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2007年3月11日 (日)

高村光太郎

 詩「道程」が中学校の教科書に載っていたのが高村光太郎の名を知った最初でした。

 パリで学んでいた頃の光太郎は、ノートルダム寺院を毎日訪れていたようです。『雨にうたるるカテドラル』という詩を知人が教えてくださいました。

  この詩に興味をもって、高村光太郎の年譜などをひもとくと、いくつものことが目の前に表れてきました。

◇ 上野の西郷さんの像は、光太郎の父、光雲の作であること

◇ 妻、智恵子は、平塚らいてうの「青鞜」の表紙の絵を書いていたこと

◇ 光太郎には「明星」に短歌を投稿していた時代があること。やがて、詩へと移っていったこと。

◇ 宮沢賢治の弟、清六のすすめで岩手県に疎開したこと

などなど。

  その光太郎が、ロダンのモデルになった花子さんに会いに岐阜を訪れたことがあり、花子さんに書いたお礼の手紙を(コピーですが)目にする機会がありました。 いろいろな足跡が残されているのですね。

 情熱にあふれる魂は、短歌、詩、彫刻などいくつもの分野を横断してその燃えるような生を発露し、人生そのものが一本の大木のように屹立しているように思われます。

  『智恵子抄』から「梅酒」という詩をご紹介します。光太郎自身がこれを朗読しているテープを聴いたことがありますが、途中から涙をぬぐっているような朗読で、感銘深いものでした。

死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光を葆(つつ)み、
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨(くりや)に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒涛の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻きにする。
夜風も絶えた。

  智恵子は福島の造り酒屋の娘だったそうですから、光太郎への愛のこもった梅酒はきっと最上のできだったことと思われます。

聖書のことば コリント人への手紙 第一 第13章 13節

  いつまでも残るものが三つあります。 信仰と希望と愛です。 その中で一番すぐれたものは愛です。

  私たち一人一人、後世に何を残せるかはわかりません。けれど、たとえ、偉大な作品を残せなくても、今のままの私たちの存在そのものを喜んで愛してくださる方がおられるのです。

  わたし(神様)の目には、あなたは高価で尊い。 / わたしはあなたを愛している。  イザヤ書43章4節

  今日も神様が一人一人を豊かに祝福してくださっています。そのことを感謝し、りきまずに歩んでまいりましょう。
 

 

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