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2007年7月22日 (日)

演奏家魂

  下呂の小学校に勤めていたとき、山奥の子になまの音楽を聴く機会を・・・という文化庁の事業が実現し、鈴木英太郎というヴァイオリニストがピアニストである奥様と訪れてくださったことがあります。

  その演奏会で私はご主人よりも近いところで奥様のピアノを聴く機会を得ました。ピアノの楽譜の譜めくりをすることになったからです。ご主人はステージ中央に立たれるわけですので・・・。

  宮城道雄さん作曲♪「春の海」の伴奏を弾き始める前に、そのピアニストは短く瞑想されました。

 それまでの曲のときも、短く瞑想をしてから弾き始められることに私は気がついていました。きっと曲想をまず心に描いて、それを指に伝えて演奏するためだろうなとお察ししていたのです。

 ところが・・・「春の海」を弾き始められる前の瞑想の時、私は本当に驚きました。ピアニストのそばから、一瞬、波の音が聞こえたからです。 耳を疑うというのは、まさにあのときのことを言うのでしょう。

 いたらない私のピアノは、文字が読めるようになりかけた幼子が文章を拾い読みして、意味もわからず文字を音声化しているのに似ています。単語のまとまりもくずれるような読み方と同じような演奏といってよいでしょう。(こういうのは演奏と言ってはいけないかもしれませんが・・)

  けれど、真の演奏家は、楽譜の音符を音に替えるというレベルを遙かに超えて、魂を込めて音を送りだし、その曲の世界を聴き手の内に描き出すのだということをそのとき、体感したのでした。幼児の拾い読みに対して、プロが自分の血を文章に通わせて読み上げる朗読にたとえると分かりやすいでしょうか。

  三浦綾子さんの『氷点』には、雨の場面を踊るお師匠さんがさしている傘に降る雨が観衆の目に見える・・・と書かれている場面があります。真の芸術家の描き出す世界がここにもある、と感じました。

  今日という一日、白いノートのようなせっかくの命の一日ですから、殴り書きや下書きをするのではなく、清書をする構えでおこないもことばも命を込めて送り出したいと思います。演奏家や舞踊家の芸術のようにはならないかもしれませんけれど。

  鈴木英太郎さんは、オーケストラ仲間に「何で、わざわざ時間をかけて、山の中に演奏しに出かけるのか。」と尋ねられると「あんなに目を輝かせて聴いてくれる聴衆のところへ、君たちこそ、なぜ行かないんだい。」と尋ね返しておられたと人づてに聞きました。

 ご夫婦そろって真の演奏家、芸術家だったなあと思い起こしております。技倆はつたなくても、私も心はその域に近づけたら、と願っています。

  今日は、日曜日、お近くにキリスト教会がありましたら、ぜひお出かけください。きっと魂を養うひとときをおすごしになることができると思います。

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コメント

 一流の技を持つプロだけが発揮することのできる、独自の緊張感といいますか、パフォーマンスといいますか、素晴らしいですね。
 私は音楽は詳しくないので、野球で一つ。
 学生時代、ナゴヤ球場の切符切りの、アルバイトをしていました。試合前の練習が見れるのですが、当時フリーバッティングのとりは、落合と宇野でした。宇野が力任せのフルスイングで、10本中1本くらいスタンドへ入れました。落合はゆったりとした構えから、ボースをいっぱいまで引きつけ、バットの真にのせると、放り投げるようにレフトスタンドに入れました。その率は9割だったのです。ほとんど命中しない宇野に対して、ほぼ完璧に捉える落合。プロの4番を任された人間でも、こうも差があるものなのかと、唖然としたのを覚えております。

投稿: 小島 | 2007年7月22日 (日) 18時25分

 毎朝ブログを開くのがとても楽しみです.楽しむというより学びです。素晴らしい出会い(ムーミンパパ)を神様に感謝します。
 ありがとうございます。

投稿: 美登子 | 2007年7月22日 (日) 08時28分

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