『語る兜太』 ーわが俳句人生 ー 金子兜太
金子兜太(かねこ とうた) 著
聞き手 黒田杏子(くろだ ももこ)
岩波書店 2014年 6月25日 第1刷発行
金子兜太さんは、埼玉県出身。2018年2月に享年100歳でお亡くなりになりました。
朝日俳壇の選者を約30年間にわたって務められ、毎週5千通から6千通の投句に目を通して選句なさったとのこと。
この本は、書名にもありますように、大いに、それも歯に衣を着せずに長年にわたる俳句歴、そこで出会った方々、世の中のことを語っておられます。
特に心に残ったのは、戦争反対の立場を強く貫いておられることです。
それは、下記のすさまじい体験をなさったことから来ていることを初めて知りました。インターネット上の百科事典、ウイキペディアから引用させていただきました。
1943年に大学を繰り上げ卒業し、佐々木直の面接をうけて日本銀行へ入行した。海軍経理学校に短期現役士官として入校して、大日本帝国海軍主計中尉に任官、トラック島で200人の部下を率いる。餓死者が相次ぐなか、2度にわたり奇跡的に命拾いする。1946年に捕虜として春島でアメリカ航空基地建設に従事し、11月に最終復員船で帰国する。
本書の中に、このような箇所があり、心に迫ってきました。
・・・ともかく、人間が死ぬことの怖さ、その死を力ずくで実現させてしまう戦争というものの「悪」・・・ともかく飢え死にする者が後を絶たない。主計課は辛いんです。何人死んでくれたら、あとこの芋で何人生きられるかという、そんな計算もしてしまう。個人で感じなくてもいい罪の意識と、自分に対する嫌悪感がつのってきて、理屈ではなく、「戦争というものは絶対にいかん」と思うようになりました。・・・そんな中で約半年間夏島で私は月に1、2回ほど句会をやっていたその記録が出てきたんです。驚きました。 トラック島での句会は夜に開かれました。夜もやってくる米機にそなえて、全員いつでも防空壕にとびこめるようにしていました。20人くらいは集まっていたと思う。
・・・復員したのは、1946年11月です。年配の者、妻子ある者を先に帰し、私は文字通り最終の復員船に乗って帰国しました。
「偉い将校はみんなさっさと帰ってしまったけれど、金子大尉(昇進していました)は、若い者たちのことを、こいつらは見捨てておけないと思ってくれた」と言ってくれた若い人たちがいましたが、そんな立派な者じゃわたしはありません。
・・・ いよいよ帰国の日。日本から迎えに来た駆逐艦に乗りました。船が島を離れるとき、米軍の空爆で岩肌がむきだしになったトロモン山が見えました。その山のふもとに戦没者の墓碑があるのです。甲板に立って島を見守る私をその墓碑がずっと見ているように思いました。この島で死んだ人たち、その死者の皆がずっと俺たちを見送ってくれている。その時、そう思いました。
水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る
◇ □ ○ ※ ☆
この思いを抱いて帰国された金子兜太さんのその後の歩みをご存じの方は多いと思います。
私は断片的にしか金子兜太さんのことを知りませんでしたので、この本を読み返したいと思います。
改めて、戦没者の方々、そのご家族のことを思い、お祈りいたします。
今日も、良い日となりますように。
| 固定リンク
コメント