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2007年5月31日 (木)

煙にまかないで

  5月31日は世界禁煙デー・・・国連の世界保健機関(WHO)が、世界人類の健康のためにと1989(平成元)年に設けました・・・とのことです。

  タバコは、コロンブスがアメリカから持ち帰った悪しき習慣の一つだと言われています。

  それはともかく喫煙者は自分で出している煙を全部責任を持って自分の体で回収している訳ではありません。いえ、むしろ、喫煙者自身はフィルターを通してタバコを味わい、周囲の人はより有毒な煙が漂っている空気を呼吸することになるのです。

  先進国が、核実験を自分の国の近くでは行わないで植民地としているところの洋上で行うという身勝手さに匹敵する行為ではないかとさえ思います。・・・  タバコは小さな核兵器だとさえ、思うのですよ。

 「タバコを買うと税収に寄与することになる」と言い訳する人もいますが、その何倍もの医療費がかかるもとになっていますし、タバコが原因で火事が起こっていることもこれまた確かです。

  私は、勤めた学校で、生徒たちに「私はタバコをすったことがありません。皆さんにもすってほしくありません。最初の一本に手を出さないことが秘訣です」と話してきました。

  ある人が禁煙すれば、周囲の人を毒の煙から守るだけでなく、喫煙者自身も変わることができます。

 かつて、ジャイアンツにいた桑田選手は体を大事にし、タバコを吸ったことがないのに、レントゲンがタバコの煙で曇っていたそうです。周囲の選手がおおっぴらに喫煙する環境に置かれている時間帯が少なからずあったのでしょうね。プロのスポーツ選手がその程度の健康認識しかなく、非喫煙者のことも考えられないのか・・・とその話を聞いて情けなく思いました。

  喫煙をしている方・・・あなたを愛している人、あなたの愛している人のために、そして、あなた自身のために、ぜひ、今日だけでなくタバコと縁を切られることを心からお勧めいたします。タバコを吸わない人・・・乳児も幼児も含まれます・・・が喫煙するあなたの煙によって肺ガンになったとき、喫煙者であるあなたはどうやって償うことができると思いますか。

  冬の寒い日に、タバコの煙が部屋に充満して、やむなく換気のために私が窓を開けると「寒いなあ」と間髪を入れずに文句を言った喫煙者の無神経さに、(それだからタバコも吸えるのだ)と、腹立たしさを通り越した思いをいだいたこともあります。

  と、禁煙論を展開していますが、「煙を憎んで人を憎まず」を心がけたいとは思っています。

  それは、私自身も、タバコこそ、吸いませんが、人から見れば「あんなこともやめられないのか」という克服できないことをたくさんかかえている弱い存在であるからです。

聖書のことば  ローマ人への手紙 第7章 20節

 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

 私も含めて、こういう状態にある人間を救うために来てくださったのが、ほかならぬイエス・キリストです。

聖書 ヨハネの手紙 第一 4章 20節

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

  ぜひキリスト教会に足を運んでここに書かれている神様の愛を、受け入れてくださるようにと願い、お祈りしています。

  今日も、神様があなたとご家族を豊かに愛し、祝福してくださっていることをあなたが感じ取ることができますように。

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2007年5月30日 (水)

野菜作り

  家庭菜園と呼べるほどのものではありませんが、我が家の一角に野菜が生長しています。

 すでに実を供給してくれているのがイチゴ・・・朝の収穫は、小柄な数粒でもとても豊かな思いにしてくれます。

 このほか、シシトウ、そして苗をくださった方がいて、ナスとミニトマトが加わりました。ナスは花を咲かせたら必ず実を結ぶということでしょうか、「親の教えと茄子びの花は千に一つのはずれなし」ということばを教えていただきました。「万に一つのはずれなし」とおっしゃるかたもあります。

 「菊のこやしは主(ぬし)の足音」とも、「菊には、お米という字が入っている。やはり八十八回といわずに、とにかく足繁く世話をすることが大切」とも耳にします。

 土に馴染んで根気よく作物の声を聴きながら世話をする・・・その内に養い、育てられているのは野菜ではなく、実は自分のほうだったと気がつくことになるのかもしれません。

 児童の権利条約の根幹の精神は「すべての大人は子どもに最善のものを贈る義務を負う」ということばだそうです。

 学校に限らず、家庭・地域において、すべての大人が子どもたちをいつくしんで育てるとき、実は、育てられ、支えられているのは自分たち大人のほうだったということが実感できるようになるのではないか・・・そんなことも思います。

聖書のことば   ガラテヤ人への手紙 第6章 9節

  正しい行ないをすることに疲れ果ててしまわないようにしましょう。 失望せず、あきらめずにいれば、やがて祝福を刈り取る日が来るからです。

 聖書には、人は蒔いた種にしたがって、その実を刈り取ることになるとも書かれています。

 今日という日、神様と自分の心に恥じない種を蒔くことができますように。

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2007年5月29日 (火)

存在そのものを愛してくださる方

  「最後の晩餐」という絵をご覧になったことがあると思います。イエス・キリストは十二人の弟子たちと特別の晩餐をしてから、ゲツセマネというところに行かれました。オリーブからオイルを絞るところだったようです。

聖書 マタイによる福音書 第26章  ゲツセマネでの祈り

26:36 それから(最後の晩餐を終えてから)イエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
26:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
26:44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。

  すべての人の罪を背負って、その身代わりに十字架にかかることはイエス・キリストにとって、肉体的にも想像を絶するつらいことでしたが、それにも増して、神から隔絶される状態に入る耐え難いことでありました。それでも、「どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」と神様にゆだねて、御心にしたがったイエス・キリストの姿が描かれています。

 弟子たちは、このゲツセマネに来る前に、イエス・キリストから離れないと口々に語ったのでしたが、これから起こることへの大きな不安と悲しみがあったのでしょう、再三、イエスに「目をさまして祈っていなさい。」と言われても起きていることができなかったのです。

 イエス・キリストは、さびしかったでしょう。この世に遣わされて、一番大事な時を迎えようとしているのに、弟子たちは眠り込んでしまい、起きて祈っていることができなかったのですから。

 けれど、イエスは、「心は燃えていても、肉体は弱い」弟子たちを見捨てることなく、激怒して責めることもなさらず、十字架の死への道に進んで行かれました。弟子たちを、そして救い主としてイエス・キリストと、キリストを遣わされた神様を信ずる人たちを救うために・・・・・。

  わたしたちには、心で願っていることをやり抜き、成就する力がいつも備えられているわけではありません。起きていなければ、と思っていても睡魔に勝てず、逆に、眠りが必要なのに眠れない状態になってしまうこともあります。為そうとしていることがあるのに、やりとげることができないで病のために成し遂げることができないこともあるのです。

  けれど、そういう弱さをかかえている人をそのまま、まるごと、・・・何を成し遂げたか、あるいは何を成し遂げられなかったかということではなく、その人の存在そのものを愛してくださっているのが、イエス・キリストであり、キリストを遣わされた神様なのです。

聖書のことば  コリント人への手紙 第一  第13章 13節

  いつまでも残るものが三つあります。 信仰と希望と愛です。 その中で一番すぐれたものは愛です。

  つらい状況の中にあっても、弱さを感じる状況にあっても、そうした自分をそのままで愛してくださっている深い神様の愛を身近に感じてそれを受け入れ、今日という日を歩むことができますように、お祈りいたします。

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2007年5月27日 (日)

DNA・・・

 今日は、私の身内の書いた文章を掲載させていただきます。

   ◇ ◇ ◇ ○ □ ○ ◇ ◇ ◇

「伝言ゲーム」

 妻から、お客さんに「コーヒーどうぞ~」と伝えてねと言われた娘。それから2度ほど練習して「コーヒーどうぞ」と言いながらやって来ました。そして、いざそのお客さんの前に来ると「あそぼ・・・・・・」。

 一部始終を知っていた私たちはなんとも和やかな気分になりました。

  子どもらしいその姿から、本音を隠して生きる方がこっけいなんだろうなと教えられました。

    ◇ ◇ ◇ ○ □ ○ ◇ ◇ ◇

 というのです。この文に出てくる娘というのは私の孫にあたり、今、一歳十カ月と少しです。

聖書のことば ルカによる福音書 第18章 16節

 イエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

 幼子に、信仰のDNAが継承され、豊かに成長できるようにと祈っております。

  さて、今日は、日曜日、ぜひ、キリスト教会にお出かけください。ちなみに私の所属している教会では、今日の午後はバーベキューをいたします。・・・それが楽しみで教会に行くのではありませんけれど、それも楽しみです。  よき祝福の一日となりますように。

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2007年5月26日 (土)

「啓発」と孔子

 これも昨日掲載の記事で紹介させていただいた『この一冊で中国古典がわかる!』の一節なのです・・・

  しばらく前まで使われていた「啓蒙」が相手より上に立って「教化してやる」というニュアンスが感じられるということから用いるのがひかえられるようになりました。

  代わって登場したのが「啓発」ということばですが、そのもとになっているのが、論語のことばだそうです。

 「子曰く、憤(ふん)せずんば啓(けい)せず、悱(ひ)せずんば発(はっ)せず。一隅を挙げて三隅を以て反(かえ)らざれば、即(すなわ)ち復(また)せざるなり」

 憤(ふん)・・・気持ちが盛り上がってくること

 悱(ひ)・・・ことばが口もとまで出かかっている状態

  上の文の意味は、相手の気持ちが盛り上がって来なかったら、手を貸してやらない。相手のことばが口もとから出かかっているのでなかったら、助け舟は出してやらない。一つの隅を示しただけで他の三つの隅にも鋭く類推を働かせるようでなかったら、それ以上の指導は差し控える。・・・

 「啓」「発」も、中に隠れているものを、開いて外に出してやること、だそうで、ここから啓発ということばが生まれたのだということです。

  本人のやる気、前向きに一所懸命学ぶことが教えるときの前提であるということで、あまりにも親切すぎる教え方は却って相手を受け身にし、ひよわな学び手にしてしまうことにもなります。

 うーむ・・・実際には見極めが難しいところがありますが、奥の深い構えですね。

 さて、明日は日曜日、キリスト教会にお出かけになれますように。

 これも、神様がお一人お一人の内に願いを起こさせてくださるときがあると思いつつお祈りしております。 

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2007年5月25日 (金)

孔子の説く「孝行」

 孔子は紀元前551年に生まれた人だそうですが、「孝行」の根本について次のように語っているそうです。(『この一冊で中国古典がわかる』守屋洋 著 三笠書房1998年7月10日発行)

 「今の孝は、これ能(よ)く養うを謂(い)う。犬馬に至るまで、みな能く養うことあり。敬せずんば、何を以て別かたんや」

 ・・・親孝行とは食べ物に不自由をさせないこと、というのが最近の風潮であるように思われる。もちろん、それは必要なことだけれど、それに尊敬する、敬愛してつかえるということがなかったら、動物を飼っているのとどこに区別があるだろうか。

 人として敬う心・・・そのことをお年寄りを介護するときにも、幼子を育てるときにも決して忘れないでいたいと思います。

  己の欲せざるところを人に施すことなかれ・・・これも論語にあることばですね。

聖書のことば マタイによる福音書  第19章 19節

 『父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』。

  人を軽んずることなく、親はもちろん、周りの人、小さな存在にいたるまで、自分と同じように大切にして今日を歩む力が神様からいただけますように。

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2007年5月24日 (木)

アイーダの作曲者ヴェルディ

  歌劇「アイーダ」には、若い頃決して上手とは言えない(いえ、はっきり言って下手でした)トランペッターであった私の血を騒がせた堂々とした行進曲があります。この行進曲の華やかな旋律を吹くためにわざわざ造られた「アイーダ・トランペット」というのがあると耳にしたこともあります。

  その歌劇「アイーダ」「椿姫」などたくさんの歌劇を作曲したヴェルディの生き方に関して、心を打たれたことがあります。

 これは、ヴェルディの生涯を紹介したテレビ番組で見かけ、インターネット上のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で確かめたことですが、それには、次のような記述がされています。 

  彼(ヴェルディ)は貧しい芸術家のための老人ホーム「憩いの家」を完成させたあと、1901年にミラノで卒中のため亡くなった。彼の葬儀は非常に多くの参列者を集め、25万人もの弔問客がイタリア音楽の最も重要な人物の一人に弔意を表した。ヴェルディと妻は、彼がユーモアをこめて「生涯最高の傑作」と呼んだ「憩いの家」に埋葬されている。

  今から百年以上も前に、年老いた貧しい芸術家のために老人ホームを造り、妻もそれを「生涯最高の傑作」と呼んだ・・・それはすごいことだなと感動しました。

  歌劇「アイーダ」は、時には本物の像なども登場して公開されることもあったほどスケールの大きな作品です。いつの日か機会があったら鑑賞し、ヴェルディの音楽に全身で浸りたいと思います。

聖書のことば 使徒の働き 第20章 35節

  また、(私、パウロは)貧しい人たちを助けることでも、常に良い手本となったつもりです。 それは『与えることは受けることよりも幸いである』という、主イエス様のことばが、いつも頭にあったからです。」

 オペラによる収益は、とても大きな金額だったようです。名前は挙げませんが、若い内にオペラの作曲で大金を手にしたためか、あるいは才能が枯渇したためかわかりませんが、人生の後半は作曲することなく暮らした有名な作曲家もいます。

 人それぞれに事情はありましょうから、他の作曲家のことは持ち出さなくてもいいのですが、ヴェルディの志が今も引き継がれて、その最高傑作である「憩いの家」は運営されているようです。何か、すてきですね。

 今日も、神様に祝福をいただきながら歩みことができますように。

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2007年5月23日 (水)

強さとは・・・

  突然の書き出しですが、このところ、人間の強さということについて考えています。

  あまりに輝いている太陽のもとでは、人は安らぎを覚えることはできません。アラビアのロレンスでもそうだと思います。

 人がくつろいで憩うことが出来るのは、たとえば木漏れ日の中、よしずの陰などではないでしょうか。

 以前、ギターの前身であるリュートという楽器を造る職人が、リュートの完成寸前に楽器の胴体にあやまってひびを入れてしまい、落胆しながらも試しに弾いてみると、何と、とても深みのある音色がして、それ以後その職人の仲間たちもどのようにひびを入れると深みのある音色になるのかを熱心に追究したそうだとの文章を掲載させていただきました。

 陽光も、リュートも完全であるよりも、むしろそうではないほうが人の心を包み、憩わせることになるのは、不思議です。

 そう考えてみると、まったく悩みのない、幸せな人生をすごしていると感じている人は、他の人の心のいたみが分かりませんから、たとえばカウンセラーなどには向かないのかも知れません。

 深い悩みを体験し、そしてそこからなおも前進しようとした苦しみを経ている人ほど、悩みの中にある人から心を打ち明けられやすく、悩んでいる人とともに歩む力を豊かに備えることになる・・・全部が全部そうではないかもしれませんけれど、そういう面があるのではないでしょうか。

  人の強さとは・・・悩みや挫折を経験しないことではなく、たとえ苦しみにあってもそこから立ち上がること、立ち上がろうとし続けることではないか・・・と思うのです。

聖書のことば コリント人への手紙 第二 第12章10節

 ・・・弱い時にこそ、私(パウロ)は強いからです。――無力であればあるほど、それだけしっかりと、キリスト様によりすがるようになるからです。

 わたしたち、一人一人は神様に愛されているVIP( Very  Important

People)です。いろいろな重荷の重さをこの世の人生にしっかりと足跡を刻んで進むための力として、歩んでまいりましょう。

 新緑の五月も下旬となりました。今日の一日も前向きに歩んでいくことができますように。

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2007年5月22日 (火)

田植えを待つ田んぼ

Photo_7  クリックしていただくと写真が大きくなります・・・(大きくなりすぎるので、研修の余地があるのですが)・・・、飛騨の高山は田植えの進行中です。遠方には雪の残る北アルプスがたたずんでいます。

 高山に帰省し、幼いときに眺めたのとあまりかわらない景観に心安らぐ思いがいたしました。

聖書のことば  詩篇 第121篇 1節 2節

私は山に向かって目を上げる。 / 私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた【主】から来る。

 今日も心穏やかに、一日のわざを進めていくことが出来ますように。

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2007年5月21日 (月)

リンドバーグ

  5月21日は、リンドバーグ翼の日・・・1927年、アメリカのチャールズ・リンドバーグが「スピリット・オブ・セントルイス号」で、世界初の大西洋無着陸横断単独飛行に成功した日・・・だそうです。

  この冒険は、映画「翼よ、あれが巴里(パリ)の灯だ」にもなりましたね。

  あまり、この快挙がすばらしかったので、リンドバーグは時の人となりました。別の映画にもリンドバーグがもてはやされたことが描かれています。その映画の中でリンドバーグが突然店にやってきたので、みんなの視線、関心がそちらに向いてしまい、その店の歌手としてデビューしようとしていた女性が自分の歌が皆にそっぽを向かれたのだと勘違いして店を去ろうとし、リンドバーグが来店したためと聞かされて思い直すシーンがあるのです。

 その女性はその後たくさんの人に愛されるようになったシャンソン歌手のエディット・ピアフ、歌った歌は、そうです、ご存じ、「愛の賛歌」でした。

 翼・・・いいことばですね。人には、誰も大きな夢があり、それに向かって羽ばたこうとする翼があります。でも、夢に向かって本気で努力していないと、いざ翼を広げて飛ぼうとしても、いつのまにか羽がなくなってしまっていた・・・ということになりかねません。

 リンドバーグは、巴里に向かって飛び立ちました。あなたの目的地は、どこでしょうか。

聖書のことば  コリント人への手紙 第一 第13章 13節

  いつまでも残るものが三つあります。 信仰と希望と愛です。 その中で一番すぐれたものは愛です。

 

 有限なこの世での命の日々、私たちは何に希望をいだいて、歩み、どこに向かっていくのでしょうか。

 神様の愛・・・大事なそのことについて知るには大空へ飛び立つ必要はありません。お近くのキリスト教会に足を運んでくださいますように。

 今日もすてきな航海となりますように  ボン・ボヤージュ !

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2007年5月20日 (日)

大樹の深き根

  みどりの豊かな季節になってまいりました。草花のみどりもそうですが、特に山々のみどりのみずみずしい生命力は目と心をどんなにうるおしてくれていることでしょう。

  岐阜市の木は「つぶらじい」ですが、頂上に岐阜城の建っている金華山の名は、このつぶらじいの葉が黄金色の花が咲いているように見えるところからつけられたとのことです。金華山は方向によっては牛が臥(ふ)しているように見えるので、古くは、臥牛山(がぎゅうざん)と呼ばれていたようです。

 みどり豊かな金華山を見て、「コタンの口笛」などの作者であり、国語教育に造詣の深かった石森延男さんは「マヨネーズをかけて食べてしまいたい」とおっしゃったそうですが、ユーモアと気宇の壮大さが伝わってくるエピソードだと思います。

 したたるようなみどりの葉を茂らせている木々は、強い根を張っています。大樹になるほどその根はしっかりしています。・・・というのは順序が反対でしょうね。地中に深くしっかりと根を張ったからこそ、地上に大樹として勇姿を現しているということなのでしょう。

 今、教育に企業のように競争原理を持ち込み、学校間の成績を競わせる動きが活発化しています。

 目に見える成果を求める性急さは、本来、「国家百年の大計」といわれる教育には馴染まないものです。目に見える成果を促成栽培的に重視することによって、目に見えないところで熟成される大切なものが切り捨てられれば、浅い根しか張っていない木が背伸びして目立とうとするようなもので、ちょっと強い風が吹けば、あっけなく倒れてしまいます。

 大きな展望を持って歩んでいない大人がどうして子どもを深い根を張った大樹のような人物に育成できるでしょうか。

  まずは、「早く芽を出せ、柿の種・・・」式の構えを改めることから始め、どんな人間に子どもを育てるのかをこそ見つめて大人が歩もうではありませんか。

聖書のことば   詩篇  第37編 23節・24節

 正しい人は、神様の指示に従って歩みます。 神様はその一歩一歩をお喜びになるのです。
たとい倒れても、それで終わりではありません。 神様がしっかり支えておられるからです。

  この世の刹那的な利害にとらわれて永遠なる神様を見失うことなく、まず大人が確かな志と展望をもって、子どもに恥じることのない一歩一歩を日々、刻んで歩んでまいりましょう。

  今日も、神様がそのような一日を歩ませてくださいますように。

 今日は日曜日、ぜひキリスト教会へお出かけください。

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2007年5月19日 (土)

誕生・・・この崇高なること

 今年の2月1日に「天使の歌」と題して下記の文章を掲載しました。ある思いがあってもう一度掲載させていただきます。

           ◇ ◇ ◇ ◇ ○ ☆ ○ ◇ ◇ ◇ ◇

 すてきな本に出会いました。短いことばと美しい絵の小さな本なのですが、魅せられてしまいました。『心の歌』文 アントニー・デ・メロ 絵 矢野滋子 出版 女子パウロ会 です。 アントニーさんはインドの方のようです。

 今日は、その中の一つをご紹介いたします。

「あなたが生まれたときに うたわれた 天使の歌声を聴こう。

 あなたの心のなかの歌に 耳を傾けなさい。」

 あまりにすてきなので、何をかいても余分になりそうですけれど

 私たち、ひとりひとりが神様からこの世にたった一度限りの招待を受けて誕生したときに、天使が歌ってくれた歌・・・おそらくその歌はそれぞれの人のための特別なオリジナルソングなのでしょう。

 その歌が心を静めるとその人の心の中から聴こえてくる・・・耳を傾けて聴いてみたくなりますね。  

      ◇ ◇ ◇ ◇ ○ ☆ ○ ◇ ◇ ◇ ◇

  上記が2月1日の掲載文です。

 「すべての赤ちゃんは、神様がまだ人類に絶望していないというメッセージを携えて生まれてくる」ということばもあります。すべての赤ちゃんがそうだということは、その赤ちゃんが育って大きくなった大人もそのメッセージをもって生きているということにほかなりません。

聖書のことば  イザヤ書 第43章 4節

 わたし(神様)の目には、あなたは高価で尊い。 / わたしはあなたを愛している。

 赤ちゃんポスト「こうのとりのゆりかご」の設置については賛否両論ありますが、神様は上のことばを聖書を通じてすべての人を愛していると語っていてくださいます。

 神様に愛されているという確信、希望、喜びをいだいて今日も、そして今日以後も歩むことができますように。

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2007年5月18日 (金)

鵜飼を見た芭蕉

 5月15日に岐阜市の長良川では鵜飼開きをしました。1300年の歴史をもつ鵜飼いには訪れた人がたくさんいます。

 芭蕉は「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」という句を残しています。その句碑が長良橋の左岸にあり、その隣には、北原白秋の鵜飼をうたった詩碑があります。

 川端康成、舟橋聖一、高浜虚子、伊藤左千夫、野口雨情、山口誓子などが岐阜市を訪れて鵜飼を見ています。

 そうそう、あのチャップリンも鵜飼が気に入り、一度ならず・・・たしか、三度見ているとのことです。

  川面に映える篝火・・・これは、松割木と呼ばれ松の薪が赤々と燃えているのですが、鵜匠さんや船頭さんの手元を照らすとともに、アユたちを招き寄せる明かりとなっています。 

  仕事を終えた鵜たちには、ごほうびの魚が与えられますが、働いているふりをして実際にはあまり働かなかった鵜、のどを通ってしまうような小魚をあさっていて自分の腹を満たしていた鵜も鵜匠さんはちゃんと見届けています。鵜匠さんの死角に入るように泳いで怠けていた鵜も、ごほうびの魚にはありつけません。

 十二羽、あるいはそれ以上の鵜の動きを鵜匠さんはちゃんと把握しているのだそうです。

 仕事を終えた鵜は船端に勢揃いするのですが、ちゃんと目上の鵜から順に並ぶように・・・これは鵜同士が決めているようですが・・・なっているのだそうです。

  冒頭の芭蕉の句は、こういうところまで見届けて詠まれたのかもしれません。綱でたぐり寄せられて収入をはき出させられる人間の姿を重ね写しにして詠んだのかも・・・などと深読みすると情緒が薄れてしまうので、ここまでで留めさせていただきます。

  観覧船に乗り込んで、お弁当を食べながら夕闇の色が濃くなるのを楽しみ、赤々と輝く篝火、船端をたたきながら「ホーッ ホーッ」と発せられるかけ声などが近づいてくるのを見るのが最高です。けれど、長良橋付近の上流の右岸が一般車の通行が禁止され、川岸から眺めるのも情緒があります。

 まだご覧になったことがない方は、ぜひ一度どうぞ。

 おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな

 終わりになりましたが、5月18日は、「ことばの日」・・・「こ(5)とば(18)」の語呂合わせから生まれた記念日で、ことばを正しく使うように心がける日だそうです。

  また1995年のこの日に天気予報が自由化、気象予報士による民間天気予報が開始、だそうです。下駄を高く蹴り上げてそれが落ちてどんな面を出しているかで個人的に天気を占うというのは自由ですが、それを正式の予報として出すことは、いけないのでしょうね。

聖書のことば  マタイによる福音書 第16章 3節

 朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。

 「時のしるし」は、聖書の文脈で深い意味があるのですが、現代における「時代のしるし」というふうに考えてみることもできるでしょう。

  新聞には明るいニュースもあるのですが、「時代のしるし」をあなたはどうとらえておられるでしょうか。

  今日一日、周囲の人の心に明るさを生み出す歩みをすることができますように。

 

 

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2007年5月17日 (木)

芭蕉と最上川

  一日遅くなりましたが、5月16日は旅の日・・・1689(元禄2)年3月27日(新暦5月16日)、松尾芭蕉が奥の細道へ旅立ったことにちなみ、日本旅のペンクラブが1988(昭和63)年に制定とのことです。

 芭蕉の『奥の細道』の結びの地は岐阜県の大垣で、それにちなんで大垣は奥の細道に関する展示をしたり、句碑を建てたり、俳句を募集するなどの営みをしています。

 さて、『奥の細道』には「五月雨をあつめて早し最上川」という句があります。この句のもとは元禄2年(1689年)5月29日(新暦では7月15日)に詠まれた「五月雨をあつめてすずし最上川」だったそうです。

  蒸し暑い状態の宿から眺めるときには涼しさを感じさせた最上川が、五月雨が降り続いて、芭蕉が実際に舟に乗ったときには「水みなぎって舟あやうし」と感ずるほどになり、「五月雨をあつめて早し最上川」と詠まれたのだそうです。

 対岸の火事ということばがありますが、川の流れも眺めているのと実際に舟に乗ってその流れを下る場合とでは大きな違いがあるということを改めて思います。

 最上川は日本三大急流の一つに上げられているそうですが、どうも芭蕉のこの句が詠まれた後にそういわれるようになったようです。 芭蕉という一人の人、また一つの俳句の力は大きいのですね。

聖書のことば   箴言 12章 19節

真実のくちびるはいつまでも堅く立つ。 / 偽りの舌はまばたきの間だけ。

 書かれて三百年以上経っている 『奥の細道』が今も読まれているのですが、聖書の歴史、その読まれている範囲は、それをはるかに越え、古典という範疇にとどまらず、現代に生きる私たちの魂の糧となっています。

 今日も神様の祝福をいただいて歩むことができますように。

 

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2007年5月16日 (水)

仲代達矢さん・・・種の話

 平成12年に、その年の美濃加茂市の坪内逍遙大賞を受賞された俳優の仲代達矢さんと映画の篠田正浩監督や美濃加茂市長さんとの対談をすぐ間近でお聞きする機会がありました。

  仲代達矢さんが俳優になる前に、資本がなくても何とか食べていける仕事をと考え 、最初はボクサーになろうと思い、実際に何カ月かジムでトレーニングしたそうです。

 けれど、殴られると痛いし、人を殴るのも気が引けるということで、友人に相談しますと、「お前は顔がいいから役者になったらどうか。」と言われ、顔のことは分からないけれど、その道に進んで今日に至ったと、ユーモアを交えて語られました。今でもこの道よりも自分に合っている仕事があるのではないかという気がするとも言っておられました。俳優として数々の賞を受賞されている名優ですのに、何と謙遜なことばでしょう。

 その仲代達矢さんが奥様と力を合わせて後輩を育てる意図で続けてきた無名塾についても話されました。この人はきっと大成するぞと見込んで入塾させた人が必ずしも順調に伸びるとは限らないそうです。あまりに成長がないので「種だと思ったけれど、もしかして石を見間違ったのだろうか。」と思いかけたころに、「あっ、芽が出ているじゃないか、やっぱり石ではなく種だったのだ。」と再認識させられる経験が何回もおありだとのことでした。
 私がこの話を何人かにしたところ、「テレビで見たのだけれど、オーストラリアには山火事に遭って初めて種が発芽する植物があるそうですよ。」と教えてくれる人がありました。一人ではなかったので、きっと実在する植物だと思います。

 学校に通っているどの子どもにも可能性の種が内在していると思います。そして「先生の将来の夢は?」と突然子どもに尋ねられてどきっとした私の中にも、ひょっとすると山火事に遭ってさえ発芽していないような種がまだ眠っているかもしれません。

  人がいだく夢、願いは種と共通するところがあるように思います。夢も、願いも、そして種も、命が内在していれば、いつの日かきっと花開くときがくるのではないでしょうか。

聖書のことば  マタイによる福音書 第17章 20節

 イエスはお答えになりました。 「・・(中略)・・・ もしあなたがたに、からしの種ほどの信仰があったら、この山に向かって『動け』と言えば、そのとおり山は動くのです。 何でもできないことはありません。」

  これは、神様を信ずる信仰に基づいて願うことですから、わがままで横暴な願いも聞き届けられるということではありません。また、時を指定できることでもありません。

  けれど、神様に信頼し、心から願うならば、きっと神様は神様の選んだ方法と時に、その願いに応えてくださいます。

 今日という一日、謙虚に、しかしたくましく、しなやかに歩むことができますように。

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2007年5月15日 (火)

思わぬ余波

  ある方が、私の二男と二人がかりで大きな木の株を引っこ抜くという大仕事を成し遂げたことをブログに書いておられました。「おおきなかぶ」の民話になぞらえて楽しい文章でした。

 そのことを家内に知らせましたら、思わぬ余波が・・・「ウチの庭にも長年、気になっている株があるんだけど・・・」

  ・・・二男は趣味を「筋肉トレーニング」と公言しているほどですが、こちらは別に体に悪いところはないのですが、安静にしてごろごろしているのが好きな性分です。そういう大きな土台の異なりを越えて、久しぶりに土を掘り、株を抜くという仕事に挑戦いたしました。(別に兵糧攻めをおそれたのではなく、一家の主人としての崇高な決意からです。)

  幸い、成果が上がり、(私の息もあがりましたけれど)、にこやかな家内の笑顔に接することができました。

  人生、いつどんな形で意外な局面に立たされることがあるか、わかりません。「備えあれば憂いなし」ということわざもありますが、心していろいろなことに備えておきましょう。

聖書のことば   マタイによる福音書 第25章

25:1 天国は、ランプを持って花婿を迎えに出た、十人の娘〔花嫁の付き添い〕の話でも説明できます。
25:2 -4そのうちの五人は賢く、ランプの油を十分用意していましたが、残りの五人は愚かで、うっかり忘れていました。
25:5 さて、花婿の到着が遅れたので、みな横になり寝入ってしまいました。
25:6 真夜中ごろ、ようやく、『花婿のお着きーっ。 迎えに出なさーい』と叫ぶ声がします。
25:7 -8娘たちはとび起きると、めいめい自分のランプを整えました。 その時、油を用意していなかった五人の娘は、ランプが今にも消えそうなので、ほかの五人に油を分けてほしいと頼みました。
25:9 『ごめんなさい。 でも、分けてあげるほどはないの。 それよりもお店に行って、買ってきたほうがいいんじゃないかしら。』
25:10 こう言われて、あわてて買いに行っているうちに、花婿が到着しました。 用意のできていた娘たちは、花婿といっしょに披露宴に行き、戸は閉じられました。
25:11 そのあとで、例の五人が帰って来て、『ご主人様ーっ、戸を、戸を開けてくださーい』と叫びました。
25:12 ところが主人は、『さっさと行ってしまえ。 もう遅すぎる!』と冷たく答えました。
25:13 こんなことにならないために、目を覚まして、いつでもわたしを迎える準備をしていなさい。 わたしが来るその日、その時が、いつかわからないのですから……。

 13節の「わたし」はイエス・キリストで、「わたしが来る日」というのは、イエス・キリストの再臨の日のことです。

 イエス・キリストが再び、この世に来るときには、すべての人を裁く権威をもって来られることが聖書に書かれています。

 裁かれるのが恐ろしいから、正しく生きなければ・・・というのとはニュアンスが異なるのですが、「誰も見ていないから好き勝手に生きる」という生き方と「いつも神様が見ておられるから、心に恥じる行為、生き方は私はしないぞ」という生き方とを比べるとしたら、後者のほうがよい実を結ぶであろうことは言うまでもありません。

 今日の一日、眠る前に振り返って心に平安を覚える歩みをすることができますように。

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2007年5月14日 (月)

旬の山菜

  「タラノメ」・「コシアブラ」・「コゴミ」、そして「ワラビ」・「ゼンマイ」など、緑の勢いが加わるにつれて、山菜にお目にかかれるようになりました。

  本当は、早朝に出かけて自分で摘んでくることができれば健康面でもさらに恩恵にあずかれるのでしょうけれど、私が自信をもって収穫できるのはふるさと高山における「ワラビ」くらいなものです。

 岐阜市に住んで長くなりますが、どの山のどこに行けば、他の方の喜びを奪うことなくどんな山菜が入手できるかも見当がつきません。

  そんな我が家に丁寧に新聞紙などで包んで鮮度を保った山菜が送られてきました。大喜びで、天麩羅にしたり、マヨネーズ和えにしたりして、幸せを味わっております。「ウド」は皮もきんぴらにし、本体は酢味噌で和えました。

  こちらから請求したのではないのに、こうした旬のものをいただいて味わうことができることを心から感謝しています。贈り主は、私たち以上に喜んでくださっているようです。

聖書のことば  使徒の働き 第20章  35節

『受けるよりも与えるほうが幸いである』

  上の聖書のことばもありますので、感謝の思いを今度はこちらから表明したいと思っています。

 受けるだけで、そこからよいものを発することがなければ、霊的な死海のようになってしまいますよね。

 必ずしも物ではなく、相手の方のために心から神様に祈ることも、大きな幸いとなります。

 この一日も神様の愛を受けて、よき歩みを為すことができますように。

 

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2007年5月13日 (日)

ギフト

  大垣のロックシティの東側にリサイクルショップ「あゆみの家」というお店があります。ボーマンという宣教師ご夫妻(ご主人は天に召されました)の伝道の働きと福祉活動とが実を結んで生まれ、継続されているお店です。

 女性の衣料品が中心ですが、上物のネクタイもあり、値段は百円単位ですから、気に入った品に出会うと、たいへん幸せな思いを味わうことができます。

  同伴者に対して、「気に入る物が見つかったら、どれだけ買ってもいいよ」と、まるで自分がお金持ちのようなせりふを安心して口に出すことができる、この世で数少ないお店の一つです。日曜日と月曜日はお休みですが、火曜日から土曜日の10時から夕方まで開店していますから、場所が分かる方で、お時間の都合がつく方は一度訪れてみてください。

  ロックシティの駐車場に車を止め、リサイクルショップ「あゆみの家」とロックシティのお店に寄る、というのが我が家の楽しみのコースです。

聖書のことば  ヨハネによる福音書 第3章 16節

 実に神は、ひとり子をさえ惜しまず与えるほどに、世を愛してくださいました。 それは、神の御子を信じる者が、だれ一人滅びず、永遠のいのちを得るためです。

 リサイクルショップ「あゆみの家」は、高価な衣料をとても値打ちに提供していますが、これは、上に書いた聖書のことばにある永遠のいのちをイエス・キリストという代償を惜しまずに信ずる人に与えてくださる神様の愛を象徴しているのではないかと思います。

  いのちを維持するのに必要な空気を無償で与えてくださっているのも神様です。

  リサイクルショップ「あゆみの家」以上にお勧めするのは、キリスト教会に足を運んでくださることです。

  日曜日はぜひ、教会へお出かけください。

  今日も、そして今週も豊かな祝福を神様がそそいでくださいますように。

 

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2007年5月12日 (土)

ナイチンゲールの誕生日

 5月12日はナイチンゲール・デー・・・「赤十字の母」と呼ばれるフローレンス・ナイチンゲールが、1820年に誕生したことを記念し、赤十字社が制定・・・そして、出来事としては1898年のこの日、キュリー夫人がラジウムを発見したのだそうです。

  このことにちなんで「偉大な女性たち」と見出しをつけようかと思いましたが、「赤十字の父」アンリ・デュナン、そしてピエール・キュリーというご主人の存在も思い浮かべて、女性を強調することをひかえることにいたしました。

 これは、ことさら強調しないことでより平等に、あるいは対等にということを考えたからですが、けれど、当時の社会が女性が社会的に何かを為すことに男性と同じように道が開かれていたかどうかを考えると、敬服に値することだと思わないわけではありません。

  男性と女性は、理解し合い、敬意を払い合いつつ、よきパートナーとして家庭でも、社会でも力を合わせて歩んでいくべき存在だと思います。

聖書のことば  創世記 第2章

 地のあちこちから泉がわき出て、全地を潤していました。やがて神様が人間を造る時がきました。 まず、地のちりで体を造り上げ、それにいのちの息を吹き込んだのです。 そこで人は、生きた人格をもつ者となりました。
 それから神様は、東の方のエデンに園をつくり、そこに人を住まわせました。
  園には、あらゆる種類の美しい木が植えられています。 どれもこれも、おいしい実をつける木ばかりです。 園の中央には、「いのちの木」と、「善悪を判断する力のつく木」とがありました。
  さて、エデンの地からは一つの川が流れ出て園を潤し、それはやがて四つの流れに分かれるのでした。
  その一つピション川は、ハビラ地方全域を蛇行していました。 その地方からは、純度の高い金と美しいブドラフ(香りのよい樹脂を出す木)や、しまめのうが採れます。
  第二の川はギホンと呼ばれ、クシュの全域を流れる川です。
  第三がティグリス川で、アシュルの町の東側を流れていました。 そして第四がユーフラテス川です。
  神様は、人をエデンの園の番人にし、その管理を任せました。
ただし、一つだけきびしい注意がありました。 「園の果物はどれでも食べてかまわない。 だが『善悪を判断する力のつく木』の実だけは絶対にいけない。 それを食べると、正しいこととまちがったこと、よいことと悪いことの区別について、自分勝手な判断を下すようになるからだ。そんなことになったら、必ず死ぬ。」
 ところで、神様はこう考えました。 「どうも人が一人でいるのはよくない。 彼を助ける者がいなくては。」
  そこで、土からあらゆる種類の動物と鳥を造り、アダムのところへ連れて来て、名前をつけさせました。 それぞれみな、アダムがつけたとおりの名前をもらいましたが、アダムの助けになるようなものは見あたりません。

  そこでアダムをぐっすり眠らせ、その体から肋骨を一本取り出すことにしました。 取ったあとをきちんとふさぐと、
その骨で女を造り、彼のところへ連れて来ました。
「ああ、これならぴったりです!」 アダムは思わず叫びました。 「まさに私の半身です。 そうだ、『男』から造ったのだから、『女』と呼ぶことにしますよ(一種の語呂合わせ。ヘブル語では男をイーシュ、女をイシャーと言う)。」
人が両親のもとを離れて妻と結ばれ、二人が一体となるのは、こうした背景があるからです。

  創世記は、66の書物から成る聖書の一番最初に位置しており、天地創造から書き起こされています。

  創造論か、進化論かという課題については私にお答えする力はありませんけれど、上に紹介した聖書の記述は学術書として書かれているのではないことは確かです。

  大きな課題に対しては、性急に結論を出さないで時間をかけて取りくみ続けることが大切です。

  宇宙や生命の誕生について創造論、進化論それぞれがどう考えているのか、今、世界ではそれぞれの考え方についてどんな議論があり、いろいろな国の教科書はどうなっているのかなど、解決済みではなく、進行中といってよいかと思います。

  聖書に書かれていることは非科学的、と一笑に付すことは、それこそ科学的に公正な態度とは言えないのです。たくさんの科学者が、その学んだところを通じてクリスチャンになりました。

  クリスチャンであった人が、科学を学ぶにつれ、聖書から遠ざかった例もあるのかもしれません。

 けれど、大切なのは「こういう例があるから」ということではなく、あなた自身が、聖書を読み、科学を学んでどう結論を出すかということではないでしょうか。

  その意味からも、お近くのキリスト教会に足を運ばれることをお勧めいたします。

  ナイチンゲールから書き始めてこういう展開になろうとは、私自身思っていませんでした。こうした書き手の文章にここまで忍耐強くつきあってくださって、本当にありがとうございます。

  今日も、神様が一人一人の歩みを、光で照らして導いてくださいまうように。

  

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2007年5月11日 (金)

長良川の鵜飼い

P1010019_1  5月11日は長良川鵜飼開きの日・・・長良川の鵜飼は伝統的な漁のひとつです。古式ゆかしい衣装の鵜匠が何羽もの鵜を操りながら鮎をとらせるもので、日本の初夏の風物詩と言えます・・・とのことです。

  鵜飼いは、岐阜市だけでなく、関市や犬山市など全国の何箇所かで行われているのですが、長良川の鵜匠は宮内庁の式部職であり、原則として鵜匠の長男の世襲制です。

  上の説明に「何羽もの鵜を操りながら」とありますが、一人の鵜匠が12羽、あるいはそれ以上を操ります。

  その日その日の鵜の体調を的確に把握して、休ませるか、仕事させるかを判断し、泳ぎ回る鵜を操る綱がからまないようにし、アユをとった鵜を鵜舟にあげてアユを吐かせ、また流れに戻し・・・と鵜匠さんの働きは大変なものがあります。

 鵜の労働もたいへんで、新しい鵜は、繁殖によってではなく、海の鵜を捕獲してきて訓練して養成しているとのことです。

聖書のことば  ヨハネによる福音書 第7章 38節

  わたし(イエス・キリスト)を信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

  鵜飼いが出来るのも、川に豊かに水が流れ、アユや、いろいろな魚多用な生き物が生息できる環境があればこそです。

  私たちの人生も、心の中の人間らしさ、うるおいが枯渇したら、どんなに味気ないものになってしまうことでしょう。

  魂がよりよく生きるための水源地であるイエス・キリストの愛をのべ伝えるためにキリスト教会はあります。どうか、日曜日にはキリスト教会にお出かけください。

 今日も、神様が豊かな愛をお一人お一人にそそいでくださいますように。 

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2007年5月10日 (木)

くじけないエジソン

  AMラジオ(周波数1431)の岐阜ラジオでは月曜から土曜日まで「さわやか世の光」という聖書からのメッセージの聞ける番組を朝6時10分から放送しています。

 今朝は、エジソンの話がそのなかにありました。エジソンの研究所などが全焼したことがあります。彼の息子はエジソンが失望、落胆し、再起できないのではないかと気遣ったのですが、エジソンは「失敗も皆、燃えてしまった」と生き生きと活動を再開し、火事のあと、3週間後には蓄音機をこの世に送り出していたとのことです。

( 高校生の頃に私が読んだ伝記には、このときの火事の原因はエジソンの頭脳をおそれたヒットラーのなせるわざではないかとのうわさも流れたとありましたけれど、真偽のほどはわかりません。)とにかく、エジソンは火事にも負けなかったのです。

聖書のことば  ローマ人への手紙 第5章

(私たち・・・パウロたちは)患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

  苦しいことに出会うことはおそらく誰の人生においても避けられないと思います。けれど、そうしたときにさえ、あるいはそうした時にこそ、望みをいよいよ燃やして歩むことができる力を神様は与えてくださいます。

 闇夜を進むときこそ、光は大きな働きを果たします。

 日曜日にはキリスト教会を訪ねてみられることをお勧めいたします。

 今日も、一人一人がそれぞれの人生において、また職場などでの持ち場において、困難に負けず、光をはなつことができますように。

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2007年5月 9日 (水)

孫の日

 子どもの日はあるけれど、孫の日は・・・とブログに書きましたら、ある方から「10月の第3日曜日がたしか、そうです」と教えていただきました。

  調べてみますと、確かに孫の日がありました。孫の日・・・日本百貨店協会が1999(平成11)年7月に、孫へのプレゼントで消費を喚起し、売上げの拡大を図って制定。父の日と母の日の間やバレンタインデーとホワイトデーの間が一箇月であることから、敬老の日のほぼ一箇月後に当る10月の第3日曜日とした・・・とのことです。

  ただし、こんなふうに商魂たくましく設けられたことが書かれているとブームにはなりにくいかもしれませんね。とても正直な気もいたしますけれど。

  おお、まずは、今度の日曜日が母の日でしたね。

聖書のことば  出エジプト記  第20章 12節

あなたの父と母を敬え。  これは、十戒の中の一つです

箴言 第23章 25節

あなたの父と母を喜ばせ、 / あなたを産んだ母を楽しませよ。

 ここでは、母が2回出てきて強調されているように思います・・・父親としてひがんでいるわけではありませぬ・・・・・・。

 8日の夜、光回線への勧誘にまわってきた青年が「この近辺は、インターネットをしている方がずいぶん多いのですね」と話していました。我が団地も高齢の方が増えているのですが、そうした方が遠方に住んでいるお孫さんとメールをやりとりしたり、テレビ電話のように話せる機能を活用しているのかもしれません。

   そこで、一句   孫たちと祖父母を結ぶネットかな

  うーむ、季語もなく、川柳にもなりきれていないですね。不出来ですが、これはところによっては30度を越える暑さがやってきたので、ということにさせていただきます。

 今日も、よき日となりますように。

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2007年5月 8日 (火)

自作の俳句

  二男が高校を出て、下宿住まいを始めた年のこどもの日に、家内と二人きりの家庭に戻ったことをしみじみと感じました。そのときに作ったのが次の俳句です

・・・時々、思い出したように作る私ですので、継続的に句会などに参加したり、長年投稿を続けておられる方には遠く及びませんし、頭が下がります。前置きと言い訳はそれくらいにして・・・

 心残りあれど巣立たせこどもの日

 あれから、年月が経ち、長男も二男も人の子の親となりました。

 そういえば、こどもの日はあっても孫の日というのはないのですね。

聖書のことば  箴言 第17章 6節

 孫は老人の自慢の種、父親は子供の尊敬の的です。

 ・・・母親については、今度の日曜日が母の日ですから、それにちなんだ聖書のことばをそのころまでには紹介させていただくことにいたしましょう。

 子どもに父親を尊敬させるよう、陰で支えている母親の努力・・・それがある家庭は安泰だと思います。いかがでしょうか、あなたのご家庭は・・・。

  もう一つ・・・孫を老人が自慢するとともに、孫が老人を誇りに思っている家庭だとすてきですね。

 今日も、神様に守っていただいて、風薫るさわやかな五月のひと日となりますように。

 

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2007年5月 7日 (月)

整理・整頓

  「人生の貴重な時間の何分の一かは、捜し物をする時間である」というような統計があるそうです。

  そして自慢ではありませんが、私はその平均値を上回っている自信があります。

  ほかにこうした自信があるのは、エレベーターの定員数で制限重量を割った値よりも私の体重は上回っているということくらいなものです・・・などということは特に書かなくてもいいのですよね。

  今日は、私とはまるで対照的に片づけ物が三度の食事よりも好きな家内に、ふだんは遠くにいる息子という強力な働き手が現れて、以前から気にかけていたタンスなどの大物をすっすと動かしてくれたので、ずいぶん家の中がすっきりしました。

  家内が「さあ、家の中の余分なものを片付けるぞ」という目をして張り切っているときは実に嬉しそうな表情をしています。そして実際に家の中がすっきりすると私もすっきりした気分になるのです。遅まきながら、私自身も整理する能力、シンプルライフを創出する力を育てていこうと思います。

聖書のことば  イザヤ書 第43章 4節

わたし(神様)の目には、あなたは高価で尊い。 / わたしはあなたを愛している。

  ほかならぬ、創造者である神様が私たち一人一人を愛してこう言ってくださっているのです。ですから、不安の中でなく、明るい希望の中を今日も歩ませていただこうではありませんか。

 エイエイオーッ 連休明けもこわくない。今日も神様の祝福が豊かにいただけますように。

 でも、やはり、私自身も整理能力を、遅まきながら伸ばしていこうと、すっきりした家の中で呼吸しながら今は思っています。

聖書のことば  イザヤ書 43章 4節

  わたし(神様)の目には、あなたは高価で尊い。 / わたしはあなたを愛している。

  神様が、私たち一人一人を愛してこのように言ってくださっているのです。ですから、棄てられたり、整理されたりするのではないかと不安を抱かずに、安心して神様を信頼して今日も歩んでまいりましょう。

 

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2007年5月 6日 (日)

五月の雨

  ゴールデンウイークの最終日、岐阜では雨の一日になりました。

  五月の雨からの連想で、五月雨を広辞苑で引いてみました。

五月雨・・・さつき‐あめ【五月雨】 「さみだれ」に同じ。夏の季語

さ‐みだれ【五月雨】
(サはサツキ(五月)のサに同じ、ミダレは水垂(みだれ)の意という)
陰暦5月頃に降る長雨。また、その時期。つゆ。梅雨。さつきあめ。夏。古今和歌集(夏)「―に物思ひをれば」。奥の細道「―をあつめて早し最上川」
(のように)途切れがちに繰り返すこと。「―式」「―スト」
→―‐ぐも【五月雨雲】
広辞苑 第五版 (C)1998,2004  株式会社岩波書店

  と載っており、旧暦だと6月になるので、つゆということになるのでしょうね。

 ついでに「五月蝿」はうるさいと読み、追っても追ってもしつこく戻ってくるハエをあてたものと思われます。

 ある方が、「5月6日の5と6の語呂合わせで、ごろごろしてすごします」というメールをくださいました。連休のフィナーレの日、英気を養うためにごろごろの日というのを家庭によっては設けるのもいいかもしれませんね。

  中国のことばに、尺取り虫は伸びて進むために縮むという意味の表現があります。人間を尺取り虫になぞらえるのには、ためらいがありますが、張り詰めすぎた弦はよい音を奏でることができませんので、適度に休養することは、人生の達人になるために大切なことだと思われます。

 えっ、あんたのようにいつもゆるんでいてもあかんのではないかって・・・いえ、私だって、見かけよりは励んでいるつもりです。あの野球漫画の名作『巨人の星』で星飛雄馬のライバルである花形満も言いました。「優雅に浮かんでいるように見える白鳥も、水面下では必死に足を動かしている。」

 ・・・と書きながら、白鳥に自分をなぞらえることは我ながら得心がいかないことに気づきました。  ということで、今日のブログは、この辺で。

 休日の日にもブログにお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

聖書のことば  マタイによる福音書 第6章  34節

 明日のことを心配するのはやめなさい。 神は明日のことも心にかけてくださるのですから、一日一日を力いっぱい生き抜きなさい。

  神様にエネルギーを充填していただいて、元気に明日に向かうことができますように。

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2007年5月 5日 (土)

陶器祭り

0001_1   土岐で5月3日から5日まで開かれている陶器祭りに行ってまいりました。数年来、誘ってくださっていたご家族があるのですが、行きたい行きたいと思いながら行けずにいた長年の願いがようやくかなったのです。

  この祭りの会期中に30万人以上の人が訪れるとお聞きしていたのですが、本当に多くの車、多くの人でした。そして驚いたのが、それ以上に多くの陶器、陶器、陶器・・・もとより、掘り出し物を見る目は私にはなく、掘り出し物を見つけるどころか、しっかりと展示してあるよい物まで目にとまらない自信があります。そうですね、掘り出し物に対して埋め戻し人とでも申し上げればよろしいでしょうか・・・

  それでも、勇気を出して、南蛮切り子のコップ、箸置き、そしてオカリナなどを購入しました。

  千円で、あるいは五百円で陶器を袋に詰め放題というコーナーもあって、本当に驚きました。

  最終日の五日は、店じまいということもあって、さらに値打ちになる光景もあるそうですが、お目当ての品がそれまで残っているかどうかということもありますので、このへんは自己責任でどうぞ。

 混み合う前に陶器祭りの会場に着くのがいいですね。私たち夫婦は4日にそのご家族に連れて行っていただいて、午前9時に着いたのですが、この時間がラッシュ前、ぎりぎりセーフという感じでした。

聖書のことば  コリント人への手紙 第二  第4章 7節

  私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

  作家、三浦綾子さんの『この土の器をも』は上の聖書のことばから名付けられた書名だと思います。

  土が、陶器師の手によって世界に二つとない陶器に形作られるように、私たち一人一人はかけがえのない神様の恵みを受け、神様の栄光を表す器としていただいたのです。

  今日は、こどもの日、一人一人のこどもに、そしてその家族に神様の祝福が豊かにいただけますように。

 

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2007年5月 4日 (金)

うぐいす

  今朝、家の近くでうぐいすが鳴きました。練習期間が終わったのか、つっかえることもなく、メロディといい、声といい、とても美しいのです。朝の目覚めにこのようにすてきなプレゼントをいただけるとは、なんとすばらしいことでしょう。

  昨日の午後、長良シンフォニックバンドの演奏会に行きました。司会者も指揮者も演奏者もすばらしく、とてもすてきな演奏会でした。特に私自身が若い頃に吹いていた楽器、トランペットがソロを吹くところでは、血が騒ぎ、心が高揚しました。

 うぐいすがうぐいすの歌を歌い上げ、トランペットがトランペットの受け持つメロディを高らかに奏でる・・・まことにすてきなことです。一人一人の人生もそうなのですね。

 学級でも、アンサンブルでも、オーケストラでも、家庭でも職場でも、一人一人がその持ち味を調和的に最高に磨き上げて発揮するとき、すばらしいハーモニーが現出します。

 聖書には、次に引用するように、一人一人を体の各器官に見立ててかけがえのない大切な存在であることが書かれています。

 今日も私たち一人一人が神様から与えられている音色で、精一杯のメロディを奏でることができますように。聖書の引用が長くなりましたので、先に思いを書かせていただきました。

聖書のことば  コリント人への手紙 第一  第12章 14節から

12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

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2007年5月 3日 (木)

賢く生きたい

  5月3日は憲法記念日・・・説明・・・日本国憲法は1947(昭和22)年の5月3日から施行されました。11章103条から成り、「国民主権」「戦争放棄」「基本的人権の尊重」を基本理念としています。

 戦争で戦ったどちらかの国だけが一方的に正しいといえる戦争は一つもなかった・・・既に何百年も前に孟子は「春秋に義戦なし」と語っています。

 歴史に学ぶことができるのは人間だけ・・・だとしたら、おろかなことを繰り返さないことだけは、最低限学んで実行したいと思います。

聖書のことば  マタイによる福音書  第5章  9節

  平和をつくり出そうとしている人は幸福です。 そういう人は神の子供と呼ばれるからです。

  十戒には、「人を殺してはならない。」(出エジプト記 20章13節)とはっきりと書かれています。どんな場合にも、そして神の名によってでさえも、人が人を殺すことを正当化することはできないのです。

  クリミアの天使と言われたナイチンゲールは戦争による負傷者を敵味方を問わず、看護した人でした。その人となり、そして業績は今もなお、讃えられています。

 ナイチンゲールを心から誉め称えるのであれば、後世に生きる私たちは、まず戦争による負傷者、死者を出さないことを考え、実現への努力を重ねるべきであることは当然すぎるほど当然だと思います。

 戦場においても、子どもと女性を守ること、そして負傷者、病人を攻撃しないことは国際法で重視されています。けれど、子どもと女性から父親や夫、息子を奪い、健康な兵士に銃を向けることは戦闘行為として当然と考えられています・・・こんなことって、本当に人道的で、賢いことでしょうか。どの国の人も、どの民族に属する人も家族そろって助け合っていくことを実現してこそ、本当に賢い生き方ではないでしょうか。

 聖書に黄金律といわれることばがあります。つぎの聖書のことばの赤い部分です。 

 もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。(ヤコブの手紙 2章 8節)

  今日も、そしてこれから以後もずっと平和をつくり出す人として生きることができますように。

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2007年5月 2日 (水)

カモにされる!

Photo_6   4月から、教育の道を志す学生さんのお世話をする仕事をいただき、大学に通うことになりました。広いキャンパスには緑が多く、水路にはカモもいます。学内には動物病院もあるそうです。

  カモを見ながらランチしていたら、気がつくとたくさんのカモが近づいてきてこちらのほうがカモにされそうな状態に陥っていました。早々に距離をとったのですが、最初におそれげもなく近づいてきたのはメスでした。色合いの美しいのがオスなのだそうですね。(別に他意はなく、事実をのべているだけであります(^o^)

 身内にメールしたら「明日は、ねぎを背負っていったら。」などとコメントが返ってきました。

聖書のことば     箴言 第22章  5節

  神様の教えに背く者の道には、危険な罠(わな)がいっぱいです。 自分をたいせつにする人は決して近寄りません。

  カモに囲まれたくらいで上のことばを引用するのは大げさだとお思いになるかもしれません。

  けれど、今の世の中、自分の中にある思いを清くし、そして欲ばらないようにしていないと、ねぎを背負ったカモにされてしまう危険なわながいっぱいあるように思えます。

 今日の一日も、神様に守っていただき、そしてはぐくんでいただいていることを感謝しながら歩むことができますように。

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2007年5月 1日 (火)

教え子とのひととき

  中学2年生・3年生と持ち上がったクラスの教え子たちが、私の退職を祝う会を開いてくれました。4月29日のことです。

  一言で表現するならば、まさに至福のときでした。仕事、子育てに奮闘しているいそがしい年代にある教え子たちが貴重なゴールデンウイークの時間をさいて集まって、あたたかい心のこもった時間を創り出してくれたのですから。

  美しい花束、「新しい時間を奥様と刻んでください」という粋な言葉とともに、ペアの腕時計、さらに有名ホテルのペアの食事券がプレゼントされ、感激しました。

  こんなに大切にしてもらうのに値するほどの教師で自分はあっただろうか、との思いもわき上がりました。

  けれど、いたらないところはたくさんありながら、とにかく一所懸命だったことは確かですので、このすてきなプレゼント、至福の時間は身に余るものではありますが、あたたかい教え子たちの心を素直に受け、これからも一所懸命に歩んでいこうと自分に言い聞かせ、今も幸せの余韻を噛みしめております。

  

聖書のことば  箴言 第3章  6節

  あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。 / そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

  同じところが、聖書を分かりやすく意訳したリビングバイブルでは次のように書かれています。

  何をするにも、神様を第一にしなさい。 神様がどうすればよいか教えてくださり、それを成功させてくださいます。

  いたらない私の力だけでは教職生活をまっとうすることはできなかったことをしみじみと思い、教え子や家族に感謝しています。

 そして、神様に対して38年間の教職生活を歩ませていただいたことを心から感謝しています。

  神様が教え子たちとその家庭、それぞれの人生を守ってくださり、豊かに祝福してくださいますように。

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