遠藤周作さん その2
日本経済新聞社
1989年12月14日 第1刷
遠藤周作さんと交流のあった方々、作家や東海林太郎さんの奥さんなどなど、本当にいろいろな方が登場され、エピソードが豊かです。
軍事教練のため、配属されていた少佐が教練用の器具を倉庫で点検しているのを南京錠をかけて閉じ込めて逃げ、ふだん「臨機応変」で戦わねばならぬと言っていたから、おっかない軍人が非常事態に陥ったらどう処理するかと思ったから と書いているところなど、思考、行動の在り方が察しられます。
フランス語を一語も知らないのに仏文科に入り、先生を困らせた経緯も書かれていて、このかたらしさが伝わってきます。
フランス留学時代、いつも夕方になると電車の停留所に来て夜までじっとたたずんで帰って行く女の人を見かけたこと、そして、それは、ご主人の戦士が信じられずに、何年経っても戻ってこない夫を、以前、会社から帰ってくる時間になると停留所にきて迎えようとしているのだと、周囲の方から教えられたという胸打たれる話もあります。
無鹿(むしか) ・・・宮崎県の延岡駅からバスでしばらくのところの地名だそうです。かつて、大河ドラマに西郷隆盛に縁のあるところとして登場したことがあるとのこと。
この無鹿の名付け親は、切支丹大名の大友宗麟だそうです。
永禄5年に宣教師トルレスや修道士アルメイダたちが建てた教会を訪れた大友宗麟は、そこではじめて、西洋音楽・・・ヴィオラと歌を聴き、深く感銘を受けたのだそうです。 そして、自分の余生を送る理想の地を、この音楽のようによごれ一つない澄み切った、山も丘もやさしく、川の水もゆたかで陽の光あたたかな土地で送ろうと思い立ったとこの「無鹿」には書かれています。
ここがその理想を実現する地と思い定めた大友宗麟は、「無鹿」と名付けました。無鹿(むしか) ローマ字で書いてみましょうか MUSIKA あるいはMUSICA ・・・ そうなのです、この理想の地名は「ミュージック」から来ているのですね。
大友宗麟は島津義久の薩摩軍に破れ、理想の地となるはずだった無鹿はその後、放置されました。
◇ □ ○ ※ ☆
この本には、いろいろな地方の、地元の方にも忘れられかけている小さな城、古戦場を、機会があれば訪れた遠藤周作さんならではの短編「取材日記」も収められています。犬山城、各務原市にあった伊木山城、そして藤吉郎時代の秀吉が苦境に陥った鵜沼城、岐阜県の富加町の加治田城のことなどが出てきます。
近江の町を家内と訪れたとき、通りの道ばたに「よろしければ、おもちください」と置かれていた本の中からいただいてきました。そうした縁がなかったら、出会うことのなかった遠藤周作さんの晩年の短編集『無鹿』です。ありがとうございました。
今日も、よい日となりますように。
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コメント
無鹿の話、おもしろかったです 学生時代、広島にムシカという音楽喫茶がありました よい所でした 意味がわかりました
※ ムーミンパパより
コメント、ありがとうございます。音楽は、世界共通語というところがあり、すてきな働きを果たしてくれていますね。
ムシカという喫茶店も、よきリフレッシュのお店だったことと思います。 今日も、よい日となりますように ♪
投稿: 敦子 | 2017年4月28日 (金) 09時28分