チッコリーノは、ピアノの初級の生徒にアタック(打鍵)の「正確さ」の代わりにアタックの「質」を考えさせることによって、音楽のより広義な意義に考えを至らしめ、壮大な探求の世界の扉を開けてあげることになる、と述べています。
もちろん、演奏には「正確さ」も大切ですが、チッコリーニは「正確さ」への指導が往々にしてミスタッチを避け、ただ間違わない音を叩くことだけを熟練させることになりがちなことを懸念しているのです。
これは、絵の場合などにも言えることでしょうか。
幼な子がクレヨンで奔放になぐりがきをしているときに、「おお、そのクレヨンの持ち方はよくない」とか、「まず、遠近法を学んでから描きましょうね」などと言い聞かせるよりも、思ったように描かせながら絵心を育てることが優先されるのではないかと思います。
でも、そうと分かっていても、「角を矯めて牛を殺す」ようなことをしてしまうことが往々にしてあるので、そうならぬよう、大人として心すべきでしょうね。
さて、チッコリー二のことは今回でひとまず区切りとしようと思いますが、もう一つだけ書かせていただきます。
この本の中に「勉強と想像力」という一節があります。そこにこんな文があります。
この世に在る(人間の造った)すべてのものは,ある時、人が想像したからこそ,今この世に存在していることを忘れてはなりません。たとえば私の手首の腕時計も、誰かがこんな腕時計を作ろう」と想像したからこそ、こうして今実在している,のであり,我々を取り巻くすべてのものがそうです。
進歩しない人達の本質的な問題は、より難しいもの、あるいはより深いものを創り出そうと想像しないことにあります。ところが`` 上達する "ということは、想像する力によって、それまでやり慣れてきたこととは異なった要素を集めて一つにできるということです。・・・
勉強ということについてこの後、もう少し文が続くのですが、引用はここまでにしておいて、上記の腕時計の例のところで私はこんなことを考えました。
腕時計 ・・・ これがたくさんの部品が自然に組み合わさってできたという人はいないでしょう。 まして、腕時計以上に精巧な生命体の仕組みや,地球を含めた宇宙の整然とした法則性 これを自然発生的にできた と考えることは、むしろ非科学的なことではないか とクリスチャンである私は考えます。
けれど、チッコリーニは、自分を無神論者だとはっきり述べています。
人工物については,想像、創造による産物だと述べているのに,これは何故かと思いました。
答えは、この本の別のところに書かれていました。
チッコリーニは、13歳の時にナポリ音楽院でピアノの賞をとり、15歳で作曲賞を獲得しました。そして24歳でロン・ティボーコンクールのピアノ部門で優勝しました。
この賞と賞との間に、戦争がありました。国際赤十字に入り18歳から21歳まで、英伊通訳として奉仕している間にチッコリーニは」「これ以上はどうしても受け入れ難い苦しみ」に直面し続け、「耐え難い限界を越え、あまりにも僅かな尊厳しか残っていない」状態に置かれたようです。
具体的な状況については言及されていませんが上記の言葉に続いてチッコリーノは次のように述べています。
この戦争は完全に私を覆し,1,939年に亡くなった父の死後、残っていた私の宗教的信心の欠片(かけら)すら粉々に砕いてしまいました。それからというもの、私は無神論者となりました。
よほどの耐え難いことがあったのでしょう。戦争は、一人の芸術家を無神論者にしてしまいました。ただ、彼は、別のところで、このように述べています。
私はいわゆるキリスト教信者ではありません。むしろ仏教のような東洋の精神性に共感を覚えます。仏教は宗教ではなくひとつの哲学で、仏陀は霊感を悟ったことでしょうが、自分自身を常に人間と見ていました。神ではありません。そこがキリスト教と仏教の大きな違いです。
神学者でも牧師でもない私の手に余るところまできました。
でも、ここまでは自分が考えるためにも書いておきたかったのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
よい日となりますように。
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