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2010年3月12日 (金)

聖書の「愛の章」

  聖書に、「愛の章」と呼ばれているところがあります。コリント人への手紙第一 第13章というところです。

 引用させていただきますね。

13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。

13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

  こんなメッセージをこの箇所で聞きました。

 「愛」の代わりに自分の名前を入れて読んでご覧なさい。 ・・・ 試しにやってみました。いえ、試そうとしました。

 でも、下の部分に「愛」の代わりに自分の名前を入れて読み続けることは、気恥ずかしくてできませんでした。もし、よろしかったら、あなたのお名前を「愛」の代わりに入れてみてください。

13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。

13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

 いかがでしょうか。なかなかできにくいのではないでしょうか。

 この文脈で、「愛」の代わりに違和感なく入る名前が一つだけ、あるのです ・・・ そのメッセンジャーは言われました。・・・ 「イエス・キリスト」がそうです。

   クリスマスは、イエスキリストの誕生を喜ぶ日ですし、今年は4月4日に位置付いているイースターは、その復活をお祝いする日です。

  西暦と紀元前は、イエス・キリストの誕生以前と誕生後を境としています。

 日曜日にキリスト教会にお出かけくださると、百科事典などに書かれている実在の人物イエス・キリストについて、あなたご自身とのかけがえのない関係が解き明かされることと思います。

 できましたら、今日の最初に戻って「愛の章」をもう一度お読みくださればうれしいです。

  「イエス・キリスト」を知らない方には、今日のこのブログは強引な展開ですね。けれど、世の中にはあまりにも、「愛」に遠いニュース、出来事が多く、「愛の章」をご紹介せずにはいられない思いに駆られて、書かせていただきました。

 よい日となりますように。

 今日もよい日となりますように。

 

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