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2007年3月31日 (土)

初恋の来た道

  映画「初恋の来た道」に、村にやってきた青年教師が村人と一緒に学校を建てる場面があります。ついに学校が完成し、最初の授業をする日がやってきました。村人たちが建物の周囲に集まって見守り耳を澄ます中、青年教師は子どもたちに向かって第一声を発します。

「人は人生において志を持つべし」

  素朴な中に、美しく、ユーモアもちりばめて、教育とそれに対する信頼があたたかく、そして確かに息づいている映画で、私は好きです。

 今日、3月31日は年度の最後の日、私にとって初めて経験する定年退職の期限の日です。(何度も定年退職を経験する人は、そんなには居ないでしょうね。)

  職を離れ、肩書きがなくなって、それでいて一人の人間としてちゃんと自分の足で立っている人・・・そうあるためには、まさに人生に志を持っていること大きなポイントだと思います。

  「志」といえば、札幌の農学校でクラーク博士が語った「少年よ、大志をいだけ」はよく知られていますが、全文は「少年よ、イエス・キリストにあって大志をいだけ」だそうです。

 クラーク博士が札幌農学校に勤務したのは、本当に短い期間でした。けれど、その札幌農学校から、多くの、大きな人材が育ちました。

  私の小中学校勤務は38年目の今日をもって終わります。いたらぬところが多く、振り返ると汗顔の至りですが、前を向いて懸命に歩んでいくことが、これまで出会った児童生徒たち、大人の方たちとの日々を大切にすることにもなるのだと思います。

  志を持って、明日からも生きてまいりたいと思います。

聖書のことば  ピリピ人への手紙 第2章13節

  神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。

 そうそう、数年前、私にいきなりこう問いかけた女の子がいました。「先生の将来の夢って何?」・・・面食らいました。子どもに問いかけることはあっても、子どもからこちらに問いかけられようとは思っていなかった問いだったからです。

 でも、次の瞬間、嬉しくなりました。そうだ、自分にも将来があるのだ・・・そのときの思いをまさにこれからへの活力にしていこうと思うのです。

  今日も、そして今日に続く明日も、神様が力を注いで、豊かな実を結ばせてくださいますように。

 

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2007年3月30日 (金)

ふるさとの山

Photo  自称ムーミン・パパのふるさとは、飛騨の高山です。逆光気味ですが、左の写真は日本北アルプス連邦の一つ、乗鞍岳(3026メートル)です。朝な夕な、四季を通じて眺めたなつかしい山です。

 乗鞍だけでなく、穂高や笠ヶ岳などをPhoto_1

眺めることのできる高山市の郊外に、

「飛騨高山教会」があります。

 この春休みに限らず、飛騨に行かれることがありましたら、お立ち寄りください。

 それぞれの写真をクリックしていただくと、少し大きい画像でご覧いただけます。

聖書のことば  詩篇 第121篇 1節・2節

 私は山に向かって目を上げる。 / 私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた【主】から来る。

 「ふるさとの山に向ひて言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな」

 石川啄木ならねども、それぞれのかたにそれぞれのふるさとの山河があること、すばらしいことだと思います。

 山そのものを信仰の対象とするのでなく、その山を創られた方にこそ目を向けて歩んでまいりましょう。 3月の結びの日、よき日となりますように。

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年々歳々

  春は、出会いと別れの季節です。次の詩は、特に色をつけたところが有名ですが、全文を掲載させていただきます。

題名 白頭を悲しむ翁に代る  
    劉廷芝作(初唐時代)
洛陽城東桃李の花
飛び来たり飛び去って誰が家にか落つる
洛陽の女児顔色を惜しみ
行く行く落花に逢って長く嘆息す
今年花落ちて顔色改まり
明年花開くとき復た誰か在る
己に見る松柏の摧かれて薪と為り
更に聞く桑田の変じて海と成るを
古人復た洛城の東に無し
今人還た対す落花の風
年々歳々花相似たり
歳々年々人同じからず
言を寄す全盛の紅顔子
応に憐れむべし半死の白頭翁

 あまりにすてきな表現なので、著者だと名乗る権利をお金で買おうとした人がいたそうですが、譲ろうとしなかった作者は、命を奪われたというエピソードがある、と高校時代の授業で教えていただいたように思います。詩人は、命がけで詩を生み出しているのですね。

聖書のことば  イザヤ書 第40章8節

草は枯れ、花はしぼむ。 だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。

 上には上があると申しますか、年々歳々,変わらないように見える花も,木々も、やがては老いていきます。けれど、神様のことばはとこしえに変わらないと聖書はいいます。

 新たな年度に向けて、新たな希望とエネルギーをもって歩んでまいりましょう。   神様の祝福をいただけますように。

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2007年3月29日 (木)

花に目をとめる

 小学1年生を担任したことが一度だけあります。入学式が終わり、教室での話を終え、子どもと保護者を送り出して、一人で教室にたたずんでいると、花の香りがしてきました。目の前の教師机の花瓶に黄色い花がありました。フリージア・・・同僚のどなたかの心遣いに違いありません。

 フリージアは、朝から教室に香りをはなちながらたたずんでいたはずなのですが、私が気がついたのは、夕方でした。入学式の日の緊張と予定をこなすことにいっぱいで、目に入らず、したがって心に花の入ってくる余地がなかったのですね。

 このブログの初めの頃に「斧を見る日間(ひま)」という文を掲載しました。日間(ひま)の語源は、「日光のさし込む空間」だそうです。畑や花壇にぎっしりと花や野菜を植え込んだら、日光のさし込む空間がなくなってしまい、育ちもよくありません。

 年度末、そして年度初めの心もあわただしい時期・・・けれど、そうした時であるからこそ、自分がもっている斧が刃こぼれしていないかどうかをよく見て、切れ味を整えて、ことにあたりたいと思います

聖書のことば     マタイによる福音書 第6章 33節

神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。 そうすれば、必要なものは、神が与えてくださいます。

コリント人への手紙 第2章 15節
神様に関するかぎり、私たちの生活には、すばらしい、かぐわしい香りが漂っています。 それは、私たちのうちにあるキリスト様の香りであって、回りの救われている人々にも、救われていない人々にも、一つの香りなのです。

 ルオーという画家の絵には十字架がどこかに描かれているのだそうですが、ルオー展でキリストが十字架に架けられて息を引き取る絵に「白檀はそれを伐る斧にさえ芳香を与える」ということばを見ました。イエス・キリストの十字架における死は、まさにそういうことでありました。

 今日の一日も、キリストの香りをまとって歩むことができますように。

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2007年3月27日 (火)

さくらの日

 3月27日は「さくらの日」なのだそうです。説明・・・日本さくらの会が、1992(平成4)年に制定しました。七十二候の中の「桜始開」の時期で、「咲く」の語呂合わせ3×9=27であることに由来していますとのことです。

  ♪「さくら」という題の名曲がいくつかありますし、「男はつらいよ」の寅さんの妹は、さくらです。岐阜県には、日本で一番古い桜の木、薄墨桜(淡墨桜とも書かれますね)、ダムに水没するところを移植されて根付いた荘川桜、岐阜市の大洞の中将姫誓願桜、そして映画にもなった名金線沿いのさくら道など、さくらの名所、話題が豊富です。さくら道について詳しくはhttp://djment.hp.infoseek.co.jp/gifuinf/3skr_nag2.html

をご覧ください。

日本海と太平洋をさくらの道でつなぐ


この地球の上に、天の川のような美しい花の星座をつくりたい。花を見る心がひとつになって人々が仲良く暮らせるようになりたい。

佐藤良二

 いよいよ、これからがさくらのシーズンですね。

 世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし

  在原業平は、逆説的にさくらが心の中に大きな位置を占めていることを見事に詠んでいますね。

聖書のことば ルカによる福音書 12章27節

 ゆりの花を見なさい。 別に働いているわけでもないし、紡いだり、織ったりするわけでもありません。 だが全盛時代のソロモンでさえ、この花ほど着飾ってはいませんでした。

 空の鳥も、さくらもゆりも、神様が養ってくださっています。そして、その神様が一番愛していてくださるのは、何といっても人、あなたや私、一人一人なのです。

 今日も、その神様の愛を感じつつ、歩ませていただくことができますように。

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2007年3月26日 (月)

ヘレン・ケラー

   1890年の3月26日にヘレン・ケラーが発音訓練を始めたのだそうです。「見えない・聞こえない・話せない」という状態であったヘレンには、サリバン先生が明るい光の差し込む窓となりました。

 よく知られているヘレン・ケラーの言葉に「あなたの手のともしびをもう少したかく掲げてください。私の足もとも明るくなるように」というのがあります。

 そう語ったヘレン・ケラー自身が、多くのかたに輝く光の存在となりました。まさに「奇跡の人」ですね。

聖書のことば  マタイによる福音書 第5章 14節・15節

あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

 神様は、私たち一人一人を「奇跡の人」にして輝かせてくださいます。

  私たちが生を受け、この世に生かされていること自体、一つの奇跡といえるかもしれません。そして、神様は「あなたがたは世の光です」と言ってくださっているのです。「世の光になりなさい」でも、「世の光になれるように努力しなさい」でもないのです。

 りきまずに、地に咲いている花、空に光っている星のように、存在そのものを愛してくださっている神様におゆだねして、歩んでまいりましょう。

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2007年3月25日 (日)

命のパン

 「私たちは、生きるために食べるのであって、食べるために生きるのではない」という言葉に出会ったことがあります。

 英語で不定詞の勉強をしたときの例文 We eat to live, not live to eat..  の日本語訳が上記の文章だったように思います。

 食べることの好きな私にとっては耳の痛いことばですが、それをわざわざ持ち出したのは、今日の聖書のことばへと続けたいからです。今日の箇所は、イエス・キリストが荒野で四十日四十夜の断食をされた後の状態の時のことです。

聖書のことば マタイによる福音書 第4章

4:3 その時です、悪魔が誘いかけてきたのは。 「どうだい。 ひとつ、ここに転がっている石をパンに変えてみたら? そうすりゃあ、あんたが神の子だということも一目瞭然だろうが。」

4:4 しかしイエスは、お答えになりました。 「それは違う。 聖書(旧約)には、『人はただパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。 わたしたちは、神のすべてのことばに従うべきなのです。」

 分かりやすく意訳したリビングバイブルを掲載しました。文語訳では「人はパンのみにて生くるにあらず」と端的に述べられています。

 キリスト教会は、ここに書かれている神様のことばの語られる場所であり、礼拝では聖書のメッセージが牧師さんをとおして語られます。

 今日は、その礼拝がおこなわれる日曜日です。ぜひ、キリスト教会にお出かけください。

 もちろん、朝食にパンなり、ご飯なり、お好きな物を召し上がってからでよろしいのですよ。満腹して寝てしまっては、行くことがむずかしくなりますけれど。

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2007年3月24日 (土)

秘密兵器

 ずっと以前、新聞の投稿欄にこんな記事がありました。

 「秘密兵器 ・・・ ぼくの友人は高校時代、野球部でした。監督に、お前は我が野球部の秘密兵器だとずっと言われ続け・・・とうとう彼は秘密のまま、卒業してしまいました。」

 読んで思わず笑ってしまいました。けれど、自省もせずにはいられませんでした。昨日は卒業式・・・秘密兵器のまま、卒業させてしまった子はいなかったかと。

聖書 イザヤ書 第43章 4節

  わたしの目には、あなたは高価で尊い。 / わたしはあなたを愛している。

 神様は、私たちひとりひとりにこう語りかけてくださっています。

  私たち自身を秘密兵器に終わらせることなく、平和のために、神様の愛を伝えるために神様が生かしてくださっていることを信ずることができますように。

  これは聖書のことばではありませんが、こんなことばがあります。

「すべての赤ちゃんは、神様がまだこの世を見捨ててはいないというメッセージを携えて生まれてくる」

  今日も、祝福の中を歩ませていただくことができますように。

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2007年3月23日 (金)

世界気象デー

 3月23日は、世界気象デーだそうです。説明・・・1950(昭和25)年、世界気象機関条約が発効し、WMOが発足しました。WMOは、加盟諸国の気象観測や気象資料の交換を行っている世界組織です。

 ということだそうです。ふと、思いました。人間は気象観測はできるが、気象を思いのままにあやつることはできない存在なのだと・・・。起こっていることを解釈し、原因を突き止めることはある程度できるでしょうが、「明日は運動会だから、晴れさせよう」ということは基本的にはできないのです。

 それは、いいことでもあるかもしれません。晴れて欲しいという人ばかりでなく、「明日あたり、一雨来ると畑の作物が助かるのだけれど」という人もいるでしょうから、一部の人の思いで天候が左右されるようになったら、きっと困る事態が頻発することでしょう。

聖書のことば  マタイによる福音書 第8章

8:23 (それから、)イエスと弟子たちの一行は舟に乗り込み、湖を渡り始めました。
8:24 すると突然、激しい嵐になりました。 舟は今にも、山のような大波にのまれそうです。 ところが、イエスはぐっすり眠っておられます。
8:25 弟子たちはあわてて、イエスを揺り起こし、「主よ。 お助けください。 沈みそうです」と叫びました。
8:26 ところがイエスは、「なんということでしょう! それでも神を信じているのですか。 そんなにこわがったりして」と答えられると、ゆっくり立ち上がり、風と波をおしかりになりました。 するとどうでしょう。 嵐はぴたりとやみ、大なぎになったではありませんか。
8:27 弟子たちは恐ろしさのあまり、その場に座り込み、「いやはや、なんというお方だろう。 風や湖までが従うとはなあ!」と、ささやき合いました。

 ここでは、イエス・キリストの神性が語られていると思います。「そんな非科学的なことが・・・」とお笑いになるか、「人にはできないことが、神にはできるのです、と聖書に書いてあるとおりだな・・・」と受けとめられるか・・・聖書のできるだけ広い範囲をお読みくださって時間をかけてお考えくださることをお勧めします。そして、できるならば、キリスト教会に足を運んで牧師さんから聖書の話を聞いていただくことをお勧めいたします。

 さあ、今日は晴れるでしょうか・・・卒業式なのです。

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2007年3月22日 (木)

最初に起き出す勇気

  今年は暖冬でしたけれど、それでも朝、一番早く布団から起き出して、ストーブなどを点火して部屋を暖かくするのは、なかなか勇気というか、決意が要ることではないかと思います。

  「うちは、時間をセットしておくとストーブ自身がちゃんと点火して部屋が暖まっているよ」とおっしゃるかもしれませんけれど。

 我が家では、じゃんけんするなどしていましたが、ほんのいっとき、最年少の存在である二男が、寒い朝のストーブ点火係を引き受けていました。「一段ロケット発射」というと「わーいわーい」という感じで喜んで布団から飛び出していったのです。残りの家族はその恩恵にあずかり、ぬくぬくしていました。

  それが長続きしなかったのは、二男がそのうちにたくらみに気づいて、こういうようになったからです。

「一段ロケット発射ー」「あっ、ロケット爆発してまった」

  以来、一段ロケットは最初に飛び出さずに横たわったままになりました。・・・残念、でも考えてみると、もともと、一段ロケットは一番大きく重いのですよね、そうなると・・・

  しばらく我が家では、また、じゃんけんが復活したように思います。

 多分、暖房具にもよりますけれど、多くの家庭では家族への愛の一番深い方がこの栄光在る役目をになっておられるのでしょうね。

聖書のことば マルコによる福音書 第12章31節

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

 今日も、神様が喜んでくださる歩みを為すことができますように。

祝福をお祈りいたします。

 

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2007年3月21日 (水)

D51・・・デゴイチ

 岐阜市の梅林公園には蒸気機関車D51(愛称デゴイチ)が設置されており、運転席にも乗り降りできるので人気があります。

 この蒸気機関車が坂道でスリップするのを防ぐために線路に砂をまくと聞いたとき、(えっ、かえって滑りやすくなるのではないか)と驚きました。けれど、砂で滑りやすくなるのは、車体が軽いときで、デゴイチはしっかりと線路に動力が伝わるようにするため、車体を重くしてあるのだ、と教わりました。

 ほう、そういうものか、と感心したのが中学2年生か3年生の理科の時間だったと思います。熱効率が8%ほどの蒸気機関車に対して、電車は熱効率が80~90%ほどだということだったでしょうか。

 ジーゼル車が高山線を走り始めて、クラスから代表が乗りに行ったのが小学3年生か4年生のころだったと覚えています。その代表がうらやましかったのですが、蒸し暑い車内だったのに、危ないからと窓を閉め切って走ったので、と体調をくずして帰ってきたので許してあげることにしました。・・・なんで、いまだにこんなことを覚えているのでしょうね。

 デゴイチを重く作ってスリップしないようにする・・・私たちの人生の歩みが上滑りしないで、生きることにしっかりと足が食い込むような、文字通り地に足のついた歩みをするのに人生の重荷はあるのかもしれません。でも、正直に申しますと、地面に足が食い込むような重い人生ではなく、できれば小鳥のように空を自由に飛んでいたいと思います。あなたも、そうではありませんか。

聖書のことば  ヨハネによる福音書 第16章33節

  あなたがたは、世にあっては患難があります。
  しかし、勇敢でありなさい。
    わたし(イエス・キリスト)はすでに世に勝ったのです。

 私たちの身代わりとなって重い十字架をにない、その命をもって私たちを救ってくださった方がおられるのです。

 ある意味で、デゴイチになって、車輪を空転させず、私たちの人生をともに歩んでくださるのがイエス・キリストです。

 空を飛ぶ鳥を養ってくださる神様は、私たち人間をそれ以上に愛してくださっています。そのことを信じ、感謝して今日も歩ませていただきましょう。よき日としていただけますように。
         

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2007年3月20日 (火)

初めてのレコード

 3月20日は、上野動物園開園記念日・・・1882(明治15)年、上野に日本初の動物園として、上野動物園が開園。開園当初は、水牛、猿、鷲などが人気を集めていた・・・だそうです。

 ここまでは、話のきっかけで、もう一つ・・・1951年の3月20日に日本コロムビアが日本初のLPレコードを発売したとのことです。

 あなたは、レコードかCDをおもちでしょうか。どんなレコード、CDが購入第一号ですか?

  私の場合は、ダニー・ケイ、ルイ・アームストロングが出演した音楽映画「五つの銅貨」のサウンド・トラック盤が最初でした。そして「グレンミラー物語」、「ウエストサイド物語」、エディ・デュウティンというピアニストの伝記映画「愛情物語」のテーマ音楽トゥラブアゲインの入ったレコード(原曲はショパンのノクターン)へと続きます。

  一枚のレコードを買うのに、わくわくしたことを覚えています。中学時代の友だちは、確か成人式を迎えたお姉さんに、小遣いをためてレコードを贈っていました。

  それはかなり前のことなのですが、不思議なことに当時のLPレコードと現在のCDの値段はほとんど同じように思えます。卵の値段が長期にわたってあまり変わったように思えないのと似ています。

  今、レコードをかけようと思うとプレーヤーや針を準備するのが難しい時代になってきました。アナログの音源をデジタルへ、ということができるようになっています。けれど、レコードはレコードとして持っていたいし、レコードとして聴きたい思いがあります。単なるノスタルジーでしょうか。

  とにかく、時間を大切に・・・そして遠ざかっていく青春を、すなわち少なくともそのときには若々しく生きていた自分を、恥ずかしがらずにいとおしんで生きよう・・・初めて買ったレコードを思い出しながらそんなことを思うのです。

聖書のことば  雅歌 第2章12節

花が咲き、小鳥の歌う季節になった。 そう、もう春なんだよ。

 花や小鳥のように、すなおに、神様にしたがって心から春を楽しむことができたら、と願います。これは青春への郷愁ということ以上の思いでもあります。 今日という春の日、心に豊かな音楽が響きますように。

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2007年3月19日 (月)

さくら前線のスピード

 最近読んでいる本、さだまさしの『本気で言いたいことがある』(新潮新書・2006年4月20日発行)に「春の歩みはお母さんの足」という章があります。

  日本列島を南から北に移動していく桜前線は一日ほぼ20キロ、秒速にすると23センチと少し・・・これは、(個人差はあるでしょうが)女の人の靴の大きさなので、そうした数字をとらえさせていくと子どもにはお母さんのように春が近づいてくるイメージが浮かんでくるのではないか、という内容です。

 続いて、満開日というのは八分咲きのことで、開花日から毎日の最高気温をたしていって125度になるころという法則があるのだと書かれていました。

  興味を覚えました。子どもたちが自然現象を具体的にイメージしたり、科学と結んで解き明かしたり、新たな発見をしたりして学んだことは忘れにくく、いろいろな学びにつながっていく土台となると思います。詩人の感性が科学と結びついているところに新鮮さも感じました。

聖書のことば  ヨハネの手紙 第一 第4章10節

  この神様の行為によって、私たちは、何がほんとうの愛か、知ることができました。 真の愛とは、神様に対する私たちの愛ではなく、私たちに対する神様の愛なのです。 それは、私たちの罪を責める自らの怒りをなだめるために、神様がひとり息子を差し出された愛に尽きるのです。

  神様の「愛」を観念的なものにとどめないで、具体的に理解するために、イエス・キリストを実際に地上に生きる人間として神様はこの世に遣わしてくださいました。それによって、私たちは神様の「愛」を知ることができるのです。

  抽象的な存在でなく、具体的で身近な方として、神様、イエス・キリストを感ずることができますように。キリスト教会に行かれること、聖書を読むこと、神様に祈ること・・・この三つをお勧めいたします。

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2007年3月18日 (日)

心の内側からわき出る歌

  「白雪姫」「ダンボ」などのアニメーション映画の元祖ディズニーは、いくつもの映画の主題歌を作曲したそうです。

  また、映画「ライムライト」の主題歌を作曲したのは、その映画を制作、主演したチャップリン自身だそうです。

  不思議なのですが、この二人は、楽譜を読んだり、記したりすることはできなかったそうです。・・・ずっとそうだったのか、やがて楽譜が読み書きできるようになったのかは定かではありませんけれど。

  上のような例を聞くと作曲法を習うこと、楽譜の書き方を身につけること人を魅了するメロディをつくり出すこととはどんな関係にあるのかと思います。どちらかを選べと言われたら、私は楽譜を読み書きできなくてもすてきなメロディをつくれるほうを選びたいと思います。

  もちろん、メロディを口ずさむと、それを楽譜にしてくれる人が居てこそ音楽として仕上がり、映画も完成できるわけですから、ハートの部分と技術の部分の一方だけを優遇するわけにはいきませんけれど・・・。

聖書のことば  詩篇 第40篇 3節

神様は私の口に、新しい賛美の歌を授けてくださいました。

  神様を信じ、神様に愛されている喜びを表現するために歌う歌声は、たとえリサイタルを開くような域に達していなくても、神様は喜んでくださいます。

 歌だけでなく、私たちの発することば、おこない・・・そのすべてが春の訪れを告げる鳥の声のように、神様を讃え、感謝するためものであったら、どんなに幸いでしょう。

 今日のひと日、神様の祝福の内を歩むことができますように。日曜日にはキリスト教会におでかけになることをお奨めいたします。

  

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2007年3月16日 (金)

聖書を書いたのは

 聖書は、キリストが誕生する以前のことを記した旧約聖書39巻と、キリスト誕生後のことを記した新約聖書27巻、合計66巻からなる書物です。

 それぞれの巻を記した人が特定できている場合とそうでない場合とがあります。長い年月にわたって、そして国籍も異なる人たちによって書かれているのですが、どの人も神様に用いられ、神様に与えられた霊感に導かれて信仰をもって聖書を記した、と信じられています。

  上記の考え方を土台として、聖書全体の著者は誰かということをこんなふうに考えてはどうかと話してくださった方がいました。私には、分かりやすく思えたのでそれを書かせていただきます。

 この世界に、聖書の著者となることが考えられる存在として、1.神様 2.善人・天使

3.悪人・悪魔 が居るとする。

 3の悪人・悪魔は、自分たちにとって神様のこと、キリストのことを正しく伝える書物を書くことは自分たちの存在を追い詰めることになるので、聖書を書くことはしない。

 2の善人・天使は、自分を神の座においてしまって、神様がおっしゃらないことを神がおっしゃった、と聖書に記述することはしない。

 そうすると、聖書全体の著者として(書き手を用いるということはされても)考えられるのは、1の神様しかおられない。

というのです。このブログを読んでくださるあなたは、どのように思われますか。

聖書のことば   ヨハネによる福音書 第5章39節

 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたし(イエス・キリスト)について証言しているのです。

 聖書について詳しいことは、牧師さんを通して学んでくださると、ヘブル語やラテン語、ギリシャ語などのことも含めて、説き明かしていただけることと思います。もちろん、牧師さんといえども、得意、不得意がおありですので、お尋ねしてその日の内に、というのは難しい場合もあると思いますので、時間的な猶予も設けていただくことになると思いますけれども。

 今日も、神様がわたしたちをただ一度限り招待してくださっているこの世でのかけがえのない日として、謙遜に、そして内側からの力で満たされて歩むことができますように。

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2007年3月15日 (木)

祝賀

  年齢が高くなると、記憶力に代わって忘却力が強まってきます。これを嘆かないで、いいことだけを覚えておき、覚えていてもあまりよくないことは・・・たとえば「いついつのとき、あの人はこんなことばで私を傷つけた」というようなことは、せっせと忘れてしまうことにすると世の中が明るくなってくるように思います。

 このところ、宮城谷昌光さんの『子産』を読んでいるのですが、たしか、一度は読んだはずなのに、とても新鮮に読めるのです。これも忘却力のもたらすプレゼントでしょう。

 さて、その中に、「祝」「賀」はどちらもいわうことだけれど、「賀」は、今日までにいたることをいわい、「祝」はこれからのことをいわうのだと書かれていました。

 漢字の世界の奥の深さに改めて目を開かれた思いがしました。

聖書のことば  イザヤ書 第43章13節

 永遠から永遠まで、わたしは神だ。 わたしが何かをしようと身構える時、その前に立ちはだかる者は一人もいない。」

 神様は、来し方行く末にわたって永遠から永遠まで神である方です。本当の意味で「祝賀」してくださる方です。

 この方に信頼して、今日も歩んでまいりましょう。

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2007年3月14日 (水)

はぐくむこと、春のごとし

  「はぐくむこと、春のごとし」ということばを教えてくださった方があります。

 春になると、いろいろな植物が芽吹き、花を咲かせます。

 「教育」「教え育てる」と読み下すと、教えるのも育てるのも一方からの働きかけとなります。「教え、育つ」となると、一歩前進かも知れません。「教え合い、育て合う」という相互からの啓発が為される、あたたかく、そして厳しい緊張関係が「教育」でありたいというのが、今のところの私の思いです。

  学校や家庭が、よく肥えた大地となって、そこに存在する一つ一つの種が根付いて伸びるように春のようにはぐくむところとなる・・・そうでありたいと思います。

  ただし、種も、蝶の卵やさなぎも低温を経験してこそ、健康に育つのだそうです。

聖書のことば・・・今日は、毎日、聖書のメッセージを届けてくださる関根一夫牧師さんのメールレターをそのまま紹介させていただきます。

今日のひとこと箴言
13:24 鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。

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 これは決して暴力的に子供を威嚇すると言う意味ではありません。むしろ、誤りを正す場合の厳しい言葉の鞭でしょう。この鞭を与える場合、親にとっても「痛いものだ」という自覚を持って語る必要があるように思います。つまり、子供への厳しい言葉を楽しんではならないのです。

 そこには「諭し」「戒め」「赦し」の心が添えられなければなりません。鞭を控えるという態度は、子供がどんなことをしても、黙って見過ごし、放任し、決して正そうとしない、親の怠慢につながっています。そして、それは結果的に子供を憎んでいることと同じ意味になってしまうのです。子供のことなどどうでもよいという雰囲気がそこにはあります。

 愛の反対語は憎しみではなく、無関心だとある人が言いましたが、無関心はいつしか相手に対する憎悪を生み出してしまうことがあるのです。わずらわしいと感じてしまうことが多いからです。

 神様のわたしたちへのまなざしは、常に熱心な愛にあふれたものです。そこには、ほほえみとうながしの言葉があふれています。
それを希望、また教訓としてわたしたちは生きるのです。
  祝福がありますように。 関根一夫

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 関根一夫牧師さん、ありがとうございました。今日の箴言のもとにある神様の愛は、麦を踏む心と通ずるように思います。

 今日も元気に歩み、よき実を結ぶことができますように。

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2007年3月13日 (火)

星の世界

  3月13日というのは、天王星が1781年のこの日に発見され、1930年のやはりこの日に冥王星の発見が公表されたという、何だか映画「バック トゥ ザ フューチャー」に出てくる雷が落ちた日のような特別の日に思えてくる日です。(その映画を見たことのある方には分かるという書き方で申し訳ありません。)

 天王星を発見したハーシェルは本職は宮廷音楽家で、趣味は天体観測だったそうです。後に、この発見の手柄によって王室付きの天文官になったと『今日は何の日』(PHP研究所刊)に書かれています。

 さて、冥王星のほうは、2006年8月25日に惑星からはずされましたから、惑星の座にいたのはちょうどハレー彗星の一周期間分ほどの年月だったわけですね。

 ディズニー映画「ピノキオ」の主題歌、♪「星に願いを」は多くの人に愛されています。けれど、星を、そして全世界を創造された方、神様にこそ祈りをというのがまとをはずさない在り方だと私は思います。

聖書のことば  マタイによる福音書 第5章 34節~36節

  わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。

 ロミオとジュリエットに、「夜ごと位置の変わる月などに誓ってはいけません」というような台詞があったように思います。法廷における宣誓も本当に神様を信じている場合の宣誓は意味を持つのでしょうけれど・・・。

  太古の昔から輝いている星さえも創造された永遠なる神様に思いを馳せ、その方が私たちを愛してひとり子、イエス・キリストを救い主としておつかわしくださったそのことを深く考えていただくことができますように。

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2007年3月12日 (月)

アンネ・フランク

 『アンネの日記』を書いたアンネ・フランクは、1945年3月12日に収容所で亡くなったのだそうです。隠れ家で暮らしていることが見つからなかったら、あるいは、終戦まで生き延びることができたら、いくつかは出版されている童話も彼女の望んでいたようにもっとのびのびとたくさん創り続けることができたことでしょうね。

 アンネのお父さんによって、『アンネの日記』は出版され、「アンネのばら」も平和を願っていろいろな国で咲き続けているようです。

 戦争によって、あまりにも多くの方の命と夢がうしなわれ、家族を亡くした方の人生も、願っていたのとは全然別のものに変えられざるを得ませんでした。

  いえ、今も戦火はこの地球上から消えてはいません。戦争をなくすために、歴史からもっともっと学ばなくてはならない私たちではないでしょうか。

聖書のことば  マタイによる福音書 第5章 9節

  平和をつくり出そうとしている人は幸福です。 そういう人は神の子供と呼ばれるからです。

  まず、自分の家族、職場の人とのあいだなど、身近なところに平和を保ったり、つくり出したりすることができますように。

 さらに、それ以前に、自分自身に対して心の中に平和をつくり出すこと・・・まず、そのことを神様から力をいただいて実現できる日としていただけますように。

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2007年3月11日 (日)

高村光太郎

 詩「道程」が中学校の教科書に載っていたのが高村光太郎の名を知った最初でした。

 パリで学んでいた頃の光太郎は、ノートルダム寺院を毎日訪れていたようです。『雨にうたるるカテドラル』という詩を知人が教えてくださいました。

  この詩に興味をもって、高村光太郎の年譜などをひもとくと、いくつものことが目の前に表れてきました。

◇ 上野の西郷さんの像は、光太郎の父、光雲の作であること

◇ 妻、智恵子は、平塚らいてうの「青鞜」の表紙の絵を書いていたこと

◇ 光太郎には「明星」に短歌を投稿していた時代があること。やがて、詩へと移っていったこと。

◇ 宮沢賢治の弟、清六のすすめで岩手県に疎開したこと

などなど。

  その光太郎が、ロダンのモデルになった花子さんに会いに岐阜を訪れたことがあり、花子さんに書いたお礼の手紙を(コピーですが)目にする機会がありました。 いろいろな足跡が残されているのですね。

 情熱にあふれる魂は、短歌、詩、彫刻などいくつもの分野を横断してその燃えるような生を発露し、人生そのものが一本の大木のように屹立しているように思われます。

  『智恵子抄』から「梅酒」という詩をご紹介します。光太郎自身がこれを朗読しているテープを聴いたことがありますが、途中から涙をぬぐっているような朗読で、感銘深いものでした。

死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光を葆(つつ)み、
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨(くりや)に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒涛の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻きにする。
夜風も絶えた。

  智恵子は福島の造り酒屋の娘だったそうですから、光太郎への愛のこもった梅酒はきっと最上のできだったことと思われます。

聖書のことば コリント人への手紙 第一 第13章 13節

  いつまでも残るものが三つあります。 信仰と希望と愛です。 その中で一番すぐれたものは愛です。

  私たち一人一人、後世に何を残せるかはわかりません。けれど、たとえ、偉大な作品を残せなくても、今のままの私たちの存在そのものを喜んで愛してくださる方がおられるのです。

  わたし(神様)の目には、あなたは高価で尊い。 / わたしはあなたを愛している。  イザヤ書43章4節

  今日も神様が一人一人を豊かに祝福してくださっています。そのことを感謝し、りきまずに歩んでまいりましょう。
 

 

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2007年3月10日 (土)

塩狩峠

 北海道の手塩地方と石狩地方の間に両方の地名をあわせたのでしょうか、塩狩峠という峠があります。三浦綾子さんの小説『塩狩峠』は、この峠で実際に起こった列車事故で、自分の命と引き替えに乗客の命を救ったクリスチャンの生涯をもとに描いた作品です。

 この峠は勾配がきついので、客車の前後に機関車がつくことになっていたそうですが、事故の起こった当日は、何かの事情があって客車の後ろから押す機関車がついていなかったそうです。峠を登る途中で最後の客車がはずれ、坂道を暴走する状態になってしまったとき、一人のクリスチャンが自分の身命を投げ出して列車の下敷きになり、その犠牲によって客車の暴走が食い止められたのが明治42年2月28日のことだそうです。

  小説『塩狩峠』では、このクリスチャンは事故の当日、自分自身の結納の場に向かう設定になっていますが、実際に命を投げ出した方は、いつ、自分の命が召されるときが来てもいいように、毎年、年頭に遺言状をしたためて、世のためにこの命を用いてくださいとの覚悟をいつもしていたそうです。普段からその決意をもって歩んでいればこそ、とっさのときに決断できるのだと思うと心身の引き締まる思いがいたします。

  『塩狩峠』は映画化もされましたので、ご存じの方も多くおられることと思いますが、最近、改めて鑑賞して改めて感動しましたので、ブログに掲載させていただきます。

聖書の言葉   ヨハネによる福音書 第15章13節

  人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

 もちろん、家族もあることですし、自分自身の命を含めてどの命もかけがえのないものです。

  神様からたった一度限り、この世に招待されている私たち一人一人の人生をかけがえのないものとして受けとめ、世の光、地の塩として歩めたらと願います。 本日も神様が豊かに祝福して歩ませてくださいますように。

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2007年3月 9日 (金)

875回・・・蜜の話続編

 875回・・・昨日のミツバチの日の続編です・・・スプーン一杯の蜂蜜を得るために花と巣をミツバチが往復する回数なのだそうです。

 月曜日から土曜日の朝6時15分から10分間、ラジオ岐阜で「さわやか世の光」という聖書に基づいて語られる牧師さんのショートメッセージと賛美歌などの音楽が放送されています。「875回・・・」は昨日のその番組で耳にしました。

 よろしかったら、この放送もお聞きください。

聖書のことば  箴言25章16節 

  蜜を見つけたら、十分、食べよ。 / しかし、食べすぎて吐き出すことがないように。

リビングバイブルでは次のように訳されています。

いくら好きな物でも、食べすぎたら気持ちが悪くなります。

 これは、蜂蜜などの食べ物についてだけでなく、いろいろなことに応用できる聖句(聖書のことば)ですね。

 今日も神様の祝福がありますように。

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2007年3月 8日 (木)

みつばちの話

 3月8日は、そうです、3と8の語呂合わせでミツバチの日・・・全日本蜂蜜協同組合と日本養蜂はちみつ協会が制定したのだそうです。

 せっせと働くミツバチの一匹が生涯かかって集める蜜の量は、次のどれでしょうか。1.大さじ一杯分 2.小さじ一杯分 3.耳かきの先っぽに少しつけたくらい

 いつもあたるとは限りませんが、選択肢の問題があって、一つの選択肢だけが長い場合、それが正解である確率は高いのです・・・

 というわけで、今回の正解は3番です。一生かかってそれだけというのはいかにも少ないのですが、ミツバチも食事をして生きていかなければなりませんので、集めた量ー消費量=耳かきのさきほど ということなのだと思います。

聖書のことば  士師記 第14章

14:5 サムソンと両親がティムナへ行くと、町はずれのぶどう畑で、一頭の若いライオンがサムソンに襲いかかりました。
14:6 その瞬間、神の霊が激しい力をサムソンに注ぎました。 サムソンは武器を持っていませんでしたが、素手でライオンのあごをつかむと、真っ二つに引き裂いてしまいました。 まるで子やぎを引き裂くように、難なくやってのけたのです。 しかし、このことは両親には黙っていました。
14:7 ティムナに着くとさっそく、サムソンはその娘と語り合い、ますます気に入って、結婚の約束を交わしました。
14:8 結婚式のためにまた出かけて来たサムソンは、途中ライオンの死骸のことが気になり、その場所へ立ち寄ってみました。 すると、死骸に蜜ばちが群がり、蜜がしたたっているではありませんか。
14:9 彼は蜜をかき集め、歩きながら食べました。 また、両親にも食べさせたのです。 しかし、どこで手に入れたかは教えませんでした。
14:10 -11父親が結婚の手はず万端を整えてくれると、サムソンはしきたりどおり村の若者三十人を招き、祝宴を催しました。
14:12 サムソンがなぞ解きをしないかと持ちかけると、皆は乗り気になりました。
「もし君たちが、七日間の祝宴中に私のなぞを解いたら、白生地の着物三十着と柄もの三十着を差し出そう。
14:13 だが、もし解けなかったら、同じものをもらうぞ。」
「よかろう。 言ってみろよ。」
14:14 「食らうやつから食い物が出、強いやつから甘い物が出た。」 三日たちましたが、まだ解けません。

  サムソンは、神様が力をくださるときには、天下無双の怪力を発揮しました。神様のお言葉に従って髪の毛を切らないときには、という状況においては、ということなのですが・・・。

  サムソンの生涯からはいろいろな教訓を読み取ることができるのですが、神様のことばに従うとき、神様は私たちにも大きな力を与えてくださるということをサムソンは象徴しているように私は思います。

 聖書には上の箇所のように、なぞなぞが登場することもあるのですね。さて、このなぞ解きの勝負は、若者たちがある手段をつかって正解を出したので、サムソンの負けとなりました。

 どのようにしてなぞは解かれ、その後の展開はどうだったのか・・・お知りになりたい方は、ビクター・マチュアという俳優が主演した「サムソンとデリラ」という映画をご覧ください・・・というのは気を持たせすぎなので、続き読むをクリックしてください。

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2007年3月 7日 (水)

歴史の中での結びつき

 ここしばらく『神の旅人』ーパウロの道を行くー 森本哲郎著・新潮社・昭和63年5月発行 という本を読んでいます。

 パウロは新約聖書の27巻の書物の内、約半数にあたる13巻の書を神様に用いられて、ローマの囚人とされた牢獄の中などで書き表した人です。パウロは、初めのうちはクリスチャンを迫害していたのですが、後にイエス・キリストのために命を投げ出して伝道する人へと変えられ、ついには殉教した人物です。

 『神の旅人』の著者がタルソという町に向かう途上、森本さんはパウロがたどったこの道を70年ほど前に通ったある人物を思い浮かべたそうです。・・・その名を見て、「えっ、そうなのか」と私は驚きました。

 ♪「それは誰かと尋ねたら」・・・という風に展開すると昨日書いた笑点調になってしまうので、もう少し真面目に述べますと・・・何と、クレオパトラだそうです。

  さらに、裁判を受けるためにパウロがローマに向かったのが紀元61年頃であり、その18年後・・・紀元79年8月4日にベスビアス火山の爆発によって、栄えていたローマの都市ポンペイがあっという間に火山灰の下に埋もれてしまったのだとこの書に書かれています。

    この本を読んで、今まで国籍も歩んだ人生もまったく異なる、全然関わりのないひとたちと思っていたパウロとクレオパトラに接点が見つかり、パウロの殉教した年とポンペイの町が埋もれた年とがごく近いことがわかり、とても興味深く思いました。

  余談ですが、発掘されたポンペイの町では盗難防止のために「猛犬に注意!」(もちろんローマ語でしょうね)と門に打ちつけた犬の絵なども見つかっているそうです。

聖書のことば  コリント人への手紙 第一 第13章12節

  今の私たちの神様に対する知識や理解は、そまつな鏡にぼんやり映る姿のようなものです。 しかし、やがていつかは、面と向かって、神様の完全な姿を見るのです。 いま私が知っていることはみな、おぼろげで、ぼんやりしています。 しかしその時には、いま神様が私の心を見通しておられるのと同様、すべてが、はっきりわかるでしょう。

  どんなに学んでも、神様の真理・摂理を理解し尽くすことはできない私たちですが、すべてを神様が明らかにしてくださるときがくると聖書は語っています。

  これは、今読みかけの本を読了したり、謎に満ちた推理小説の犯人を解き明かすことよりもはるかに胸の躍ることですね。

 さあ、今日はどんな神様のわざをみせていただけるのでしょうか。苦しみの中に私がいるときほど、そして弱いときほど神様の力が強く働いてくださるので私は強いのだとパウロは記しています。(コリント人への手紙 第二 12章10節) 今日も、神様を信頼して歩みましょう。お祈りさせていただきます。私の祈りではこころもとないと思われる方、そうでない方も機会をぜひ作って、お近くのキリスト教会へお出かけください。

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2007年3月 6日 (火)

「笑点」

  日本テレビの人気長寿番組「笑点」は3月4日で2055回を数えました。昨年の12月18日のブログに、三浦綾子さんの『氷点』のことを書いていますが、「笑点」は氷点をもじって名付けられ、1966年5月にスタートしたのだそうです。

 三浦綾子さんも笑いは体によいからと、楽しみにしてごらんになっていたことを『命ある限り』という著書の中で書いておられます。その本の中に、ご主人に「わたし、笑いたいの。笑わせて」と綾子さんがご主人に頼んだそうです。すると、ご主人である光世さんは、にこりともせずに只ひとこと大声で「笑え」と言い、綾子さんは噴き出して、実に笑ったのだそうです。

 何とすてきなご夫婦なのでしょう。三浦綾子さんは天に召されましたけれど、永遠の夫婦と呼んでよろしいでしょうね。

聖書のことば 箴言 第17章 1節

一切れのかわいたパンがあって、 / 平和であるのは、 / ごちそうと争いに満ちた家にまさる。

 分かりやすく意訳したリビングバイブルでは、次のように書かれています。

けんかしながら毎日ビフテキをぱくつくより、冷や飯を仲よく食べるほうがましです。

 どうか、明るい笑顔の交わされる毎日でありますように。そうなるように神様が祝福してくださいますように。

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2007年3月 5日 (月)

「今日は何の日」

3月5日は・・・次のような日なのだそうです。

記念日
 ・珊瑚の日・・・
  「さん(3)ご(5)」の語呂合せと、珊瑚が3月の誕生石であることから。

出来事
 ・1967年 第1回青梅マラソン開催。参加者33人
 ・1981年 黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』が発刊

 青梅マラソンと先日3万人を越える参加者があった東京マラソンとの関係も分からない私ですが、とにかく、42.195キロを完走できる人が世の中にたくさんおられることに感心してしまいます。

 黒柳徹子さんは、テレビで博識ぶりを発揮しておられますし、著書『トットちゃんとトットちゃんたち』からは、平和を願ってユニセフの大使として世界を駆けめぐっておられる熱い思いと行動力が伝わってきます。

 日本で年末の時期にベートーベンの「第九」の演奏会が根付いているのは、黒柳徹子さんのお父さんが端緒のようですね。また、その演奏会がきっかけで、ご両親が出会われ、結ばれ、徹子さんが誕生したのだとか・・・。

 上記のほかにも、この日は何かの記念の日であり、いろいろなことがこの日に為され、また、3月5日が誕生日のかたとか、いろいろなかたがおられることでしょうね。

聖書のことば  詩篇 第118篇

118:24 きょうこそ、主がお造りになった日です。 さあ、この日をぞんぶんに楽しみましょう。

 3月5日に限らず、一日、一日がかけがえのない日です。大きなドラマが展開するかどうかはわかりませんが、神様があたえてくださった私たちの人生の大切な日です。毎日、毎日が神様に祝福をいただいて歩むことができる日となりますように。

 

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2007年3月 4日 (日)

一枝に紅梅と白梅が

Photo  岐阜市の梅林公園は、3月3日と4日に梅まつりを開催します。その梅林公園に「輪ちがい」という梅の木があります。写真が小さくて見えにくいかも知れませんが、一つの枝に紅梅と白梅が咲く木なのです。(写真をクリックしていただくと大きい画像で見ていただけます。)

 あまりにたくさんの梅の木が周囲に咲いているので、自分がどの色で咲く花を咲かせたらいいのか迷って二色の花を咲かせるようになったのかもしれませんね。

 人為的にたくさんの色の梅を咲かせるように接ぎ木した盆栽仕立ての「五色梅」というのがあると耳にしたこともあります。

 あなたは、いちずに単色で咲く梅と何色かの花をつける梅と、どちらにひかれますか。えっ、私ですか・・・うーん、どちらもけなげですよね・・・そう思っているなら、人に尋ねてはいけませんね。

聖書のことば ルカによる福音書 第16章 

今回も分かりやすく意訳されたリビングバイブルの訳で掲載させていただきます。

16:13 だれも、二人の主人に仕えることはできません。 一方を憎んで他方に忠実であるか、あるいは、一方を重んじて他方は軽んじるようになるからです。 神とお金の両方に仕えることはできないのです。」

 人間の節操としては、カメレオンのように色を変えないで、神様のことを第一として歩むことを大切にして生きなさいと聖書には述べられています。  あなたがたクリスチャンは地の塩です。塩がその塩気をなくしたら、何の役にもたちません、と厳しいことばが述べられています。けれど、塩味を保てるように力を与えてくださるのも神様なのですね。

 日曜日にキリスト教会へ行くことのできる道が開かれますように。

 

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2007年3月 3日 (土)

給食

School_lunch_33  左の写真は、3月初めのある日の学校給食です。おいしそうでしょう。(写真をクリックしていただくと大きい画像で見ていただけます。)

 まんなかの絵のついた容器はデザートのゼリーです。ひし餅の形のゼリーは三段になっていて、三色・・・緑は大地、白は雪、ピンクは桃の花を表すのだそうです。

  学校給食に郷愁を感じる方もいて、学校の机と給食風のメニューを用意してお客に喜ばれているレストランもところによってはあるそうです。

  「きゅうしょく」の歴史の変遷を、「窮食」・「救食」・「求食」・「究食」などの漢字をあてて語る人もいますが、食料のとぼしい時代に給食が始まってからの移り変わりをよく表しているかもしれません。

聖書のことば  ルカによる福音書 第15章 放蕩息子のたとえ話をリビングバイブルという分かりやすく意訳した訳で掲載させていただきます。

15:11 イエスはもっとよく説明しようと、また別のたとえ話もなさいました。
「ある人に息子が二人いました。

15:12 ある日、弟のほうが出し抜けに、『お父さん。 あなたが亡くなってからじゃなく、今すぐ財産の分け前がほしいんだけどな。 だめですか』と言いだしたのです。 それで父親は、二人にそれぞれ財産を分けてやりました。

15:13 もらう物をもらうと、何日もたたないうちに、弟は荷物をまとめ、そそくさと遠い国に旅立ちました。 そこで放蕩に明け暮れ、全財産を使い果たしてしまいました。

15:14 一文なしになった時、その国に大ききんが起こり、食べる物にも事欠く有様でした。

15:15 それで、その地方のある農夫に頼み込み、畑で豚を飼う仕事をもらいました。

15:16 あまりのひもじさに、豚のえさのいなご豆さえ食べたいほどでしたが、だれも食べる物をくれません。

15:17 こんな毎日を送るうち、彼もやっと目が覚めました。 『あーあ、家なら雇い人にだって、あり余るほど食べ物があるだろうな……。 なのにおれときたら、なんてみじめなんだ。 こんなとこで飢え死にしかけてる。

15:18 そうだ。 家に帰ろう。 帰って、お父さんに頼もう。 「お父さん。 すみませんでした。 神様にも、お父さんにも、罪を犯してしまって……。

15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。 どうか、雇い人として使ってください。」』

15:20 決心がつくと、彼は父親のもとに帰って行きました。 ところが、家までは、まだ遠く離れていたというのに、父親は息子の姿を、いち早く見つけたのです。 『あれが帰って来た。 かわいそうに、あんな、みすぼらしいなりで……。』こう思うと、じっと待ってなどいられません。 走り寄ってぎゅっと抱きしめ、口づけしました。

15:21 『お父さん。 ごめんなさいっ! ぼくは神様にも、お父さんにも、取り返しのつかないことをしでかしました。 もう息子と呼ばれる資格はありません……。』

15:22 ところが父親は、使用人たちにこう言いつけたのです。 『さあさあ、何をぼやぼやしている。 一番よい服を出して、これに着せてやれ! 宝石のついた指輪も、くつもだ。

15:23 あっ、それから、肥えた子牛を料理して、盛大な祝宴の用意も忘れんようにな。

15:24 死んだものとあきらめていた息子が生き返り、行方の知れなかった息子が帰って来たのだから。』こうして、祝宴が始まりました。

15:25 ところで、兄のほうはどうでしょう。 その日も畑で働いていました。 家に戻ってみると、何やら楽しげな踊りの音楽が聞こえます。

15:26 いったい何事かと、使用人の一人に尋ねると、

15:27 『弟さんが帰られたのでございますよ。 だんな様は、たいへんなお喜びで、肥えた子牛を料理し、ご無事を祝う宴会を開いておられるのです』と言うではありませんか。

15:28 事情を聞くと、無性に腹が立ってきました。 中に入るのさえしゃくにさわります。 父親が出て来て、いろいろとなだめてみました。

15:29 それでも気持ちはおさまりません。 『私はこれまで、お父さんのために汗水流して働いてきたんですよ。 言いつけにだって、ただの一度もそむいたことはありません。 なのに、友達と宴会を開けと言って、子やぎ一匹くれたことがありますか。

15:30 ところが、女にうつつを抜かし、あなたのお金を使い果たした弟のやつには、最上の子牛を料理して、お祭り騒ぎをするんですか』と、食ってかかりました。

15:31 すると父親は言いました。 『いいか、よく聞きなさい。 おまえはいつだって、私のそばにいたじゃないか。 私のものは全部おまえのものだ。

15:32 だがな、考えてもみな。 あれはおまえの弟なんだよ。 死んだと思ってあきらめていたのに、無事に帰って来たんじゃないか。 いなくなっていたのが見つかったんだから、お祝いするのはあたりまえじゃないか。』」

 このたとえ話の父親は、神様のことです。さて、あなたは、この話に出てくる弟のようでしょうか、兄のようでしょうか。 このたとえ話の説き明かしはなかなか興味深いので、キリスト教会の牧師さんのところを訪れてお話をうかがうことをお勧めいたします。

 

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2007年3月 2日 (金)

遠山の金さん

  あるメールレターに3月2日は「遠山の金さんの日」とありました。それによると1840(天保11)年、3月2日に遠山の金さんこと遠山左衛門尉影元が北町奉行に任命されたのだそうです。実在の人だったのですね。実際に遠山の金さんが、テレビに出てくるような活躍をしたかどうかは分かりませんけれど。

 さて、遠山の金さんにしても、水戸のご老公にしても身分を隠して探索し、勝負どころで「この桜吹雪が目に入らないかとか「この印籠の紋所が目に入らないか」と正体をあかし、悪人が「ハハーッ」と平伏するところで、視聴者は胸がすーっとするという展開です。

  これは人情というものでしょう。けれど、スピード違反、道路標識違反をネズミとりや覆面パトカーなどで取り締まられると、「ハハーッ」という気持ちにはなりにくいのも、また人情というところが人間の不可思議なところですね。

  隠れていてつかまえるより、堂々と姿を現して取り締まれば違反させないで法律を守らせることができるではないか・・・と、そういうときには思うのではないでしょうか。人間、誰しも自分のことを悪人とは考えたくないのです。

  本当は、遠山の金さんや水戸のご老公や隠密同心(古くてすみません)に登場願わなくても、自力で遵法精神を発揮できてこそ一人前の社会人なのですよね。けれども、それが難しいところに人間の弱さがあるように思います。

  それはそうとして、ここまでの話と次の聖書のことばを読んでくださって、あなたはどんなことをお考えになるでしょうか。引用が長くなりますので、「続き」をクリックしていただくと、さらに聖書のことばの後半がお読みいただけるようにしました。遠山の金さんならぬ、神様の裁きのことが書かれている箇所の一つです。どんなことをお考えになるかはおまかせすることにして、今回は私はこの後、顔を出すことは控えさせていただきます。

聖書のことば  マタイによる福音書 第25章

25:31 けれども、メシヤ(救い主)のわたしが、その栄光の輝きのうちに、すべての御使いと共にやって来る時、わたしは栄光の王座につきます。
25:32 そして、すべての国民がわたしの前に集められます。 その時わたしは、羊飼いが羊とやぎとを選別するように、人々を二組に分け、
25:33 羊はわたしの右側に、やぎを左側に置きます。
25:34 王として、わたしはまず、右側の人たちに言います。 『わたしの父に祝福された人たちよ。 さあ、この世の初めから、あなたがたのために用意されていた御国に入りなさい。
25:35 あなたがたは、わたしが空腹だった時に食べ物を与え、のどが渇いていた時に水を飲ませ、旅人だった時に家に招いてくれたからです。
25:36 それにまた、わたしが裸の時に服を与え、病気の時や、牢獄にいた時には見舞ってもくれました。』
25:37 すると、これらの正しい人たちは答えるでしょう。 『王様。 私たちがいったいいつ、あなた様に食べ物を差し上げたり、水を飲ませたりしたでしょうか。
25:38 また、いったいいつ、あなた様をお泊めしたり、服を差し上げたり、
25:39 お見舞いにうかがったりしたでしょうか。』
25:40 『あなたがたが、だれでも困っている人に親切にしたのは、わたしにしたのと同じなのですよ。』 

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2007年3月 1日 (木)

心を安定走行させるには

  今の世の中、報道されるできごと・人の口にのぼる話題は、必ずしもうれしくなるようなことばかりではありません。気分を害したり、憤りを覚えたり、意気消沈したりするような内容、ストレスがたまる話はさがすまでもなく、どんどん向こうからやってくるというのが事実に近いのではないでしょうか。

  けれど、心は動揺させずに安全走行させないと身がもちません。あなたは、どんなストレス解消法をおもちでしょうか。心身のエネルギーの有効活用を図ろうではありませんか。

  私の場合の心の持ち方を少し書かせていただきます。

1.ストレスになりそうなことはできるだけ門前払いにする

2.尊敬できない人から何か言われても傷つかないことに決めておく

3.考えても一ミリも進まないことについては一秒たりとも考えない。・・・特に、もう済んでしまっていて今更、変えようのないことについては。

4.明日出来ることを今日するな・・・遠藤周作さんが好きだったというトルコのことわざだとか。「今日できることを明日に延ばすな」の対極ですね。

5.真剣であれ、されど深刻になるな。・・・手を尽くすことは大事。しかし必要以上に神経質にならないでいましょう。山よりも大きなイノシシは出ないのです。

6.「たとえ、これが解決できなくても、世界の歴史は変わらない」と考えて、自分を追い込まないようにすること。

7.悪意なきところには怒らず。相手が悪意はないのに考えが浅かったり、不足したりしていてこちらが困った自体になったとしたら、その相手は怒りの対象ではなく、教育、指導の対象であると考えることにするということです。

8.悩むにはエネルギーが必要。苦しいときほど、おいしいものを食べよう。

 とりあえず、八つ、挙げました。あなたのストレス解消法もお教えくださいね。

聖書のことば  マタイによる福音書 第6章

6:33 神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。 そうすれば、必要なものは、神が与えてくださいます。
6:34 明日のことを心配するのはやめなさい。 神は明日のことも心にかけてくださるのですから、一日一日を力いっぱい生き抜きなさい。

  でこぼこ道を走るとき、タイヤは道路の状況をしっかりととらえなければなりません。けれど、そのでこぼこによる振動がそのままハンドルに直行するような車は、安定走行することが難しいと思います。ハンドルに伝わる衝撃をやわらげる緩衝装置が装着されています。

  大雨の時、大きなダムがあれば、降ってくる水を一気に流すことなく、たくわえて時間をかけてコントロールすることができるので洪水を防ぐことができます。

 神様は、私たちの盾、ゆらぐことのない城砦になってくださいます。また、くじけずに生きる力を魂の内側からわき出させてくださいます。どなたにも、聖書を読み、お近くのキリスト教会に足をお運びになることをお奨めいたします。今日も神様に守られていることを感じながら心丈夫に歩むことができますように。

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