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2007年9月30日 (日)

ブログ開設一周年

  「ムーミンパパのシルエット」を訪れていただき、ありがとうございます。ほぼ、毎日、新しい記事を掲載し、今日のこの記事が375番目になります。開設一周年をすぎたということですね。

 訪れてくださった方が、のべ9千7百人ほど・・・一日のアクセス平均が25回強ということのようです。日によって、60回以上になることもありましたが、それは、まとめ読みをしてくださる方があるときですね。

 これは、私が数えているのではなく、お世話になっているココログにそういうアクセス解析のサービスがあって、自動的にアクセス数や時間帯をブログの開設者には見ることができるようにしてくれているということです。

 一年以上にわたってこのつたないブログを続けてこられたのは、このブログを訪れてくださる方があるからですし、コメントをいただくと、やはりうれしいものです。本当にありがとうございます。どうぞ、これからもよろしくお願いいたします。 

 さて、今日は日曜日、キリスト教会での礼拝に、より多くのかたがつどうことができますように。

聖書のことば  イザヤ書  第40章 8節

  草はしおれ、花はしぼむ。 しかし神様のおことばは、いつまでもすたれることはない。

  人のわざも、このブログも消え去る日がきます。けれど、永遠から永遠まで存在される神様に希望をいだいて私たちは歩むことができます。その神様が私たちを愛してくださっているのは、何と幸いなことでしょう。

イザヤ書  第43章 3節

 わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。

 今日も、誠実な歩みをすることができますように。

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2007年9月29日 (土)

お祝いのことば

  今日、友人のご長男が結婚されますので、このブログでお祝いを述べさせていただきます。

  ご結婚、おめでとうございます。新郎新婦、そして今日に至るまでそれぞれを育ててこられたご両親、ご家族の皆様方、心からお祝い申し上げます。まことにおめでとうございます。どうか、今日誕生する新しいご家庭がご本人たちとそこを訪れる方々を幸せにするすてきなところとなりますように。心からお祈りいたします。

 この機会に、このブログを訪れてくださった皆様に聖書に記されている夫と妻へのことばを紹介させていただきます。

聖書の言葉  エペソ人への手紙  第5章  22節から28節

 妻は、主(神様)に従うのと同様に、夫に従いなさい。
なぜなら、キリスト様の体である教会がキリスト様にゆだねられているのと同じように、妻は夫にゆだねられているからです。 〔キリスト様は教会のために心を配り、その救い主となるために、実にいのちさえも投げ出されたのです。〕
  そういうわけですから、妻は、教会がキリスト様に従うのと同じように、どんなことでも、喜んで夫に従わなければなりません。

  また、夫は、教会のためにいのちを捨てるほどの愛を示されたキリスト様にならって、妻を愛しなさい。
 キリスト様のその行為は、バプテスマ(洗礼)と神のことばで教会を洗いきよめ、きよく、汚れのないものとするためでした。
こうして、一点のしみも、しわも、何の傷もない、きよく完全な栄光の教会として、迎え入れようとされたのです。

 これこそ、夫が妻に対してとるべき態度です。 つまり、夫は妻を、自分の体の一部のように愛さなければなりません。二人は一体なのですから、夫が妻を愛する時、実は自分自身を愛しているのです。

  上の聖書の言葉は、夫が妻に向かって「聖書に妻はこうせよと書いてあるのに、あなたは違うことをしている。悔い改めなさい。」というふうに用いてはならないのです。夫は夫のところを、妻は妻のところを自分の心の底まで吟味しながら読むべきなのです。

  そういうわけで、私も今までの結婚生活を振り返りながら、これからの充実のために。じっくりと夫に向けて書かれているところを読み味わおうと思います。

  そして、誕生日の近い家内と音楽を楽しむ時間をすごす予定です。

  明日は日曜日、ぜひお近くのキリスト教会の礼拝にお出かけください。

  どなた様にも、すてきな今日という日になりますように。

  そうだ、結婚される方とそのご家族をお祝いして、花火を打ち上げることにいたしましょう。  ポン ポポン ポポポポポポポーン \(^O^)/   \(^O^)/  ヽ(^0^)ノ

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2007年9月28日 (金)

音楽時間演出家

  「音楽療法士」ということばがあります。必ずしも治療に限定して用いられることばではないと本に書いてありますが、どうも「療法」というと治療のために音楽を用いるというイメージがつきまとってしまうように思います。

  それで、私なりに考えたのが(誰に依頼されたのでもなく、勝手に考えたのですけれど)、「音楽時間創出士」あるいは「音楽時間演出家」ということばです。

  障害のある方、あるいは高齢の方と一緒に音楽を楽しむ時間を創り出すことは、すてきな笑顔にふれることもでき、さわやかな充実感を味わうことができます。

  私も特別老人ホームにキーボードやリズム楽器を持参して、童謡や懐かしのメロディ・・・流行歌などを一緒に楽しませていただいたことがあります。

  最近、箏(こと)や三味線に堪能な人とキーボードで合奏を試みる時間が少しもてました。歌詞に月が出てくる歌、ディズニーの曲、ドレミの歌などなど・・・ その方は5人から10人ほどの方と老人ホームなどを訪れることがあるそうです。そんな訪問の時、高齢の方は「私の家にも箏があるよ、習っとったでねぇ。」などと話しかけたり、演奏に合わせて大きな声で歌ったりされ、とてもよい笑顔を浮かべられるそうです。腕を磨いて、それが多くの人と音楽を楽しむことにつながるのはすばらしいことだと、合奏しながら思いました。

  先週は、大学のピアノ同好会の演奏会を楽しむことが出来ました。医学部の学生さん、工学部の学生さんたちがピアノ歴の長短にとらわれず、そしてクラシックに限定せず、自分が気に入って練習して弾けるようになった曲を聴いて、とにかく一緒に楽しんでくださいな、という感じの会で、肩肘張らず、とてもゆったりと、楽しく聴かせていただきました。

  芸術の秋 ・・・ 音楽や絵画、書など、本物にふれる機会を大いに作って魂を憩わせつつ、高めたいと願っています。

  今日という日は、かけがえのない命の一日・・・晴れ舞台かどうかにとらわれることなく、力を尽くしつつ、賜物を生かして歩みぬく日といたしましょう。  

  

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2007年9月27日 (木)

違和感のあることば

 一応、専門は国語科なので、耳や目から入ることばに対して敏感なところがある私です。

 以前、「ハイジャックした犯人が乗客を釈放した。」と報道されるのを聞いて、違和感を覚えていたところ、ほどなく「解放」ということばになりました。

 私と同じように違和感を覚えた人がいたに違いありません。

 「角を矯めて牛を殺す」ようなことになっては本意ではないので、出来るだけ、他人の言葉遣いには寛容に、と思っているのですが、「すごい嬉しかった」という言い方を連発されると、すごくいやな思いになります。

 どうして連用形があるのに「すごくおいしい」と言えず、「すごいおいしい」なのだろう、と思ってしまうのです。

 五段活用の動詞には、例えば、「書く」に対して下一段の「書ける」という可能動詞があるのに「書けれる」と、わざわざ助動詞を付ける人が多いのはなぜだろう。

  まあ、最近はそういう言葉遣いをする人が登場したとたんにTVのチャンネルを替えるくらいで我慢しています。

 それでも、最近、特集番組のタイトルにもつかわれるようになってきた「さとやま」ということばが、どうも不自然なことばではないかとの思いがつのってきました。

 山里(やまざと)は辞書にありますが、里山(さとやま)は、いくつかの辞書を見ても、案の定、載っていないのです。

 ちなみに、里村は村里のこと、と載っている辞書はあります。

 身近にある山という親しみを込めた表現なのでしょうが、どうにも作為的で、不自然さの感じられる「さとやま」ということばに違和感を覚えているのは私だけでしょうか。

聖書のことば マタイによる福音書 第13章  25節~30節

  ある晩、農夫が眠っているうちに敵が来て、麦の中に毒麦の種をまいていきました。麦が育つと、毒麦もいっしょに伸びだしたではありませんか。使用人は主人のところに駆けつけ、このことを報告しました。『だんな様、大変でございます! 極上の種をまいた畑が、なんと毒麦でいっぱいになっています。』
  『敵のしわざだな。』主人はすぐに真相を見抜きました。 使用人たちが、『毒麦を引き抜きましょうか』と尋ねると、
主人は、『いや、だめだ。 そんなことをしたら、麦まで引き抜いてしまうだろう。 収穫の時まで、放っておけ。 その時がきたら、まず毒麦だけを束ねて燃やし、あとで麦はきちんと倉庫に納めさせればいいから』と答えました。」

  上の毒麦のたとえ話は、イエス・キリストが天国について教えるために語られたものです。

  違和感を覚えることばと毒麦とを結びつけるのは、強引だろうとは思いますが、ときにそのような思いをいだく私の言語感覚です。

  それはともかく、今日も広く大きな心で歩むことができますように。

  このところ、空の月がきれいですね。いよいよすごしやすい秋、そしていろいろな実が熟す実りの秋を迎えます。うれしいことです。

 

 

 

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2007年9月26日 (水)

筋金入りの優しさ

 先日、家内・家内の母と一緒にある方のお見舞いに行ってきました。ある方というのは、家内の母のお姉さんです。九十歳近い年齢です。

  闘病生活をして入退院を繰り返している家内の母を、その四つ年上のお姉さんはよく見舞いに来てくださり、自宅療養の時には何日か泊まってくださったり、家内の母が泊まりに行ったりする仲の良さです。

  そのお姉さんが、今度はご自分が入院され、病が篤いのです。

  病室に家内の母が入ると、久しぶりの対面に双方が涙、涙です。

 「あんたの力にまだまだなれると思って楽しみにしていたのに、私のほうがこんな体になって・・・」とお姉さんが涙ぐまれると、以前よりは気弱な面を見せるようになっていた家内の母が「私のほうが病人としては先輩やよ。大丈夫やで気持ちをしっかりして、しゃんとして乗り越えな、あかん。」と毅然として励ます ・・・ そんな場面が見られました。

 お二人とも、畑仕事などに長年携わり、とても面倒見がよい生き方を重ねてこられたかたです。私の長男にこの日の様子を伝えましたら、「二人とも懐かしいです。ああいう人のおかげで今の日本があるんやと思います。」とメールが返ってきました。

 家内は「ほんとうにそうやねえ。」と、しんみりと申しました。

 たいへんな働き者で、そして筋金入りの優しさを備えているお二人・・・まだまだ多くのことを学ばせていただきたく思います。

聖書のことば  ヨハネによる福音書 第16章  33節

  確かに、この世では苦難と悲しみが山ほどあります。 しかし、元気を出しなさい。 わたし(イエス・キリスト)はすでに世に勝ったのです。

  今日という日、病やいろいろなことにうちのめされることなく、それに打ち勝ちつつ歩みぬくことができますように。

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2007年9月25日 (火)

あるピアニストの疑問

  最近読んでいる本には、ピアノの練習に関するものが多いのですが、心に響くことばはピアノだけでなくいろいろな世界への広がりをもっているように思います。

 「重要なのはテクニックの練習よりも、むしろ練習のテクニックだ。」リスト

 「よい演奏というものは、力よりもしなやかさにかかっている。」クープラン

 などです。今日のタイトルにしたあるピアニストの疑問というのは、「鍵盤上の獅子王」と呼ばれたバックハウスによるものです。

 「一番難しい曲はどれですか、と問う人は多いが、一番美しい曲はどれですかと問う人はいないのはなぜだろう。」

  疑問の形をとっていますが、きっと彼には答えが分かっていたのだろうと思います。

 体操競技でウルトラCなどという級も難度・・・難しさに対して付けられたものであって、美しさに対してのものではありません。

 フィギュア・スケートも、「四回転ジャンプ」などと難しさへの指向が働いています。

 やかんのデザインなどでは、シンプルさと美しさを兼ね備えるということがありますからスポーツや芸術の世界でも難度と美しさはきっとどれほどかの関連はあるのでしょう。

 でも、プロの審査員はいざしらず、少なくともわたしの目にはフィギュアスケートの回転ジャンプの回数は目に止まらないのです。

  難度の高いものでなく、技術的には難しくないけれど美しく弾くのは生き方を整えなければ難しいという曲、あるいは弾くことを通して弾き手自身の心が美しく磨かれるような曲・・・そういう曲が名曲として讃えられるような人間社会の熟成を、と考えを誘われました。

  獅子王バックハウスさん、あなたはどうお考えになっていたのでしょうか。

  さて、今日もよき歩みを記す一日となりますように。

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2007年9月24日 (月)

早めの誕生ディナー

  昨日は高山のお店を紹介したので、今日は、岐阜のお店を・・・いえ、別にグルメのブログに切り替えたわけではないのですよ (^_^;

  日曜日の礼拝後、まず、岐阜駅のアクティブGというところで開かれている書道展を見に行きました。近所の書道の先生が案内を持ってきてくださったからです。

  すてきな言葉がすてきな書で書かれているのは、すてきですね。

 それから、家内の誕生日が近づいているので、誕生ディナーをしようということになりました。・・・時間的にはランチですが、一日の内で一番充実の食事をディナーと呼ぶと習ったような気がします。

 「ビーナスアンドマース」というその店に着いたのは、オーダーストップの20分前・・・ただし、満席で、その20分の間にお帰りになるお客さんがあれば、お受けしますとのことでした。

  私たちより少し後に、「わあ、オーダーストップ前に到着したぞ、ラッキー・・・」と駆け込んできた若き女性の二人組は、肩を落として帰って行きました。

  私たちとて、待つ楽しみはあっても店内に入ることが確実な立場ではありません・・・さて、どうなることでしょう・・・

 何と、オーダー・ストップ、一分前・・・店内のお客さんに動きがあり、連絡があってテーブルに付くことが出来ました。

  古い洋館を生かした作りで、家内は今度は息子の嫁と来たいと何回か口にしました・・・こういうとき、私のこととか息子のことはどこかへ置き忘れたような感じになりますが、決してそういうことではないのです。(と思っていたい私です。)

  他のお客さんに遠慮して写真は撮りませんでしたが、すてきなディナーとなりました。パンは自家製、家内はチキンの照り焼き、私はノルウエー産のサーモンというメインディッシュ。デザートのフローズンヨーグルトのシャーベットはテレビでも紹介されて評判になり、お取り寄せの申し込みがあると、嬉しそうに若きウエイトレスは話してくれました。いばるというのでなく、誇りを持っている感じがよかったです。

  店を出るとき、シェフがわざわざ「お待たせしてすみませんでした。」と挨拶に来てくれました。そういう情報が厨房のシェフにキッチンと伝わっているところにも好感が持てました。

  早めの誕生祝いで、心身豊かに満たされたのですが、さて、食欲の秋とウエイトコントロールのおりあいをどうつけるのか・・・夏やせもしなかった私の大きな課題です。

聖書のことば   箴言  第23章  2節

あなたが食欲の盛んな人であるなら、 あなたののどに短刀を当てよ。

  上の言葉は文脈の関係で、意味に広がりがあるようですが、とにかく食欲を自制せよということの端的な表現と解釈できますので、記憶に留めておくことにしています。・・・実行することが大事なのですけれど・・・

  さて、今日は秋分の日・・・暑さもそろそろ涼しさへバトンタッチするでしょうか。よき日となりますように。

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2007年9月23日 (日)

人気のお店

 ふるさと高山の人気のお店、「トラン・ブルー」に行く機会がありました。これは、フランス語で、英語の「ブルー・トレイン」にあたるそうです。

 そのお店のHPは、下記の通りです。

http://www.trainbleu.com/

写真を添えますね。

Photo  これが、9月中旬から発売の新製品です。

 300円だったかな ・・・ おいしかったですよ。

メロンパンなどの写真もおまけします (^o^)  メロンパンは140円だったかな。すてきなお店でした。      Photo_2

  きょうは、義務教育の教員生活の最後に勤めさせていただいた小学校の運動会を見に行き、子どもたちの元気な姿を目の当たりにして充実感を味わっているので(ほかに音楽会も堪能してきたので)、ブログはおいしそうな写真の掲載で失礼させていただきます。

 さて、日曜日 ・・・ キリスト教会の礼拝に出席されることをお勧めいたします。

 どなた様にもよき日となりますように。   

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2007年9月22日 (土)

山をなす善意

  飛騨地方、特に高山市の方々に協力いただいて、主としてインドネシアなど、東南アジアに救援の衣料品を送る活動が続けられて27年目になります。

  9月19日に、その積み込み・発送の活動があり、私も労力の提供をしようと加わりました。

 お知らせしておいた時刻になりますと、どんどんと衣料品が届きました。かなり高齢の方が、慎重に運転しながら何箱も持参してくださったり、自転車や乳母車に段ボールを積んで持ってきてくださったり・・・運送会社さんが手配してくださった二台のトラックにほぼ満載となった衣料品は、およそ14トン・・・この運送会社さんは神戸まで無料ではこんでくださるとのことです。その神戸から東南アジアに発送するための費用を募ったところ、17万円を越える金額が寄せられました。

  心の沈むニュースが多い昨今ですが、文字通り善意が山をなす光景に、その場に居合わせて胸が熱くなりました。

 参加できることに、参加できる範囲でよいのでまず参加する・・・そこからいろいろなことが始まるのだと実感しました。

聖書のことば  マタイによる福音書 第25章  40節

『あなたがたが、だれでも困っている人に親切にしたのは、わたし(イエス・キリスト)にしたのと同じなのですよ。』

 もう一箇所  マタイによる福音書 第25章 45節

  そこで、わたし(イエス・キリスト)はこう言います。 『あなたがたが、これらの一番小さい者たちを助けようとしなかったのは、わたしを助けなかったのと同じです。』

  日本に伝わる話の中に、寒い夜に泊めてあげた旅人をもてなすために大切にしている鉢の木を物惜しみしないで燃やして部屋を暖かくした話がありますね。後になって、その旅人が当時の執権であることが判明する話です。

  また、文豪トルストイの小品『靴屋のマルティン』(別名 愛あるところに神あり)と今日の聖書のことばは通い合っているように思います。

 今日も、さわやかな心で歩むことの出来る日、小さな存在に心からつかえる日となりますように。

 

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2007年9月21日 (金)

世界アルツハイマーデイ

 国際アルツハイマー病協会が9月21日を「認知症について考える日」と定めたそうです。(1994年)・・・『今日は何の日』PHP研究所編・発行より。

  自分の母親が認知症にかかり、我が子に向かって「失礼ですが、あなたはどなたさまですか。」と尋ねる日がやってくることがあります。大の男が「おっかさん、おれが分からんようになってまったのか。」と男泣きするほどのショックを周りは受けます。少し、心を慰められるとしたら、ご本人は居心地のよくない思いをし、不安になることはあっても、自分自身の状態を深刻に自覚してはいないらしいことです。

  アルツハイマー病を予防し、記憶を回復する薬が発売されるらしいという話を聞いて、もうだいぶん久しいように思います。期待し、希望するあまり、先走った報道だったのでしょうか。

 リンカーンは自分の記憶力を鉄にたとえました。石や鉄に刻んだ文字は消えることがありませんから、それくらい大事なことはしっかりと覚えている自信がリンカーンにはあったということでしょう。

 リンカーンのようにあたたかく、大きな人柄の人にそういう記憶力があるのは、周囲の人に驚嘆されても、脅威を与えることはなかったことでしょう。

 でも、ちょっとした具合の悪いことをしてしまった相手に何時までも覚えていられると、こちらは借金の証文が保管されているようで、あまり居心地がよくないかもしれませんね。

 「受けた恩は石に刻み、かけた情けは水に流せ。」ということばを教えてくださった方があります。いい言葉です・・・私などはその逆になりがちなので、特にこの言葉は大切だと思います。

 さて、神様は私たちをお忘れになることはあるのでしょうか。

聖書のことば  イザヤ書  第49章 16節

 見よ。わたし(神)は手のひらにあなたを刻んだ。

 分かりやすく意訳してあるリビングバイブルでは「わたしはおまえの名をてのひらに入れ墨した。」となっています。

 小学生などが、忘れ物をしないために、自分の手にメモを書くことがあります。私たちを愛してくださっている神様がご自分の手のひらに私たちの名を刻んでくださっているとは、何と心強いことでしょう。

  現在、お身内に認知症の方がおられ、お世話をしておられる方に深く敬意を覚えます。尊い介護の歩みを神様が祝福し、力をお与えくださいますよう、お祈りさせていただいています。どうか、希望と忍耐を失うことのありませんように。

    今日も力強く歩むことができますように。 

 

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2007年9月20日 (木)

オクラの花

  実がなるためには、まず花が咲きます。でも、実を知っていても花を見たことがないということが普通には多いのではないでしょうか。

  たとえば、お米・・・稲の花を見たことがない人がほとんどではないかと思います。

 えっ、イチジクは無花果と書くが、それについてはどうかとお尋ねですか。・・・よくお聞きくださいました。あるホームページには、次のように書いてありました。

      ◇    ○    □   ☆   □    ○    ◇

「果物ナビ」http://www.kudamononavi.com/zukan/fig.htm

 いちじくは漢字で「無花果」と書きますが、花がないわけではありません。いちじくは実の中に小さな花をつけるため、外からは確認できないのです。果実を半分に切ると赤いつぶつぶがたくさんつまっていますよね。あれが花です。いちじくは花の部分によって独特の食感を生み出していたのです。

 ちなみに「いちじく」という名前の由来は、毎日1つずつ熟すことから「一熟」→「いちじく」になったという説や、ひと月で実が熟すため「一熟」→「いちじく」という説もあります。また呼び名としては南蛮柿(なんばんがき)、唐柿(とうがき)ということもあります。

  ◇    ○    □   ☆   □    ○    ◇

 さて、前置きが長くなりましたが、我が家に咲いたオクラの花の写真です。きれいですね。

0009 聖書のことば   

マタイによる福音書 第6章 28節~30節

  なぜ着物の心配をするのですか。 野に咲いているゆりの花を見なさい。 着物の心配などしていないでしょう。

 それなのに、栄華をきわめたソロモンでさえ、この花ほど美しくは着飾っていませんでした。 今日は咲いていても、明日は枯れてしまう草花でさえ、神はこれほど心にかけてくださるのです。 だとしたら、あなたがたのことは、なおさらよくしてくださるでしょう。

 今日という日を、思い煩わずに前向きに歩みましょう。よき日となりますように。

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2007年9月19日 (水)

みどりのカーテン

0017  フウセンカズラが写真の通り、みどりのカーテンを形成中です。

  これから、秋の陽射しが今までよりも深く家の中にさし込むようになってくるので、ちょうどそれを遮るのにほどよい加減です。

  小さな種・・・パンダを思わせる白と黒の・・・が目を出し、葉をつけ、花を咲かせ、蔓を伸ばしてネットを懸命にはいあがっていくのは、なんとけなげな様子でしょう。

 小さなフウセンカズラの花を小さな蜂が訪れています。大きな蜂だと蜜を吸おうにも頭が入らず、花もその重みに耐えられないことでしょう。自然の摂理の見事さをも改めて感じています。

聖書  ローマ人への手紙 第1章 20節

 世界が創造されてからこのかた、人々は、天地や、神様がお造りになったすべてのものを見て、神様の存在と、その偉大な永遠の力をはっきり知っていました。

 今、いろいろな国において、進化論の是非が検討されています。神による創造論との対決もあります。

 私は、創造にしても、進化 にしても一番おおもとのところで神様が働いておられるということを思っています。

  科学的にどうなのかを追究することは大事なことですが、仕組みを明らかにすることとそうした仕組みを創り出すこととのあいだには、決定的に大きな違いがあります。多くの科学者はそのことを知っていて、大きな発見をすればするほど科学万能というおごりに走ることなく、むしろ、真理が明らかになればなるほど、謙虚さ、敬虔さを増していったように思うのです。

 今日もよき日となりますように。

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2007年9月18日 (火)

正岡子規と野球

  9月17日は正岡子規の誕生日です(1867年)。子規という俳号は、ホトトギスの漢語的表現です。34歳という生涯でした。

  今、プロ野球では優勝争いが繰り広げられていますが、子規は下に引用するような深い関わりを持つ人でした。(出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

子規と野球

 子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、1889年喀血してやめるまでやっていた。ポジションは捕手であった。自身の幼名である「升(のぼる)」をベースボールにひっかけて、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある(ただしベースボールを野球(やきゅう)と訳したのはこれより後、中馬庚(ちゅうまん・かなえ)が始めである。野球を参照のこと)。また、

    「まり投げて見たき広場や春の草」

    「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす」

 などと野球に関係のある句や歌を詠むなどしており、文学を通じて野球の普及に貢献したといえる。これらのことが評価され正岡子規は2002年野球殿堂入りを果たした。

 なお、正岡子規が「野球(のぼーる)」という雅号を用いたのは中馬庚が「ベースボール」を「野球」と翻訳する4年前の1890年である。つまり、「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬庚であるが、「野球」という表記を最初に行い、さらに「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「遊撃手」と日本語に訳したのは正岡子規である。

         ○    ◇    ☆    ◇    ○

  日清戦争に記者として従軍したことが結核を悪化させたこと、夏目漱石と親友の間柄であったこと、司馬遼太郎の『坂の上の雲』のモデルとなっていることなど、を私も新たに知りました。

  なお、9月17日は、江夏投手がそれまで稲尾投手の持っていたシーズン最多奪三振記録を破る354個目を王選手を三振させて樹立した日でもあるそうです。(「1968年)このシーズン、401個まで記録を伸ばしたそうで、オールスター戦で9連続三振という不滅の記録を打ち立てた江夏らしいですね。

  楽天の新人、田中投手(マー君と呼ばれているようですね)の奪三振数。奪三振率がこの江夏との比較で取りざたされています。若人の活躍は楽しみです。

聖書のことば  第一サムエル記  第17章 49節

  ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。

  このペリシテ人は名をゴリヤテといい、3メートルを越す身長の巨人でした。ボクシングの映画「ロッキー」では巨人との闘いの場面でゴリヤテに挑むダビデのようですという表現が出てきますね。

 投手の名が出てくる記事でしたので、引用してみました。

 さて、今日もダビデのように何者をも恐れることなく、元気に歩むことが出来ますように。

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2007年9月17日 (月)

同じ列車の旅人たち

 自分が中学生の時の同窓会が、前回好評だったので、数か月というほども日を置かず、開催されました。

 同じ中学校で生活したのに、それぞれだけが知っている情報というのがあるもので、それが数時間、語り合っていると「えっ、そんなことがあったのか。」という話として出てくることがあるのです。

 そうですね、万年雪に覆われていた落とし物が雪解けで突然現れてくるような感じといったらよいでしょうか。 

 親を介護して、看取った話、自分の大病、仕事で苦労したこと、子や孫の話などが、座を暗くしない配慮をもって語られ、尽きるところがありません。

 総じて、よき同窓生と一度きりの中学時代をすごしたのだということが改めて感じられる時間でした。・・・前回の例でいうと、まだ続行している人たちがいるので、現在進行形で言わなければいけないかもしれませんが。

聖書のことば  箴言 第17章 17節

  友はどんなときにも愛するものだ。 / 兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。

 芥川龍之介の『杜子春』には、お金を持っていて気前よくふるまうときだけの見せかけの友が描かれていますし、兄弟であるがゆえに、他人よりも壮絶な争いをする場合が往々にしてあることを私たちは新聞などで耳にします。

 人は、弱い存在です。けれど、神様に一人一人がつながっている歩みをするなら、きっと上の聖書のことばのように、真の友、よき兄弟で在り続けることができます。

 今日もよき日となりますように。

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2007年9月16日 (日)

ピアノの調律

  ピアノの調律をしていただきました。記録カードによると、何と前回から15年の歳月が過ぎておりました。

 ただ、ギターの弦などもそうですが、弦は新しい内は伸びるので調律をこまめにし、ある程度年数が経つと、弦が弦であることに気がつくのか、音の高さが安定してきますので、調律回数も少なくてよくなるようです。そうであるにしても、15年は感覚がありすぎかなと反省しました。

  調律師さんは、前回と同じ方をお願いしました。熱心に研鑽を積んでおられ、腕の確かな方なので、名前も覚えていたのです。

  その調律師さんについて二つ発見がありました。一つは、その調律師さんは、私が以前勤務したことのある学校の保護者であること、もう一つは、我が家のピアノと同年齢だということです。

  それは、ともかく、我が家のピアノは経年変化(人間でいうと老化)が比較的少なく、部品の取り替え修理などをほとんどしなくてよいことがわかり、嬉しく思いました。

  ピアノの部屋にはクーラーを付けず、夏も冬も急激な室温変化がなく、結露を防ぐことが出来たこと、家内が天気のよい日には、ピアノの上部のふたを開けるなど、心を配っていてくれたおかげだと思います。

  もし、音の高さが正常でないピアノに向かって熱心に練習していたら、練習すればするほど耳の精度が悪くなり、心も曇ってくるのではないかと思います。ピアノに限らず、物も人も最高の状態に保つことの大切さを改めて思います。

 ピアノのことで学んだ日常のメンテナンスの大切さをほかのことにも生かして、ベストコンディションを保つことを大事にしたいと思います。

 物だけでなく、体についても・・・。

 今日は日曜日 ・・・ キリスト教会で聖書に基づくメッセージを聞くことは、生き方や魂の調律の機会であると言えるかもしれません。行くことの出来る方は、礼拝に出席することをお勧めいたします。

 聖書のことば   伝道者の書 第12章 1節

  あなたの若い日に、あなたの創造者(神)を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

 それでは、よき一日となりますように。

 

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2007年9月15日 (土)

主観と客観

 一人一人の感じ方、考え方は大切だといいながら、人間は自分の考え方、感じ方こそ、客観的にみても標準的だ、あるいはお手本になるべき優れたところがあると思いこみやすいのではないでしょうか。

 そして、なぜ、他の人はそれを分かってくれないのかと落ち込んだり、不満に思ったり、いつの時代にも先覚者は孤独だなどと考えがちです。

 メトロノームと私のピアノ演奏のテンポがずれると、ずれるメトロノームが壊れているのではないかと思い、懸命に書いた文章が「よく分からない」といわれると、読み手のセンス、力量を疑う・・・少なくとも私にはそういう傾向がしっかりとあります。

 面白い調査があります。主婦に食べ物の好き嫌いがありますかと尋ねると、たいていの場合、「いいえ、何でも食べます。」と答える主婦が多いのだけれど、食品群の一覧表を提示して確かめてみると、かなり食べるものが偏っていることが判明するというのです。

 これは、台所をあずかる家庭の主婦は、無意識のうちに自分の好きな食べ物だけを食卓に載せるので、ご本人はそれを全部食べることができ、したがって自分には好き嫌いはないと思いこんでしまっていることが多い、ということなのですね。

 このように、本当は主観のかたまりなのに自分自身ではしっかりと客観視しているつもりという落とし穴に人は陥りがちだというのです。

 自分の尊敬できる人の指摘だと受け入れやすくなるのでしょうが、やっかいなことに人間には、甘やかしてくれる人をいい人だと思いたがる傾向があって、せっかく、大きく自分を成長させてくれる存在があるのに耳の痛いことを言う人だなあと敬遠してしまうことが多いのではないでしょうか。

 「良薬、口に苦し」ということわざを知りながら、「馬耳東風」というあやまちにことかかないのが私の歩みの連続のように思います。

 皆様はいかがでしょうか。

聖書のことば ローマ人への手紙 第3章  10節

旧約聖書に、次のように書いてあるとおりです。 / 「正しい人は一人もいない。 / 罪のない人は世界中に一人もいない。

 言い過ぎのように思えるほど、厳しい言葉です。けれど、患者の命を救おうとする医者は、死に至らせないために一刻も早く取り除かなければならない患部がある場合には、たとえ、痛みを止める麻酔薬がないときにも手術することをためらわないでしょう。

 人を愛するがゆえに厳しいことばも書かれている聖書・・・キリスト教会に足を運び、神様からの手紙とも呼ばれている聖書に、牧師さんの手ほどきを受けながら向き合うことをお勧めいたします。

 

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2007年9月14日 (金)

秋の美濃市

 先日も、美濃市に足を運びました。美濃市には「うだつの上がる町並み」というのがあるのですが、別にうだつの上がる人生を夢見て訪れたわけではありません。何だか、ぎょうぎょうしいところがなく、静かに普通の生活が営まれている自然体の観光スポットというところがいいのです。

 さて、今回、心に残ったのは、あるお肉屋さんのおもてなしです。

 コロッケと豚肉のしそまきを注文しましたら、「お急ぎでなかったら、これから揚げます」とのこと・・・待つことしばし・・・そして、「ここでお召し上がりになりますか、お持ち帰りにされますか。」との声。

 揚げたての香りに惹かれて、店内でいただくことにしました。すると、店内のベンチの上を手際よく片付けて、「どうぞ・・・」

  見るとソースも添えられています。さらに「今、お茶をおもちします。」

  行き届いたおもてなしに感激し、ますます美濃市の町並みが好きになりました。

 えっ、お値段ですか。コロッケが63円、豚肉のしそ巻きが126円でした。

 10月には、美濃の和紙を生かしたあかりアート展というのが開かれます。あまり遠くない方は、ぜひお出かけください。

聖書のことば  コリント人への手紙 第二  第2章 15節

 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

      ◇     ○     □     ☆ 

 心のこもったコロッケの香りはその市全体のよいイメージ創りに貢献します。

 一人一人のクリスチャンは、いわば、聖書の表紙、教会への案内板の役割を果たします。自分自身の力ではそれは為しがたいことですが、神様が働いてくださるとき、陶器師の手によってひとかたまりの陶土がすばらしい陶器に形作られる以上のことが私たちの人生に起こります。

  今日も、あなたの、そして私の一日の歩みが神様によってこの世に咲いた一輪の花のように麗しく用いていただける日となりますように。

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2007年9月13日 (木)

山田洋次監督

  9月13日は、あの寅さんシリーズや、このところ藤沢周平原作の時代劇を三本制作して世に送り出した映画監督、山田洋次さんの誕生日です。(1931年生まれだそうです。)

 寅さんシリーズは、ご存じのようにギネスブックに載っているのですね。テレビで連続放映されたので、多分、我が家では寅さんシリーズは全部見たのではないかと思います。

 私は、「学校シリーズ」や、「息子」という映画も好きです。「息子」に出演した三國連太郎さんを東京で見かけたことがあるということもどこかでポイントを稼いでいるかも知れませんが、印象に残る映画です。

 余談ですが、三國さんを見かけたのは、東京でタクシーを待つ列に並んでいるときで、ふと気がつくと列の最後尾に三國さんがいつの間にか並んでいたのです。こちらの何人かの視線にちょっと照れておられるように見えたので、声をかけるのを遠慮してしまいましたけれど、よい印象を受けました。

 さて、山田洋次監督の講演を穂積町で聞かせていただいたことがあります。寅さんシリーズや学校シリーズを語るときの目の輝き、そしてそこに確かに映画を創造するエネルギーを漂わせている山田監督がいるのだというオーラなどが心に残っています。

  多くの映画の台本を書き、多くの人の力を結集して映画を創り続けるエネルギーは、すごいですね。

聖書のことば  創世記 第1章 一節

初めに、神が天と地を創造した。

 映画の創造、制作もたいへんなことですが、全世界を創造された神様の何と偉大なことでしょう。

 ごく最近も、山に登った人が「ご来光を拝んだ。」とテレビで語っていました。

  クリスチャンである私は、ああ、惜しい・・・人間が拝むべき対象は太陽そのものではなく、太陽をも創造された方、神様なのだ、とその方にお話ししたいのですが、なかなかその機会がないので、残念です。

 何をこそ信じるかが大事なのです。

 とにかく信じる心が大事なのだというのは、「人生、どこへ向かって歩くかは二の次で、とにかく歩くことが大事なのだ」というのと同じで、無責任です。昔から「鰯の頭も信心」といいますが、たった一度の人生を、鰯の頭に託すことには、承服できません。

  それは、一国の政治を、信頼できる人にこそゆだねたいという思いの人がたくさんいることからもご理解いただけるのではないでしょうか。

 本当に信ずるに足る存在に向かって歩む人生となりますように願っております。

 ※ 我田引水の印象をお受けになった方もおられることでしょう。そうお思いになった方にはお詫び申し上げます。

 よき一日となりますように。

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2007年9月12日 (水)

♪秋のささやき

 リチャード・クレイダーマン・・・フランス人で「ピアノの貴公子」と愛称があるピアニスト・・・に♪「秋のささやき」という曲があります。

  岐阜では夕方から雨が降り出したこともあり、涼しい秋がすぐそこまできて「もうすぐいきますからね」とささやいてくれているような思いがしています。

 クレイダーマンはお孫さんもある年齢になった今も「ピアノの貴公子」にふさわしい気品と笑顔で、美しい音楽を聞かせてくれています。

 私も何かすてきな愛称がいただけるようなピアニストになれたら嬉しいのですが、「ピアニスト ムーミンパパ」とか「アンパンマン風ピアニスト」など、どうも丸っこい愛称しか付かないように思います。

聖書のことば  箴言 第27章 2節

  自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって。

 「ハンカチ王子」とか「はにかみ王子」なども自分から言い出してついた愛称でないところによさがあるのですよね。

 マザーテレサは、ノーベル賞受賞の晩餐会場から「これだけの食事を用意するお金で、どれほどたくさんの貧しい人に食べさせてあげることができるでしょう。」と言って退席したと聞きました。働き場所へ帰ったマザーに、貧しいお母さんが長い列に並んで得た一家の1日分の砂糖を子どもに「おめでとうございます」と言付けてもたせてくれたのを本当に心から喜んだとのことです。

 週の半ばとなりました。今日もよい日となりますように。

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2007年9月11日 (火)

心に残る詩

  2001年の夏休み明け、当時5年生の女の子が、スケッチブックに詩と絵を描いた作品を提出しました。その一つをご紹介いたします。

Photo_2   ※ クリックしていただくと写真が大きくなります。

 このスケッチブックも含めて開かれていた夏休みの作品展が終わったあと、2001年9月11日アメリカで同時多発テロが起きました。

 もし、夏休み中にこの事件が起きていたら、上の詩は生まれなかったでしょう。「こんな平和が続くといいな」とは言えなくなったのですから。

 けれど、私は思います。大きなテロ事件も、上の詩を消すことは出来ないのです。そして、テロ事件を起こした人たちの心は、明らかにこの詩を書いた5年生の少女の心に比ぶべくもありません。

 私は、希望を持っています。こうした詩を書くことの出来る子どもが育っているこの国の教育は、自信をもってよいと。

 近視眼的に「再生」するまでもなく、りっぱに教育はその使命を果たしています。その教育をにない、文字通り命を注ぎながらすばらしい実践をしている教師たちを、教育改革の会議の場にも参画させないで、どう国家百年の大計である教育を変えていこうとしているのでしょうか。

 変わらなくてはいけないのは、せっかくの教育を定見なくいじくりまわしている人たちではないでしょうか。

 権力を持っている人たちの顔色でなく、子どもたちの澄んだ瞳・・・それをこそ大切にすべきなのです。

  今日もよき日となりますように。

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2007年9月10日 (月)

メトロノーム

  ほぼ毎日、1時間前後ピアノに向かっている最近の私ですが、テンポにかなり揺れがあるので、メトロノームを試しにセットしてみました。

  すると、だんだんとずれていくのです、メトロノームの振り子の刻むテンポと私のピアノが・・・ 予想以上にそのずれが大きいので、焦り、弾けていたつもりの曲もめろめろになり・・・ 落ち込みそうになったところで、メトロノームがいかにも不規則な動きをしていることに気がつきました。

 調べると ・・・ そうなのです。長年使わなかったメトロノームは、ぜんまいがどうにかなってしまっていて、もう使い物にならなくなっていたのでした。

 さて、ぜんまい式のメトロノームと電池式のとを店員さんの説明を聞きながら選択するのに時間をかけました。・・・結局は安いほうを選んだのですけれど。

  帰宅して新品のメトロノームをセットしてピアノと合わせようとしました。

 今度こそ合うだろうと思ったのですが・・・結果、無惨なまでにずれが生じました。

 買い換えるまではメトロノームのせいに出来たのですが、新品に投資して落ち込むというのは、あまり賢くないことですよね。そうかといって、メトロノームと合わないことを「人間らしさ」の証明とするほど私はあつかましくないので、すこしばかり考え込んでいます。

 まずは、ゆっくりとしたテンポにセットし、合わせる努力をしてみたいと思います。使う効用のあることに道具を生かし、必要以上にとらわれない、ということが大事なのだと思いますが、それを見極めるには私はまだまだ経験を積まなければいけないようです。

 私のメトロノーム物語はここまでです。

 ちなみに、メトロノームはウイーンの機械技師メルツェルが作り、1816年に特許をとったものだそうです。この人は、ベートーベンの補聴器を作った人でもあるそうです。

聖書のことば  箴言  第20章  23節

互に違った二種のふんどうは主に憎まれる、偽りのはかりは良くない。

 この聖書のことばとメトロノームと私のピアノがずれる話とは、それこそずれていると思いますが・・・お許しください。 

 今日もよき一日となりますように。

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2007年9月 9日 (日)

畑の優等生

  ナスが早々と虫に葉を食べられるなどの影響で駄目になり、その後が妙に広大な空き地に思えて・・・畑全体がテーブル二つ分ないくらいなので、たいして広い空き地のはずはありませんけれど・・・パセリを家内が植えました。

 オクラ、ミニトマトが収穫できます。そして、ほとんど毎日、実りを提供してくれるのがシシトウです。我が家の畑の土とよく合っているのでしょうか、畑の優等生ということばを思いついたほどです。

 でも、本当の畑の優等生は、家内です。畑係の私は、夏やせしなかった体を小さくすることもなく、「うん、今日のもおいしい。」などと言っているだけで、少しは反省しなければなりません。

 久しぶりに、近くの農協で瓜を見つけて、その日の内に食卓へ・・・

 そのとき、ふと思い出しました。私が小学6年生のときに我が家は引っ越して、農村部での生活が始まりました。そのころのことだと思うのですが、少し、家庭菜園の地が得られて、父は二十日大根などを植えました。そして、ある日、初めてといっていい大物が収穫されました・・・「おい、漬け物瓜が実ったぞ。」・・・  

 その瓜が漬け物となって食卓に上ったのは数日後だったと思います・・・今、その味を思い出すとしょっぱかったような気がするのは、その漬け物瓜を植えて育てて収穫した父の思いをどれだけ自分が共有できたか自信がもてないからでしょうか。

 でも、移り住んだ家の近くに小川が流れていて、「わあ、水がきれいだ」と言いながら私たち子どもが一日に何回も顔を洗いに行くのを見た父が、にこにこして人にそのことを話していたことは覚えています。

 牧師だった父が天に召された年齢を、兄も私も妹たちも越えてしまいました。私を含め四人の子どもを育ててくれた母は今も楽しんで野菜を育てており、私が帰省するとそれで食卓を飾ってくれます。

Photo 写真は、キューリとナスの漬け物・・・まさにおふくろの味です。

 さて、今日は日曜日・・・できましたら、お近くのキリスト教会にお出かけください。

 よき一日となりますように。

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2007年9月 8日 (土)

世界識字デー

 1965年にイラン国王が軍事費の一部を識字教育に回すように提案したことを記念して、ユネスコが9月8日を国際識字デーとしたそうです。

 世界中の軍事費をすべて実りのあるよいことに回したら、どんなにこの世の中はすてきになるでしょうね。

聖書のことば  マタイによる福音書 第5章 9節

 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

  そのほか、静止衛星ひまわりが初画像を送り出したのが1977年の9月8日だそうです。

  気象衛星ひまわりからの画像をテレビで喜んで見ていた幼な子が、新しく打ち上げられるひまわりの写真を見て驚いていったのを聞いたことがあります。  「あれっ、花のひまわりが宇宙をまわっているんだと思っていたのに・・・」

  本当に子どもの世界はすてきですね。そのときの幼な子は、今は人の子の親となっています。

 さて、明日は日曜日、お近くにキリスト教会がありましたら、礼拝への出席をお勧めいたします。

 よき日となりますように。 

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2007年9月 7日 (金)

三浦綾子さんの短歌

 台風9号の影響か、雨が降っていますがあまり涼しくはありません。そんな夜に一冊の本を取り出して読んでいます。本の名は『三浦綾子 愛の歌集 いとしい時間』(三浦綾子・小学館・2000年10月12日発行)・・・1999年10月12日に天に召されたのを偲んで1年後に世に送り出されたのでしょうね。

 山田洋次監督の後書きの中から次の言葉がこの本の帯に書かれています。

 ここにおさめられた短歌は、一人の誠実な女性の美しい愛のアリアである。

       ○ ◇ ☆ □  ○ ◇ ☆ □

 作家、三浦綾子さんに短歌を教えたのは幼なじみであり、後に恋人となった前川正さんでした。北大医学部の学生だった前川さんは肺結核を病み、三浦綾子さん(当時は堀田綾子さん)自身も肺結核、脊椎カリエスで13年間病床に臥す身となります。

 お互いに行き来することもできないで手紙を交わしつつ重い病と闘っているときに綾子さんが詠んだ一つが次の歌です。

 離れ病む君に書くとき化粧する慣ひは何時の頃よりならむ 昭和27年

 支え合い、祈り合っての闘病生活・・・けれど、前川正さんは昭和30年、天に召されます。

 妻の如く想ふと吾を抱きくれし君よ君よ還り来よ天の国より 昭和30年

 こうした悲しみの中でギプスベッドに寝たままの綾子さんを、三浦光世さんが訪問するようになったのは、その訪問を依頼した人が光世という名前から三浦さんを女性だと思いこんでいたのがきっかけでした。

 ところが、この三浦光世さんが、前川正さんにとってもよく似ている人だったのですね。

 まなざしも語る言葉も亡き君に似て三浦さんは清しく厳し

 やがて、年月を経て、お二人に愛が育まれます。

 年上の病める女を愛するは寂しき事と思ひ給はずや君

 どのような未来になるかはわからねど二人のみに通ずる言葉も出来ぬ

「信仰で頑張れ」と遺言し給ひし君よわたしは人を愛しました

          ○ ◇ ☆ □  ○ ◇ ☆ □

 どんなに苦しく、展望が開けない状況に思われるときも、神様は私たち一人一人に計画を持っていてくださいます。それは下の聖書のことばにある愛に基づいた計画です。  

聖書のことば  イザヤ書 第43章 4節

 わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。

 今日という日も、希望を持って歩むことが出来ますように。

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2007年9月 6日 (木)

鍵盤の数

 『ピアノの音色はタッチで変わるか ー楽器の中の物理学ー』(吉川茂著・日経サイエンス社・1997年・6月17日発行)という本にこんな数字が書いてありました。

 モーツアルト   61

 ベートーベン   61 68 73

 ショパン      82

 リスト        82   85

 ラフマニノフ           88

  これは、それぞれの音楽家兼ピアニストが弾いたピアノの鍵盤の数だそうです。現代のピアノは88鍵が普通だそうです。時にはメーカーがデモンストレーション用にか、もう少し鍵盤の多いピアノを作ることもあるそうですが、多分、これからも88鍵が主流でいくのではないでしょうか。手の小さい人向けに鍵盤の幅を少し狭くしたものを作る場合もありますが、鍵盤の数は変わらないようです。

  ベートーベンは、当時まだまだ発展途上にあったピアノの世界に、アクション、ペダルなどがくふうされて新しいものが登場すると、熱心にそれを入手して仕事に生かしたそうです。前向きに取り組む人だったのですね。

  鍵盤の数が多ければ、それだけ作曲するときに使える音も増える道理ですが、実際には全部の音を使うわけではないので、ベートーベンはともかく、普通の場合には量の拡大がいつも発展をもたらすというものではないと思います。

 手持ちのコマを有効に生かすと申しますか ・・・ 日本より物質的に恵まれない国の人たちが日本よりも幸せに生きている例は多いように思います。

 足りない何かを求めるのでなく、今、手もとにあるものを生かすこと・・・そんなことを鍵盤の数を眺めていて思いました。

 それなのに、電気製品のお店では、より大きな画面のテレビの前に立ち止まって思案をめぐらす私です。テレビのない生活を始めるのは難しいかも知れませんが、出来ないわけでもないですよね。

 人生に必要なものは、そんなに多くはないのではないかと頭では思いながら、なかなか難しいものです。

 台風の動きや影響が気になりますが、どうか、今日も元気で歩むことができますように。

 

 

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2007年9月 5日 (水)

マザー・テレサとフジ子ヘミング

 マザー・テレサが87歳で天に召されたのは、1997年9月5日だそうです。

 たまたまピアニストのフジ子・ヘミングの『フジ子・ヘミング 運命の力』(2001年初版・阪急コミュニケーションズ発行)という本を読んでいましたら、マザー・テレサの生涯とつながるのではと思われる一文に出会いました。

 フジ子・ヘミングさんは幼いとき日曜学校に通い、キリスト教系の青山学院に通い、ドイツに住んでいた頃、近所のカトリックの教会の神父さんが綺麗な声で讃美歌を歌っていたのにひかれて洗礼を受けたそうです。

  この文のタイトルは、聖書にある次の言葉です。

     ◇   □   ○   ☆   ○   □   ◇

「たった一匹の雀でさえ、神の思し召しなしに、この地上に落ちて息絶えることはない。まして人間は・・・・・」

 私(フジ子・ヘミング)の人生にとっていちばん大切なことは、小さな命に対する愛情や行為を最優先することだと思っている。自分の命は自分のためだけにあると思ったら大間違い。自分より困っている誰かを助けたり、たとえ野良猫一匹の命でも人はそれを救うために、命を授かっていると信じている。

   ◇   □   ○   ☆   ○   □   ◇

  猫のことが出てくるのは、たくさんの猫を飼っているフジ子さんの実感なのだと思います。

  マザー・テレサは、路上で亡くなりかけている人を見捨てることなく、たとえ数時間でも大切にされたと感じつつ息を引き取ることができるように親身になってお世話をし、神様の愛をつたえる生涯をつらぬいたかたでした。

聖書のことば  マタイによる福音書 第25章  40節

『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

  またしても、社会保険庁のことが問題になっています。為すべき仕事を果たさず、自分より弱い立場にある人からお金を取り立て、正しい処理をせず、私腹を肥やすためにごまかして盗んでいたとは何と情けないことでしょう。  マザー・テレサの生き方と対極にあるように思われてなりません。

 人間は弱い存在であると思いますし、誰しもいつも強い心で生きるのは難しいかもしれません。だからこそ、神様と自分、そして人に対して正しく生きることの出来るよう、祈りつつ歩む者でありたいと思います。

 今日も、よき日となりますように。

 

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2007年9月 4日 (火)

ピアニスト 小山実稚恵さん

  小山実稚恵(こやま みちえ)さんというピアニストがおられます。

  この方は、1982年にチャイコフスキー国際コンクールで第3位、1985年のショパン国際コンクール第4位という実力の持ち主です。

 この二つのコンクールに上位入賞した日本人ピアニストを私はこの小山実稚恵さん以外には知りません。(などと書くといかにも情報通のようですが、以前にヤマハ発行の『ピアノ』という小冊子やCDの解説書で読んだだけのことです。(^_^;  もう、この情報も古くなっているかも知れませんが、お許しください。

  岐阜に、室内楽の一員として来られたときに生演奏を聴いたことがありますが、グループの一員としてにこやかに挨拶されていたのを覚えています。いつの日か、リサイタルを聴きに行きたいなという夢を抱かせてくださっているピアニストです。

  レパートリーも広く、深いのですね・・・最近購入した「小山実稚恵 ベスト・アルバム」(ソニー・クラシカル ベスト・クラシック 100)にはリストの「ラ・カンパネッラ」やラヴェルの「水の戯れ」、ファリャの「火祭りの踊り」などが収められていますが、どの作曲家の曲も聴き応えがあります。

 こうしたピアニストの名演奏に励まされながら、楽しんでピアノに向かっているのは、ちょうど一流モデルの着こなしている服を三段腹の初老の男性が服のイメージを大幅にダウンさせているのも無視して無理矢理に体を押し込んで身につけて悦に入っているのと似ているかも知れませんが、まあ、それも、本人が楽しんでいるのですからよしといたしましょう。

 上の例を思いついて書いている内にあまりに自分の状態にぴったりのようで、落ち込みかけましたけれど・・・・・でも、ご近所に迷惑をあまりおかけしないように、練習の時間を考え、窓を閉め、カーテンを引くなど、遮音には気を配っているつもりです。同じ曲の同じところを何回も繰り返すとか、そういうこともあまりしないようにしていますが、果たしてどうでしょうね。

 皆様には、憧れの歌手とか、演奏家などがありますか。そういう人に出会えるのは、人生の幸せだと言えましょうね。

 それでは、本日もよき日となりますように。 

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2007年9月 3日 (月)

孫娘

  7月に遠くからやってきて数日滞在した孫娘・・・そうです、工作の不得意な私に階段の手すりを完成させる原動力を与えてくれたあの孫娘は、岐阜から帰って以来、誰かに年齢を聞かれると「61歳」と答えるのだそうです。これは7月末の時期限定の話だろうと思っていたら、ごく最近になってもそうなのだそうです。

  実際には七夕に2歳になった孫娘が自分の年齢を「61歳」と語るのは、どうしてでしょうか。

  それは、孫娘が「おじいちゃん」である私を気に入ってくれているからだと思うのです。私の年齢を私が「61歳」と話すのを耳にして以来、それまでは「幼稚園に入れる年齢」という理由で「4歳」と答えていたのが、一気に「61歳」になったのですから、他に説明のしようがないではありませんか。(・・・と、反論を許さない強い視線で周囲を見回す・・・)

 これは、面映ゆい(おもはゆい)ことですが、何とも嬉しいことでもあります。もちろん、いつまでも孫と同級生の年齢でいられるとは思いません・・・それだからこそ、大きくなって欲しい、いや大きくならないで欲しいという不思議な、そして身勝手な思いを孫娘にいだいてジレンマに陥っている私なのです。

 ・・・というのをベースにして、下のメールを読んでみてくださいな。身内からのメール・・・孫娘の名前は花子ということにしておきますね。

      ◇ ◇ □ ○ ☆ ◇ ◇ □ ○ ☆

 昨日の事ですが、あまりにも面白かったので、メールしました。

 毎週火曜日に保育園の園開放へ遊びに行くと、ゆみこ先生がいてくださり、花子は大好きになりました。昨夜は私の携帯を開いて、

「もしもし、ゆみこせんせえ。はなこけれども(注釈:ですけれども)、61さいです。はい、はい……え?はい、はい、バイバイ」

  吹き出しそうになるのを抑え、最後までずっと見ていました。
パパの年齢は何度も聞いているのに、全く言わず、7月に聞いたおじいちゃんの年齢はしっかり覚えていたようです。

      ◇ ◇ □ ○ ☆ ◇ ◇ □ ○ ☆ 

 ここまでジジ馬鹿になってブログを書くのは今回限りにいたしますので、お許しくださいね。

 さて、多くの小中学校は今日から二学期 ・・・ すてきな2学期が展開いたしますように。

 学校とは縁が切れたかたも、どうか、子どもたちの安全で健全な生活のために、お力添えを賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

 子どもを守っていただくと、きっと注いでいただく以上の喜び、張り合いが心の内側からわき出てくることと思います。

聖書のことば  使徒の働き  第20章  35節

    『受けるよりも与えるほうが幸いである』

 あなた様ご自身の今日の一日の歩みがすてきなものとなりますように。

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2007年9月 2日 (日)

大ピアニストのことば

 『大ピアニストがあなたに伝えたいこと 100のレッスン』千蔵八郎著・春秋社刊・1996年12月10日 第一刷発行 という本を読んでいます。

 印象に残ったことばを少し紹介させていただきます。

◇  練習からいかに多くのことを学び取るかが大切なのですから、負担感だけがあるような練習になってしまったら、そういうときには意味がないので練習をやめます。

◇ テクニックは、表現意図と結びついて、初めてその意味が生ずる・・・テクニックというものは演奏者の芸術的知性と魂で表現するのでなければ灯火のないシャンデリヤのようなもの、灯火がともされてはじめてその美しさが目に見える・・・

◇ 感じていること 考えていること 表現すること を一致させること。音楽の表現とはどういうものかを認識し、それに必要なテクニックを勉強しているということが分かっていなければ、どんなに長時間ピアノに向かっても、それは単なる指の体操に過ぎない。

 ピアノの練習にかぎらず、何かを目指して行動していたはずなのに、いつの間にか、行動すること自体が目的になってしまっていることって、ありますよね。

 的(まと)を意識し、それに向かって意味のある歩みを続けたいと思います。

 今日は日曜日・・・キリスト教会に足を運んで人生の目的を見つめていただく機会をもっていただけると嬉しいです。

 もちろん、教会へお行きにならない方、お行きになれない方も、初秋の一日を元気にお歩みくださいますように。

  

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2007年9月 1日 (土)

今日からセプテンバー

 今日から9月・・・まだまだ夏はバトンを秋に渡さないでがんばりを見せるのではないでしょうか。

 ところで、9月は英語でセプテンバー・・・セプトはを表し、10月オクトーバーのオクトはたこを「オクトパス」、ドからドまでのように八つ目の音までを「オクターブ」というようにを表しますから、二月ずれるのですよね。

  ・・・・・このずれを新暦と旧暦の関係ではないかと何となく思っていたのですが、つい先ほど理由が分かりました。ローマ歴では3月が1年のはじめだそうで、そうすると9月が1年の7番目の月になるので、セプテンバーなのだそうです。

  海の牡蠣は、英語で「er」が末尾に付く月が食べ頃だそうですから、9月はその最初の月ということになりますね。・・・こういう調子で食べ物好きですから、夏やせもせずに食欲の秋を迎えることになりそうです。

  さて、9月1日は、関東大震災が1923年のこの日に起きたので、1960年から「防災の日」と定められたことはご存じの通りです。

  大きな地震は来ないのが普通の状態というふうに考えて安心していたいのが人間の心理ですが、かなりの確率で東海地震は起きるといわれ続けています。「備えあれば憂いなし」

 タンスなどの転倒防止、急場をしのぐため水などの用意、懐中電灯やラジオ、避難の際に持ち出すものの確認など、しておきましょうね。

 人生の大事なことが、それより小さな日常のことよりも優先順位が低くなっている・・・そうした生き方を省みる機会をもちたいものです。

  聖書を読むことキリスト教会へ足を運ぶことによって神様に出会うことをお勧めします。人生の目的、ゴールを見つめて、一日一日を歩むことが出来るようになるために・・・。

聖書  マタイによる福音書  第16章 26節

  人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

 小澤征爾さんは、1935年9月1日生まれだそうです。小澤征爾さんの指揮する「運命」を聴きながら人生について考える ・・・ これは9月1日にふさわしい一つの在り方かもしれません 。 年末の「第九」ほどの定番にはならないでしょうけれども。

 よき日となりますように。

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