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2007年4月22日 (日)

信仰・・・希望を生む力

  関根一夫牧師さんからのメールレターをご紹介いたします。

  私たちの人生における元気は「望んでいる事柄」を持っているかどうかで決まるようです。私たちは「希望」や「将来」についての楽しみを持っていないと、今をしっかり生きることが難しいのです。これからああしたい、こうしたい、きっとこうなって欲しいという意識を私たちはそれぞれどこかに持っています。それがどんなものであれ、今この時だけでなく、明日以降の出来事を期待し、夢をもっているかどうか、それが私たちの今を元気にします。
 逆に、それが崩れてしまったり、絶望的になると、間違いなく「生きる意欲」はそがれてしまうのです。

 ルーサーキング牧師は「私には夢がある」と語りました。それが彼の差別と戦う力でした。私たちにも、明日がこうなればいいな、来週こういうことが起こるといいな、来年こういう風に出来ていればいいなという意欲や夢や希望があるとそれに向って意欲的に生きることができるようになるのです。

 生物学者の方にお話を伺ったとき、脳の話になりました。その方が言うには、私たちの脳は、いつも難しいことや未知のことにチャレンジすることが好きなのだそうです。そして、いくらでも成長し、いくらでも難しい問題にチャレンジする力を持っているのだそうです。しかも人間が使っている脳は全体の中のほんの一部なのだと言われています。つまり、私たちの脳は、いろいろな場面で「望んでいることを確認したい」という意欲を持っているのです。
 「わからないことをわかるようになりたい」という意欲と方向性を脳は生まれながらにして持っていると言われています。しかも、それは何歳になっても失われることはないようです。新しいことへのチャレンジは何歳からでも遅すぎることはないと言われています。
人間らしい生き方のためにも、脳の活性化のために希望は重要であり、脳はそれを確認させる「信仰の役目」を担うように出来ているのです。
  望んでいる事柄は、できるだけ到達が困難なものでないと脳はスランプを起こしやすいとその先生は言っていました。入手が簡単なものを手に入れるだけでは脳は喜ばないし、満足しないのです。脳は常に私たちが最善のものを、最高のものを手に入れるように意欲を作り出しているのです。

 それをさせる力は信仰そのものなのです。つまり人間は将来を語ろうと思うとき、信仰が必要なのです。そしてすべての人に信仰が持てるように脳が作られていると考えることもできます。

    ◇  ◇  ◇  ○  ○  ○  ☆  ☆  ☆ 

  私自身の脳は上に書かれているような勤勉さをそなえているかどうか、自信が持てない面もありますが、印象に残りましたので、紹介させていただきました。

 今日は、日曜日・・・ぜひ、キリスト教会に足をお運びくださいますように。  キリスト教会に行くことができない方の上にも神様の愛がそそがれています。どうぞ、神様の祝福の中を今日もお歩みくださいますように。

※ 関根一夫先生のメッセージの全文を「続き」に引用させていただき ました。

MACF礼拝説教
2007.4.22

聖書のことば  ヘブライ人への手紙11章
11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
11:4 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
11:5 信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。
11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
***
ヘブライ人への手紙11章には信仰の定義が教えられており、信仰によって生きた人たちの出来事が満ちています。
信仰とは

1)望んでいる事柄を確信させる原動力

  私たちの人生における元気は「望んでいる事柄」を持っているかどうかで決まるようです。私たちは「希望」や「将来」についての楽しみを持っていないと、今をしっかり生きることが難しいのです。これからああしたい、こうしたい、きっとこうなって欲しいという意識を私たちはそれぞれどこかに持っています。それがどんなものであれ、今この時だけでなく、明日以降の出来事を期待し、夢をもっているかどうか、それが私たちの今を元気にします。
  逆に、それが崩れてしまったり、絶望的になると、間違いなく「生きる意欲」はそがれてしまうのです。

  ルーサーキング牧師は「私には夢がある」と語りました。それが彼の差別と戦う力でした。
  私たちにも、明日がこうなればいいな、来週こういうことが起こるといいな、来年こういう風に出来ていればいいなという意欲や夢や希望があるとそれに向って意欲的に生きることができるようになるのです。

  生物学者の方にお話を伺ったとき、脳の話になりました。その方が言うには、私たちの脳は、いつも難しいことや未知のことにチャレンジすることが好きなのだそうです。そして、いくらでも成長し、いくらでも難しい問題にチャレンジする力を持っているのだそうです。しかも人間が使っている脳は全体の中のほんの一部なのだと言われています。つまり、私たちの脳は、いろいろな場面で「望んでいることを確認したい」という意欲を持っているのです。
 「わからないことをわかるようになりたい」という意欲と方向性を脳は生まれながらにして持っていると言われています。しかも、それは何歳になっても失われることはないようです。新しいことへのチャレンジは何歳からでも遅すぎることはないと言われています。
   人間らしい生き方のためにも、脳の活性化のために希望は重要であり、脳はそれを確認させる「信仰の役目」を担うように出来ているのです。
  望んでいる事柄は、できるだけ到達が困難なものでないと脳はスランプを起こしやすいとその先生は言っていました。入手が簡単なものを手に入れるだけでは脳は喜ばないし、満足しないのです。脳は常に私たちが最善のものを、最高のものを手に入れるように意欲を作り出しているのです。それをさせる力は信仰そのものなのです。
  つまり人間は将来を語ろうと思うとき、信仰が必要なのです。そしてすべての人に信仰が持てるように脳が作られていると考えることもできます。

2)見えない事実を確認する

  まだ見えていない出来事を確信するのはむずかしいものです。よく「運命の糸」という言葉や「心の目」という言葉を耳にします。その糸は見えないし、心の目も見えません。愛も風もいのちそのものも目に見えません。神様について、霊の世界については、見えないものです。
でも、そういう見えないものを確かにそこにあるのだと信じさせる力、それが信仰です。見えないものの世界があると確信させてくれるものが信仰です。
  見えないけれど必ずあるという確信は信仰がなければ出てきません。考えてみれば、信仰を持てるというのは不思議なことです。信仰を持って「望んでいる事柄を確信する」ためにも「見えない事実を確認する」ためにも、私たちには、「信じるための情報」が必要です。信頼できるだけの資料が必要であり、信頼する土台がなければ私たちは安心して信じることができません。

  聖書はまさに、そのための資料そのものであり、そのための図書館のようなものです。神様の御言葉の約束やイエス様の出来事による旧約の約束の成就は神様は信頼できるお方だということの証しなのです。

   パウロはこう言いました。ローマの信徒への手紙10章14節からの言
葉です。
「10:14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞
いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせ
を伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。」

  誰かが神様から遣わされ、イエス様の福音が語られました。イエス様の十字架と復活による罪の赦しと永遠のいのちの希望が伝えられその福音が私たちのところにも届きました。私たちはそれぞれ人生の中でイエス様を信じ、その福音をだんだんと深く理解するようになりました。イエス様のことが分かれば分かるほど、このお方とこのお方の教えは信じて大丈夫かもしれないなと考えられるようになるのです。

3)信仰がなければ神に喜ばれることはできません。

  私たちは、自分たちには信仰が必要だと考え、しっかりした信仰、すばらしく偉大な信仰を持ちたいと頑張る傾向があります。しかし、問題は私たちの信仰ではないのです。私たちの信仰はからし種一粒ほどの信仰で十分なのです。神様は信頼できるお方だとわかることこそ大切な問題です。神様は私たちの信仰によってそのサイズが変わるわけではありませんし、その愛が小さくなるわけでもありません。

  私が小学生の頃、体育の時間に、二人一組になり、ひとりがまっすぐに後ろに倒れるのを相手が支えるというのがありました。その際、どれだけ後ろで支えてくれる相手を信頼しているかということで倒れ方のうまい下手が出てきます。
  しかし大事なのは後ろの人が本当に私を支える気持ちがあるのか、力があるのか、その資質の方が大事なのです。その人の普段の生活や過去のいきさつを考えると、その人が支える力があるかどうか、途中で逃げてしまわないか分かります。もし、本当に仲の良い友だちなら何も心配せず後ろに倒れることができます。むしろ、自信をもって倒れることができるのです。

  神様に信頼し、神様の中に倒れこんで行くようなもの、それを信仰と言います。聖書から、この神様は私を支えてくれそうだというしっかりした根拠を見つけること、神様は愛なるお方、信頼できるお方だという発見が大事なことなのです。それがわかればわかるほど私たちの信仰は小さいけれど大丈夫だと感じるようになるのです。そのための証拠というか証がこの章に書かれている旧約の信仰者列伝です。彼らは神様を信じ、神様を喜んで生きた人たちです。彼らは神様を信頼することは当然だと感じるほど、神様の現実的な力とその愛の確実さを知っていた人たちなのです。神様の偉大さに対する信頼、それが私たちに必要であり、それは聖書の中に証されています。

  信仰、希望、愛。それらが心にあふれるとき、私たちは前向きに生きられるようになるのです。神様との関わりの中で、それを育てていきたいものです。   祝福がありますように。 関根一夫

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