2009年10月30日 (金)

秋の夜のコンサート

Ca390037 Ca390036            10月28日の夜、岐阜市の「コンサートサロン クララザール」で、岐阜大学音楽科の学生さんとその指導に当たっている先生のコンサートがありました。

 ヴィオラ・フルート・クラリネット・トロンボーン・トランペット・・・ どの出演者も練習を積み重ねて臨んだことが伝わっ てきて、心から楽しませていただきました。

 指導の先生ご自身のクラリネット演奏、やはり、さすがですね。

 すばらしい音楽を満喫させていただいた秋の夜でした。 

  写真は、プログラムの表紙と、フィナーレを♪「オペラ座の怪人」で飾って挨拶しているところです。こうした演奏会を積み重ねて、18回目だそうです。

 クララザール というコンサートサロンには初めてでしたが、なかなかすてきな演奏会場でした。 音楽科シューマンの妻で名ピアニストであったクララ・シューマンの名にちなんでいるサロンだと思われます。

 快い余韻に浸りながら純粋に芸術の秋のことを書かせていただきました。

 今日も、よい日となりますように。

 

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2009年9月26日 (土)

お気に入りの散歩道

  聖書に題材を得て描かれた絵としては、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」などが有名です。

 このほかにもたくさんの絵画があるのですが、今日は別の画家が聖書にちなんで描いた[エマオの途(みち)」という作品との関連で書かせていただきます。

Photo  これが、[エマオの途(みち)」と呼ばれている絵です。ご覧になった方もおおいかもしれません。

Ca390004  そして、左は私たち夫婦の散歩コースの一つです。

 特に、家内は、「エマオの途」と書いた案内板を立てたいくらいに、この道を気に入っていて、友人が来ると、この道を一緒に散歩することを喜びとしています。

 皆さんにも、お気に入りの散歩道がおありでしょうか。

 今日も、よい日となりますように。 

 「続きを読む」をクリックしていただくと、[エマオの道」に関する聖書の箇所をお読みいただけます。

続きを読む "お気に入りの散歩道"

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2009年8月16日 (日)

「郡上踊り」は参加型

 岐阜県の郡上市では、13日から16日まで、4夜連続で徹夜踊りが開催されています。

 同じ場所で4夜開催すると、その町内の赤ちゃんなどが連夜のにぎやかさで不眠症になってはいけないということからか、歌う人、三味線、太鼓奏者などの舞台となるやぐらは移動式になっていて、夜ごと、その位置を変えます。

 郡上踊りは、参加型 ・・・ 見に来る人には外人さんも居ますが、見ていてしばらくすると身体がむずむずし始めるのでしょうか、踊りの輪に進んで加わるかたが多いように見受けられます。

 歌がどんどん変わると、それに連れて踊りも変わりますが、それほど戸惑うことなく、またすぐに溶け込んで踊り始めます。

 もちろん、本格的に極めるには奥が深く、時々審査の時間が設けられて、審査員の目に適うと、その踊りの曲の免状が渡されます。

 ただし、徹夜踊りの場合は、あまりにも人出が多いので、踊りの審査はおこなわれていないかもしれません。

 まあ、それはそれとして、楽しく踊ることができれば、それでよいではありませんか。

 小学校、中学校なども、徹夜踊りの期間中は有料ですが駐車場となり、おそらくどこかに駐車することはできると思います。

 私の場合、バローの駐車場で一晩千円でした。

 まだ、見たことがないという方は、よろしかったらお出かけください。

 徹夜踊り以外の日にも郡上踊りは開催されていて、ゆっくり踊りを楽しむには、他の日に出かけるという方もおられます。開催時間と場所は、たとえば、たとえば、下記のURLをご覧ください。

http://www.gujohachiman.com/topics/odorinitei.htm

 今日も、よき日となりますように。

 

 

 

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2009年8月14日 (金)

折り紙の世界

Ca390007 Ca390011           Ca390001           岐阜県の県庁近くにふれあい会館という建物があり、その2階で折り紙展が開かれていました。

  私自身は、折り鶴を今まで一羽も織り上げたことがないという、手先が器用だと言われる日本人としてはめずらしい存在かもしれません。 いえ、威張っているわけではありません。(少し開き直っているかもしれませんけれど。)

 展示場に、折り紙の達人たちがおられ、家内にばらの花の折り方などを伝授してくださいました。

 その達人たちをびっくりさせる子がいたそうです。メモのための道具を持参し、達人たちが伝授してくださる折り方を順次、図に書いて帰って行ったその子は、何と4歳だったとのこと。

 保護者がそうしなさいと指示したわけではなく、自発的な行動だったそうで、それを聴いた私たちも驚いてしまいました。何と頼もしいことでしょう。Ca390010

 また、その子にそうさせるだけの魅力を折り紙の世界が備えているということでもあるのでしょうね。

  Ca390002  そうそう、郡上市では、13日から16日まで徹夜踊りが開催されています。 どこかで、行くことになりそうです。

 よき日となりますように。

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2009年7月 5日 (日)

本当によいものは国境を越える

 NHKテレビの「クローズアップ現代」で、ピアニスト辻井伸行氏との対談、そして演奏が放送されていました。なんと自然でのびのびと美しい音色を響かせていることでしょう。 ドイツでのコンサート ・・・ 「期待していない」「つまらなかったらすぐ帰る」と語っていた聴衆が、見る見る彼の演奏に引き込まれ、笑顔で聴き、スタンディングオベーションで讃えていました。

 彼が優勝した国際ピアノコンクールで彼を讃え、祝福していたヴァン・クライバーンというピアニストは、第1回のチャイコフスキー ピアノコンクールの優勝者です。

 当時、冷戦状態にありましたから、政治の圧力があれば、記念すべき第1回の優勝者にアメリカから乗り込んできた彼が栄冠を手にすることはなかったかもしれません。

 

 そういう中でのクライバーンの優勝は、まさに快挙でした。それは、アメリカにとってだけでなく、国境を越えて彼のすばらしさを認めた人類の良心の為せる快挙と讃えられてよい出来事だったと思います。

 芸術に限らず、スポーツの世界も、何もかも、よいものは国境を越えてよいと認め合い、人類全部がそのすばらしさを喜び、共有することができる、そんな世の中でありたいですね。

 辻井さんは、今、二十歳でしょうか。彼の行く手に、そしてその演奏を聴くすべての人にすてきな花が咲き続けますように。

 今日は日曜日、キリスト教会の礼拝に出かけ、牧師さんが聖書に基づいて語る神様からのメッセージをお聞きください。

 よき日となりますように。

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2009年7月 2日 (木)

学生寄席

Ca390001 Ca390002           さすがに梅雨のシーズン ・・・ 7月の初日、岐阜市では特に夕方から夜、よく降っております。

  さて、そうした天候にもめげず、キャンパスでは学生寄席が開かれました。

  新人のデビューということもあって、聞きに行きました。実は、先週、一週間間違えて会場まで行ったそこつ者の私です。

 演目は、「つる」 ・・・ 題はこれでよかったのかな、首長鳥の雄が「つー」と飛んできて松に止まり、続いて雌が「るー」と飛んできて、それから「つる」と呼ぶようになったというお話

 そして、「寿限無」「桃太郎」、漫才は修学旅行で奈良公園の鹿が登場する話、あいまにマジックも入りました。

 とりは、「三流亭 今壱」の熱演で「死に神」 ・・・ イマイチ と謙遜していますが、この人、寄席の開始にあいさつ、新人には「待ってました」と声をかけてほしい、それが緊張をほぐすことになるか、余計にプレッシャーを与えるかは分からないけれども ・・・ などと楽しい雰囲気を作り、中間ではマジックを見せ、とりを務めるという大活躍を見せてくれました。何でも、主任だそうです。

 顔も、落語家向きのように思いました ・・・ うーむ、意味不明 ?!

 岐阜市は、落語の元祖 の策伝というお坊さんが居たところで、それにちなんで近年、学生の落語日本一を決める大会が開かれております。

 デビューした新人たちは初々しく、上級生たちは、就職活動や学問の仕上げと両立させる努力をしながら後輩を育てているようで、好感が持てました。

 新人の一人は、「デビューだから見に行く」と張り切る母親を必死に阻止して今日を迎えたと切り出し、そういう子を思う親の愛を、この長寿を願い、名前をつけるのに苦労する「寿限無」につなぐなど、どの出演者にもなかなかの力を感じました。

 国語科を専門とする私は、落語、漫才は大切な芸術、言語文化だと思っていますし、若者たちが、切磋琢磨しながらその話芸を磨いている姿を嬉しく思った次第です。

 ちょっと急いでアンケートを書かずに来てしまったので、お礼の意味で、このブログを書いた次第です。 ありがとう。 これからも技を磨き、ご活躍ください。

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2009年5月27日 (水)

「生涯楽習」

 教育の道の大先輩に、俳句・川柳・短歌、そして色紙絵に取り組み続けておられる方がいます。

 楽しみつつ、続けて来られ、それらを一冊にまとめて『生涯楽習』と題され、ご友人、後輩に贈ってくださったこともあります。

 その後も、新聞に詩歌を投稿され続けておられます。作品そのものから、そして楽しんで句作などを続けておられる姿から学ばせていただくことが多くあります。

 その大先輩に、教育関係の退職者の広報誌へのカットをいただくお願いをいたしました。

 取り組んでみるが、できあがったものが意に添わなかったら採用せずにおいてください、とのお言葉でした。

 それが日曜日の夜のことでした。

 火曜日の午後、その方から封書が郵送されてきました。 ・・・ 驚きました。いくつもの作品が、お願いした翌々日には届いたのですから。

 早速、お礼の電話をいたしますと、花を描いてみて、この数日の間にはお送りする予定でいますとのこと。

 締め切りを7月の七夕の頃、広報誌の発行は8月下旬とお伝えしたのですが、願いを聞き届けていただき、早々に作品を送ってまず安心させてくださり、さらに取り組んでくださるとのこと・・・教育のことでたくさんの教えをいただいた尊敬する方なのですが、今回、新たに多くのことをその生きる姿で学ばせてくださり、感激しています。

 そんな大先輩のように私も生きることが出来たら、と思います。生涯の師に出会えることは、大きな幸せですね。

 今日もよい日となりますように。

  

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2009年5月 3日 (日)

美術館でコンサート

 岐阜県美術館の所蔵展が開かれていまして、その中に,家内が以前、館長さんのお話を聞いてぜひ見たいと願っていた絵も含まれているようなので出かけました。

 隣接の県図書館で本を借り、それは車に置いて、いよいよ美術館へ。

 何と、ピアノのコンサートも開かれていて音楽も満喫することが出来ました。ピアノは、トロイメライ、乙女の祈りなどポピュラーな曲も含まれており、聴衆の幼な子が三つの音を鍵盤で弾くと、それをもとに即興演奏を披露するというおまけもありました。

 うーむ、美術館で音楽も堪能させていただけるとは、嬉しいことでした。

 家内が見たがっていた絵は「よきサマリヤ人」という,聖書にちなんだ絵です。ほかにも、すてきな絵、版画がたくさん見られて家内は喜んでおりました。

 たくさんの名画が展示されていて、大人1名320円というお値打ちな企画です。

 5月14日までということですので、関心がおありで機会を作れる方はご覧ください。

 連休のスタート、なかなか好調です。

 あなたにも、すてきな連休たちとなりますように。 

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2009年1月13日 (火)

詩「牛」

 今年の干支は牛 ・・・ ということで、高村光太郎の詩を掲載させていただくことにいたします。

 私が思っていたよりも長い詩でした。それを引用するだけで、今日のブログとさせていただきます。手抜きのような感じですみません。 でも、これだけ、一つの動物について詩を書くことは、なかなか難しいのではないかと読んでいて思いました。

 今日もよい日となりますように。

牛(高村光太郎)

牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まっすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土を掘り石をはねとばし
やっぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼って行く
自分を載せている自然の力を信じきって行く
ひと足、ひと足、牛は自分の道を味わって行く
ふみ出す足は必然だ
うわの空の事でない
是でも非でも
出さないではいられない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は後へはかえらない
足が地面へめり込んでもかえらない

そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしゃらではない
けれどもかなりがむしゃらだ
邪魔なものは二本の角にひっかける
牛は非道をしない
牛はただ為たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない
けれども牛は正直だ
牛は為たくなって為た事に後悔をしない
牛の為た事は牛の自身を強くする
それでもやっぱり牛はのろのろと歩く
どこまでも歩く

自然を信じ切って
自然に身を任して
がちり、がちりと自然につっ込み食い込んで
遅れても、先になっても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思わない
牛は自分の孤独をちゃんと知っている
牛は食べたものを又食べながら
じっと淋しさをふんごたえ
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいって行く
牛はもうとないて
その時自然によびかける
自然はやっぱりもうとこたえる
牛はそれにあやされる

そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思い立ってもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける
最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡知にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちゃを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるおいのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の眼だ
牛は自然をその通りにぢっと見る
見つめる
きょろきょろときょろつかない
眼に角も立てない
牛が自然を見る事は自然が牛を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとっての努力じゃない
牛にとっての当然だ

そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争わない
争はなければならない時しか争わない
ふだんはすべてをただ聞いている
そして自分の仕事をしている
生命をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機ではない
ねじだ
阪に車を引き上げるねじの力だ
牛が邪魔者をつっかけてはねとばす時は
きれ離れのいい手際だが
牛の力はねばりっこい
邪悪な闘牛者の卑劣な刃にかかる時でも
十本二十本の槍を総身に立てられて
よろけながらもつっかける
つっかける
牛の力はかうも悲壮だ
牛の力ははうも偉大だ

それでもやっぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を食ふ
大地から生えてゐる草を食ふ
そして大きな体を肥やす
利口で優しい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた鳴き声と
すばらしい筋肉と
正直な涎を持った大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く

   ◇ □  ○  ※  ☆  ※ ○ □ ◇

 ここまで、お読みいただき、ありがとうございました。それでは、また。

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2009年1月 8日 (木)

米軍に入り♪「リリーマルレーン」を歌って慰問したマレーネ・ディートリッヒ

 先日書いた『五線譜のばら2 音楽史を彩る女性たち』(萩谷由喜子著 ショパン社)にマレーネ・ディートリッヒのことが書かれていました。

 映画「嘆きの天使」(1930年)に出演したとき、主演男優はのギャラは20万ドル、ディートリッヒは5000ドルだったそうです。この映画で一躍スターとなり、アメリカに渡り、「モロッコ」などに出演して、ハリウッドの大女優となった彼女にドイツ総統となったヒトラーからナチスのイメージを高めるためドイツに戻ってくれ、帰国したら優遇するとの強い要請がありました。

 けれど、彼女は、ヒトラーの要請に応じません。そしてドイツに戻らないだけでなく、ドイツの国籍を捨て、アメリカの市民権を獲得し、アメリカ軍に従軍し、夜は寝袋で寝ながら前線の兵士たちを慰問して回りました。

 その生活が実に3年間・・・100万ドルの脚と形容された美しい足にも無数の傷跡が残ったそうです。

 彼女が慰問してまわって歌った歌の中で最も有名になった歌、それが♪「リリーマルレーン」でした。

 1970年の夏、大阪で開催された万国博 ・・・ 会場の一角にある万博ホールでのショーの最後を飾ったのが、このマレーネ・ディートリッヒだったそうです。

 彼女は、『誰がために鐘は鳴る』を書いたヘミングウエイ、『西部戦線異常なし』を著したレマルクとも交流があったそうです。

  ヒトラーの全盛期に映画「独裁者」を制作し、彼を痛烈に皮肉り、最後に平和を強く希求する大演説をしたチャップリンのことはよく知られています。もし、ヒトラーが勝利を手にしていたら、どんな危険が身に及ぶかも覚悟の上での企画、制作だったことでしょう。

  私は、この本を読むまではマレーネ・ディートリッヒのこの勇気ある生き方を知りませんでした。

 そして、思うのです。ヒトラーによって、そして戦争によって、どんなに気高く、素晴らしい才能を備えた人たちがその能力を花開かせ、人類に宝を残すことなく抹殺されてしまったことかと ・・・。そのような歴史を繰り返してはならないのです。

 小さくても、人類の平和につながる何かを今日、為すことができますように。

 

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2008年12月27日 (土)

文字の拾い読みから朗読までの距離

 フランスで『源氏物語』を朗読したら、日本語の分からないフランスの人も日本語の美しさに感動したと言われるほど評価の高い朗読の名手、幸田弘子さんという方は、樋口一葉の作品に魅せられて、『たけくらべ』や「大晦」などを暗誦されるそうです。

 覚えよう、暗記しようと思って読むのでなく、何回も何回も表現を味わいながら繰り返し繰り返し読む内に自然に自分に入っているのだそうです。

 幸田さんによると、文章を朗読することは、文章に自分の血を通わせることなのだそうです。あるいは、作家の命が文章を通して伝わってきて、読み手に作家の熱い思いが脈打つようになることと言ってもよいのかもしれません。

 これは、ピアノなどの楽器を演奏するときにも通ずるように思います。

 鍵盤を探り弾きして,楽譜の音符をたどたどしく音にすることと、作曲者の魂を感じ取りながら命を込めて聴衆に送り出す演奏との間には、とても大きな距離があります。

 それは、ちょうど、文字が読めるようになった幼児が本を声に出して拾い読みをしているのと、作品と血を通わせあって魂の底から発せられるプロの朗読との違いのようなところがあるのではないでしょうか。

 私の指について申しますと、ほぼ毎日ピアノに向かい続けている成果もあって、たとえば川の上流にあるごつごつした岩、粗い石が、水で運ばれ、削られ、中流、下流にいたると次第になめらかで小さいものになるように、鍵盤上で奏でる音がややなめらかになりつつあるように思います。(もちろん、まだまだなのです。あくまでも年齢の割には、というだけのことなのですよ)

 これを励みに、練習を続けつつ、もっと大きなこと ・・・ 自分ならではの魂の源流を豊かにして、それを底流としながら曲を演奏できるようになる高みへと進んでいきたいと思います。

 井戸を掘るときには、水がわき出るまで掘る ・・・ これが「徹する」ということなのだそうです。

 2008年の残りの時も、そしてやがて来る新しい年のどの日も、何かに向けて新たな一歩を踏み出しているような、そんな一日一日となるとうれしいですね。

 今日も,よき日となりますように。

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2008年10月14日 (火)

秋の夜の月

 雲もありましたが、見事な月が秋の空をゆくという感じの夜でしたね。

 それに誘われて、芸術の秋の感興が強まりましたので、文芸を味わってみたくなりました。

 ということで、落語家さん、そのほかの方の俳句が昨日挙げた本のなかに、本文や後書きなどにありましたので、秋の句ばかりではありませんが、記させていただきます。

 桂 米朝さん  俳号は八十八(やそはち) ・・・ 「米」の字からつけられたようです。

 春雷を聴きしや鳩のつぶらな目

 亀ずるずると五月の水に落ちにけり

 露地ごとに夜店のあかり見えにけり

 春の雪誰れかに電話したくなり

  上記の句は、米朝さんの本に後書きを書いた小澤昭一さんが米朝さんの句から数句を挙げてくださったものです。

 小沢さんと米朝さんは、正岡容(いるる)さんの「やなぎ句会」で30年以上の仲間だそうです。小沢さんはご自身の句を一句だけ書いておられます。

 国宝も国辱もいてやなぎかな

入船亭扇橋 さん

 親が来て声にぎやかに燕の子

 父の日の日ざしさへぎるものもなし

 行く雲を白く映して田植かな

 草の花いとしや仄かなるゆゑに

 しあわせは玉葱の芽のうすみどり

 栗飯のかがやくばかり炊きあがる

 

 凝縮された表現に、やはりそれぞれの方の人柄もイメージされますね。

 今日もよい日となりますように。

 

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2008年10月 4日 (土)

詩「赤ちゃんに寄す」 新川和江

0002  秋晴れの日が暮れて、静かな秋の夜となりました。

 写真は、いろいろな方からいただいたものがレイアウトしてあったので、写したものです。一番右にはフウセンカズラの種があります ・・・ そういわれればそうかなあと思ってください(^o^)

 こんな秋の夜は、詩を読んでみたくなります。

 親戚に近々の出産を控えている子が居ますので、次の詩をお届けいたします。

 ○  ○  ◇  ○  ○  ☆  ○  ○  ◇  ○  ○

 詩   「赤ちゃんに寄す」   新川和江

  うす紅いろの小さな爪

  こんなに可愛い貝がらが

  どこかの海辺に落ちていたらば

  おしえてください

  光る産毛 柔らかな髪

  こんなに優雅な青草が

  はえている野原があったら

  そこはきっと神さまの庭です

 赤ちゃんのすべて

 未完成のままに

 これほど完璧なものが

 ほかにあったら

 見せてください

     ■

 〈わたしが生んだ!〉

 どんな詩人の百行も

 どんな役者の名台詞も

 このひとことには

 適いますまい

 吾子よ

 おまえを抱きしめて

〈わたしが生んだ!〉

 とつぶやく時 ー

 世界じゆうの果物たちが

 いちどきに実る

 熟した豆が

 いちどきにはぜる

 この充実感

 この幸福

   ○  ○  ◇  ○  ○  ☆  ○  ○  ◇  ○  ○

 10月4日 ・・・ 天使の日なのだそうですよ ・・・今日、誕生日の友人へ  誕生日、おめでとうございます (^o^) (^o^)

 今日もよい日となりますように

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2008年9月24日 (水)

芸術の秋

 秋分の日、岐阜県美術館に出展している友人から案内の葉書をもらったので、隣接の県図書館にも行きたくて、出かけていきました。

 友人は、木版画を三点、出品していました。丁寧に精魂込めて仕上げたことが伝わってくる美しいたたずまいの作品でした。

 彼が指導を受けた美術の先生は、飛騨の版画界に大きな足跡を刻まれた方で、私も教わったのですが、私の場合は版画の世界の深みに到達するどころか、入り口から数歩入ったとも言えないところで終わっています。もともとの素質の違いというのは大きな違いをもたらすものですね。

 ねたみは、人をひきさげようとするから醜いが、羨望は人を讃え、その高みに自分も近づきたいとの憧れだから、いい ・・・ そんなことばを読んだことがあります。

  ぼくの盃は小さいが ぼくの盃で飲むのです ・・・ ジョルジュサンドやショパンたちと同じ絵に描かれている詩人のことばです。

 うらやまず、卑屈にならず、自分に与えられている賜物をたいせつにし、誇りをもって歩んでいきたいと思います。

 芸術の秋 ・・・ よい芸術作品にふれる機会を積極的に創り出したいと願っています。 思いがけず虹を空に発見するというような出会いもありますけれど。

 今日も、よい日となりますように。

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2008年9月19日 (金)

天使の羽の色

 妹の一人が、「天使の羽根は白だけではなく、赤や黒の絵も見かけるけれど、どう考えたらいいの?」との問いを抱きました。

 先日、岐阜県の美術館長さん ・・・ 古川さんとおっしゃいます・・・ の講演を家内が聴く機会があったので、できたら質問を、と送り出しました。

 幸い、時間をとっていただけ、答えが即座に返ってきたそうです。

 「天使に直接出会う機会を得る人は、なかなかいない。つまり、見た人がほとんどいないので、天使の羽をどんな形、どんな色にするかは、画家にとってイメージの描きどころ、腕の見せどころということになるのです。ちなみに、サンマルコ寺院には、極彩色の天使が描かれています。鳥の羽根にもいろいろな色があるので、天使の羽にもいろいろな色があっていいのではないでしょうか。」

 家内がうかがったお話を又聞きしたので、少し意訳してしまったかも知れませんが、およそ以上のようなお答えだったそうです。

 何事に寄らず、その道の専門家のお話が伺えるのは、目が開かれる思いがして嬉しいことですね。

  Photoちょうど、空を見上げたら、何だか、天使がつばさを軽やかに広げたような雲が浮かんでおりました。

  今日も、よい日となりますように。

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2008年9月12日 (金)

茨木のり子さんの詩 

    九月のうた            茨木のり子

 のびきった マカロニのような

              夏とも

           もうお別れ

星宿りという すてきな木の名を

       教えてくれたひととも

       もうお別れ

こどもたちは  こんがり焼けた

        プチ・パンになって

  熱い竈(かまど)をとびだしてゆく

思えば幼い頃の宿題は易しかった

            人生の宿題の

          重たさにくらべたら

    ◇   ○   ☆   □   ※   □   ☆   ○   ◇

 Photo

  昨日に続いて、大学2年生の実習先の学校を訪問しましたら、校長先生がこんな話をしてくださいました。

「うちの学校の子どもたちは、あいさつに弱さがあるので、何か力添えをしてくれると有り難いと学生さんたちに話したら、子どもたちが登校し始める朝の7時半には来ていてあいさつの声を掛けている学生さんがいるんです。」

  いいお話を聞くことができて、嬉しい日になりました。

♪ 「若者たち」

         藤田敏雄作詞・佐藤勝作曲

君の行(ゆ)く道は 果てしなく遠い
だのになぜ 歯をくいしばり
君は行くのか
そんなにしてまで

   君のあの人は 今はもういない
   だのになぜ なにを探して
   君は行くのか
   あてもないのに

君の行く道は 希望へと続く
空にまた 陽
(ひ)がのぼるとき
若者はまた
歩きはじめる

  空にまた 陽がのぼるとき
  若者はまた
  歩きはじめる

※ 私自身が教育実習を終えるとき、当時よく歌われていたこの歌を子どもたちと歌って別れました。40年ほど前のことです。そのころは、管弦楽団に所属して練習していたので、トランペットの音色も少しはつやがあり、伸びたように思います。

 世代交代を感じつつも、よき若者たちにバトンを渡せる幸せを喜んでいます。

 うーん、久しぶりにトランペットを手にしたくなりました ・・・ いえ、はた迷惑だから、やはりピアノにしておきましょう。

 今日も、よき日となりますように。

 

  

続きを読む "茨木のり子さんの詩 "

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2008年8月17日 (日)

まど・みちお さんの詩

 詩(だけではないのですが)は、それぞれの詩人の心、生き方の発露ですから、一人一人の詩人の詩は、固有の世界をもちます。

 今日は、まど・みちおさんの詩を紹介させていただきます。あの名曲、♪「ぞうさん」の詩の作者ですね。

けしゴム まど・みちお

自分が 書きちがえたのでもないが
いそいそと けす

自分が書いた ウソでもないが
いそいそと けす

自分がよごした よごれでもないが
いそいそと けす

そして けすたびに
けっきょく 自分がちびていって
きえて なくなってしまう
いそいそと いそいそと

正しいと 思ったことだけを
ほんとうと 思ったことだけを
美しいと 思ったことだけを
自分のかわりのように のこしておいて

※ 大学のたくさんの教室、広いキャンパスを美しく整えてくださっている数人の働き手を思い浮かべました。一つ一つの机もクレンザーでしょうか、洗剤で美しくしてくださっています。

 めずらしいチューリップの球根をさがして、その色とりどりの花で私達を迎えてくださいます。

 ゴミ箱に溢れるほどのペットボトルがあっても、顔をしかめず、明るい表情で黙々と美しくしてくださいます。

 何カ所もあるトイレには、折々の花を飾ってくださっています。

 炎天下で、草をむしり( ・・・というか、根っこから抜いておられます)、雨の降らないときは草花に水を与えておられます。

 ・・・ そうしたすばらしい姿に気づく若者たちも増えてきました。誰かの棄てたごみを拾って処理する若者も ・・・

 今の働き場所が好きです。そして若者たちが巣立って働く社会、学校、そこで出会う子どもたちも ・・・

 教員の採用試験第2次が進行中です。 1次試験に合格しなかった若者も胸を張って 道を切り拓くことができますように。

 私も 今日を生きます。私なりに・・・

 今日は日曜日、キリスト教会では聖書に基づいて神様のメッセージが語られます。

 よき日となりますように。

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2008年8月16日 (土)

詩人 茨木のり子 ーその2ー

  昨日に引き続き、茨木のり子さんの詩を紹介させていただきます。

「自分の感受性くらい」  茨木のり子

 ぱさぱさに乾いてゆく心を 
ひとのせいにはするな 
みずから水やりを怠っておいて

 気難しくなってきたのを 
友人のせいにはするな 
しなやかさを失ったのはどちらなのか

 苛立つのを 
 近親のせいにはするな 
 なにもかも下手だったのはわたくし

 初心消えかかるのを 
  暮らしのせいにはするな 
そもそもがひよわな志にすぎなかった

 駄目なことの一切を 
  時代のせいにはするな 
 わずかに光る尊厳の放棄

 自分の感受性くらい 
  自分で守れ 
ばかものよ

◇ 最後の「ばかものよ」は強い響きなので、作者が自分自身に向かってこの詩を書き、自分を激励しているのだ ととるのが、気の休まる解釈です。

 でも、勇気を持って、自分の生き方、心の在り方をこの詩と正面から向き合って振り返るとき、新しい自分を切り拓くことができるかもしれませんね。

 以前、「くれない族」ということばが生まれました。「誰々が何々してくれない」という調子で自分の周囲が何々してくれないと不満ばかり言いつのって、自分は誰かのために何をしているのかという視点が欠如しているか、ひ弱いというか ・・・ そういう人をさしていることばでした。

 聖書はいいます。「自分のしてほしいようにあなたの隣人にもしなさい」

 戦争 ・・・ 多くの人が無念にも自分の望む生き方、したかったことをすることができずにその人生を閉じさせられました。

 その人たちに恥じない生き方を、自分の人生にしっかりと向き合うことで築いていきたいと思います。

 今日もよき日となりますように。

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2008年8月15日 (金)

詩人 茨木のり子 ーその1ー

 来週、中学校の国語科の先生たちにお話しする機会をいただいています。

 せっかくですから、私の個人的な懐旧談に終わらないよう、自分が燃えて、そして先生方とともに燃える時間としたいと準備を進めています。

 当日は、私が出会って「おお、そんな読みをしたのか」と感動させられた生徒のことなどを中心に、国語の力を育て合う魅力ある教室をどのように創り出し続けるかを先生方と一緒に考え、光の見える会にしたいと願っています。

 一方的でなく、双方向、もっと申しますと参会した方々の間で国語教育を正面に据えて深め合えたらいいな ・・・ と思いますが、あまり欲ばると何も出来ないことになるので、よく煮詰めて臨みますね。

 前置きが長くなりましたが、その会で、どなたかに詩を朗読していただきたいと思い、久しぶりに詩集をひもといていましたら、次の詩に出会いました。

 国語の研究会に、詩が朗読される ・・・ これは、なかなかいいではありませんか。

その詩をご紹介して、今日のブログとしたいと思います。

 「汲む」   茨木のり子

      ー Y.Y  に ー

  大人になるというのは

    すれっからしになることだと

  思い込んでいた少女の頃

  立ち居振舞の美しい
 
  発音の正確な

  素敵な女のひとと会いました

  そのひとは私の背のびを見すかしたように

  なにげない話に言いました

  初々しさが大切なの

  人に対しても世の中に対しても

  人を人ともおもわなくなったとき

  堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを

 隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました

  私はどきんとし

 そして深く悟りました

 大人になってもどぎまぎしたっていいんだな

 ぎこちない挨拶 醜く赤くなる

 失語症 なめらかでないしぐさ

 子どもの悪態にさえ傷ついてしまう

 頼りない生牡蠣のような感受性

 それらを鍛える必要は少しもなかったのだな

 年老いても咲きたての薔薇 柔らかく

 外に向かってひらかれるのこそ難しい

 あらゆる仕事

 すべてのいい仕事の核には

 揮える弱いアンテナが隠されている きっと・・・・

 わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました

たちかえり

今もときどきその意味を

ひっそり汲むことがあるのです

◇ いかがでしょうか。明日、もう一つ同じ詩人の詩を紹介させていただきます。私の精神的な贅肉をふるわせるような、鋭くも厳しい詩なのですけれど。

 今日も、よい日となりますように。

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2008年8月 1日 (金)

田所康雄さんの俳句

 田所康雄さんと聞いても、はて、誰だっけとほとんどの方は思われることでしょう。私もその一人でした。でも、この方の俳号が「風天」だとご紹介したら、「風天」・・・フーテン・・・ おお、ひょっとしたら「男はつらいよ」の寅さんのことか、と連想してくださるかと思います。

 そうなのです。フーテンの寅さんを演じた渥美清さんの本名が田所康雄さんなのだそうです。

 私生活を親しい方にもほとんど明かさなかった渥美清さん ・・・ その渥美さんが俳句に親しんでいたことを知る方も最近までごく限られていたとのことです。

 私が上記のことを知ったのは、今手元にある本『風天 渥美清の歌』(森英介著 大空出版 2008年7月10日 初版第一刷 発行)によってです。

 この本によりますと、朝日新聞社の週刊誌「アエラ」に縁のある人たちで構成された句会に熱心に参加し、十回で45句を残したとのこと。

 著者の森さんが熱心に俳人渥美清の作品や足取りを尋ね、「話の特集」というミニコミ誌(1965年から1995年まで続いた雑誌)の編集者などで作られた「話の特集句会」に渥美清さんが参加していたことが分かり、135句が新たに明らかになったそうです。

 ここにいたるまでに、「こもろ寅さん会館」や渥美さんの母校を訪ねるなどしておられる著者の熱心さとご苦労が偲ばれます。

 この「話の特集句会」の歴代のメンバーは、のべ60人くらいのようですが、現在も月に一回、句会を開いておられるそうです。

 少しだけ、渥美さん以外のメンバーとそれぞれの俳号を

 ・・・敬称は略させていただきます。お許しください

 岩城宏之(蕪李 ぶり)・吉永小百合(鬼百合 きゆうり)・冨士眞奈美(衾去 きんきょ)・岸田今日子(眠女 みんじょ)・吉行和子(窓烏 まどがらす)・中山千夏(線香 せんこう)・黒柳徹子(楼蘭 ろうらん)・下重暁子(郭公 かっこう)・山本直純(笑髭 しょうひ)・中村八大(大八 だいはち)・永六輔(六丁目) などなど

 永六輔さんが渥美さんをこの会に誘ったそうです。

 さて、かんじんの渥美さんの俳句を少し紹介させていただきますね。

 お遍路が一列に行く虹の中

 2002年発行の『カラー版新日本歳時記』講談社発行 全5巻の春の巻に掲載

 ほかに

 はだにふれとくしたような勝力士

 背のびして大声上げて虹を呼ぶ 

    ・・・宮崎県日南市のロケ地 油津(堀川運河)に句碑

 餅を焼くしょうゆの匂いひと恋し  

            信州の方へのはがきでの挨拶の句

 好きだからつよくぶつけた雪合戦

 花冷えや我が内と外に君の居て

 などです。 風天さんの俳句、どうしてもどこかで寅さんとつながってイメージをしてしまう私です。

 今日もよい日となりますように。

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2008年7月24日 (木)

図書館

 岐阜県立図書館に行きました。到着してしばらく経つと開館を待つ人の列が出来、夏休みが始まっているということもあり、親子連れの姿も何組か見かけられました。

 「おはようございます」との声に迎えられ、入館しました。計数機をもって数えていた方とあいさつを交わして並んでいた人数を教えていただくと、この朝は156人だったとのこと。

 最初の人たちが通過した後も沢山の人が来館し続けているのですが、扉を開けたときに列に並んでいた人をカウントしておられるようでした。

 『フィンランドの子の学力はなぜ高いか』という本には、その理由の一つに、公共図書館の数と質が挙げてありました。行きやすさでいうと、それぞれの町には日本のコンビニくらいの頻度で、よく整備された図書館があり、よく活用されているらしいのです。

 各家庭においても、テレビを見る時間は無計画に長いという状況はなく、親子がそれぞれ読書している時間があるようです。もちろん、フィンランドのすべての家庭がそうだということではないでしょうけれど。

 開館前の図書館に列が出来るということ ・・・ これは、新装開店のパチンコ屋の前に列ができるよりも、そしてこういう現象は実際にはテレビの番組の題でしか見られないかもしれませんが、法律事務所の前に行列が出来るよりも、ずっとずっと好ましいことに思えました。

 今日もよい日となりますように。

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2008年5月12日 (月)

千年目

 今年は『源氏物語』が世に出て千年目だそうです。『紫式部日記』にその根拠となる記述があるのだとか。

 『源氏物語』は外国でも広く読まれていて、たとえば、フランスでは、女性が袴をはいている場合、パンタロンと訳すか、それともスカートと訳すのが適切かなどということも論じられるのだそうです。

 屋久島の杉は樹齢千年に達しないものは屋久杉とは呼ばないのだと何かで読みました。自然は偉大ですね。人の世に、千年続くものってどれほどあるのでしょうか。

 西暦2008年 ・・・ 何年かずれがあることがわかってきたようですけれど、本来はイエス・キリストが生まれた年を西暦元年と定めたのだそうです。とするとキリスト生誕からほぼ2千年ということですね。

 聖書はキリスト誕生以後に書かれた新約聖書と、キリスト誕生より前に書かれた旧約聖書があります。成立に年数がかかっており、そして、成立してからずいぶん年数が経っており、まちがいなく世界のベストセラーです。

 おてもとに聖書をお持ちの方は、通読してごらんになりませんか。

 おお、そうでした、今日のこの記事はこのブログがスタートして600番目ということになります。つたないこのブログとは比ぶべくもない大きな存在の聖書 ・・・ 私も、改めて通読してみたいと思います。

 実は、インターネットの世界に、少なくとももう一人の「ムーミンパパ」がおられ、その方は何と聖書の研究、知識において、この私が及ぶべくもない方だということが分かりました。

 次のURLをクリックして、もうひとりの「ムーミンパパ」の聖書の世界をごらんくださるとそのことが分かります。タイトルは「ムーミンパパのバイブル研」です。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/3902/bible.html

 一度は、訪れてみてくださいね。 でも、そちらのムーミンパパのフアンになっても、こちらのムーミンパパのことも、どうかお見限りにならないでくださいますように。

 それでは、また。  今日もよき日となりますように。

 

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2008年4月18日 (金)

蕪村の俳句

 行く春や重たき琵琶の抱き心 (与謝蕪村)

 春が進行するのを感じつつ、雨に打たれる新緑を見ていたら、蕪村の俳句が浮かんできました。

 春を詠んだ蕪村の句にはほかにどんなものがあるかを知りたくなって調べてみました。

  古庭に鶯啼きぬ日もすがら

 春の海終日のたりのたりかな

 行く春や撰者を恨む歌の主

 高麗船のよらで過ぎ行く霞かな

 菜の花や月は東に日は西に

 鶯の啼くや小さき口あいて

 春もややあなうぐひすよむかし声

 淋しさに花さきぬめり山桜

 妹が垣根三味線草の花さきぬ

 畑うつやうごかぬ雲もなくなりぬ

 などなど、たくさんあることがわかりました。

 あなたは、どの句が印象に残りましたか。

 私は、「行く春や撰者を恨む歌の主」というのが、おもしろく思えました。

 春が過ぎていくさびしさ、やるせなさ、物憂さに立ち向かって作った歌…けれど、それを選者にみてもらうと、本人の思ったほどの評をもらえなかった ・・・ 自分としては自信があっただけに、そして、尊敬する選者であるだけに、好評を得られなかったことを不満に思ったり、そう思う自分に嫌悪感が湧き上がったり ・・・ すべては行く春を舞台として展開すること  的外れかもしれませんが、そんな句に思えました。

 さて、今日、行く春の一日を皆様、いかがおすごしでしょうか。よき日となりますように。 

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2008年4月13日 (日)

修練

 岐阜市の最高峰、百々ケ峰の一番高いところに、今までとは別のルート ・・・ 三田洞(みたぼら)というところから登って来ました。高さは417.9メートルです。0002

 岐阜市の何校もの小学生たちが何年にもわたって道沿いに植樹した山桜が順調に育ち、かなり大きくなって花を咲かせているものもありました。

 このルートで気がついたのは、ウグイスがよく声を聞かせてくれるということでした。それは、このルートの特徴なのか、たまたまそういう巡り合わせだったのかどうかまでは分かりませんが、美しい声で鳴いて、楽しませてくれました。

 ふと、思いました。ウグイスはよい手本を聞いて、修練してあの声がでるようになったのでしょうか。それとも、手本がなくても美しい声で鳴けるように生得的なものが備わっているのでしょうか。

 美しくない鳴き方の先輩と、美しい鳴き方の先輩がいたら、どちらに影響されるのでしょうか。先輩の声の大小と美しさの質と、どちらに影響されるのでしょうか、それとも影響をうけないのでしょうか。

 ひとりぼっちのウグイスが居るとして、ちゃんと「ホーホケキョ」と鳴くようになるのでしょうか。

 ・・・ などと理屈っぽく考えるのはやめて、ウグイスの美しい声に聞き惚れ、人間は人間として、声にしても楽器にしても、磨き上げていくことが大事なのだ、その際によい手本、よき師に恵まれれば、そのことに感謝しながら励むことだ ・・・ そんなことを思いました。

 そうそう、かなり広いラベンダー園がこのルートにはあり、5月には花と香りが楽しめそうです。0001  

今日は、日曜日。よい日となりますように。

 キリスト教会では神様への礼拝が捧げられ、聖書からのメッセージが語られます。

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2008年4月 7日 (月)

「天下布武」

 斎藤道三の娘婿であった織田信長は、それまで井之口と呼ばれていたところを「岐阜」と命名するとともに、「天下布武」(てんかふぶ)の号令を発しました。

 詳しくは私の手に余りますが、今日書かせていただくのはその「天下布武」ということばから名を取った「布武」(ふぶ)という和食のお店におかれている白いグランドピアノのことです。

 象牙の鍵盤、細密な彫刻が施されているこのピアノは、オーストラリアのベーゼンドルファーというメーカーの製品で、この仕様のものは世界に数台しかないのだそうです。

 その名品を「布武」のオーナーは、来店者に開放しておられるのです。「特に、音楽を勉強している子どもたちに弾いてもらい、感性を磨くきっかけになればうれしい」とのことで、すてきな志が伝わってまいります。森田眞次郎さんというこのオーナーご自身はハーモニカなどを演奏される方で、音楽が流れるまちづくりに力を入れ、「布武」でも年に数回の音楽会を開いておられるそうです。

 写真なども入れてご紹介したいのですが、実は、私自身、まだそのピアノとの対面を楽しみにしているところで、まだ会っていないのです。

 本当は、そのピアノに会ってから書くのがいいのですが、この待つ間も楽しみなので、その楽しみを皆様とも分かち合いたかったのです。

 待つといっても、その店の営業時間に訪れれば弾かせていただけるようなのですが、それほどの名品との出会いには、それなりの心の準備をしてから出かけるのが礼儀のような気がしています。

 ウイーンフィルとピアニストが協演するときは、ウイーンを代表する音色(ウインナトーン)のこのベーゼンドルファーが用いられるのが通例だそうです。アルプス山麓で育つフィフィテという貴重な樹木を響盤というピアノの大事なところに用いていることもあって、1828年の創業以来生産台数は4万数千台・・・これは、スタインウエイの十分の一、ヤマハの百分の一の生産量だそうです。

 武力をもって世を制するのでなく、文化をもって世界に貢献する ・・・ 宮城谷昌光という作家がある著書で「正しいことが必ず力をもつ、文化とはそういうことだ」と書いています。信長の「天下布武」にちなんだお店の「文化貢献」 ・・・ 何だか、いい話だとお思いになりませんか。

 えっ、いつ、そのピアノに会いに行くのかとお尋ねですか。 ・・・ 何年も前から、いつか弾けるようになりたいなと思い、ほとんどあきらめていた曲に向かい始めました。その曲がある程度形になり始めたら・・・それを手土産に  と思っています。

 今日もよき日となりますように。

 

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2008年1月12日 (土)

♪「春の海」

 かなり以前、宮城道雄さんの名曲♪「春の海」がヴァイオリンとピアノで演奏される場に、楽譜めくりの役割で臨んだときのことです。

 弾き始める前に、ピアニストがごく短時間、瞑想されました。

 そのとき、私は耳を思わず疑いました。ザザーッと波の音が聞こえてきたからです。 ・・・ 演奏会場は、下呂の小学校の体育館 ・・・ 近くに海はありません 

・・・ どう考えても、 「春の海」を演奏するにあたってピアニストが、まず自分の内面に曲想を描いて、音を送りだそうとしたそのイメージが、そうした世界からは遠い段階にある私にまで伝わってきたとしか説明できないのです。

 優れたピアニストは、音符に魂を込めてこの世に音楽を送り出します。

 それにひきかえ、私は、文字を読めるようになった子が文をつっかえつっかえ、拾い読みをしているような、ようやく音符を音にしているような段階でしかありません。でも、本物への憧れをもって、そして楽しみながら、ピアノに向かい続けたいと思います。 

 ♪「春の海」が聞こえてくると、いつもその思いがあらたにわき起こります。

・・・願わくは、弾き手の私だけでなく、聞き手にも音楽の楽しみが湧きあがるようなところまで私が成長できますように (^_^;)

 そうそう、あるお琴の先生が宮城道雄さんの曲などを織り込みながら日常のエピソードを綴っておられるブログ「ワンちゃん大好き」に巡り会いました。まだ、開設されて日が浅いようですが、音楽と宮城先生への深い理解が伝わってくるとてもすてきなブログです。よろしかったら、ぜひご訪問ください。

http://wanchan129.cocolog-nifty.com/blog/

 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

 聖書のことば  コリント人への手紙 第一  13章 1節 ~ 4節

 「愛の章」と呼ばれている箇所です。冒頭のところは魂のこもらない演奏を連想させますね。そして、もっと深いところまで考えを導いてくれます。

 さて、明日は日曜日、キリスト教会の礼拝に足を運んでくだされば嬉しいです。

 今日も、よき日となりますように。

 

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2007年11月17日 (土)

四季のある国

  朝夕が冷え込むようになりましたね。

  木曜日の朝、新聞をとりに起きたとき、朝焼けの空とそこに輝く明けの明星のハーモニーにしばし心を奪われました。

  枕草子の冒頭には、「春は曙(あけぼの)」で始まって四季それぞれの心惹かれる時間帯が記されているのはご存じの通りです。確か、枕草子の別名を「春曙抄」(しゅんしょしょう)というのでしたね。

  春は 曙

  夏は 夜

  秋は 夕暮れ

  冬は つとめて  (早朝)

  「日本人は九十日の民である」と言った人があるとか・・・1年の日数を四季の4で割るとおよそ九十日・・・3か月ごとに衣類があらたまったり暖房、冷房器具などが登場したり、しまわれたりする、そういう暮らしをしている民族だということなのでしょう。。

  そして俳句や短歌をたしなむ、たしなまないにかかわらず、四季の移り変わりの風景、情緒、リズムなどは、日本人のものの考え方、生き方にしっかりと根付いているのですね。

  ふるさと、飛騨からのたよりによると、漬け物をつけるための準備・・・飛騨では準備することを「やわう」といいますが、そのことが進んでいるようです。

  雪に閉ざされる時代には、漬け物、魚の塩漬けなどの保存食は貴重でした。海のない岐阜県ですが、北陸から仕入れた魚の塩漬けがおいしいとかで「飛騨鰤」(ひだぶり)ということばが残っています。

 これは落語の「目黒のさんま」・・・世間知らず(世間知らされず)の殿様がたまたま目黒で口にしたさんまがおいしかったことから「さんまは目黒に限るぞ」と語るのがオチになっています・・・となんだか通うところがあるようで、私には印象的なことばになっています。

 ちなみに、私の高校時代に高山市で一番寒かった朝にはマイナス19.4℃とラジオが報じていました。そんな寒さの中、10キロメートルはなかったでしょうが、それほどの距離を自転車で登校するのはなかなか身震いのする勇ましいことで、マフラーは、月光仮面やまぼろし探偵のようにかっこよく首に巻くものではなく、耳と鼻を守るためにほおかむりのようにかぶるものでした。 ・・・ まぼろし探偵という漫画自体が、とうのむかしにまぼろしになってしまっています 

 ・・・ 例が古くてすみません。なにしろ私は高校3年生の時に東京オリンピックがあったという世代なのです。

  えっ、東京でオリンピックがあったのですかって・・・はい、あったのですよ、マラソンをはだしで走って優勝したアべべという選手がいて、裸足の王者と呼ばれたものでした・・・そして、大松監督に率いられた女子バレーチームが優勝して・・・ああ、これくらいにしておきましょう。

  どなた様も、今日という日を新鮮に歩むことができますように。

聖書  伝道者の書 第12章 1節

  あなたの若い日に、あなたの創造者(神様)を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

 明日は、日曜日、キリスト教会へお出かけくださいますように。

  

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2006年10月 9日 (月)

楽観的向上論

 今日は「芸術の秋」に関する内容です。学生時代、交響楽団でトランペットを吹いていました。あまり上手ではない、というよりはっきり言って下手だった私がロングトーンの練習をしていると先輩が現れてこんな話をしてくれました。
 「あのなあ、自分が下手だ、下手だ、駄目だ、駄目だと思いながら練習していたら、上達はおぼつかない。そりゃあ、はっきり言って今は下手だけど、まず、こう思いなさい」・・・と、話してくださったのは、およそこういうことでした。

 「まず、今の自分の音はなかなかのものだ、と思うこと。だけど、本当は下手なのに上手だと思い込んでいてはどうしようもないから、正しい練習をきちんと積み重ねれば、ますます自分はすばらしいトランペッターになれると希望をもって練習に励むこと。」

 「ロングトーンは、どの音も30秒以上安定して続くようになれば一人前だけど、今は10秒しか続かなかったら、それであきらめないで、11秒目に向かって息だけでも出しなさい。それを続けていたら、11秒続くようになる。そしたら、12秒目に向かって息だけでも出しなさい。」

 「トランペットは口にあてる。だからといって、口と周囲の筋肉だけに気を取られていてはいけない。体全体を鍛えて、初めて安定した音が出るようになるんだよ。もっと言うと、生き方がしっかりしていないと、ふらついた音しか出せないと思いなさい。」

 この先輩は、私に語ったことを自ら実行している人でした。日本の大きなコンクールで外国に留学する権利の得られる上位の成績を収め、プロの交響楽団で活躍され、大学の先生になり、青少年を熱心に育成しながら、ご自分の修練を続けてリサイタルを開いておられます。

 えっ、私ですか・・・その後、めきめきとトランペットが上達・・・とは本人も周囲の誰も思いようがないのですけれど、このときの先輩の教え・・・「今も悪くはない。でも正しい方向に修練を積み重ねればもっともっと自分は高まり、すばらしくなる。」・・・を「楽観的向上論」と名付けて、楽しみながらいろいろなことに挑戦して自分を育て続け、今日にいたっております。どれだけ向上しているかはともかく、停滞しないで前進することを願いながら。

聖書の言葉
(私たちは)患難さえも喜んでいます。それは、
患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

          ローマ人への手紙 5章3節4節

同じ箇所がリビングバイブルでは、次のように書かれています。
 私たちは、さまざまの問題や困難に直面した時も喜ぶことができます。 それは忍耐を学ぶのに役立つからです。 忍耐によって、私たちの人格は筋金入りにされ、ひいては神様への信頼を深められるのです。 こうしてついに、私たちの希望と信仰は、強く、何ものにも動じなくなるのです。

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