青柳いづみこさん
青柳いづみこさんは、ピアニストで文筆家です。たまたま、この方の著書を二冊読む機会がありました。『ピアニストが見たピアニスト』(2005年6月20日第1刷発行 白水社刊)そして、『ピアニストは指先で考える』(2007年5月10日初版発行 中央公論新社刊)です。
いづみこさんの本には、私が以前、演奏会を聴きに行った名ピアニストの小山実稚恵さんが名高いトレーナーに「千人に一人」と言われた恵まれた手の持ち主であり、また、たぐいまれな集中力を備えていることや、あの『車輪の下』などの作家ヘルマン・ヘッセが音楽好きで、ピアニストではディヌ・リパッティやハスキルの大フアンだったことなどがさらっと書いてあり、楽しく読めます。
ご本人は、特にドビュッシーを研究し、その演奏に秀でている方のようです。『ピアニストは指先で考える』の中には、ドビュッシーは十歳でパリ音楽院のピアノ科に入学し、当時の音楽院では、卒業試験の一等受賞者にはエラールという会社のグランドピアノ(リストが好んだピアノ)が贈られることになっていたのですが、惜しくもドビュッシーは二等賞しかもらえずにこのチャンスを逸したことなども書かれています。
さて、同じ本の「さまざまなピアノ」の章に、先週、このブログで書かせていただいたオーストリアのピアノ「ベーゼンドルファー」のことが書かれていたので、その中から少し引用させていただきます。
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(青柳さんは)演奏会ではベーゼンドルファーを弾くことが多い。四枚目のCD「水の音楽」(キングレコード)をレコーディングしたときも、ホールにベーゼンドルファーのインペリアルを運んでもらった。水の粒のひとつひとつがくっきり聞こえてきて、さわやかな印象がある。とくにリストやラヴェルはごきげんだった。
ベーゼンドルファーは、しかし、弾きこなすのがむずかしい楽器だ。うまく操ることができれば微妙な感情のあやを表現してくれるが、少しでも不用意に叩くと、ジャーンという下品な音がする。 ・・・ 響板が広い分、他の楽器よりバスが響くので、ペダリングも注意しないと、上の音までかぶってしまう。
ベーゼンドルファーは、置く場所も選ぶ。繊細で軽やかなタッチが特徴なのに、響きがデッドなホールに置かれると、とたんに重くなる。これはどの楽器も同じだと思うが、移動に弱く、運んだ当初はざらざらしてとてもごきげんが悪い。レコーディングのときも、ホールの空気になじんでくるまで、悪戦苦闘だった。
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うーん、やはりプロの世界、厳しさ、繊細さは私などのおおざっぱな感覚とは次元を異にしています。この本の別の箇所には、リサイタルの途中までは自分と一体になって歌ってくれていたピアノが全然調子が変わってしまったので、一転して苦闘しながら演奏を終えたら、後で、ちょうどその時間から外では雨が降り出したことが分かった などという箇所があります。
うーん、ベーゼンドルファーが一緒になって歌ってくれる弾き手になれるように、私なりに精進いたしますね。
でも、私は一つ、自信をなくす出来事に直面しています。いえ、ピアノのことではなく、自分では自信があると思っている領分、すなわち食べることにおいてですから事態はより深刻です。まあ、聞いてください。
先日、家内と外食する機会があり、自分ではまあまあと思ったファミリーレストランに連れて行きました。そしたら、ざるそばを注文した家内がいくらも食べないうちに箸をおいたのです。
あまりおなかがすいていなかったのかと思った私に、店を出て車でだいぶん離れてから家内は言いました。「あんなにのびきったそばを出す店もめずらしい。無理して少し食べたけれど、あれ以上食べる気にはなれなかった。コンビニでおにぎりでも買ったほうが、よっぽどよかった」・・・おことわりしておきますが、家内はたいていの場合、食べ物に不満を漏らさず食べるのです。
・・・ 私は食通を気取るつもりはありませんが、少しはいだいていた食べることへの自信、自負心は砕け散ってしまいました。家内の評があたっているに違いないのですから。 しばらく無言で車は走りました。それぞれの思いを乗せて ・・・
話題がそれて長くなりました。ここまでお読みくださって、感謝申し上げます。
さて、今日も、よい日となりますように。
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