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2009年1月15日 (木)

『瀧 廉太郎』

 『瀧 廉太郎』 (海老澤 敏 著 岩波新書 2004年11月19日 第一刷発行)

 副題に夭折の響き とあります。23歳と10か月あまり ・・・ その生涯に作曲して今も親しまれている曲は♪「荒城の月」「箱根八里」「お正月」、「花」など。

 そして、ピアノ曲「憾」(うらみ) ・・・ これは、この世を憾むのではなく、たくさんの方の恩に、また愛に十分報いることなく病でこの世を去らねばならない自分の命がうらめしいという心から命名したようです。

 瀧廉太郎は、念願かなって、ドイツに留学し、ライプツィヒ音楽院 ・・・これは、メンデルスゾーンが創立した音楽院だそうで、現在はメンデルスゾーン音楽演劇大学となっているそうです ・・・ で西洋音楽を学び始めました。 初登校は、1901年10月2日だそうです。希望に燃えていたことでしょう。ところが、この年の11月25日、オペラ「カルメン」の鑑賞に出かけた彼は、風邪をひき、それをこじらせ、肺結核を患い、学業を続けることができなくなり、退学。学ぶことができたのは、一か月と三週間あまりだったとのこと。翌年、帰国して、さらにその翌年の1903年(明治36年)、6月29日、故郷の大分で息を引き取りました。

 この本にも紹介されている映画「わが愛の譜(うた) ー 瀧廉太郎物語」には、東京音楽学校に入学した瀧廉太郎が「これがピアノですか」と生まれて初めてピアノに出会い、喜びながらピアノにさわり、弾く場面があります。

 瀧廉太郎が通った大分県直入群高等小学校に、大分県では当時、まだ非常に珍しいオルガンがあり、生徒としては、廉太郎だけがこのオルガンを弾くことが認められていたのだそうです。

  ・・・ 日本の誇る作曲家、武満徹は、友人が中古のピアノをリヤカーか、大八車だったかで持ってきてくれるまでは、何と紙に書いた鍵盤を頼りに練習したり作曲したりしていたそうです。

 こうした話を読むと、私なども、心と、そして(比喩的な意味ですが)身が引き締まります。

 瀧廉太郎は、1900年(明治33年)10月に洗礼を受けてクリスチャンになっています。大分でなくなる前にもブレビという英国人宣教師と親しくしていたことが記されています。

 人生は、長さではなく、深さだということばにふれたことがあります。瀧廉太郎の生涯を読むとき、正にそんな思いがいたします。

 今日という日、深く生きてよき日とすることができますように。

 

  

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