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2019年4月15日 (月)

『俳句と川柳 「笑い」と「切れ」の考え方、たのしみ方』

0002_12 『俳句と川柳 「笑い」と「切れ」のたのしみ方』

復本一郎 著

講談社 1999年11月20日第1刷発行

講談社現代新書 1478

 ムーミンパパは、俳句を真面目に作っても、時々と申しますか、度々と申しますか、季語なし五七五 とても呼ぶべきものになりがちです。

 たとえば、 同窓会 昔の自分に 会いに行く  ←  そのころ憎からず思った彼女は、やはり どこか そういう雰囲気で佇んでいます。 でも 昔の彼女に と書くと 差し障りが出てきます。 それで、 昔の自分に と表現してみました。 

  ◇   □   ○  ※  ☆ 

 本書の中に正岡子規の言葉を著者が口語訳した言葉があります。

 「俳句作品で川柳に近いものは、俳句としてはダメだ。それなら川柳とし見てはどうかというに、もっとダメだ。逆に、川柳作品で俳句に近いものは、川柳としてはダメだ。それなら俳句として見たらどうかというに、もっとダメだ」

 さすがに子規である。・・・子規の言いたいことは、俳句と川柳は、別種の文芸であるということなのである。私もまったく子規の主張に賛成である。俳句作者は俳句作者の矜持をもって常に「俳句とは何か」を自らに問い掛けつつ作品を作ってもらいたいし、川柳作者も、また川柳作者の矜持を持って、「川柳とは何か」を問い掛けつつ作品を作ってもらいたいのである。

 

 俳人 日野草城の言葉として印象に残る言葉が記されています。

 ・・・川柳は「うなづかせる文学」である。古くから穿ち(うがち)が川柳の本質だといはれてきたのは、この意味である。然るに、俳句は「感じさせる文学」である。

                  ◇    □    ○   ※   ☆

 いろいろな川柳が紹介されていましたので、私なりに面白みを感じたものをいくつか挙げさせていただきます。 どれかには うなづいていただけたら嬉しいです。

八百屋の娘母親と瓜二ツ      五柳

小説家の妻亭主のは読まぬなり   剣花坊

美人去ってカルタ会散会し     瓢哉坊

厚化粧して涼みとは解せぬなり   丸膽坊 

寝て居ても団扇の動く親心

笑ふ事ばかり入れたし親の耳    一軒舎二丘

右に出る彫刻はなし甚五郎     綾瀬  

断・捨・離で 追い出されぬよう 身を潜め  ムーミンパパ  

 どさくさに、自作を忍び込ませました。

 今日も、良い日と。なりますように

 

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