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2010年4月 5日 (月)

復活祭(イースター)の教会

0003  キリスト教会のお祝いする日として、イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスと、十字架につけられて葬られたイエス・キリストの復活を喜ぶ復活祭(イースター)があります。

  クリスマスは、12月25日と決まっていますが、復活祭は、こういう決められ方をしています。

  立春後の最初の満月の後の最初の日曜日 ・・・ それで毎年、日付が異なります。 今年は、4月4日でした。

 私のお世話になっている教会では、近くの桜がご覧のように満開で、すてきな景観となりました。

  ある牧師さんのイースター礼拝のメッセージを、引用させていただきましたので、よろしければ、「続きを読む」をクリックなさってください。

 今日も、よい日となりますように。

「失望の向こうから」

主日礼拝 2010年4月4日

しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた.そして、泣きながら、からがをかがめて墓の中をのぞき込んだ。

(「ヨハネの福音書20章11-18節」(抜粋))

メッセージ

◆ 私には分からないのです
イースターの朝は、希望では始まりませんでした。むしろ失望と、暗さと、古さに包まれている朝でした。しかし、聖書の初めには「こうして夕があり、朝があった」(創世記1:5)とあるように、神さまは暗闇から光へ、失望から希望というようにみわざをおこなわれるお方です。ですから、今、あなたが失望しているからと言って神をあきらめることはしないでください。疲れているからと言ってこのままずっとうなだれたままにしかならないと結論づけないでください。上の聖書箇所でも、マリヤは墓の前で立ち尽くし、のぞき込んで絶望しました。そして「私には分からないのです」と途方に暮れるだけでした。マリヤは「だれかが私の主を取って行きました・・・私にはわからない」(13節)と嘆きます。確かに葬られた主イエスのからだがありません。どこにあるのか見当もつきません。しかし、そのマリヤに、この状況で、イエスさまの方から出会いに来られています。これこそ、神さまが私たちにとってどれほど希望に満ちたお方であるのかを示すメッセージです。失望や喪失、いや死という大きな隔たりでさえも、それらの向こう側から出会いに来られ、みことばをくださるのがイエスさまです。私たちが泣き崩れてから神の恵みが物語始めるのです。
◆ すがりついてはいけません
ここで、み使いとイエスさまはそれぞれ「なぜ、泣いているのですか」とマリヤに問いかけます。それは理由を聞くと言うよりも、【泣く必要などないのだよ】という慰めのことばです。そして「だれを探しているのですか」(15節)と言われます。この時、マリヤは墓に来て、死んでしまった神の子、葬られたイエスを捜していたのですから、見つかるはずはありません。なぜなら、イエスさまはよみがえられたからです。イエスさまは、墓にはいない、失望の果てにはいない、罪から来る死に閉じ込められてはいない! あなたの信じてよい神、ぜひ信じるべき神はこのお方なのです。絶望やうなだれの時にも、その向こう側から名前を呼んで希望を与えられます。イエスさまは「すがりついてはならない」(17節)とも言われました。イエスさまを見ずとも、語られるみことばが信仰の基であり、確信です。どんな境遇にあってもイエスさまからの呼びかけを受けられるのはこの上ない慰めです。失望の向こうから、死の向こうから確かな御声を聞かせてくださるのはこのイエスさまのほかにありません。

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