« 「靴屋のマルチン」の人形劇 | トップページ | クリスマス前夜 »

2008年12月23日 (火)

「クリスマス」

 クリスマスは、キリスト(救い主)とミサ(礼拝)を合わせたことばです。ですから「クリスマス」は、 救い主を礼拝するという意味となります。

 また、紀元前はB.C Before Christ、A.D.はキリスト誕生以後を表し、西暦2008年は、キリスト生誕2008年目という意味になります。ただし、数年のずれがあることが研究によって分かってきています。

 クリスマスを祝うとき、そういう歴史上のキリストの生誕と自分にどんな関係があるかということになりますね。

 一人一人が自分の心の内に、救い主としてイエス・キリストを歓迎して受け入れるとき、その人の人生は一変します。

 これは神がかりの状態になるとか、まったくあやまちを犯さない人になるということではありません。

 クリスチャンも人間的なあやまちを犯します。けれど、あやまちと仲良く歩み続けることをよしとしないのです。

 「ねがい」  

 どこを

 断ち切っても

 うつくしくあればいいなあ

 クリスチャンの詩人、英語教師であった八木重吉の詩です。どこを、を心の中のすべて、あるいは生きてきた、そして生きていく人生の一瞬一瞬と考えるとき、そのすべてがうつくしくというのは まず難しいことです。

 けれど、その醜さを自覚すればするほど、「ねがい」は強まるのです。

 この世における生において、すべてがうつくしかった存在 ・・・ それが、イエス・キリストです。

 自分を十字架につけた人のためにも、怒りや憎しみ、呪いをぶつけることなく、その人たちのためにも神様に取りなしの祈りを祈りながら、息を引き取りました。

 映画化された「ナルニア国物語」のシリーズ第一巻「ライオンと魔女」にアスランというライオンが、身代わりになって無抵抗のまま、処刑され、やがて甦るシーンがあります。

 あれは、イエス・キリストの十字架上における死と復活を模しているのですね。

 ヘンデルは「メサイア」を作曲し、バッハは「マタイ受難曲」などを作り、他にも多くの芸術家が信仰の証としていろいろな作品を生み出しました。ルオーなども有名ですね。

 パスカルの定理で名を知られているパスカルは、『パンセ』(瞑想録)の中で、神がいるほうに賭けて正しく生きようと努めて生きる人は、たとえ神がいなくても何も失うことがなく神がおられたらすべてを得る、いっぽう、神がいないほうに賭けて自分の欲しいままに生きる人は、神がおられたら、すべてを失う。私は、神がおられるほうに賭けて生きる という意味のことを書いています。

 あなたは、どちらの生き方をなさいますか。 

 いきなりで、わかりにくかったかもしれません。キリスト教会では牧師さんがわかりやすく、愛をもってお話しくださいます。

 クリスマスのこの時期、ぜひ、キリスト教会にお出かけください。

 教会に行けない方は、この季節、平日の朝、6時10分から、岐阜ラジオではクリスマスのメッセージと音楽が10分間、放送されていますのでお聞きくだされば幸いです。

 今日も、よい日となりますように。

|

« 「靴屋のマルチン」の人形劇 | トップページ | クリスマス前夜 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「クリスマス」:

« 「靴屋のマルチン」の人形劇 | トップページ | クリスマス前夜 »