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2017年9月 3日 (日)

愛の章 コリント人への手紙 第一 十三章

 聖書に「愛の章」と呼ばれている箇所があります。

 聖書 第Ⅰコリント人への手紙 第13章です。

 13章の4節からの「愛は・・・」のところに、自分の名前を代入してみると、恥ずかしくなってきてとても読めなくなる。けれど、一つだけ、「愛」と置き換えて、ぴったりとおさまる名前がある。それは「イエス・キリストだ」とある牧師さんがメッセージされたことがあります。  よろしければ、試してみてください。

  ◇     □     ○    ※    ☆

 聖書 第Ⅰコリント人への手紙 第13章

13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

    ◇     □     ○    ※    ☆

 今日も、よい日となりますように。

 日曜日。キリスト教会の礼拝にお出かけください。神様に献げる礼拝が開かれます。

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コメント

ありがとうございます 今日も読み返しています 最後に残るのは信仰と希望と愛、その中でも愛というところ、考えさせられます。

※ ムーミンパパより
  訪れて、コメントをくださり、ありがとうございます。
  この愛の章には、ほど遠いのですが、祈りつつ、目指して歩んでまいりたいと願っています。
 青函連絡船洞爺丸の海難事故のとき、身につけた救命具を日本の青年に譲って海に沈んでいった宣教師がおられた、三浦綾子さんは『氷点』にそのことを書いておられます。 その宣教師さんのお子さんは、そのように命を捧げて亡くなったお父さんの心をどうして生き延びてくれなかったのかと長い間、納得できなかったそうですが、後には、父の深い信仰を理解し、受け入れることができるようになられたそうです。  聖書のこの愛の章を読む度に、上記のことも思い返されます。『塩狩峠』も、実際にあった列車事故とのことで、人間がそこまで気高い行為ができる存在なのだということに胸がいっぱいになります。

投稿: 敦子 | 2017年9月 4日 (月) 09時47分

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