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2019年5月31日 (金)

実るということ

0002_28   私が通っているキリスト教会の二階の窓から、アンズの実が見えました。他にもないかと捜しましたけれど、葉っぱが繁っていることも影響してか、よう見つけませんでした。たくさん実るとアンズジャムを作っていただけるのですけれど。

 この教会には「睡蓮の池のほとりに佇つ教会」という愛称があり、ちょうど睡蓮の花も咲き始めました。

 教会の庭の入り口に、石榴(ザクロ)の木があり、今年もたくさんの実がなりそうです。

  0004_8 実がなる木を見ていて、時々引用させていただく関根一夫牧師の、5月26日のメールマガジンを思い浮かべました。

 引用・紹介させていただきます。

 何年経っても実を付けないイチジクの木についてのお話ですが、今まで、そのイチジクの木のことを他人事のように考えていた私の心に、いきなり「実を付けないイチジク ・・・ボーッと考えていてはいけないよ」と切り込まれたお話だったのです。 身が引き締まって、体重が減ったような思いになりました。関根一夫先生 ありがとうございます。

 それは、ともかく、良い日となりますように。

  ◇   □   ○  ※  ☆

MACF礼拝説教要旨  2019.05.26
イエスの生涯16
「懇願する番人  ~イエスのたとえ話~
ルカによる福音書
13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」
+++
これもイエス様のたとえ話です。
神様の目から見て「祝福を受け」「特権にあずかり」
「実を結んで当然」の状況にある人達の姿が描かれています。
彼らは、良い土地に植えられており、きちんとケアもされていたのです。そして植えられた時そのいちじくの木には生命がありました。
つまり、その木の何かが成長や成熟を阻んだのです。
人間的な状況を考えれば、彼らは自分たちの生活に満足しており、それほど困窮しているわけではありませんでした。
彼らの心の中にあったであろう問題はいくつか考えることができます。そして、まさに、これらの問題こそがいちじくの木の生命を枯らしてしまう原因だったのではないかと思うのです。

1)選民意識による慢心:エリート意識
彼らはユダヤ民族に属し、旧約の歴史に精通しており、神様の歴史に対する介入もよく知っていました。
神殿も彼らの自慢であり、神はどんなときにも守り、支えてくださるということについては、自信を持っていました。。
しかも、異邦人たちを拒否し、滅ぼし自分たちだけに祝福が届くことを嬉しいこととして、心に育てていました。そこにはエリート意識からの慢心がありました。
自分たちこそ祝福を受けた存在であり、これからも自分たちだけが祝福を受け続けるのだという意識、他者はどうなっても構わないというような意識、それがここに語られている「実を結ばない」という事例に結びつくのです。

2)社会的優位からくる傲慢
彼らは全体数から言えば、それほど多くはありませんでした。しかし、ユダヤ教徒の指導的立場にいる人達のかたまりとしては孤立してはいませんでしたから、ある程度の勢力を誇っていました。いわば、国会で言えば、安定勢力、安定与党の立場に生きていたのです。
それは知らず知らずのうちに、神の心で民に仕える姿勢を奪っていきました。彼らはしもべとして生きるべきでしたが、教える人としての意識が強すぎて、高慢な、上から目線でしかものを語らない人たちになっていきました。
「土地をふさいでいる」という言葉が出てきますが、イメージとしては、彼らが新鮮ないのちの発露を潰してしまっているのです。言論統制、思想統制のような息苦しさがそこにはありました。死の雰囲気を振りまきながら集団で社会を動かそうとしているわけです。

3)自分自身への心の健康診断の怠慢
番人の言葉「木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。」というのが書かれています。
これは、根が枯れてしまっている可能性があることから、その部分をチェックし、根の部分に栄養分を与えるという作業です。
これは言い換えれば、多数を占める高慢な指導者たちの心の土台の部分が腐り始めていることの証拠です。
自分自身の健康診断、心の健康診断を彼らは怠っているのです。
聖書を読む、祈るということをしていなかったわけではないでしょう。しかし、それがいつの間にか「習慣」になり「義務感」になり、「形式的なパターン」になっていたのでしょう。そこには喜びも、悔い改めも、新しい発見もないのです。
根本を掘り下げることで、その部分に新鮮な空気を入れ、新しい活力を注ごうとしています。

本来は祝福を受け、他者に対して祝福の源としての役目を果たすべき存在だったユダヤの人たち、ことに指導者たち。
残念ながら彼らは神の心に沿った生き方をしていませんでした。もう、切り倒してしまおうかと言われるほどの腐敗ぶり。
全く不毛な状況にある集団、国、特権階級の人たち、また、そこに住む人たち、イエス様は彼らのために泣いて、こう叫びました。同じ章の先の方に書かれています。
13:34 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
13:35 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」

4)番人の忍耐と努力
この例えには、しかし、希望があります。それはこの番人の存在です。彼は、まだ希望を捨てていないのです。むしろ、積極的に働いて実を結ばせようとがんばろうとしています。
13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

これはまさに、わたしたちに対するイエスさまの姿でもあると思います。
前回も良い土地になるということが「人の痛みを知る、神の心に沿って弱者の存在を認め、彼らを無視しない」ということと関係しているとお伝えしましたが、ここでも「実を結ぶ」というのは、「その実で誰かが潤される」ための実です。
つまり、豊かな実を結ぶのは「すごいでしょ、こんなにたくさんの実がなりました」と誇るためではなく、それらの実によって誰が潤い、助けられ、飢えから救われるための実です。
イエス様はわたしたちの心に働きかけて、今尚、実りをもたらそうと水や栄養を与えてくださっています。
それは、わたしたちが、誰かに向かって「祝福がありますように」と祈れるようになるためであり、「何かお手伝いできることがありますか」と尋ねることができるためであり、「いてくれてありがとう」としっかり挨拶できるようになるためです。
そして、何より、生かしてくださっている神様に感謝と賛美、礼拝を捧げることができるためです。神への礼拝は、わたしたちの最大の実なのです。

神様は今朝、あなたの心を見て、なんとお語りになるでしょう。
その際、出来栄えが問題ではありません。むしろ、わたしたちの心の内側の姿勢が大きな問題なのです。自分の中にまかれた神様からの福音と恵みの種を殺してしまっていないでしょうか。
生活の中に「慢心(エリート意識)」「傲慢」「怠慢」が入り込んでいるなら、種は死に、木は枯れます。
キリストはそういう心を新しく創り変えることがおできになります。「しもべの姿勢で、謙遜に、自らの心を丁寧にチェックしながら生きる時、わたしたちは自分のことだけでなく他者の痛みや喜びにも共感できるようになり、神の期待している実をつけながら生きられるようになるのです。まずは、自分の心の状態を吟味する必要があります。そして、もし、ふさわしくないものがあったら、それを今朝、心から悔い改め、新しい出発の日にしたいと思います。
祝福がありますように。

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◎主の平和と祝福がありますように!

関根一夫
pastor.kaz@gmail.com
https://www.kazsek.com/

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