« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »

2007年7月31日 (火)

七月のフィナーレ

  1944年の7月31日、コルシカ島のボルゴ飛行場から飛び立った偵察機が消息を絶ちました・・・この機の残骸が発見されたのは2000年だったとのこと・・・搭乗者はサン・テグジュペリ・・・あの『星の王子様』の作者でした。  出典 『今日は何の日』 編集・発行 PHP研究所

 誕生した人として、ちょうどNHKの朝のドラマの舞台が昨30日から遠野(とおの)になっていますが、その遠野に魅せられて足を運んだ民俗学者柳田國男さん1875年の7月31日生まれです。

 そして、身内の話ですが、私の母が生まれたのも7月31日です。この母が育ててくれたトマトを孫娘がずいぶん喜んで食べたのですが、それももう先週のことになりました。

  さて、孫娘が戻って行ったとはいえ、これからの私の人生が進展せず、過去に生きるようになってはいけませんので、新しい気持ちで現在と未来に向かっていきたいと思います。コメントで励ましていただいた方たちを含め、いつもこのつたないブログを読んでくださる方にお礼申し上げます。

 以前「バックミラー」という名の通信を出していたことがあります。その題名は、次のように考えてつけたものです。「想い出とバックミラーは、それに見入るためではなく、よりよき前進のためにある・・・子どもたちのよき姿を記すと共に、その姿に力を得てさらに新たなる前進をするためにこの通信を発行します。」

 この通信を発行していた頃に戻る術もありませんが、心を老け込ませないで、やはり前へ進みたいと思います。

  30日夜の月はなかなか見事ですね。  さて、8月もよき月となりますように。上等のバターほど熱で溶けやすいと耳にしましたが、どうか皆様、夏の暑さでとろけないようになさってください。私も励みます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月30日 (月)

ほぐされる心

 孫娘が飛び立って行ってしまいました。セントレア空港から、文字通りに・・・。

 老人が孫としばらく暮らす内に、心がほぐされて、生活にいきいきとした前向きの心で向かうようになる物語がいくつか思い浮かびます。皆様もきっとご存じですよね。

 「アルプスの少女」・・・ハイジとアルムの村のおじいさん、「小公子」ではセドリックと気むずかしい貴族の祖父・・・いずれも、かたくなで孤独な生き方をしていた祖父が、孫娘に心をほぐされるのです。

 えっ、私ですか・・・心をほぐされて、まるでマッサージをほどこされたみたいな状態かって?うーん、それなら活力が湧くのですが、何だか、それを通り越して骨抜きになったような・・・。

 そうそう、先に挙げた物語とは少し趣をことにする『サイラス・マーナー』をご紹介して私から皆様の目をそらしている内に回復を図るといたしましょう。

『サイラス・マーナー』George Eliot 1819~80 本名:メアリー・アン・エバンズ。19世紀イギリス文学を代表する作家。

あらすじ

 職工のサイラス・マーナーは信じていた親友に裏切られ、婚約者も彼に奪われて、神を疑いながら生まれ故郷を後にします。
落ち着いた先のラヴィロウでは隣人との付き合いもせず、ただ一途に仕事に打ち込み、その結果として貯まっていく金貨を毎晩眺めることだけがマーナーの喜びとなっていました。
しかし、ある晩その大事に貯めておいた金貨を根こそぎ盗まれるという事件が起きます。呆然と座り込んだままのマーナーの元によちよち歩いて現れたのは、金貨が姿を変えたような金髪の巻き毛をもつ幼い子供でした。
母親を失ったその女の子エピーを神からの授かりものとし、自分の手で育てることを決心したマーナーの生活は、それまでと一変します。
信仰や人との関わりを捨てていたマーナーが、幼い娘エピーを得ることによって再び人間らしい生活を取り戻していくというストーリィ。

これだけ気持ち良く読め、そして感動に浸れる作品は、そうあるものではありません。余計な装飾や無駄なストーリィを置かず、人間社会のありのままの姿を描いているからでしょう。そうした意味でとても完成度の高い作品。
地主の
カス家の人間たち、村の居酒屋に集う村人たち、本書における役割の軽重はあっても、どの登場人物も等距離で現実そのままに描き出した点で見事なものです。それは、主人公であるサイラス・マーナー、一方の重要人物であるゴドフリー・カスにしてもそれは変わりません。
圧巻は、ゴドフリー・カスとナンシー夫妻がエピーを引き取ろうとマーナーの家を訪れた場面。エピーを含めての4者の対峙は、単に綺麗ごとに終わらず、かといって一方を悪玉と作為的に語ることもありません。サイラスとエピーとの間に結ばれた愛情の強さ、いたわりと思いやり、上流階級の人間である故のゴドフリーの身勝手さ、その間に立つナンシーの気遣いと、4人の人物ありのままの姿を映し出したものとして、これ以上の場面はありません。
ひとりの女性作家が、このような小説世界を展開せしめたこと、それも近代小説初期の段階であることに、驚嘆の念を抱かずにはいられません。
気持ちよく感動できる名作、お薦めしたい一冊です。

http://www.asahi-net.or.jp/~WF3R-SG/nt2eliot.html

 上記のURLから転載させていただきました。なお、この作家はジョージ・エリオットというペンネームを用いて長年、女性であることを隠した謎の存在だったのだそうです。

 それでは、さびしさから立ち直って、またお目にかかりまーす (^_^)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年7月29日 (日)

八木重吉の詩から

 このブログの日も浅いころ、八木重吉の詩をいくつか掲載させていただきました。

 今日は、そのときには目に止まらなかった詩を紹介させていただきます。

  ふたつになったこどもが

  ころころとわらっている

  だいぶさむい日だ

  かなりわたしのこころはうつくしい

 『定本 八木重吉詩集』新装版 平成九年七月二十日彌生書房 発行より

 なぜ、この詩を紹介するのかですって・・・ ここ数日、私たちの家ですごした二歳の孫娘が今日、自宅へと帰っていくからです。きっと私たち夫婦は、人が降りていくボートがその反動でゆれうごくように、千々に心が動揺することでしょう。それを事前に少しでも予防しておこうと考えたわけです。

 上の詩 ・・・ 「こども」を「孫娘」、「だいぶさむい日」を「だいぶあつい日」に置き換えていただくと、私の心境にぴったり・・・ということなのです。

 どうせなら、自分で詩を作りなさい、とおっしゃいますか・・・ごもっともです。 でも、今はそんな余裕がとてももてそうにありません。

  それは、それとして、今日は日曜日・・・ぜひ、キリスト教会に足をお運びください。   よき一日をお歩みくださいますように。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月28日 (土)

詩人

  東海地方も梅雨明けとのことで、暑い日が続くようになりました。その暑さに負けていない孫娘の元気さには励まされます。

  暑さのなか、籐いすを足が伸ばせるようにフルサイズにしてくつろぎながらテレビで高校野球などを観るのは、なかなかいいものです。

 孫娘がその籐いすに上ろうと奮戦しているのを見て、足を伸ばすところを引っ込めた方が安全かなという気がしたので、そうしました。

 すると、彼女はこう言ったのです。  「出てきて~。」

 これは、籐いすに向かってというより、足台を引っ込めた私に言ったのです ・・・ 何をしてほしいのか、よく分かる表現がとっさに生まれるのですね。子どもは詩人です。

  大人がこうした表現をしたらどうなるでしょうね。・・・たとえば、私の財布からお金をほかへ移した家内に聞こえるように、からの財布をのぞき込みながらつぶやくのです。 「出てきて~」

 これは、あまりにも例がよくないですね、せっかくの幼な子ならではの表現が、こんなふうに応用されると、ひからびてしまいます。

 孫娘が身近にいる間に、とれたて野菜のように鮮度のよい心、ことばを味わわせてもらおうと思います。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年7月27日 (金)

大人の責任

  階段の手すり・・・孫をかかえて下りる大人が用いることを想定して取り付けたのでした。ですから、感動したのです、孫自身が「自分で下りる」と宣言してその手すりに小さな手を伸ばし、精一杯手すりを活用して無事に階下に下りきったときには。

 もちろん、大人が見守りながらすぐ下を先行して孫の安全を確保していますけれど、孫は自分の手足を使って下り、大人がほっとして、そしてその快挙を喜ぶのが伝わると百万ドルの笑顔を見せるのです。いえいえ、百万ドルなどというお金に換算できるものではありません。

  話は一気に飛ぶのですが、産廃問題で暴漢に襲撃された御嵩町の前町長さんが引退するときに憲法改正の動きについて・・・特に国民投票のことについて問われたときに、こんな言葉を残されました。

 「国民投票すると憲法が悪いほうへ変わるのではないか、と考えるのは敗北主義です。どんな結果が出るか、国民投票してみたらいい。」・・・字句までは正確な引用ではないかもしれませんが、この内容のことを毅然として語られたのです。

  このことと階段の手すりが、私の中で一つにつながりました。

  孫の安全を守るために取り付けた手すりは、その手すりにすがる孫の信頼に応えて孫を守っています。孫を危険にさらすような、見せかけだけの手すりをつけておくなどということは考えることさえできません。

  まして、憲法は国の歩む方向を方向付けるものです。子々孫々という遠い先のことを抽象的に考えるのではなく、子どものこと、孫のこと、ひ孫のこと、愛する人のことというように身近なところから考えるとき、改正案に安易に賛成する人がどれほどいるでしょうか。

  国全体、国民全員を戦争というとてつもないところから遠ざけ、強固に守ってきた現在の憲法という手すりをはずしてしまう行為を、子どもや孫のことを忘れてしまって決行するような愚を犯さないこと・・・それこそ大人の責任というものではないでしょうか。

  階段の手すりとはかけ離れている話でしょうか ・・・ いえ、決してそうではないと思います。

聖書のことば  マタイによる福音書

5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

7:9 パンをねだる子供に、石ころを与える父親がいるでしょうか。
7:10 『魚が食べたい』と言う子供に、毒蛇を与える父親がいるでしょうか。 いるわけがありません。

 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月26日 (木)

階段の手すり

Photo_8  お待たせしてしまいました。左の写真が大工仕事の成果です。 

  この手すりは、ちゃんとさわっても、多少すがっても簡単には外れない強度で取り付けられています・・・当然のことを胸を張って語るということはそれだけ苦労したということ、そして本人の技倆のレベルの低さを物語ります。

  取り付けるためにネジがきちんと持ちこたえる箇所をさがすため、壁をポコポコ指でたたいて支柱の場所をさがそうとすると、何と家内もすぐ近くをポコポコたたくので、ドラムの協奏曲になるのはいいのですが、微妙な音の変化を聞き取るには難しい状態が出現します。「ちょっとォ、たたかんといてよ。」「なにさ、せっかく協力してるのに。」・・・・・

 幾多の困難がありましたけれど、まずまずの自信作です。

 それにしても、有り難かったのは、電動ドリル兼ドライバーを快く貸してくれた友人の存在です。この工具のおかげで、一つのねじ穴も無駄にあけることなく、「ここ」という位置にぴしっと穴を開け、びしっとねじを締めることができました。

 この工具はスグレモノですが、それを購入すると手すりセットが二つほど買えてしまう値段なので、一年間にその値段に見合うほど使う機会があるかというと、ちょっと考えてしまうのでした。

 その友人は、定年退職を機に一念発起してすてきな庭を造り始め、レールの枕木や竹などでその庭にふさわしい雰囲気をかもしだすフェンスを作るためにその工具を購入したのです。

  さて、この階段の手すり、いざ取り付けてみると、何年も前からそこにあったような顔をして安全に寄与してくれています。

 そして、遠方から孫娘が到着し、しばらくのにぎわいと活力を与えてくれています。靴などは人形の靴かと思うほど小さいのに、何と大きな存在であることでしょう。

 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2007年7月25日 (水)

大工仕事

  はっきり言って、大工仕事は得意ではありません・・・いいえ、もっと正直に申しますと苦手です。

  犬小屋を作ることが期待されたときも、教え子のお父さんが大工さんでしたので、お願いして作っていただいたほどです。

  漫画に「お父さんの作った棚、落っこちちゃったよ。」「ナニ、あれほど物を乗せるなと言っておいたのに。」   ・・・ というようなネタがありますが、まさにそれを地でいくようなところがあります。

  その私が、大それたことに挑戦してしまいました。階段に手すりを取り付けることです。

 何人もの人が親切なことばをかけてくれました。

「斜めに取り付ける手すりと壁の中の支柱とがうまく折り合う場所で固定するのは至難のワザだよ。」「ちゃんと頼りになる手すりができるのか。」「その手すりをあてにするとかえって危ないのではないか。」  などなど。

  そういう励まし(?!)にもめげずに挑戦することにしたのは、2歳になる孫がやってくることになったからです。孫自身は、手足を上手に使って階段を上るとのことですが、問題は下りるときです。大人が抱えて下りるそうですから、孫には手すりはなくてもいいようです。けれど、孫を抱えた大人がより安全に下りるためには、やはり手すりがあったほうがいいだろうと考えました。

 明日には孫が来るという前夜、ついに決心して、ハウジングセンターに手すりセットを購入に行きました。取り付け部品などがセットになったものがあるのですね。

 さて、はたしてこの先はどうなるのでしょうか。明日、ご報告させていただきます。お楽しみに。 ・・・・・ 不安を覚えながら待ってくださる方は、私の不器用さをよく知っていてくださる方です。  気をもたせてすみません。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月24日 (火)

映画「君に読む物語」

 映画「君に読む物語」は、多分、アルツハイマーでしょうか、愛する夫、家族のこと、そして自分がピアノを弾けることなども忘れてしまう女性に、自分は心臓の弱さをかかえている夫自身もその療養施設に住み込んで、若き日の自分たちの出会い、結婚にいたる物語・・・それはアリーというその女性自身がしたためておいたもののようですが・・・を読み聞かせるというストーリーです。

  医学的には効果が望めないと医師にも言われ、子どもたちにも、ぼくたちが交替で母さんを見舞いに来るからと言われながら、「自分に最高の人生をくれた人だから」と、自分たちの歩んできた物語を愛を込めて読み聞かせ続ける夫 ・・・ つかの間、記憶がよみがえり、自分と相手を認識し・・・けれど、また別の人格の世界へと去ってしまう妻。

  若いときの二人が出会い、身分を越えた恋の展開する画面は美しく、それだけに悲しくもあります。

 夫を演ずるジェームズ・ガーナーは、たしか西部劇でワイアット・アープ(だったと思いますが)を演じていたこともある俳優で、そういうことからも人はやがて老いるのだということを感じさせられました。

  話は変わりますが、ある修道女がアルツハイマーになり、「これ以上進行するとイエス様のことを忘れてしまうのではないか・・・そのことだけが心配・・・」と不安がっていたそうです。

 でも、あるときから彼女は、晴れ晴れとした表情を見せるようになりました。彼女は、こう言ったそうです。「今は、何の心配事もありません。だって、私が忘れても、イエス様は決して私のことを忘れないで愛してくださっていることに気がついたのですから。」

  私たち、一人一人を愛してくださっている神様の存在・・・何と大きな恵みであることでしょう。いえ、述べ方が逆になっているようです。神様の存在がまずあって、私たちがあるのですね。

 今日も、よき一日を歩むことができますように。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月23日 (月)

映画「ドラムライン」

  ここ数日の間にテレビで二つの映画を観ました。その一つ、ドラムライン」は名門大学のマーチングバンドに小太鼓の才能をかわれて入部した少年の成長の物語・・・ストーリーはストーリーとして、これでもかというほど山盛りになっていた鍛え抜かれた集団美にひきつけられました。

  映画は作り物であるとはいっても、この映画はコンピュータグラフィックではなく、出演しているたくさんの人間の血のにじむような練習がなかったら描けない映像と音楽美で構成されており、人間って、力を合わせるとこんなことができるのかと圧倒される思いがしました。しのぎを削る小太鼓のわざの対決もすごいレベルです。

  そういう映画を観て、特にドラムの音楽に感動すると共にその映画には登場することのなかったピアノという楽器の特長を見つめてもみました。

  私のピアノは、スピードや、きらめくようなリズムということではなく・・・憧れはあるのですが、老いの坂を下り始めていることをすなおに見つめることも大切ですので、メロディを心を込めて歌い上げる方向を大切にしよう・・・そんなことを改めて思いました。野球でいうと豪速球ではなく、よくコントロールされた球を投げる年代ということですね。・・・ごく稀に年齢が高くなっても、豪速球を投げ続ける人がいますけれども。

 もう一つの映画「君に読む物語」については、明日、書かせていただきます。

  今日も、よき歩みの一日となりますように。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月22日 (日)

演奏家魂

  下呂の小学校に勤めていたとき、山奥の子になまの音楽を聴く機会を・・・という文化庁の事業が実現し、鈴木英太郎というヴァイオリニストがピアニストである奥様と訪れてくださったことがあります。

  その演奏会で私はご主人よりも近いところで奥様のピアノを聴く機会を得ました。ピアノの楽譜の譜めくりをすることになったからです。ご主人はステージ中央に立たれるわけですので・・・。

  宮城道雄さん作曲♪「春の海」の伴奏を弾き始める前に、そのピアニストは短く瞑想されました。

 それまでの曲のときも、短く瞑想をしてから弾き始められることに私は気がついていました。きっと曲想をまず心に描いて、それを指に伝えて演奏するためだろうなとお察ししていたのです。

 ところが・・・「春の海」を弾き始められる前の瞑想の時、私は本当に驚きました。ピアニストのそばから、一瞬、波の音が聞こえたからです。 耳を疑うというのは、まさにあのときのことを言うのでしょう。

 いたらない私のピアノは、文字が読めるようになりかけた幼子が文章を拾い読みして、意味もわからず文字を音声化しているのに似ています。単語のまとまりもくずれるような読み方と同じような演奏といってよいでしょう。(こういうのは演奏と言ってはいけないかもしれませんが・・)

  けれど、真の演奏家は、楽譜の音符を音に替えるというレベルを遙かに超えて、魂を込めて音を送りだし、その曲の世界を聴き手の内に描き出すのだということをそのとき、体感したのでした。幼児の拾い読みに対して、プロが自分の血を文章に通わせて読み上げる朗読にたとえると分かりやすいでしょうか。

  三浦綾子さんの『氷点』には、雨の場面を踊るお師匠さんがさしている傘に降る雨が観衆の目に見える・・・と書かれている場面があります。真の芸術家の描き出す世界がここにもある、と感じました。

  今日という一日、白いノートのようなせっかくの命の一日ですから、殴り書きや下書きをするのではなく、清書をする構えでおこないもことばも命を込めて送り出したいと思います。演奏家や舞踊家の芸術のようにはならないかもしれませんけれど。

  鈴木英太郎さんは、オーケストラ仲間に「何で、わざわざ時間をかけて、山の中に演奏しに出かけるのか。」と尋ねられると「あんなに目を輝かせて聴いてくれる聴衆のところへ、君たちこそ、なぜ行かないんだい。」と尋ね返しておられたと人づてに聞きました。

 ご夫婦そろって真の演奏家、芸術家だったなあと思い起こしております。技倆はつたなくても、私も心はその域に近づけたら、と願っています。

  今日は、日曜日、お近くにキリスト教会がありましたら、ぜひお出かけください。きっと魂を養うひとときをおすごしになることができると思います。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年7月21日 (土)

初日のピアノ

 さて、昨日の夕方、ピアノの初レッスンのご報告です。

 私が弟子入りを志願した先生に、初めて私のピアノを聴いていただくのですから、私の出来ることの中では得意分野のポピュラーミュージックから始めさせていただきました。

 ♪「シバの女王」、そして「秋桜」 ・・・耳でメロディを聴き取って自分流に伴奏を付けて弾くというやり方なので、楽譜がないのをいいことに自由に弾けるという利点があります。

 その後、指使いや、指の動かし方を見ていただくためにツェルニー三十番から2曲、そして、ブルグミュラーの小品を2曲、ソナチネアルバムから2曲を弾かせていただきました。

◇ 遅くなってしまうところのテンポをもとにして曲全体を一定のテンポ で通して弾けるように練習し、それができるようになったら、楽譜に指定されているテンポに近づけていくこと

◇ 均一の長さで並んでいる音符が続いているとき、付点を付けるなどバリエーションをつけ、その後楽譜に書かれているように弾くと楽に弾けるようになること

◇ 指を鍵盤から離れすぎるほど高く上げないこと ・・・ 早いテンポで曲を弾くときに遅れたり、歯切れが悪くならないために

◇ 指だけを動かすのでなく、手首を活用すること

などを、私の具体に即してコーチしていただきました。

 ほめていただいたというか、希望をいだかせていただいたのが、

・手の大きさ・・・(これは量的なことなので、問題は質のほうだと思いますが)・・・励みになります。

・「シバの女王」などの曲想の表現は綺麗だとのこと・・・これも嬉しいことでした。

  ディアベリ作曲の連弾曲集から2曲連弾していただき、テンポをくずさないで曲を通せるように導いていただきました。

  それから、お願いして、先生ご自身が取り組んでおられる曲を聴かせていただきました。(このへんが、年の功というか、あつかましいというか、60の手習いを志している者の特権かも・・・)

 まだ、途上だけれど、とおっしゃりながら、弾いてくださったショパンのエチュード・・・  先生の演奏を聴かせていただくのは初めてでしたが、心に響いてくるすてきな世界をおもちでした。

  次の日取りをおよそ決めてくださいましたから、弟子入り承認ということになります。そのことがたいへんうれしかったです。

 せっかく師事させていただくのですから、教えていただいたことに取り組み、少しでも前進しつつある姿をみていただけるように、と思います。

 「今日は、こんな順番で、これらの曲でお願いします」・・・そういう主体性のある、というか、わがままな進め方のレッスンに、と今のところ考えている私なのであります。

  また、いつの日かご報告させていただきますね。 

  梅雨明けももうすぐだと思います。このブログを読んでくださるお一人お一人の今日がよき日となりますように。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月20日 (金)

夏休み

 多くの小・中学校が今日、終業式をして夏休みに入ります。

 定年退職した私は、その実感がもてなくなりましたが、それなりに夏を前向きに味わいたいと思います。

  さて、ピアノの先生になってくださるようにお願いした方から、最初のレッスン日の連絡をいただきました。・・・正確に言うと、弟子にするかどうか、一度私のピアノの弾きぶりを聞いていただく日、ということになると思います。

 教えにくい、そして伸びることが望みがたい生徒だとの判断が下ると、弟子入りする前に破門・・というより入門不許可ということにならぬとも限りません。

 技術というよりも、音楽する心、そしてそれを表現することを感じ取り、学び取る・・・そんなことをさせていただきたいと願っています。

 60の手習いと申しますが、果たしてどのような展開になりますことか。

 私事ではありますが、また、報告させていただきますね。実は、今日がそのオーディションともいうべき日なのです・・・ 

 さて、皆様にはどんな一日が展開することでしょう・・・よき日となりますように。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年7月19日 (木)

フウセンカズラ

 ヨナ書を一章ずつ、四日間にわたって掲載させていただきました。66巻ある聖書の中には、150篇にわたる詩篇もあれば、ごく短い書もあります。

 手にとって聖書を読んでくださる機会を設けてくださると、新たな世界への広がり、心ひかれることばとの出会いなど、無限の出会いがあると思います。その中でも一番大切なのは、あなたを愛してくださっている神様との出会いです。

  さて、ヨナ書の4章に、神様がヨナのためにつる草を生長させて日陰を作ってくださったことが書かれていました。別の訳では「トウゴマの木」と書かれています。

 少し、話しは飛びますが、先日、我が家では大きくなってきたフウセンカズラのつるが登れるように園芸用のネットを買ってきて、張りました。フウセンカズラの葉が生い茂って、涼しくしてくれ、これから迎える本格的な夏の省エネを図ろうというわけです。

  そういえば、以前、電力会社主催の会に出たら朝顔の種を渡されました。高校野球の熱戦が中継される頃、エアコンの使用量をこの朝顔の葉陰が節約してくれますようにというアイデアと願いが込められていたことに感心したものでした。

 さて、家内は「グリーンのカーテンが楽しみ。」と申しております。ヨナの場合、神様はその葉を枯らせてヨナを教え導かれるのですが、さて、我が家のフウセンカズラは無事に育つでしょうか・・・見事、グリーンの涼しげなカーテンが育ちましたら、写真を掲載させていただきます。どうぞ、お楽しみに。 それでは、今日も、よき一日となりますように。

  

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年7月18日 (水)

ヨナ書 第四章

 さあ、いよいよ、ヨナ書の第四章(最終章)です。えっ、聖書の引用でブログを進め、四日間、ムーミンパパは何をしていたのかですって・・・うーむ、鋭いお尋ねですね・・・ひとあし早い夏休み、ということにさせていただきましょうか。それは、ともかく、さあ、ヨナ書のフィナーレです。

ヨナ書 第四章 (リビングバイブルによる)

4:1 この計画変更に、ヨナはひどく腹を立て、
4:2 神様に文句を言ったのです。 「神様、やっぱり、こんなふうになさったんですね。 最初からわかっていましたよ。 国でニネベへ行けと言われた時、こうなると思ったのです。 それで、タルシシュへ逃げたのです。 神様が恵み深く、あわれみに富み、なかなかお怒りにならず、思いやりのあるお方であることを知っていましたからね。 この人々を滅ぼす計画さえ、いとも簡単に取りやめてしまわれるって、わかっていたんですよ。
4:3 ああ神様、私なんか殺してください! 〔私の語ったことが嘘になったのですから〕、死んだほうがましです。」
4:4 すると、神様はお語りになりました。 「なんで腹を立てるのか。」
4:5 ヨナは町から出て行き、ふくれっ面をして、町の東のはずれに腰をおろしました。 そこに木の葉で日よけ小屋を作り、町がどうなるかを見きわめるつもりだったのです。
4:6 ところが、葉っぱが暑さで枯れてしまったので、神様は急いでつる草を生えさせ、大きな葉で日をさえぎってくださいました。 おかげで居心地がよくなり、ヨナは大喜びでした。
4:7 ところが、神様は一匹の虫をも用意しておられました。 翌朝、その虫が茎を食いちぎると、草は見る間に枯れてしまったのです。
4:8 太陽がのぼって暑くなると、神様は焼けつくような東風を吹きつけさせました。 太陽が頭にじりじり照りつけます。 ヨナはすっかりまいってしまい、死にたいと思いました。 「こんな思いをするくらいなら、死んだほうがましだ。」 とうとう、彼は叫んだのです。
4:9 神様はヨナにお語りになりました。 「この草が枯れたことを怒るのは、正しいことだろうか。」 / 「もちろんです。 死ぬほど怒って当然です。」
4:10 「おまえは、苦労してつくったのでもない日陰がなくなっただけで、そんなにも嘆いている。 あんな草はもともと、はかない命しかないものだ。
4:11 だったら、わたしが、このニネベのように大きな町を惜しむ気持ちが、どうしてわからないのか。 そこには、事の善悪をわきまえない十二万もの人々と、たくさんの家畜がいるのだ。」

    ◇  ○  □  ☆  □  ○  ◇

  四日間にわたってヨナ書を掲載させていただきました。もし、よろしければ、第一章から読み返していただけるとヨナ書全体をご理解いただけるのではないかと思います。聖書全66巻にはこういう書もあるのだなと聖書への関心を強めていただけたら、とても嬉しく思います。

  もし、このブログを読んでくださる方で、学生さんなど、夏休みに入る方がおありでしたら、ぜひ、夏休みの日課の一つに聖書通読を組み入れてくださると、たいへん嬉しいです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年7月17日 (火)

ヨナ書 第三章

 四章あるヨナ書の今日は、第三章・・・展開も佳境に入ってまいりました。

ヨナ書 第三章 (リビングバイブルによる)

3:1 -2神様は再び、ヨナにお語りになりました。 「あの大都市ニネベへ行き、滅びが迫っていると警告せよ。」
3:3 ヨナは、言われたとおりニネベへ行きました。 ニネベは大きな都市で、回りに広大な郊外を控えていました。 歩いて町をひと回りするだけでも、三日はかかるほどです。
3:4 -5ところが、ヨナが町に入って説教を始めたその日から、人々は悔い改めたのです。 ヨナは回りを取り囲んだ群衆に、「きょうから四十日後に、ニネベは滅びるぞ!」と叫びました。 彼らはヨナのことばを信じ、断食を始めました。 上は王から下は身分の低い者に至るまで、すべての人が粗末な服をまとい、嘆き悲しんだのです。
3:6 ニネベの王は、ヨナが語ったことを聞くと、王座から立ち上がり、王服をわきへ押しやって粗末な服を着、灰の中に座りました。
3:7 そして大臣と相談し、町中に次のようなお布令を出したのです。 「何人も、動物さえも、食べ物を口にしてはならない。 水も飲んではならない。
3:8 粗末な服を着、ひたすら神様に祈ること。 また、おのおの暴力や強奪をやめ、悪の道から足を洗うこと。
3:9 はっきりとは言えないが、もしかすると、神様は憤りを静めて、いのちを助けてくださるかもしれない。」
3:10 神様は、彼らが悪の道から離れたことをご覧になりました。 それで、彼らを滅ぼす計画を中止したのです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月16日 (月)

ヨナ書 第二章

 昨日に続き、ヨナ書の第二章を掲載させていただきます。ヨナ書は、聖書全66巻の内の一つの書ですが、短編小説としてみても優れている、と評した人がいます。四章まであります。

ヨナ書 第二章 (リビングバイブルによる)

2:1 ヨナは魚の腹の中から、神様に祈りました。
2:2 「神様。 神様は、苦しくてどうしようもない時に祈ると、答えてくださいました。 死の深みから叫び求めた時、聞いてくださいました。
2:3 神様は私を、大海の深みに投げ込みました。 激しくさかまく波をかぶって、深い水中に私は沈みました。
2:4 そのとき私は、『ああ神様。 神様は私を退け、海に投げ込みました。 もう二度と、神様の聖なる神殿を見ることはできません』と申しました。
2:5 海中に沈み、もう少しで死ぬところでした。 水の中では、海草が頭にからみつきました。
2:6 私は海の底の底まで沈んだのです。助かる望みもなく、死の牢につながれてしまいました。 しかし神様は、ぽっかり開いた死の口から、私をすばやく助け出してくださいました。
2:7 全く望みを失った時、もう一度、私は神様に思いを向けたのです。 聖なる神殿におられる神様に、真剣な祈りをささげました。
2:8 偽りの神々を拝んでいる者は、神様が与えようとしておられる恵みに、背を向けているのです。
2:9 私は、神様以外のものを決して拝みません。 ああ、神様がしてくださったことに、どう感謝したらよいでしょう。 私は必ず約束を果たします。 私を救ってくださるのは、神様だけだからです。」
2:10 そこで神様は、ヨナを海岸に吐き出すよう魚に命じ、そのとおりになりました。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月15日 (日)

ヨナ書 第一章

 台風4号による被害が出ています。強い風や大量の雨への備えを固くいたしましょう。

 嵐が出てくる聖書の箇所ということで、旧約聖書のヨナ書を掲載させていただきます。「リビングバイブル」という思い切って意訳するなど、分かりやすさを特長としている聖書を活用させていただいています。

  引用に当たっては、「Jばいぶる」というパソコンソフト(いのちのことば社)が活躍してくれています。9800円という値段ですが、引用、検索に特に大きな力を発揮してくれます。

 なお、ヨナ書は、4章からなっています。今日から、1章ずつ掲載させていただきますね。

聖書 ヨナ書 第一章 全文  (リビングバイブルによる)

1:1 アミタイの子ヨナに、神様から次のようなお告げがありました。
1:2 「あの大都市ニネベへ行って、神がこう語ると告げよ。 『わたしはお まえたちを滅ぼす。 おまえたちの悪行の数々が、山のように積もり、その悪臭が天にまでただよって来たからだ。』
1:3 ところが、ヨナは行くことをいやがり、神様の前から逃げ出して海岸の方へ行き、ヨッパの港へ出たのです。 ちょうど、タルシシュ行きの船が出航するところでした。 船賃を払って船に乗り込んだヨナは、神様から身を隠そうと、暗い船底に降りて行きました。
1:4 ところが、航海が始まると、突然のように神様は嵐を起こし、その船めがけて突風を吹きつけました。 船は今にも沈みそうです。
1:5 身の危険を感じた水夫たちは、必死の思いで、自分の信じている神々に助けを求めました。 また、なんとか船を軽くしようと、積み荷を海に捨てました。 その間、ヨナは船底でぐっすり眠り込んでいたのです。
1:6 あきれた船長は船底に降りて行って、どやしつけました。 「おい! どういうつもりだ、こんな時に眠りこけて。 さっさと起きて、おまえの神様に祈ったらどうだ。 そうすれば、お恵みで助かるかもしれんぞ!」
1:7 乗組員はくじを引くことにしました。 神々を怒らせて、こんな恐ろしい嵐を引き起こした張本人はだれか、見つけようというのです。 くじはヨナに当たりました。
1:8 「いったい何をしでかしたんだ。 こんなに恐ろしい嵐を起こすとは? えっ! おまえさん何者だい? 仕事は? どっから来た?どこの者だ。」
1:9 -10「ユダヤ人です。 この地と海とをお造りになった天の神様を信じ、拝んでいる者です。」 それから、その神様から逃げ回っているわけを話しました。 / 人々は話を聞くと、ますます恐ろしくなりました。 「何でそんなことをしたんだ?
1:11 ああ、この嵐を静めるために、おまえさんをどうすりゃいいんだろう」と叫ぶように言いました。 海はいっそう荒れ狂ってきたからです。
1:12 「どうか、私を海に投げ込んでください。 そうすれば、静まるでしょう。 この嵐も、私のせいなのですから。」
1:13 それでも、なんとか陸に近づこうと必死にこぎましたが、どうにもなりません。 突風が荒れ狂い、まともに吹きつけるのです。
1:14 とうとう、人々はヨナが仕えている神様に大声で祈りました。 「ああ神様。 お願いでございます。 この男のために、おれたちまで巻き添えにしないでください。 この男を海に投げ込みますが、どうぞ、おれたちを罰しないでください。 おれたちの責任じゃありません。特別なわけがあって、神様がこの男に嵐を見舞わせているのですから。」
1:15 彼らはヨナを荒れ狂う海に投げ込みました。 すると、どうでしょう。 嵐はぴたりと収まったではありませんか。
1:16 人々は神様の前に恐れをなし、いけにえをささげて、ヨナの信じていた神様に仕えることを誓いました。
1:17 ところで、神様は大きな魚に、ヨナをのみ込ませました。 ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいたのです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月14日 (土)

パリ祭

 1789年の7月14日早朝、パリ市民がバスティーユの監獄から多くの政治犯を解放、フランス革命が始まりました。このフランス革命の記念日をわが国では「パリ祭」と呼んでいる、と『今日は何の日』・PHP研究所編集・発行・・・に書かれています。

  わざわざ、「わが国では」とことわっているということは、フランスではそうは呼んでいないということのように思えますね。(「パリ祭」は日本語だから、フランス語として使われていないというジョークはこの際、言わないで、Q「せんべいのカーニバルってなーんだ?」 A「パリ祭」と括弧付きで記すに留めます。)

 『不思議の国ニッポン』の中で、ポール・ボネというフランス人の著者は、日本ではフランスへの憧れをいだいている人が多いけれど、フランスでは日本に憧れをいだいている人はほとんど見かけず、申し訳ないと私が言うことではないけれど、日本の片思いです、という意味のことを書いていたように覚えています。

 有名なブランド品を買いに来る日本人客にあきれて、店員が床に商品をばらまいて、飛びつく姿をあざ笑っている・・・そんな場面が放映されたこと、ありませんでしたか。

 上に書いたのは、極端な例かもしれませんが、経済的に恵まれないあるアジアの国の少女が「食べることにもお金に困っていない日本の少女が援助交際という名のもとに身を売るなんて、私には理解できません。」と述べていることが日本の新聞に掲載されていたことがあります。

  浮き足立たないで、そして一部に感心しない、尊敬できない人たちが日本にいるにしても、大多数の人は、地道に、本当に真面目で勤勉に額に汗しながら、この国ならではのよさを引き継いで歯を食いしばりながら踏ん張っていることを忘れないで、歩んでまいりましょう。

聖書のことば  出エジプト記 第20章 12節

 あなたの父と母を敬え。

 自分を生んでくださった人、そして自分の育った家庭・・・身近な故に、身近すぎるが故に、欠点が目についたり、理想とのギャップを嘆いたりする対象になりがちです。

  けれど、もし、樹木が自分の根っこ、自分の立っている大地を否定したら、その木はどのようにして自分自身の命脈を保つことが出来るでしょうか。

  自らを根無し草におとしめず、人間としての尊厳をもって生きるためにも、父と母、そして自分の家庭のよさをしっかりと見つめ、建設的にそのよさをさらに伸ばすこと、もし、親が老いていたら、その親を尊敬しながら労ること、もし親が亡くなっていたら、それにつぐ人に対して、愛を示すこと・・・それが、自分の立つ大地にしっかりと根を張って大樹になる営みとなるのではないでしょうか。

 動かぬ樹木であっても自らの葉を落として足元の土を肥やします。まして、動ける人間であるならば・・・・・

 フランス革命をもととする「パリ祭」から、思わぬ自己意識の革命へと筆を走らせてしまいました。もとより、まず、私自身に向けられるべきことばであります。どうかお許しください。

  今日は土曜日・・・明日の日曜日には、ぜひキリスト教会へ足をお運びくださいますように。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月13日 (金)

ゴールに向かって

 サッカーの第一回ワールドカップがウルグアイで開幕したのが1930年(昭和5年)の7月13日だそうです。13カ国の参加で、地元ウルグアイが優勝したそうです。

 ご存じのように、サッカーは、(相手)ゴールにボールをけり込むことで得点が入ります。(時に、味方のゴールにボールを入れてしまうことがありますが、これはオウンゴールと呼ばれ、相手の得点になってしまう不運な不測の事態です。)

 人生は、スポーツほど明快な展開にはなりにくいものですが、私たちは、どこをゴールとして毎日の仕事を進めているのでしょうか。

 行動すること自体が目的化してしまう場合があるように思いますが、サッカーのドリブルやパス、そしてシュートがゴールにボールをけり込んで相手よりも多く得点するという目的のために力が結集されているように、最終的にどんなゴールに到達できればよしとするのかを見忘れないで人生の一日一日を歩みたいと思うのです。

聖書のことば ピリピ人への手紙 第3章  14節

 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

 これは、昨日ご紹介したパウロのことばです。

 人生は、よくマラソンにたとえられます。今日という日、確かなゴールを目ざして、前進することができますように。

 昨日、この春退職した小学校の子どもたちに会う機会がありました。成長を続けている子どもたちの笑顔の何と明るく、まぶしかったことでしょう。教育という道を歩ませていただいて本当によかった、と幸せな思いに満たされました。その思いをエネルギーとして、第二ラウンドに励んでいこうとしているこのごろです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月12日 (木)

真珠

 1893年(明治26年)の7月11日に御木本幸吉夫妻が初めて真珠の養殖に成功したのだそうです。『今日は何の日』四訂版PHP研究所編・1100円

 このときは、半円真珠だったそうですが、1905年に真円真珠を作り出すことに成功する道が開かれる布石となったとのことです。

 真珠は人魚の涙と呼ばれたりしますけれど、あの美しい真珠は小さな貝が文字通り、産みの苦しみを経て形成するのだそうですね。

聖書のことば ガラテヤ書 第4章  19節

  あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私(パウロ)は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

  パウロという人は、その人生においてイエス・キリストと出会うまでは、クリスチャンを迫害する人でした、その彼が命懸けでイエス・キリストを述べ伝えるようになり、殉教するまでに、パウロは神様に用いられて新約聖書の約半分に当たる十三の書を書きました。その一つ、ローマ人への手紙、第5章に、パウロはこのように書いています。

「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」。

  わたしたちの人生にも、日々、苦しみがあります。けれど、うちひしがて下を向くのでなく、まなざしを高いところにあげて、鍛え上げられた希望をもって歩んでまいりましょう。

  その歩みによって、それぞれの人生が、それぞれかけがえのない真珠以上の光を放つことになるのです。

 このブログでも何回かご紹介させていただいている聖書のことばがあります、

  わたし(神様)の目には、あなたは高価で尊い。 / わたしはあなたを愛している。  イザヤ書第43章4節

 今日という日、上の聖書のことばに出てくる「あなた」が、まさにあなたご自身に対して語られていることを確信し、神様の愛を感じつつ歩むことができる日となりますように。

 

 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月11日 (水)

光回線

 インターネットに接続する我が家の環境が7月9日から光回線になりました。

 電話線の工事に来てくださった二人の方に「この仕事をしておられる方は、皆、お二人のようにスリムで背が高いのですか」と尋ねたら、「いえ、たまたまです。短くて丸っこいのも居ますよ」との返事。さわやかな笑顔が印象的でした。手際のよい仕事ぶりのお二人でした。

 さて、回線の工事が終わってからは「お客様ご本人で設定」というのが基本とのこと・・・正直、何がどう変わるのか分からないまま、マニュアルに従って作業しました。ほぼ、順調だったのですが、あるダイヤルに電話をかけて必要事項をやりとりすると書かれているのに、何回トライしても先方に通じないという壁にぶつかりました。

 うーん、と新しい機器とにらめっこしていると・・・赤くともっているランプと目が合いました。映画「ターミネーター」の瞳ほどではありませんが、その赤いランプもこちらを見ている気がしたのです。(映画をご覧になったことのない方、ごめんなさい。)そこから道が開け、無事に電話が通じて担当者と話すことが出来ました。心残りは「夜遅くまで、お疲れ様です。」というねぎらいのことばをかけ忘れたことです・・・二度とその方にはつながらないだろうな・・・。

 さて、今まではADSLでも電話局との距離の関係で少し特殊な環境でした・・・その分、少し料金が安めなのはよかったのですけれど。光回線になって、画像を添付したメールもスムーズに送受信できているように思います。これで、人生の時間を有効に使うことが出来るような気がしてきました。(ちょっと大げさですけれど・・・)

 E-mail・・・電子メールに対して、切手を貼るメールを原始メールなどという人もいます。 でも、光回線もかなわない、とても速く、すばらしいコミュニケーションのためのラインが人間と神様の間にはひかれています。「祈り」がそれです。人間の側の心が曇っていると停電や断線の状況に陥ることがあるかも知れませんが、いつでも世界のどこからでも、どんな状況にあってもこの神様への「祈り」の道は開かれています。

 光回線の開通を喜びつつ、それ以上に、改めて神様に祈ることの出来る道が開かれていることへの感謝の思いを強くした一日でした。

聖書のことば      マタイによる福音書 第21章 22節

ほんとうに信じて祈り求めるなら、何でも与えられるのです。

 上のように聖書に書かれています。ただし、お分かりいただけると思いますが、悪い心で悪の栄えを祈ることは含まれていません。

  また、神様をアラジンの魔法のランプの精のように自分の思い通りに働く召使いとすることが許されているわけでもありません。

  今日という日を、ただ一度神様にこの世に招待されている人生の大切な一日として、賜物を生かして歩むことができますように。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月 9日 (月)

シシトウの実り

 小さな家庭菜園の担当者に任命されたものの、あまり責任を前向きに果たしているとは言えない私です。

 ところが、です。ほっそりしていて、これは実をつけることは無理ではないかと思っていたシシトウが、市の推奨する「ぼかし」というのを用いて台所の残菜を利用して作った肥料の効いているところへ移植したのがよかったらしく、小柄な実ではありますがせっせと食卓に実りを提供してくれています。

 教えてくださる人にしたがって、肥料から遠ざけているミニトマト・・・こちらも少しずつ実っています。

 うーん、こういうことを体験しながら多くの人がこの道にのめりこんでいくのでしょうね。(深入りしないように気をつけたいと思います (^_^;

 えっ、シシトウがいくつぐらい収穫できたのか、ですって・・・シシ ○○・・・いえいえ、品格を落とすような洒落は慎むことにいたします。

 今日も、蒔いた種が実を結び、ひたいに汗して歩む働きが報われますように・・・   すぐに収穫できなくても、やがて苦労が報われますように・・・それは忍耐を要しますが、深い生き方であるように思われます。

聖書のことば  マタイによる福音書  第5章 8節

 心のきよい人は幸福です。 そういう人は親しく神とお会いできるからです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月 8日 (日)

失われた銀貨のたとえのメッセージ

 今日は日曜日、キリスト教会では神様への礼拝がささげられます。

 関根一夫という牧師さんが今日お話しされる聖書からのメッセージをご紹介いたします。

 メッセージの題    「なくした銀貨」のたとえ

聖書の箇所 ルカによる福音書   第15章  8節から10節

ルカによる福音書15章
  ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚をなくしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。  そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
  言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。

【メッセージの一部分】

「もし、あなたがいなければ、この宇宙から尊いものが消えうせ、人類の花園から一輪の花が姿を消すのです。」とジャン・バニエはある本の中に書きました。

   あなたという存在は、宇宙の中で、人類の花園の中で本当に尊い、かけがえのない存在なのです。神様の形に造られた特別な存在なのです。その神様の刻印が有効な世界、それは神様の愛の中です。イエス様によって入ることができる神様とのきずな関係の中こそ、あなたがもっともあなたとして花開く場なのです。イエス様はあなたを探しにきてくださいました。そして、あなたの存在を守り、清め、祝福しようと十字架にまでかかってくださいましta

     ◇  ○  □  ☆  ◎  ☆  □  ○  ◇

  上のメッセージは、クリスチャンにも、そしてクリスチャンではない方にも語られています。クリスチャンは、見つけていただいたことへの感謝の思いを新たにし、まだ、イエス・キリストの愛をよく知らない方のために祈ります。

  できましたら、ぜひ、今日、お近くのキリスト教会におでかけください。それぞれのキリスト教会で、聖書に基づいたメッセージが語られるからです。

  部分でなく、上のメッセージの全文を読みたい方は、「続きを読む」をクリックしてください。・・・聖書には「(門を)たたきなさい。そうすれば開かれるであろう。」と書かれています。

  今日という日が、すてきな一日となりますように。

続きを読む "失われた銀貨のたとえのメッセージ"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 7日 (土)

ヘチマの植え替え

  ある先生からいただいたメールを紹介させていただきます。昨日のブログに書いたことを、実際に育っている学級の子どもたちの姿で裏打ちすることができるのは、私にとっても本当に喜ばしいことです。この子たちは4年生です。

       ○  ◇  □  ☆   □  ◇  ○

  今日(7月5日)は「学習のまとめ」を書き終わった子からヘチマの植え替えに行くことにしました。学級園には、苗やスコップを置いて準備は整えておきました。

  わたしは「学習のまとめ」が全員終わりそうになったところで、学級園へ様子を見に行きました。すると、ちゃんと遅い子のために苗が残してあるんですよね。
 そして、植え終わった子は誰言うともなく、隣の学級園の草引きをしているんです。
  みんな仲良くて感心してしまいました。しばらくすると、じょうろで水をまく子、籠に草を入れて運ぶ子などが自然発生的に現れました。わたしは、道具を洗うことを指示しただけです。

 子どもたちはまた、授業中だからと、わたしが言うまで誰も水を飲みにいく子はなかったのですよ。

 道具を倉庫に入れる作業をしたわたしが教室にもどったら、「学習のまとめ」が番号順に集められていました。本当に嬉しい光景でした。

 学級のベースはほぼできたと思いました。 

      ○  ◇  □  ☆   □  ◇  ○

  いかがでしょうか。

  感想はお一人お一人にゆだねさせていただきます。

  この先生は、心身の安まるときのないご事情をかかえながら、ベストを尽くして子どもの前に立っておられます。その先生がヘチマを植えるための畑を耕しに休日にも登校されたことを子どもたちは知らないかも知れません。あるいは気づいているのかも知れません。

 こういう先生とクラスが現実にあるのだということをお伝えし、読んでいただく方とわかち合えることを喜んでおります。

 きょうは、七夕・・・孫娘が2歳の誕生日を迎えました。(^o^)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 6日 (金)

雲の上には太陽が

 世の中、悪くなる一方だ、というような意見を聞くことがあります。

 確かにそういう面もあると思います。

 けれど、本当にすべてがそうでしょうか。

 あってはならない事件、正しく行動すべき組織や人が正しく歩んでいなかった事実・・・これらが報道されると「世の中どうなっているんだ」という思いに駆られます。

 けれど、こうしたことが報道され、問題にされ、憂いを呼ぶこと自体、まっとうな考え方、生き方をしている人が多いということを示していると思います。不正なこと、人間としての生き方に反することに光が当てられることは、世の中が闇で覆い尽くされているのではないことの証明です。

 大切なのは、暗い事件に意気消沈しないで、自分の手にあるともしびをますます明るくすることではないでしょうか。

 小学校に勤めているとき、不審者から子どもを守るために力を合わせてくださる方々に私は自分自身に言い聞かせていることばをお話ししました。「真剣であれ、されど深刻になるな」

・・・大人が嘆息し、せっかく大多数の人がまっとうに生きて築いている今の世の中をマイナス方向に満ちている下る一方の社会だという色調で染めてしまったら、その大人たちに育てられている子どもたちはどうやって明るい未来像を描くことができるでしょうか。

 土砂降りの地方があっても、世の中全部に雨が降っているわけではありません。たとえ、見渡す限り黒雲が覆っていても、その雲の上にはさんさんと太陽が輝いているのです。今、土砂降りのところも、必ず晴れの日が来るのです。

聖書のことば  ルカによる福音書 第6章 47節~49節

  わたし(イエス・キリスト)のもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
  その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
   聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」

  確かな土台の上に人生を建て、そこに軸足をしっかり置き、雨の日も雲の上に太陽があることを忘れず、闇に負けることなく光をかざして歩み続ける・・・そんな一日、一日を歩くことができますように。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年7月 5日 (木)

えっ、そうなんですか

 俳句に造詣の深い方のお話しを最近うかがっていて、驚いたことがあります。

 「氷雨」とは雹のことで、夏の季語でもある・・・えっ、にわかには理解できませんでした。早速インターネット上の百科事典、ウイキペディアで調べてみますと

 「氷雨(ひさめ)とは空から降ってくる氷のこと。一般的に5mm以上のものを(ひょう)、5mm未満のものを(あられ)と呼ぶ。また、季語でもある。」と書いてありました。

 一つのことばが、夏と冬の季語・・・驚きました。

  とりあえず、歌謡曲の♪「氷雨」・・・外は冬の雨・・・というのも間違いでないことはわかりましたけれど、「氷雨」=冬 と頭から思いこんでいたことが、がらがらっとくずれたのです。

  そう言われてみると、下呂の小学校にお世話になっていたとき、夏にビニールハウスの屋根を突き破るほどの大きな雹が降って、農家の方が「西瓜やトマトが被害にあったのはつらいけど、あまり大きな雹だったので、集めて冷蔵庫にとってある。オンザロックの氷にでも使おうと思っている」と話しておられたことがありました。夏に雹が降ることを私も実際に見聞していたのに概念は拡がっていなかったのですね。

 頭から思いこまないで、辞書をこまめにひくなど、謙虚に学び続けなければと反省いたしました。

聖書のことば  コリント人への手紙 第一  第3章 19節

  この世の知恵は、神様から見れば愚かだからです。 旧約聖書のヨブ記に、「神は人の知恵を、その人を捕らえるわなとして用いられる」と書いてあるとおりです。 つまり、人は自分の「知恵」につまずいて倒れるのです。 

  この聖書のことばは「氷雨」のエピソードとは違う意味合いかと思いますが、あのニュートンでさえ、知的な世界で業績を上げたといわれる自分を、真理の大海の波打ち際で小さな貝殻を拾っている子どものようなものだと表現していました。

  今日という日、先入観、既成概念にとらわれず、謙遜な心で真摯な学び手として学び、新鮮な驚きを覚えつつ歩むことが出来ますように。

  

 

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 4日 (水)

名作の陰に聴き手あり

 1862年の7月4日、オックスフォード大学の数学講師が、学寮長の娘たちと川遊びに行ったそうです。・・・普通なら、こういうことはわざわざ記録されませんよね・・・。このときに彼、ドジスンが思いつくままに話した物語を学寮長リデルの三女がすっかり気に入って、本に書いて欲しいと頼み、それがきっかけとなって書かれたのが『不思議の国のアリス』だそうです。

 この三女の名はアリス、ドジスンのペンネームはルイス・キャロルです。

 名作の陰によき聴き手あり・・・そんなことをふと思いました。

 『源氏物語』もフアンの要請にこたえて書き継がれたようですし、中国の白楽天は日本に自分のフアンが居ることを知りつつ詩作に励んだとか。島崎藤村も自分の子どもたちに童話を書き、松谷みよこの『ちいさいモモちゃん』シリーズも娘さんとの日常の会話からはぐくまれた面があるようです。

聖書のことば  マタイによる福音書 第4章 9節

イエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

 どんなにすばらしいことが放送されていても、受信するテレビのチャンネルやラジオの周波数がずれていては、せっかくのよきニュースを聞くことはできません。

 本当に大切なことにチャンネルを合わせて聞き入ることのできる耳をもちたいと思います。本当に大切なことは多くなく、悪書の一番いけないところは良書を読む時間を奪うことだといわれます。

 今日という日、本当に大事なことに心を向け、とらえるべき相手の心を真心をもって受けとめることができますように。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月 3日 (火)

心の波動

 何とも不思議な本を貸してくださった方が居ます。本は『結晶物語』著者は江本勝さん・サンマーク文庫・エヴァシリーズ・2003年7月5日初版発行・700円です。

 この本のどこが不思議かと申しますと、水に音楽を聞かせたり、ことばをかけたり、あるいはかけなかったりすると、それぞれのときに水が結ぶ結晶が違った形、ことなる雰囲気をかもしだすことが、写真と文でていねいに示されていることです。

 ここでは、それ以上述べませんが、機会を作ってこの本を手にとってご覧いただければと思います。

 水とは異なりますが、モーツアルトの音楽を聞かせると乳牛は質のよいミルクをたくさん提供してくれ、花はより美しく咲く現象があるようで、これを音楽による空気の振動と結んで説明している方もあるようです。

 そうそう、ある花屋さんのお話を思い出しました。

 水をやらなければ枯れてしまいそうな花たちがあるのに、疲れてしまってへとへとなとき、花たちに「ごめんね、明日の朝一番に水を上げるから、がまんしてね」と声をかけると、翌朝まで命を保って待っていてくれる」のだそうです。

 ことば、あるいはまなざしなどに心の波動ともいうべきものが込められると動物、そして花や水にもそれが伝わるのかも知れません。

 その波動は、「宇宙戦艦ヤマト」に登場する敵を圧倒する波動砲などと違って、とてもすてきな働きをするもののようです。

 などと書きましたが、何といってもことばや音楽を一番よく理解し合えるのは人間同士だと思います。

 悲しいことに自分の身近な存在にほど、ぞんざいになる傾向を人間はもっているように思いますが、身近な人にほどやさしいことばを掛け合えるように努めたいと思います。

 聖書のことば  イザヤ書    第43章  4節

わたし(神様)の目には、あなたは高価で尊い。 / わたしはあなたを愛している。 

 神様が堂々と私たちを愛していることを宣言してくださっているのです。私たちも身近な大切な人に堂々と優しいことばをかけあって歩もうではありませんか。

 どうか、今日も、そういう日となりますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 2日 (月)

半夏生(はんげしょう)

ハンゲショウ(半夏生)  ドクダミ科  初夏

 “半夏生”とは太陽の黄経が 100 度になる日で,夏至から 11 日目(7 月の 2 日頃)です。植物としての“半夏生”もこの頃に花をつけるからこの名前になりました。
 別の説では,花に近い葉っぱの一部が白くなり花よりも目立つので,“半化粧”だともいわれます。
 なお,“半夏”という漢方薬がありまして,それはカラスビシャク(烏柄杓)からとれるものです。カラスビシャクが生じる頃だから季節としての“半夏生”という命名があるというものです。 この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)といい、大雨になることが多い。

 と、インターネットにありました.。

http://aoki2.si.gunma-.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/Hangeshou.html

  追加ですが、インターネット上の百科事典「ウイキペディア」には下記のように、各地で、この日に食べる食べ物のことが載っていました。

関西ではこの日にを、讃岐では饂飩を、福井県では大野市などで焼きを食べる習慣がある。

 7月2日をうどんの日、タコの日などと関係者が制定しているようです。

 本日は、引用で失礼し、エネルギーの充填に努めさせていただきます。そうそう、タイにウロンという町があり、それがうどんの名の由来と聞いたこともあります。積極的に確かめたことはありませんが。

 今日も、暑さに負けず、元気でお歩みください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 1日 (日)

七月・・・文月

 7月は文月とも呼ばれます。手紙を書きたくなる月なのかと思っていましたら、中国では7月7日に書物の虫干しをする行事があり、それが日本に入ってきて「文開く月」ということから、「文月」となったのだそうです。

  うーん、何歳になっても学ぶことはありますね。

 1918年(大正7年)の7月1日、児童文芸誌『赤い鳥』が創刊され、それにちなんで日本童謡協会が1984年からこの日を「童謡の日」としました。

  ベストを尽くして子どもに最善の童謡・童話を贈ろうという志を引き継いでいる人々も多い反面、感心しないマイナスの商品を子ども相手に作り、利益を上げている大人も少なくないのは嘆かわしいことですね。

聖書のことば  詩篇 第69篇 28節

  彼らがいのちの書から消し去られ、 / 正しい者と並べて、書きしるされることが / ありませんように。

 ここにいう「彼ら」とは積極的に悪を為す人、神様に敵対して義人を苦しめる人という意味でしょうか。

 神様がいては困る、という生き方ではなく、神様に喜んでいただけるよう、前向きに生きようではありませんか。

 今日の一日も、そうした日とすることができますように。今日は日曜日、キリスト教会にぜひ足をお運びになってください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »