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2010年10月15日 (金)

『痴呆を生きるということ』 その3

 この本についての最終回 ・・・以下の文と一つの詩を紹介させていただきます。

 「ぼけてしまえば、本人はなにもわからなくなるのですから幸せですよね、まわりはたいへんでしょうけど」などという言葉をよく聞く。

 そんなことはない。長年、痴呆を病む人たちとおつきあいしてくると、彼らの喜び、怒り、哀しみ、楽しみがはっきりと見えてくる。そのこころの世界は、私たちのそれと地続きである。

  それが見えないのは、私たちが見ようとしていないだけである。遠くからこわごわ眺めていては見えない。診察室で一方的な視線に彼らをさらしても見えてこない。暮らしのなかで発せられる彼らの言葉にならない言葉に耳を傾けることで、こころのありかを訪ねたい。 ・・・ 昨日、改築された病院でスタッフがしばらくは「徘徊」したと表現しておられるのも、「地続き」ととらえておられる構えとつながっているように思います。

 さて、結びとして、この本で紹介されている詩を引用させていただきます。

 うたこ

 だんだん

 ばかになる

 どうかたすけて

 起きぬけ

 母はそう言って私にすがりつく

 だれが

 この病を

 老年痴呆と名づけたのだろうか

 かつて私は

 こんなに賢いさけびをきいたことがない

 私は

 母のまねしてすがりつく

  (池下和彦 『母の詩集』より)

 

 三回にわたって、書かせていただきました。

 著者は「そのままでいいんですよ。困られたときには私たちがお手伝いしますから」。私たちのとどけるべき言葉は、この一言に尽きる と書いておられます。

 いろいろなことを考えさせていただいた本です。よろしかったら、どうぞ。

 さて、今日も、よい日となりますように。

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コメント

 最近テレビの特集で、痴呆の対処法のようなことをやっていました。
医療の世界は、日々進歩しており、良い薬も開発されているようです。
 脳のCTスキャンをとる方法では、痴呆の方の脳には空洞が多く見られ、これはあくまでも気持ちの問題ではなく、体の病気と言うことが分かります。ちなみに、うつや統合失調の脳も、首の後ろのほうに穴があいたような画像が写るようですが、病気の回復とともにふさがるそうです。
 看護のポイントとして、感情を否定しないことがあり、なぜかというと、記憶についての部分の欠落はあっても、感情は働いているからだそうです。人間の尊厳と言うできごとと、看病には大きな関係が有ると思います。

※ ムーミンパパより

 コメント、ありがとうございます。

 そうなんです・・・筋道だった理論を説かれてもそれは消えて、どんな表情、口調で言われたかという感情面の記憶は積もっていくのだそうです。

 笑顔で接する人には、とてもおだやかに向き合って、心の落ち着く時間を過ごすことが出来るのだそうで、いろいろ学ぶことがある本でした。

 すごしやすくなってきましたね。 今日もよい日となりますように。

投稿: 小島 | 2010年10月15日 (金) 16時59分

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