『童謡大学 童謡へのお誘い』
横山太郎 著 岩崎一彰 画
自由現代社 2001年4月30日 発行
美しい表紙ですね。
著者の横山太郎さんは、テレビ放送が始まった頃の番組、「ここにも歌がある!」にレギュラー出演されたアコーディオン奏者だそうです。特に、童謡や唱歌を愛し続けて、多くの人の心を結んできた歌一筋のかたと本書の前書きにNHK名誉顧問の川口幹夫さんが紹介しておられます。
童謡は鈴木三重吉が主催する雑誌「赤い鳥」(1918年・大正7年創刊)によって提唱され、北原白秋・三木露風・西条八十、その翌年に野口雨情も「金の星」を舞台に童謡運動に加わったと書かれています。唱歌は、文部省主導で始まりましたので、もっと心温まる歌をという思いが童謡のスタートとなったようです。このあたりのことを野口雨情は「歌わせるのが唱歌、歌われるのが童謡」といったそうです。
「海はひろいな 大きいな」の♪「ウミ」の作詞者 林 柳波は沼田市、作曲者 井上武士は前橋市 と、ともに海のない群馬県出身 ということなど、いろいろなエピソードに満ちた本です。 印象に残ったエピソードをもう一つ。
◇ □ ○ ※ ☆
生活に追われ、英文雑誌を出したり、翻訳を頼まれたりして、学生時代から才能を見せていた詩人としての活動に専念できずにいた。
西条八十の詩を同人誌で見かけた鈴木三重吉は、足を運んで、「赤い鳥」への参加を要請した。西条八十は当時26歳。
鈴木三重吉の要請を受けて書いた詩、「唄を忘れたかなりや」について、西条八十は1956年に出した『唄の自叙伝』に下記のように記している。
幼いころ、クリスマスの夜に、たしか麹町のある教会に連れて行ってもらったときの印象がベースになっている。
『年に一度の聖祭の夜、その会堂内の電燈はのこらず華やかに灯されていたが、その中にただ一個、ちょうど私の頭の真うえに在るのだけが、どういう故障かぽつんと消えていた。それが幼いわたしに、百禽(ももどり)が楽しげに囀っている中に、ただ一羽だけ囀ることを忘れた小鳥「唄を忘れたかなりや」のような印象を起こさせて哀れに思えた。その遠い回想から偶然、筆を起こしてこの童謡を書き進めるうちに、わたしはいつか自分自身がその「唄を忘れたかなりや」であるような感じがしみじみとしてきた』
生活に追われ、英文雑誌を出したり、翻訳を頼まれたりして、学生時代から才能を見せていた詩人としての活動に専念できずにいた。だから当時の西条八十は「歌を忘れたかなりや」であった。そこに現れた三重吉は象牙の船であり、「赤い鳥」は金の櫂であった。こうして西条八十は、ふたたび詩人としての人生を歩むことになったのだった。
◇ □ ○ ※ ☆
一つの名作の生まれるかげには、こんな経緯があるのですね。
今日も、よい日となりますように。
明日は日曜日。キリスト教会では神様に礼拝が献げられます。
| 固定リンク
コメント
よい話を教えて頂きました ありがとうございます.。
※ ムーミンパパより
連日の訪れ、コメントをありがとうございます。歌の生まれた背景・エピソードを知ると、さらに味わいが深まるように思います。また、書かせていただくときがあるかと思います。よろしくお願いいたします。(^J^)
投稿: 敦子 | 2017年4月29日 (土) 12時37分