたタウンズというパソコン、そしてこれも和製の、そして志の高いOS、トロンプロジェクトの流れを汲む動きにも関心をもっています。いえ、もっていました。

 今は、車の仕組みはあまり分からなくても安全に運転できれば一般のドライバーはそれでいいのだから、パソコンに対しても、パソコンの仕組みはともあれ、それを使ってしたいことができるようになればそれでいいという構えになってきました。整備士になるのでなく、必要に応じて車を運転できればいいのですよね。

 それはともかく、パソコンを動かしているウインドウズの基本ソフトが五年と三か月ぶりに新しくなります。基本ソフト・・・OS(オペレーティング・システム)は、カレーで言うとルーにあたり、ワードや一太郎などのアプリケーション(応用)ソフトは、肉やジャガイモなどの具にあたります。

 OSが変わると、その中で動くソフトもいろいろな変容を迫られます。けれど、パソコンを使って人がしたいことは変わらないと思います。・・・あくまでも人がパソコンに使われるのでなく、人がパソコンを使うのであることを忘れないでいましょう。

 文章を書くことを例にとると、書くための機材はいろいろあります。鉛筆、ボールペン、万年筆、ワードや一太郎などのワープロソフトを活用する場合はキーボード・・・けれど一番もとになるのはそれぞれの人が何を書くのかということではないでしょうか。

  パソコンのいろいろな機能は、ほぼ開発されて飽和状態に達しかけているように思います。けれど、「このことを書きたい」というそれぞれの人の思い、願いは尽きることがありません。というか「私はこれを書きたい」「書かずにはいられない」ということがいつもわき出てくるような一日一日を生きられたらと思います。

聖書のことば  伝道者の書 第3章

3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。

3:12 私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。

3:13 また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。

 インターネットは便利です。でも、パソコンを使わなくても神様に祈りを捧げることは、いつでもどこからでもできます。そのことの大きな恵みを改めて思います。

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2007年1月27日 (土)

脱帽

 学校にお年寄りたちが足を運んで、1年生たちと一緒に遊んでくださいました。お手玉、こま、けんだま、あやとり・・・子どもたちはなれない手つきで、けれど楽しんで習っていました。

 次の週になっても余韻が残り、こままわしに興じている子たちがいます。最初は、そばに近寄らないほうがいい・・・どこにこまがとんでくるか分からないので・・・という感じでしたが、一度成功するとどんどんと上達していく姿には脱帽のほかありません。

 一輪車、竹馬にも、昨日まで乗れなかった子が根気よく挑戦し続け、ある日、突然乗れるようになって顔を輝かせています。

 そういう私は「一輪車に乗れる?」と問いかける子に「二輪車なら乗れるよ」と自転車に乗ったり、「二重跳びできるようになったよ。できる?」という子に「60歳の人が跳んだらろくじゅうとび」などとかわしていますが、一つの手で2個のお手玉に子どもたちと挑戦していたら、まだ自分にも練習効果が現れてくることを発見しました。

 子どもたちに脱帽ばかりしていないで、自分自身も挑戦して成長しつつ人生を歩もうと思います。

聖書のことば 

 幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった。  ルカによる福音書 第2章 40節

 私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。 ペテロの手紙 第二 第3章18節

 今日も何かにおいて成長し、神様に感謝をささげる日となりますように。

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2007年1月26日 (金)

プレッシャーの功罪

  いろいろな場面にプレッシャーはつきものです。でも、そんな中でも大きいプレッシャーがかかる例を考えてみたのですが、いかがでしょう。

 えっ、ただでさえプレッシャーがかかっているのに、ブログでまで、そんな記事、読みたくないよ、ですって・・・でも、まあ、おつきあいください。(

強引)

  まず、思い浮かべたのは、食中毒で入院している患者さんに食事を出す病院給食の担当者です。もし、そこで食中毒を出したら、何を言われるかわからないですよね。でも、私はそうした実例を聞いたことがないので、さすが、プロフェッショナルのわざだなあ、と敬服しています。

 それから、大音楽家、ピアニストを親や親類に持つ娘のピアノ教師として雇われた人・・・しかも、高名なその人たちがレッスンに立ち会ったようですから、よほどの自信がなくては務まりませんね。

 これは、仮の話ではなく、確かワーグナーの関係者をめぐって実際にあった状況なのです。

 でも、日本ではこうした場合「がんばれ」と声をかけるのですが、外国だとこういうそうです。「リラックス」・・・いい言葉です。

 昔の蒸気機関車は、車輪の空転を防ぐため、車体を重く作ってレールにしっかりと動力が伝わるようにしたのでそうです。プレッシャーも、地面に足がめり込むほどしっかりと地に着いた歩みをするのに役立つ面もあるかも知れませんね。

 聖書のことば サムエル記  第一 第17章

17:48 そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。

17:49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。

17:50 こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。

 「ロッキー」というボクサーの映画の第何作かにロッキーの対戦相手がとても強大なので「ロッキーはまるで巨人ゴリヤテに立ち向かう少年ダビデのようです」とアナウンサーが放送する場面があります。その元になっているのがこの聖書の箇所です。

 神様がついておられるのですから、プレッシャーに負けず、安心して今日も前進しましょう。祈りはすぐには状況を変えないかも知れません。けれど、神様はその状況に立ち向かう私たちの構えを変えてくださいます。

 今日も神様に祈り、雄々しく歩む力を与えていただくことができますように。

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2007年1月25日 (木)

鍋物の魅力

 料理には、鮎の塩焼きのように単品で勝負する料理もあれば、カレーのように総合力で食卓に乗る料理もあります。総合力の料理で今の季節、絶大な人気があるのは、何と言っても鍋物でしょう。

  一つ一つの素材のそれぞれがいかんなく力を発揮してかもしだす味わいは、もう言葉では表現できないものがありますね。

 ただし、そうした鍋物が完成するためには決して欠かせないものがあります。それは、何でしょうか。

 それは、熱です。熱源の種類はガス、電気、薪などありますが、いずれにしても熱が加えられなかったら、それぞれの素材はなまのままですから、総合力は生まれてきません。

 これは、人間の個と集団の関係にもいえることではないでしょうか。人の生活には、一人の個人として過ごしているときと集団の一員として存在しているときがあります。人間関係、人間集団がよい形で形成され、総合力を発揮できるためには何が必要でしょうか。

 聖書に「愛の章」と呼ばれているところがあります。

聖書のことば コリント人への手紙 第一 第13章

  13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

  立派なことばも行いも、その動機が愛に根ざしていなければ、何の役にも立たないというのです・・・きびしいですね。でも、これに続く愛を体現しながらこの世での生涯を歩み抜かれた方がイエス・キリストなのです。

 聖書をお持ちの方は、ぜひ、これに続く箇所もお目通しください。
今日も神様の祝福をお祈りいたします。冷えた鍋に素材がむなしく並んでいるのでなく、「神様からの愛」という熱の加わった人生となりますように。

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2007年1月24日 (水)

ドーナッツの見方

 「ドーナッツ化現象」ということばがあるように、たいていのドーナッツには穴が開いています。このドーナッツを用いてこんな話をした人がいます。

  大きなドーナッツをもらったとき、「わあ、大きなドーナッツ、ありがとう!!」と素直に喜ぶ人と、「ありがとう。でも穴がなければ、なおいいのに・・・何て大きな穴なんでしょう。」と不平を言う人がいます。

 前者は、本体に目がいっており、後者は空白の穴の部分により多く心がとらわれているようですね。

 さて、今朝のブログで私が述べたかったことは、もう分かっていただけたことと思いますので、聖書のことばをご紹介いたします。

 神様に用いられて新約聖書のほぼ半分に当たる13巻の手紙を書いたパウロという人は、次のように書いています。

聖書のことば コリント人への手紙 第二 12章

12:9 ・・・主(神様)は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私(パウロ)は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

  今日の一日、ドーナッツの本体に目を向け、神様の豊かな恵みを数えつつ歩むことができますよう、お祈りいたします。

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2007年1月23日 (火)

湯川秀樹博士

 今日、1月23日は、我が国最初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹博士の生誕百年の日だそうです。

  湯川博士は、科学者は科学の創り出してしまった核兵器が使われないように人類に働きかける責任が科学者にはあるという信念のもとに、反戦、反核を呼びかけ続けて生涯を終えた方でもありました。

  土木工事に力を発揮するようにと願って開発したダイナマイトが、意に反して戦争に用いられて多くの人命を奪ったことを嘆き悲しんだノーベルによってノーベル賞が設けられたことは広く知られています。ノーベル自身、ダイナマイトの爆発事故で兄弟を失うという悲しみを乗り越えて歩んだ人でした。

  湯川博士は、27歳の時に確立した中間子理論でノーベル賞を受賞したのですが、その後の戦争に反対しての生き方そのものも合わせて真の意味でのノーベル賞受賞者ということができるでしょう。

聖書のことば

マタイによる福音書 第5章9節 

  平和をつくり出そうとしている人は幸福です。 そういう人は神の子供と呼ばれるからです。

 世界の平和を創り出すことは、すぐにはできないかもしれません。

  けれども、目の前の家族に愛をもって忍耐強く接することによって笑顔を生み出そうとすることはできるかもしれません。その笑顔が世界の平和にもつながっていくのだという希望をもって、今日も歩んでまいりましょう。

 神様の祝福をお祈りさせていただきます。

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2007年1月22日 (月)

目詰まりしたフィルター

 エアコンにスイッチを入れたら、ずいぶん時間が経って忘れたころに暖気が吹き出し始めるのが我が家のこの冬でした。使い手と同じく老化したのだと思っていましたが、思いついてエアコンのふたを開けてみると、そこには掃除されるのを静かに待っているフィルターがありました。

 掃除によって面目を一新したフィルターをセットし、スイッチ・オン・・・即座にエアコンが、喜々として、いえ機器として暖気を送り始めてくれました。

  機器の手入れを怠っていたのに、エアコンに責任を押しつけ、そろそろ古くなったかな、などと思っていた自分を反省しました。

 機器だけでなく、人間も本来の力を発揮できない状態、本来は幸せに生きるはずなのに不幸せに陥ってしまっていることがあるように思います。

聖書のことば   ガラテヤ人への手紙 第5章

5:22 御霊(みたま・・・神様の働きの一つ)の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

 罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主として受け入れ、神様に向かって歩む人は上記の実を結びます。聖書のいう罪とは、神様に背を向け、的外れの方向を向いて歩むことをいいます。

 人生の正しい方向を指し示すナビゲーターは、聖書です。聖書を正しく理解して歩むために、ぜひお近くのキリスト教会へ足をお運びください。お待ちしています。

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2007年1月21日 (日)

生命はあずかりもの

   三浦綾子さんに、実在した榎本保郎牧師さんの生涯を描いた 『ちいろば先生』という本があります。そして、この榎本牧師さん自身の著に「生命を私物化するな」ということばがあります。

 自分の仕事を私物化しなければ収賄問題を起こすこともないでしょうし、自分の子どもを私物化しなければ、児童虐待も起こらないでしょう。自分の立場や地位を私物化できずに自分の家族を真っ先に戦地に送ることになるとしたら、それでもなお戦争開始の文書に押印する人はいるのでしょうか。

  「子どもは授かりもの」ということば間違いではないでしょうけれど、「子どもは預かりもの」と考えたほうがより謙虚にその生命に敬意をはらいながら対することが出来るのではないでしょうか。

   地球という環境にしても、授かりものではなく、未来の子どもたちから借り、ある期間、その管理を委託されているのだと考えたら、もっともっと大切にすることが出来るように思います。

聖書のことば  創世記 第11章

11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。

11:2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。

11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。

11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

11:5 そのとき【主】(神様)は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。

11:6 【主】は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。

11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

11:8 こうして【主】は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。

11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

 バベルの塔についての聖書の記述です。人間には多くのことが託されているのですが、預かっているのであって、すべてを授かって神様と同じ位置にあるのでは決してないことを自覚したいと思います。

 自分の生命、そしてすべての生き物の命を私物化することなく、神様に生かされてあることを受けとめ、謙虚に、そして聡明に歩んでまいりましょう。

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2007年1月20日 (土)

納豆

  あるテレビ番組の影響とかで、このところ納豆を食品売り場で見つけることがちょっと難しくなっています。

 でも、きっと納豆工場の拡張とか、新しい納豆会社設立というようなことにいたる前に、このブームは去ってしまうことでしょう。とびつくのに早い人たちは、去るのも早い・・・熱しやすく冷めやすい傾向があることを否定できない私たちですよね。

 ブームになり、消えていった物のなんと多いことでしょう。紅茶キノコ、フラフープ、ダッコちゃん、タマゴッチ、ルーズソックス・・・年代やジャンルがどさくさ紛れという感じですみません。

聖書のことば  ペテロの手紙 第一 第1章

1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

1:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

1:25 しかし、主(神様)のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。

  聖書の別の箇所に信仰と希望と愛はいつまでも続く、その内、最も大いなるものは愛ですということばがあります。一時的なものに惑わされることなく、食べ物とは次元が異なりますが、生きる指針、目的については、私自身も、そしてあなたも神様に対する信仰や愛、神様を信ずることによる希望をいだいてゆらぐことなく歩むことができますよう、お祈りいたします。

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2007年1月19日 (金)

一緒に旅に行きたい人

 新聞かラジオだったと思うのですが、「一緒に旅に行きたい人」として、多くの夫は妻を挙げているのですが、妻のほうは、夫をあまり挙げていないと報じていました。多くの妻は、娘とか友人などを夫よりも上位にしているようなのです。

 夫とは何と気の毒な存在なのでしょう・・・とひとごとのように思えないのが我が家です。妻は、いつの日かヨーロッパに行きたいと言うのですが、一緒に行きたい連れ合いとして、気の合う友人数名、息子の嫁、私の従姉妹などを挙げるのに、私の名前はいつになっても出てこないのです。そのことを指摘しても悪びれるところがないので、こちらはますますショックを受けます。

 さらに追い打ちがかかりました。「退職したら、家に居ようかなあ」 とつぶやいたら、ほとんど間髪を入れずに「じゃあ、わたし、勤めに出ようっと」と言うのです。

 男性はロマンチスト、女性はリアリストの傾向を持ちやすいと何かで読んだことがありますが、それは他人事ではなく、我が身にまともに関わることでありました。

聖書のことば   コロサイ人への手紙 第3章

3:18 妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。

3:19 夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。

  結婚式の時に読み上げられることの多い箇所です。お気づきでしょうか。 夫には妻を愛しなさいと書かれていますが、妻には夫に従いなさいと書かれているのです。夫を愛しなさいとは書いてないのですが、さて、あなたはどう解釈されますか? とにかく、聖書の人間理解はとてつもなく深いのです

今日のブログ、いったい何を書きたかったのでしょうね・・・こういうところが、私の欠点のような、特徴のような・・・ともかく、お目通しいただき、ありがとうございました。 (^_^;

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2007年1月18日 (木)

子どもとお年寄り

      お年寄りと幼稚園児の会話から二題 
                                                         
  トントントン トントントン         
                                     
 
木に釘を打とうとしている子に お年寄りが励まそうとして                  
                                     
  「じょうずやね。」 
と声をかけると               
                                                          
  「うん、むかしからやっているからね。」
とすまし顔。

 節分の日  せっかく園児が作ってきてくれたからと、それをかぶって「うおーっ うおーっ」と名演技のお年寄りに

「よかった、そんなに喜んでもらえて」

  子どもの感性・ことばは大人に力を与えてくれますね。

聖書のことば ルカによる福音書 第18章16節

 イエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

 大人たちが、イエス・キリストのお話のじゃまになるのではないかと子どもたちを遠ざけようとしたときに語られたことばです。

 子どもたちは、きっと大人たちよりもすなおにイエス・キリストを受け入れ、親しみを感じていたにちがいありません。おさなごのようなすなおな心で歩みたいと願います。

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2007年1月17日 (水)

「この子らを世の光に」

 近江学園という知的障害のある児童や大人のための施設は、昭和21年に設立され、23年に滋賀県立の福祉施設となりました。

 私はこの学園のことを、この学園の創立者の糸賀一雄氏のことば、「この子らを世の光に」ということばとほとんど同時に耳にしました。

 「この子らに世の光を」ではなく、「この子らを世の光に」という精神は、今も大切に引き継がれています。

 近江学園のホームページに、このことばについてこう書かれています。http://www.pref.shiga.jp/e/omigakuen/

この子らを世の光に

『この子らを世の光に』『この子らに世の光を』の違いについて
「を」と「に」が逆になれば、この子どもたちは哀れみを求めるかわいそうな子どもになってしまいます。しかし、この子らは、みずみずしい生命にあふれ、むしろ回りの私たちに、そして世の人々に、自分の生命のみずみずしさを気づかせてくれるすばらしい人格そのものであります。
この子らこそ「世の光」であり、「世の光」たらしめるべく、私たちは努力しなければなりません。糸賀先生は最後の講義で
「この子らを世の光に・・・」の言葉とともに、大きな福祉の思想を私たちに託して逝かれました。

 私の目にした冊子では、このことばを語っておられる講義の途中で糸賀先生は倒れられ、帰らぬ人になられたと記してありました。正に命を捧げられたとの思いがして忘れられないことばとなっています。

聖書のことば ヨハネによる福音書 第8章12節

 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

マタイによる福音書 第5章

5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

  イエス・キリストの光を受けて、人は世の光、地の塩となることができるのです。闇の中にいるように感じるときほど、うつむいて下ばかり見るのでなく、救い主イエス・キリストを信じて光の中を歩く者となりましょう。

 阪神・淡路大震災のすぐ後に神戸を訪れた人にあるタクシーの運転手さんはこう語ったそうです。

「確かに、大きな大きな災害です。だけどねえ、お客さん、神戸の子どもたちは、きっと、強い子になって、たくましく成長しますよ、応援してやってください。そして、何年か後にどう育っているか、見てやってください。」

 まぶしさを感ずるほどの心意気に打たれるのは私だけではないと思います。

 今日も、神様が豊かに新たな力をそそいでくださいますように。

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2007年1月16日 (火)

[kono

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大きな災害にもくじけずに

  阪神・淡路大震災の起きたときに神戸の学校の再開・復興の中心的役割を果たした方がおられます。後になってその方が講演の中で次のことをおっしゃいました。「これほどの大きな災害から立ち上がるには、子どもの明るい声と笑顔が必要だと思いました。だから、そのためにも一日も早く学校を再開したかったのです。」

  感銘を受けました。子どもを、保護され、かばわれる存在としてだけでなく、大人に力を与える存在であることをはっきりと述べられたからです。

 災害を受けた土地には、気兼ねして足を運びにくい面もありますが、神戸市は、どうか修学旅行に来てください、そしてその目で災害の大きさ、そしてそこからどのように立ち上がっているか、立ち上がろうとしているかを見てくださいと呼びかけました。その前向きな姿勢には却って私たちのほうが励まされました。

聖書のことば

  今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

ローマ人への手紙 第8章18節

 これは、神様に用いられて何回も伝道の旅をし、牢獄に閉じこめられてもくじけずに新約聖書のおよそ半分を記し、ついには殉教したパウロという人が信仰に基づいて綴ったことばです。

 悩み苦しみのある暗いときにこそ光は輝きを増します。私たちの人生にもいろいろなときがおとずれますが、くじけずに、神様に望みをおいて歩んでまいりましょう。聖書は、そして神様は信ずるに足りる輝きを備えています。

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2007年1月15日 (月)

春を待つ心

   暖冬とはいえ、さすがに冬・・・それなりに冷え込む時期ですね。この時期になるとあの名曲が多くのかたによって歌われます。そうです、そうです、♪「早春賦」です。歌詞を改めてご紹介させていただきますね。

1 春は名のみの風の寒さや谷の鶯(うぐいす) 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず、時にあらずと 声も立てず

2 氷解(と)け去り葦は角ぐむ、さては時ぞと 思うあやにく
今日もきのうも 雪の空、今日もきのうも 雪の空

3 春と聞かねば知らでありしを、聞けば急かるる 胸の思を
いかにせよとの この頃か、いかにせよとの この頃か

※2番の歌詞の説明  2番の「角(つの)ぐむ」は、葦、荻、薄、真菰などの芽が角のように出始めること。「あやにく」はあいにくと同じで、折悪しくの意。

 今回の早春賦については、下のホームページから情報をいただきました。作曲者の中田章さんは、同じく作曲家、中田喜直さんのお父さんだそうです。中田喜直さんは、「夏の思い出」「小さい秋みつけた」「雪の降る町を」などの名曲を生み出したかたですが、春についてはお父さんの「早春賦」があるので、つくるのをひかえられたとか。 

http://www.geocities.jp/tkhshso/soushunfu.html

 冬の寒さの厳しい寒い地方ほど、春を待つ心は強まるのでしょう。

 私の故郷の高山の特産品の一つに「春慶塗り」がありますが、これも春の訪れが大きな慶びとなることから名付けられたようです。

聖書のことば    あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

 コリント人への手紙 第一 第10章13節

 私たちの人生にも冬のように厳しく、耐え難い時期があります。けれど、神様は必ず、耐える力と希望を与えてくださいます。長いトンネルの中を歩くときも、行く手に光を見ながら歩むことができるように支えてくださいます。どうぞ、キリスト教会に足をお運びください。

 空気や日光がただであるように、キリスト教会では入会金などをいただきません。本当にすばらしいものは、無料なのです。

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2007年1月14日 (日)

シュバイツアー博士

 シュバイツアー博士のことをご存じの方は多いと思います。シュバイツアーは、医師であり、パイプオルガンの演奏家としても名高い人として暮らしていました。

  けれど、世界には、病気になっても医療の恩恵に浴することなく亡くなっていく人がたくさんいることを知った彼は、アフリカにわたって医療活動に献身的に打ち込み、のちにランバレーネの聖者と呼ばれるようになりました。

  時にはヨーロッパに戻って演奏会を開き、収益をアフリカでの医療活動にあてることもあったようです。

  さて、今日、1月14日はそのシュバイツアー博士の誕生日です。それを私がなぜ覚えているかと申しますと、私の父が同じ1月14日生まれだからです。

 シュバイツアー博士と私の父の間に、誕生日が同じ日であること以外に共通点はあるか、とお尋ねですか? そうですね、父はキリスト教の牧師でしたからクリスチャンとして生きたということも共通点としてあげたいと思います。

 ところで、クリスチャンには、この世に幼な子として生を受けることを第一の誕生とすると、イエス・キリストを救い主として受け入れ、霊的に新しく生まれる洗礼を受ける第二の誕生日ともいえる日があります。

 これは、再出発ではなくて、新しい門出となる真の出発の日です。

聖書のことば ヨハネによる福音書 第3章

3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。

3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」

3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」

3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。

3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」

3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。

3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。

3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。

3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。

3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 上の聖書の引用部分は、キリスト教信仰の奥義といってよいところでいきなり受け入れていただくのはむずかしいかも知れません。

 もし、お近くにキリスト教会がありましたら、ぜひ、足を運んで牧師さんからお話しを聞いてくださればと思います。

  いつの日か、あなたの新出発のバースデーをお祝いできる日を迎えることができたら、その日には、天においてこの地上にも勝る喜びの歌が満ちあふれることが聖書には書かれています。あなたにもその日が来ますよう、お祈りさせていただきます。

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2007年1月13日 (土)

ことばの力

  以前は1月15日というのが成人の日の指定席でしたが、ハッピーマンデー法、というのでしょうか、一月の第二月曜日へと変わりましたね。

  ところによって成人式の持ち方は異なるようですが、新成人たちにとっては、同窓会という意味合いもあって旧交をあたためている姿をみかけます。

 私自身の同窓会は、それこそ「お久しぶり・・・ところで、あなたはどちらさんでしたっけ。」というほど卒業してから長い年月が経過した友人たちとの集まりということになります。

  一つの会の幹事になるのは、たいへんなことですから、それを引き受けて開催してくれる同窓生には、頭が下がり、感謝のほかありません・

 さて、何年か前に受け取った同窓会の案内には、驚かされ、そして、開催日も都合がいいときだったので、よし、久しぶりに出席しよういう気持ちにさせられました。ことばの力というのは大きいものです。

 そうそう、そのときの呼びかけのことばは・・・・「あと何回お目にかかれるでしょうか。」でした。

聖書のことば ローマ人への手紙 第1章16節

  私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

 「福音」というのは、「幸福を告げる音信」といいましょうか、グッドニュースのことです。イエス・キリストが闇のような暗い出来事の起こる世の中、人生に救い主として来てくださったということは正に一人一人の魂へのグッドニュースにほかなりません。神様の力が働いて、このよき福音のことばが、あなたのなかで力をもちますように、お祈りいたします。

  余談ですが、同窓会に出席すると、一緒に学校で顔を合わせていた頃の年代に心がもどり、胸が躍ることがありますね。

 そこで一句  同窓会 昔の自分に 会いに行く

・・・「昔の彼女に」、とか「昔の彼氏に」、とすると差し障りが出てこないともかぎませんので、「昔の自分に」としてあります。これこそ余分なひとことでしたっけ。

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2007年1月12日 (金)

麦を踏む心

 よく知られている 文部省唱歌に♪「冬げしき」という歌があります。
         
1 さ霧消ゆる 港江の
  舟に白し 朝の霜
  ただ水鳥の 声はして
  いまだ覚めず 岸の家

2 からす鳴きて 木に高く
  人は畑に 麦を踏む
  げに小春日の のどけしや
  かえり咲きの 花も見ゆ
 
 2番の歌詞に「人は畑に麦を踏む」とあります。せっかく伸びようとしている麦を踏むなんて、麦の身になってみると、それこそ「ムギュッ」という悲鳴が聞こえてきそうで、かわいそうな気がします。けれど、実際に麦踏みの経験のある方に話をうかがうと、決して麦が憎くて踏んでいるのではないとおっしゃいます。広辞苑には
むぎ‐ふみ【麦踏み】麦の伸び過ぎを押え、根張りをよくするため、早春、麦の芽を足で踏むこと。」と書かれています。

  人間の成長とも結びつけて考えると、根が弱いまま幹や枝が大きくなるとちょっとした試練にもひっくり返りやすいので、大きく成長するためには、浮き足立たずに足がしっかり地に着いた歩みをしなければいけないということでしょうか。

 子どもを甘やかさずに育てることの大切さを思います。そして、子どもだけでなく、大人自身の成長についてもいえることではないかとも思います。

聖書のことば    ローマ人への手紙 第5章

5:1 信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

  つたない自作ですが、今ではめずらしくなった麦畑を目の当たりにして詠んだ俳句を紹介させていただきます。

麦立てり 踏まれし跡を とどめずに

 

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2007年1月11日 (木)

プロジェクトX(エックス) 新幹線

 NHKのプロジェクトX「挑戦者たち」が劇画の本になっているのをご存じの方も多いと思います。その一冊、『執念が生んだ新幹線』を読んでいて、新幹線を開発した人には戦争中、海軍で戦争のための技術開発に携わっていた人が起用され、その人たちは平和のために技術を追究することができることを喜びとしながら命がけで取り組んだことを知りました。

 その一人、三木忠直さんは、「100%死を約束した特攻機をつくるのは技術とはいえない。」と特攻機の設計を命令されたときに強く反対したのですが、戦争中のこととて、心ならずも特攻機の完成のために働かねばならなかったそうです。多くの若者が特攻機に乗り込んで死んでいきましたので、戦争が終わっても三木さんの心は晴れることはなかったそうです。

 その三木さんを立ち上がらせたのが次の聖書のことばだったそうです。

マタイによる福音書 第11章28節

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(イエス・キリスト)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

  このことばに出会って、平和な日本を築くための動脈ともいえる新幹線を走らせるために心血を注いだのが三木さんだったのです。

  私たちにも、思うにまかせず、心が沈むこと、そういう自分自身が好きになれなくて、ますます辛い思いがつのる日があると思います。

 そういうときにこそ、そのままの思いをイエス・キリストにおゆだねできる幸いに巡り会うチャンスです。それは、リタイアするのではなく、置かれている状況は変わらなくても、新しい力を与えられて新しい人となった自分の新たな挑戦のスタートです。

 プロジェクト エックス のエックスの代わりに、ご自分の頭文字を入れてみませんか。 プロジェクト 「○○」・・・うーむ、いい響きですね。そしてこのプロジェクトの企画者は全能の神様です。神様の力があなたに豊かにそそがれますよう、お祈りさせていただきます。今日という日を神様が祝福してくださいますように。

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2007年1月10日 (水)

春の七草

  7日に春の七草のことを書けばよかったのですが、三日遅れの話題ですみません。問答形式におつきあいください。えっ、「問答無用!」ですって・・・まあまあ、そうおっしゃらずに。

「春の七草を知っていますか?」

「はい、知っています。せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ これぞ七草 です。」

「おお、卓球、じゃなかった、 ピンポーン!」 「おお、寒っ。」

「 日本語は短歌、俳句のように 五音 七音 のリズムで構成すると覚えやすくなりますね。それでは、第二問。春の七草を知っていますか?」

「あのう、第一問と同じような気がしますけれど・・・」

「ところが、どっこい。さっきのは春の七草の名前を聞いたのです。第二問は、実際に春の野に出て、ほかの植物もある中から、この七つを集めてくることができるか・・・つまり、実物と名前を結びつけられるかと尋ねているのです。」

小声で「それなら、初めからそう言ってくれればいいのに、この人は何て独り善がりな尋ね方をするんだ。」

「えっ、何か言いましたか?」

「いえいえ、何も言っていません。春の七草の名前は言えますが、実物は分かりません。」

「そうですか・・・でも、名前が言えるだけでもたいしたものです。それじゃ、七草がゆを味わいましょう。」

「さ、さすが・・・ちゃんと七草を摘んでくることができるのですね。」(尊敬のまなざし)

「いやいや、それほどでも・・・実を言うと、近頃は七草をパックで売っているのです。」

「なーんだ。・・・でも、正直ですね。とにかく、さめないうちに、いただきまーす!」

 長らく、おつきあいくださいましてありがとうございました。知るということに、ことばとして名前だけ知っているのと、実体と結んで知っているのと、少なくとも二つのレベルがあることをいいたかったのです。

聖書のことば  コリント人への手紙 第一 第13章12節

  今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

  神さまは、私たち一人一人をご存じで、しかも愛してくださっています。髪の毛の数までもご存じなのです。なんと心強いことでしょう。

 コリント人への手紙 第一の13章は「愛の章」と呼ばれています。お手元に聖書をおもちでしたら、ぜひ、この章全体をお読みくださるようにお薦めいたします。 

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2007年1月 9日 (火)

とんち

  今日、1月9日は語呂合わせで一休さんの日なのだそうです。ご存じのように、一休さんはとんちを働かせる名人でした。あざやかなとんちには、深刻さやちょっとした対立を吹き飛ばすユーモアがあっていいものですね。

 ある議会での話です。コミュニティバスというのでしょうか、走るコースに公共施設を上手にとりいれて組み、北回り、南回りというように時間的な配慮もされて町民の足として工夫されたバスについて審議されていたときのことです。「子どもも大人も一回100円という料金案だけれど、子どもは半額に出来ないのか?」という質問に町長さんは次のように答えたそうです。

「子どもが大人の料金で乗るのではない。大人が子どもの料金で乗れるようにサービスして、同一料金にしているのだ。」

 一瞬静まった議場にやがて笑顔が広がり、料金案は可決されたそうです。

  さて、聖書にはソロモンという王様が神様に知恵をいただいてとても賢明な人であったことが書かれています。こういう場合はとんちというより叡智というのでしょうけれど。

 しかし、大いに栄えたそのソロモンも神様が創られた一つの花に及ばないと書かれているところをご紹介いたしましょう。

聖書のことば マタイによる福音書 第6章

6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

  これは、明日以降の計画を立てるな、ということではありません。今日という日、その日を神様に信頼して精一杯に生きるということでいかがでしょうか。神様のお力添えがありますように心からお祈りいたします。

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2007年1月 8日 (月)

いちかばちか・・・

 「今日は何の日?」というコーナーがくっついて送られてくるソフト会社のメールレターがあるのですが、それによると、今日1月8日は「勝負の日」なのだそうです。その由来は、今日のタイトルのとおり「1か8か」なのだそうです。今日は、大切な親族の一人の誕生日なのに、このような語呂合わせで「品格」を下げない日にしてほしいな、と、「勝負の日」とした人に言いたいです。

  それはそれとして、神様はいるかいないかについて、こんなふうに述べている人がいます。

「もし、ある人が神様はいない、というほうに賭けて、好き放題な放縦な人生を送ったとする。神様がおられた場合には、その人はその裁きに耐えることが出来ず、すべてを失う。」

「いっぽう、神様はおられる、というほうに賭けて、敬虔な生涯を送る人は、神様がおられなかった場合、何か価値あるものを失うだろうか。もっと好き勝手に生きればよかったと後悔するだろうか。」

「以上のように考えると、神様がおられるほうに賭けて生きる方が、どう考えても賢明だと私は思う。」

  こう述べているのは、パスカルの定理で有名なパスカルです。彼自身は、こうした利害の計算を越えて、純粋な信仰をもって歩んだ人でしたが、神様の存在をなかなか受け入れることができない人のために上記のような説明を考えたようです。

 信仰は、説明されて納得する側面もあるでしょうが、感得するというのがより本質に迫っているのではないでしょうか。

 科学と信仰は対立するものではなく、科学を通して神様がこの世を創造された叡智を感得して信仰に到るという道筋をたどる例が少なくないように思います。

聖書のことば ローマ人への手紙 第1章

1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。

1:19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。

1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

1:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。

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2007年1月 7日 (日)

航空写真

 新しい年に入って今日はもう7日目なのですね。

 「学校創立○○周年記念の写真を空から撮影しませんか。」との呼びかけを受けることがあります。撮影を依頼し、運動場に全校総出で人文字などを書いて待っていると約束の時間に小型飛行機が飛んできて撮影し、希望によってその写真を下敷きなどに印刷してくれます。

  撮影の前に、運動場のどの位置に何人配置するか、などを打ち合わせに来る担当者がいます。この担当者の技術に感心しました。

 打ち合わせて図案が決定されると、どの人文字のどの部分に何人、というようなことを手際よく判断し、運動場に目印の白線を引くのですが、巻き尺など使いません。下書きもなく、いきなり線を引き始め、それがぴたりと一回で決まるのです。熟練のプロとはいえ、とても鮮やかです。

  その担当者には、地上にどのように人が立つと、飛行機からどのように見えるかが頭に入っていて、運動場にそのデザインを描くことができるのでしょう。

聖書のことば 伝道者の書 第3章

3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。

 私たちも、一日一日の歩み、もっと言えば人生の歩みをどうするかを高くて広い視野から見てデザインすることができる者でありたいと思います。・・・聖書はそのよき助け、人生のよき案内書となると思います。

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2007年1月 6日 (土)

子どもに最善のものを贈る

  虐待される児童のことがニュースとなり、その心配のある家庭への立ち入り調査の体制が強化されることが今朝も報じられていました。児童虐待が起こらないように、日本でも「児童の権利条約」が批准され、それに基づく施策がいろいろ講じられています。法的にどんなことがあってもなくても、すべての子どもが自明のこととして大切にされる社会を改めて築いていきたいですね。

 「児童の権利条約」の土台となっているのは「すべての大人は子どもに最善のものを贈る義務を負う」というある英国女性のことばだそうです。

 たまたま、テレビで「佐賀のがばいばあちゃん」というドラマを見ましたが、金銭、物質的には貧しい環境の中で、卑屈にならず、人間として胸を張って生きることを身をもって示しながら生きるおばあちゃんとその愛にはぐくまれて育っていく男の子の生活が、上記のことばと結んで浮かびました。

 私たちも、子どものためにできることを最大限にしながら、大人自身、胸を張り、希望をもって歩んでいきましょう。

聖書のことば マタイによる福音書 第7章

7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

7:9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。

7:10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。

7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

7:12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。

  神様は、私たちにイエス・キリストという最高の贈り物をしてくださいました。私たちも子どもたちに最高の贈り物をおくることができるように日々の歩みを焦点化したいと思います。

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2007年1月 5日 (金)

奪うことができないもの

 尊敬するある宣教師さんが、次のように語ったことがあります。「教養とは、ある人に外から与えられるものではなく、その人から奪うことが出来ないものです。」

 確かにそうだと思いました。見せかけの教養は、人にひけらかしたり、知ったかぶりをするために用いられますが、難破して沈んでいく船にあって自分より弱い人のために救命ボートや救命道具を心静かにゆずることができるには、真に内面に根ざしているものがなくてはなりません。

 教養、志、信仰、そして奪うのではなくて自分を与えることができる愛・・・周囲の状況に左右されないで、困難なときにこそ静かに発揮される「外から奪うことができないもの」を自分の中に築く毎日でありたいと思います。

 聖書のことば 

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

マタイによる福音書 第16章25節

  一時的な楽しみ、自分だけを喜ばすことに時間を用いないで、静かに聖書を読み、神様に祈り、キリスト教会に足を運ぶ時間を人生の堅固な土台として据えたいと思います。

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2007年1月 4日 (木)

死海の話

 1月4日の4にちなんで、今日のブログは「死海」についてです。泳がなくても体が浮くほど塩分の濃度が濃く、生物が住めない環境、仮に住んでいるとしたら、塩漬け状態でしょうね。皆さん、ご存じかと思いますが、広辞苑では「死海・・・(Dead Sea)イスラエルとヨルダンとの境にある内陸の塩湖。ヨルダン川が流入。面積約1020平方キロメートル、琵琶湖の約1.5倍。水面は海面下392メートルで、地球上で水面の最も低い所。最大深度410メートル。塩度が非常に高い。聖書に関係した史跡が多い。」と記述されています。塩分が濃いのは、地球上で一番低いくぼ地なので、一度流れ込んだ水は、流れていくところがなく、蒸発するしかないためなのですね。

 私たち、人間も、物質的にも精神的にもほかから流れ込むだけにしておくと心が死海のようになってしまいます。2007年、周囲の人に自分の受けたもの、受けた感動などを還元するように努めたいと思います。なかなか難しいことでもあるかもしれませんけれど。

讃美歌121番はイエス・キリストの生涯を端的に歌った歌です。
♪1.まぶねの中に/うぶ声あげ/ 木工(たくみ)の家に/ ひととなりて/ 貧しきうれい/ 生くる/ なやみ/ つぶさになめし/ このひとを見よ
2.食するひまも/ うち忘れて/ しいたげられし/ 人をたずね/ 友なきものの/ 友となりて こころくだきし この人を見よ
3.
すべてのものを/ 与えしすえ/ 死のほか何も/ 報いられで/
 十字架の上に/ あげられつつ/ 敵をゆるしし/ この人を見よ

4.この人を見よ/この人にぞ/ こよなき愛は/ あらわれたる/
 この人を見よ/ この人こそ/ 人となりたる 活ける神なれ 
         

聖書のことば   使徒の働き 第20章

20:35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私(パウロ)は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

  物やお金の次元でなく、十字架にかかってご自分の命までも与えられたイエス・キリストについて、聖書を通して深く知る一年としたいと思います。

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2007年1月 3日 (水)

ペテロのこと ー「3」にちなんでー

  1月3日のブログということで、「3」という数字に関係のある聖書の記事をご紹介いたします。
聖書のことば  マタイによる福音書  第26章
  26:69 ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」

26:70 しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない」と言った。

26:71 そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」

26:72 それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない」と言った。

26:73 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。

26:74 すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。

26:75 そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。

 これは、イエス・キリストが大祭司のところで裁きを受けているときの中庭でのペテロに関する記述です。

 ペテロは、イエス・キリストの十二弟子の一人です。これは聖書に書かれていることではないのですが、ペテロは天国の門のところに居て、やってくる人たちの名前が名簿にあれば天国の鍵を開けて中に入れる役割をになっていると言われるそのペテロがイエスと一緒にいた仲間だと指摘されると3回もそれを否定したのです。そして、イエス・キリストは、あらかじめそのことをペテロに話しておられました。

 ペテロは、この後、一日の説教で3000人を越える人をキリストに導く働きをする人になりました。聖書には、神様がペテロを用いて書かれた「ペテロの手紙」が含まれていますが、人間の弱さを知りながら神様の愛を力強くあかししている書簡となっています。ちなみに、ペテロがイエスキリストに出会う前に漁師をしていたガリラヤ湖には「ペテロの魚」という魚がすんでおり、日本人好みの味がするそうです。
 

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2007年1月 2日 (火)

手のひらのメモ

  昨日は、元旦、今日は2日・・・まだまだ2007年は始まったばかりですが、新年を迎えた感激、新鮮な思いは、やがて薄れてしまいます。
これは、高齢になると忘れっぽくなるということばかりでなく、たとえば、暮れに来てくれた孫娘がどれだけの期間、祖父母を覚えていてくれるかということも心もとないように人間の記憶や心は移ろいやすいのです。・・・えっ、孫娘の年齢ですか・・・1歳7か月、こんなに若いのに人の顔などを忘れやすいのですよ(^o^)

  さて、元旦にご紹介した聖書のことばのとおり、神様は、私たち、一人一人を大切にしてくださっているのですが、私たちを忘れてしまわれることはないのでしょうか。

聖書のことば  イザヤ書  第49章
49:15 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。
  自分の胎の子をあわれまないだろうか。
  たとい、女たちが忘れても、
  このわたしはあなたを忘れない。

49:16 見よ。わたしは手のひらに
  あなたを刻んだ。
  あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。

  忘れ物をしないためにメモをする人はいますが、うっかりしているとそのメモを見ることさえ、忘れてしまうことがあります。それで、有効な一つの方法として、自分の手の甲などにサインペンでメモする人がいます。けれど、全能の神様が、何と手のひらに私たちを刻んでくださっているというのです。何と心強いことでしょう。

 神様が私たちを愛してくださっていることを忘れないために、聖書を読むこと、祈ること、そして教会に行くことを大切にして、この一年を歩めたら、と思います。

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2007年1月 1日 (月)

VIPとして歩むかけがえのない日々

 2007年、明けましておめでとうございます。
人生は、神様からのたった一度限りのこの世への招待だと言われます。
この一年が、かけがえのないすてきな一日一日となりますように。

聖書のことば

わたしの目には、あなたは高価で尊い。
  わたしはあなたを愛している。

イザヤ書43章4節

VIP・・・Very Important People のもとになったのがこの箇所だと言われています。

  すばらしいのは、特定の人ではなく、神様にとって、私たち一人一人がかけがえのないVIPであるということです。何か、すばらしいことをしたかどうかではなく、存在そのものを喜んでくださる神様に愛されていることを信じて、歩んでまいりましょう。

 つたないブログですけれど、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

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