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2010年7月 8日 (木)

『バイオリニストは肩が凝る』

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 『バイオリニストは肩が凝る』

鶴我裕子 著 

ARC アルク出版企画

2005年6月30日 初版第一刷発行

 著者の鶴我裕子さんは、東京芸術大学卒・NHK交響楽団に入団し、長年第一バイオリン奏者を務めて来られた方です。

  そうした経歴の方ですから、きまじめ一辺倒かと思いましたら、これがとても楽しい内容なのです。N響をカイシャと書いたり、N狂と書いたり、たくさんの指揮者の個性・ひととなりや、オーケストラに長年勤めた人でないと書けないことを、また、そうした立場の人だとなかなか書かない内輪話を、楽しい筆致で書いておられます。

 コミックの「のだめカンタービレ」はテレビや映画で映像化され、多くの人をクラシックに招待しました。

 この本も、そうした役割を果たすかも知れませんし、逆にひょっとしたらクラシックフアンを幻滅させてクラシックから遠ざけるかもしれないと思わないでもないほど、奔放に書かれた、けれど、やはり真底クラシックにとりつかれ打ち込んでおられることが伝わってくる本です。

 何だか、どう受け止めたらよいか分からなくなっているかと思いますので、私がどうこういうより本文を引用させていただきます。

□ 昔の先生(楽器のお師匠さん)は、どうしてああ怒りっぽかったのだろう。あれでは、演奏と恐怖とが、同時に脳にインプットされてしまうではないか。それに、お金を払って教えてもらいに行ったトタン「バカヤロー、帰れ」では、ドロボーです。弾けないから教わりに行くのです。

☆ 30年近くガイジン(指揮者)をつぶさに観察していると、彼らの法則が見えてくる。彼らがあいさつの次にすることは、パワー全開の自己主張だ。まず、自分を知ってもらうこと。たとえ反撃があっても、ひるむどころか、ますます元気になる。ケンカもコミュニケーションの一種ととらえているフシがあるのだ。ただし、自分に不利なポイントを突かれると、しらばっくれてサッサと先に行ってしまう。まことに調子いい。・・・

 第二にガイジンは、そこで相手が静かな場合は「自分を受け入れた」と解釈する。日本人の多くは、相手に拒否反応を持つと静かになるものだが、そうすると彼らは「あ、これでいいのね、それじゃ」とますます自分を押しつけてくる。それはもう「ほどほど」「かねあい」なんてカケラもなく、笑ってしまうほどだ。楽員は休憩時間に、「あー、あきれた」「よく恥ずかしくないね」なんて言うが、恥ずかしくなどない。「自分が法律だ」をつらぬくのは誇りである。そもそも恥ずかしいことの基準が違うのだ。「こっちがイヤな顔をしているのが、目に入らないのかな」ーそう、入りません。そんな顔の民族なんだ、と思うだけだ。言いたいことは「言葉で」言わない限り、たとえ察したとしても、無視されるだろう。 

 ここまでがベースで力関係が決まり、ここからいよいよ「仕事」が始まるのだから、彼らが見た日本は「ベースのない国」と映り、「どんなふうにでも動かせる、甘い相手」としか思われない。だから押しまくられる。それが彼らの昔からのルールなのだ。

 あとで日本が「こんなに苦しんで犠牲を払ったのだから」と見返りを期待しても、「なんのこと? 自分のやりたい道を選んだんでしょ」と言われるだけだ。せめて「見返りとしてコレコレを要求する」と、先に言っておかなければ。

 オーケストラの楽員でも、この程度にはガイジンがわかる。(30年がかりですけど)。政治家はガイジン学を学ぶのが早道だ。配線が違うと思えばいいのだ。そうすれば、彼らを利用することができるし、逆に学ぶこともできるだろう。

 実は私は、日本人の白黒つけられない性質を愛(いと)しく思っている。ガイジンに真似できない長所って案外これかもね。頭がいいのに、英語でヘドモドする私たちって、なんてかわいいんだろう。 ・・・

 いかがですか。私は、しっかりと自分に軸足をおいて言いたいことを書き表している文章に爽快感を覚えました。

 国語科の立場から申しますと、ガイジン指揮者と日本のオーケストラの楽員ということだけでなく、同国人の間のコミュニケーションにおいても大切にしたい内容が含まれているように思います。

 長い引用になりました。お許しください。

 今日も、よい日となりますように。

 

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