2019年7月 6日 (土)

「睡蓮の池のほとりに佇つ教会」

0004_20190704141001 最近も書いたテーマですけれど、せっかくの睡蓮の季節ですので、新しく撮影した写真でもう一度「睡蓮の池のほとりに佇つ教会」のことを。

 教会に集う方々から愛称を募集し、決定。毛筆で書いていただきました。

 7月3日現在は、このような景観でした。

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  農業用の池なのですが、なかなかの広さです。

 

 

 

 

 

 あなたの近くにもキリスト教会がきっとあると思います。今まで行ったことがないから、とご遠慮なさらないでください。

 人と人との出会いは初対面からスタートします。

 今まで行ったことのないところは、最初の一歩からスタートします。

 聖書の最初の一言をご紹介いたします。 すでにご存じの方もおありかと思いますけれど。

 「初めに神は、天と地を作られた」 創世記1章1節

 明日は日曜日。どうぞ、キリスト教会の礼拝にお出かけください。

 今日も、良い日となりますように。

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2019年7月 3日 (水)

持ち寄りランチ

 私の通う教会では、水曜日の10時半から聖書の学び、祈りの時をもっています。その後、時間のある方は、持ちよった食品でランチをいたします。先週は、このようなプレートが食卓に調いました。

0031 幸いなひととき ・・・ 教会の庭のアンズが実を結び、そのアンズがジャムになって登場しました。

 あまりたくさん実を結んだように見えなかったのですけれど、いつの間に・・・

 美味しくいただきました。レモンで味をつけたズッキーニもありました。

 よほどの偶然がなければ、こうした組み合わせと同じプレートが地上の他のテーブルにも並ぶということはないだろうと思います。

 こんなことも思いました。一人の人の今まで食べてきた食事とまるっきり同じ内容で、同じ順番で食べてきた人が、その人以外に70億あまりの人の中にいるでしょうか。 兄弟でも、それは無理だと思います。 その人が読んだ本、観た映画についても同様です。 ひとりひとりの存在は、そういう面から考えても、かけがえのないもので、まさにオンリーワンです。

 誇りを持って、大切に 一日一日を 歩みたいと思います。

 「睡蓮の池のほとりに佇つ教会」・・・その愛称にふさわしく、睡蓮が0006_20190702220101 咲いています。

 聖書の言葉を学び、祈り、身体の糧をいただき、睡蓮を眺めて、元気に帰宅いたしました。

 もし、ご都合が付きましたら、礼拝、そして聖書の学びにおいでください。

 今日も、良い日となりますように。

 

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2019年6月26日 (水)

名前は バラ でも まとまって !!

 6月23日の日曜礼拝では奏楽の役割を務めさせていただきました。 ある神学大学の礼拝で奏楽を担当する一人に選ばれたかなり力量の高いクリスチャンに指導者はこうおっしゃったそうです。

 「礼拝の賛美の奏楽は、コンサートなどで伴奏をするのと同じではありません。神様への信仰と感謝の思いを込めて会衆の方が捧げる賛美を天に届けるつばさとなるのですよ」

 わぁ・・・ 私が初めて礼拝の奏楽お引き受けしたときに、こうした言葉を語っ教えてくださる方がおられたら 私はお引き受けできなかったかも知れません。

 6月23日 ・・・ ピアノ・オルガンの近くに すてきな香りが 立ちこめていました。

0004_20190624204401 バラの花 ・・・名前はバラでも、ばらばらではなく、 ひとつ心にまとまって、礼拝を 支えていてくれました。

 そのことを見習いながら 心を落ち着けて、奏楽のご用を 果たすことができました。

 土曜日に 会堂を清掃し、花を整えてくださった方、 聴覚障害のある方のために 手話通訳の準備をして礼拝に臨んでくださる方 子どもたちのための教会学校の先生となり、根気よく指導してくださっている方  礼拝後の 庭と周辺の整備のために 草刈り機を持参し、それを見事に手練のわざで操作し、すっきりと刈り込んでくださった方、 草刈り 清掃を終えてのティタイムのために 梅ジュースなどのドリンクを準備してくださった方  小学校の修学旅行のお小遣いで 教会に集まる方々に このティタイムで出せるようにと 京都名物を買ってきてくれた男の子 ・・・ 本当に ありがとうございました。

 「睡蓮の池のほとりに佇つ教会」 ・・・ 池の睡蓮も そうささやきながら 見ごろを迎えています。

 6月30日の礼拝に、ぜひどうぞおいでください。

 今日も、良い日となりますように。

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2019年6月21日 (金)

心の糧 身体の糧

 聖書の「人はパンのみで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉による」という箇所は、よく知られています。

私の通う尾崎キリスト教会では、水曜日に聖書の学びの会と祈りの時間、そのあと、都合のつく方は持ち寄りランチをいただきます。

 6月19日の持ち寄りランチは写真のとおりです。

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 ズッキーニとレモン そら豆ご飯 パン お味噌汁 そして 朴葉ずし などなど ・・・ 朴葉ずしは 東白川村のクオレの里の人気商品が この食卓を目指してきたようなタイミングで届きました。 どんな中身かが知りたい方もおいでだと思いますので、(ムーミンパパの場合、特にそうですから、お気持ち、よーく分かります。) 朴葉を開いた写真を掲載させていただきます。 意地悪な心からではありませんのでおゆるしくださいまし。(写真で美味しい食べ物をごらんいただくのは 親切なようで 申し訳ない面もありますよね)
 聖歌を歌い 牧師先生のお祈り 聖書の学びは 使徒の働きという箇所 を輪読して 質問 どう読むか などの交流 牧師先生の解説 祈り  その後、 グループに分かれて祈りの時間  心の糧をいただいてから、身体の糧  身も心も 糧で満たしていただいて それぞれの 家庭へ ・・・
 よろしければ おいでください。  キリスト教会の多くでは 日曜日の礼拝だけではなく、聖書の学び 祈りの時間 などが もたれています。 一人の牧師さんが いくつかの教会を巡回なさっていて、そういうプログラムを組むのは難しいところもありますけれど。あなたのお近くの教会ではいかがでしょうね。
 新しい方が訪れてくださると、喜んでくださると思います。 強制的に、次も来なければいけません という迫り方をするところは、ないと思いますので、安心して訪れてみてください。
 今日も、良い日となりますように。  

 

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2019年6月17日 (月)

紫陽花の季節

0007_3  今の時季、紫陽花がきれいですね。 雨が似合うように思いますが、晴れ姿も、もちろんすてきです。

 この頃、鶏頭の形をした紫陽花もありますね。

0006_7 どちらも、私の通う 各務原市の尾崎キリスト教会の庭で、昨日の日曜日に撮影したものです。

 この教会には、牧師さんの娘さんが孵化させることにチャレンジして三回目に成功したニワトリがいます。

 

 そのニワトリはこういう種類の鶏です。

小国鶏(しょうこくけい)

鶏の品種のひとつ。「おぐにどり」とも読み、単に「小国(しょうこく)」とも。日本農林規格の指定在来種。尾や蓑羽が長いのが特徴。尾崎教会では2018年7月23日に孵化した「しょうちゃん」が、牧師の娘さんの世話のもと、安心した表情ですくすくと育っています。
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  いかがですか 小国鶏の「しょうちゃん」の雄姿です。 成長して、しっかりと雄々しい声で時を告げてくれるようになりました。

 聖書には、イエス・キリストが弟子のペテロに「鶏が鳴く前に三度あなたはわたしを知らないという」と語り、そのときペテロは、「そんなことはいたしませんん」とお答えしたという箇所があります。 キリストがとらわれの身になったとき、ペテロは「あなたもあの人と一緒に居た」と言われ、「決してそんなことはない」と言ってしまいます。

 三度、そういうことがあったときに鶏が鳴き、ペテロは激しく後悔します。 驚くべきことに、キリストは、そういうペテロをあらかじめ赦しておられました。

 そのことに基づいて建てられた「鶏鳴(けいめい教会」という教会があります。

 尾崎キリスト教会の愛称は「睡蓮の池のほとりに佇つ教会」ですが、雄々しいしょうちゃんの鳴き声を聞くとき、イエスとペテロのことが鮮やかにイメージされますので、大きな祝福を感じています。 今の日本では、なかなか生き生きとした鶏鳴をなまで聴くことは出来ないですよね。

 よろしかったら、しょうちゃんの鶏鳴を聴きに来てください。そして、牧師さんの聖書からのメッセージを。

 教会員の中には、しょうちゃんに言葉を教えようとたくらむ人も居ます。どうしゃべらせようとしているかを申します。内緒なのですけれどね。 一度しか書きませんよ。 コケコッコー ← これは 教えなくても大丈夫ですよね。 なんと、「フライドチキン」 といわせたいのだそうです。 でも今のところ、しょうちゃんがこの言葉を覚えることはなさそうです。

 鶏頭の話から、尾羽のように長くなりました。

 今日も、良い日となりますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年6月16日 (日)

父の日

 六月の第三日曜日 ・・・今日は父の日です。

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 突然ですが、両親と兄、私、そして妹の写真です。もう一人の妹は、まだ生まれていませんから、昭和23年か昭和24年の家族写真です。 背景は、当時は上三之町にあった高山キリスト教会です。 父に抱えられているのが2歳か3歳かの私です。

 父はキリスト教会の牧師、母も京都の神学校で学んで、牧師の奥さんとなりました。キリスト教主義の幼児教育を志した両親は、高山幼児生活団や、後に高山市郊外の農村部に移ってのぞみ保育園を開設し、母は保母さん(現在は職名は保育士と呼ぶようになったのですね)としても励みました。 私がなかなか小学校の宿題の絵が描けないのを見かねて手伝ってくれたこともあります。(出来映えが子どもの私から見てもよすぎたので、提出を控えたような気がいたします。多分。)

 両親はどちらも広島県の出身です。父は軍港のあった呉市で生まれました。山育ちなどの泳げない新兵さんが海に放り込まれて、もがきにもがいてから引き揚げられる光景を目の当たりにした父は海に入ることに心が馴染まず、泳ぎを覚えなかったそうです。

 いっぽう、現在の三次市君田町で生まれ育った母は、遠泳の授業などでは半日でも横泳ぎで泳いだそうで、60代になっても、高山市の市民プールで合計すると日に数百メートル泳ぐことが出来ました。母の同級生には、後に宝塚を出て活躍した月丘夢路さんがいたそうです。 

※くれぐれも、母が宝塚出身ということではありませんので、お間違えにならないようにお願いいたします。

 父は、強度の近眼だったので、徴兵されることはありませんでしたが、戦時中は木工所などでの作業と併行して厳しい軍事教練などがあり、食糧事情などが悪化しているなかでの教練にはつらい思いをしたようです。

 牧師の家庭に育った私が、洗礼を受けてクリスチャンになったのは、大学2年生のことです。こうした歩みについては、『百万人の福音』(いのちのことば社発行)7月号に書かせていただく機会をいただきましたので、もし、よろしければ、お求めください。

7 私のつたない信仰の歩みは この本の4ページ分ですけれど、私以外の方の人生の歩み、いろいろなお働き 聖書からのメッセージなど、とても充実した内容で心を打たれながら読み返しています。  個人的なことですけれど、7月号の表紙にある「一歩」ということばや運動靴で一歩踏み出している写真が、しばらく足を痛めていた私の快復期にぴったりで、驚きつつ、喜んでいる次第です。

 痛めた左足は、現在は日に日に健康になり、筋力も増してきていますので、ご安心ください。

 来年の東京オリンピックでメダルを期待されているわけではないので、焦ることなく着実なペースで治っていけることはありがたく、周囲からの期待に応えなければというプレッシャーもないことを感謝しています。(いえ、そりゃあ 鈍足よりも俊足の方が 運動会でもスターになれて、うらやましいとは思いますけれど。)

 父の日 ・・・51歳で召された父、79歳で召された義父のことを偲びつつ、感謝して今日を歩みます。

 良い日となりますように。

 キリスト教会の礼拝にお出かけください。

 聖書

 「あなたの父と母とを敬いなさい」

 

 

 

 

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2019年6月15日 (土)

明日は 何の日 ?

 「明日は何の日?」 ・・・6月の第3日曜日 ・・・ そうです! 父の日ですね。

 富士通から葉書作成ソフトのコマーシャルメールが来て、そこに父の日の由来が記されていました。 富士通の葉書作成ソフトには父の日のお祝いのカードが何種類も準備されていますよ、よろしかったらどうぞ、という流れです。 うーむ、よく考えられたメールだと感心しました。

 父の日の由来のところを引用紹介させていただきますね。 偉大な母の日の陰に隠れそうですけれど。 ← いえ、ひがんでいるわけではありません。 多分 (^J^)

    ◇   □   ○   ※   ☆

「父の日」

 ショッピングセンターなどでは、「父の日に贈り物」や「父の日、人気ランキング」など父の日特集を目にするようになりました。そこで「父の日」がどのような由来で始まったのか調べてみました。

 1909年アメリカ・ワシントン州にてドット夫人という女性が、男手ひとつで自分を育ててくれた父親への感謝を表して、父親の誕生月である6月に礼拝をしてもらったことがきっかけで「父の日」が生まれたそうです。
当時、すでに「母の日」が認知されていたこともあり、ドット夫人はアメリカの牧師協会へ「母の日と同様に父親に感謝する日を」と嘆願したのが起源されています。
 以降、1916年に第28代大統領ウッドロー・ウィルソンが「父の日」の演説を行って、「父の日」が認知されるようになり、1966年第36代大統領リンドン・ジョンソンが、6月の第3日曜日を父の日に定めました。
※正式なアメリカの記念日に制定されたのは1972年

日本で「父の日」が一般的になったのは1980年代だそうです。

   ◇   □   ○   ※   ☆

 0011_2 アメリカで制定されるのに 第28代の大統領から第36代の大統領までの期間がかかっているのですね。 うーむ。

 そういうわけで、私には何の魂胆もありませんが、明日の日曜日は「父の日」です。

 よい日となりますように。

 明日は日曜日。 キリスト教会の礼拝にお出かけください。

   母の日の花はカーネーション  父の日の花は ・・・ 薔薇 でしょうか。「父の日」のきっかけを作ったドット夫人が父親に薔薇を贈ったというエピソードにちなんでいるようです。このバラの花の写真、一度、掲載させていただきましたがすてきなので、再掲させていただきます。

 

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2019年6月 9日 (日)

アニメ映画 「白蛇伝」

 NHKの朝のドラマでヒロインのなつが取り組んでいるアニメーション映画「白蛇姫」・・・これは、実際に公開された映画で「白蛇伝」がその実名です。

 映画館のスクリーンで観たのが、小学6年生のときでしたから、61年前のことになりますか。登場人物、パンダなどの動物のことも朝のドラマを観ながら思い出してきて懐かしいです。

 同級生には、白娘(パイニャン)などの似顔絵を手際よく描いて、よかったらどうぞとその絵をくれた子もいました。

 6年生の時の想い出がいろいろ思い出されてきます。担任の先生はダークダックスの♪「ロシア民謡」のレコードをよく聴かせてくださいました。ギターと似ていますが胴体は三角形のバラライカの音色が印象的でした。

 以来「雪山賛歌」「すずらん」「アンジェリータ」なども含めてダーク・ダックスの歌声は、今も好きで親しんでいます。フアンの私でもそうですから、四人グループで歌声を合わせていたメンバーが一人ずつ亡くなって、一人になった遠山さん(ゾウさん)はどんなにお寂しいだろうと思います。これは、たとえば初代三人娘の一人、雪村いづみさんもそうかもしれません。

 でも、還らない日々を思って、寂しさ、哀しみにうち沈んでいる姿ばかりだったら、楽しい時を一緒に作り出していた仲間はどう思うことでしょう。

 父も 母も 私が元気に過ごしている姿を見るとき 「お前は 親が召されても悲しくないのか 不人情な子だね」 とは思わずに、喜んで励ましてくれるのではないでしょうか。 そうでないと、世の中、悲しみながら うつむいて 歩いている人ばかりに なってしまうかもしれません。

 今日は、日曜日。 初代のキリスト教会が誕生したことを記念するペンテコステ(聖霊降臨日)という日にあたります。

クリスチャンの友人がベランダで育てている花の写真を送ってくれました。

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 今日も、良い日となりますように。
 キリスト教会の礼拝に、どうぞいらっしゃってください。

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2019年6月 1日 (土)

「睡蓮の池のほとりに佇つ教会」

0004_9 0002_29  今日から6月ですね。私の通っているキリスト教会の愛称は「睡蓮の池のほとりに佇つ(たつ)教会です。今の季節、こんな感じですね。

 毎週日曜日の朝10時から礼拝を献げています。聖書に基づくメッセージと心を合わせて献げる讃美歌・・・明日は日曜日。どうぞ、お近くのキリスト教会にお出かけください。

 

 私の通う教会では、水曜日には午前10時半から聖書を学び、その後、持ち寄りランチをいたします。持ち寄りランチのメニューは、日によって異なりますが、今週は、こんなふうでした。

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 魂・心の糧である聖書を学び、朴葉ずし、ブロッコリーのスープなどのランチを会話しながらいただき、豊かなひとときでした。

 明日は日曜日。 良い日、そしてよい6月となりますように。

 

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2019年5月31日 (金)

実るということ

0002_28   私が通っているキリスト教会の二階の窓から、アンズの実が見えました。他にもないかと捜しましたけれど、葉っぱが繁っていることも影響してか、よう見つけませんでした。たくさん実るとアンズジャムを作っていただけるのですけれど。

 この教会には「睡蓮の池のほとりに佇つ教会」という愛称があり、ちょうど睡蓮の花も咲き始めました。

 教会の庭の入り口に、石榴(ザクロ)の木があり、今年もたくさんの実がなりそうです。

  0004_8 実がなる木を見ていて、時々引用させていただく関根一夫牧師の、5月26日のメールマガジンを思い浮かべました。

 引用・紹介させていただきます。

 何年経っても実を付けないイチジクの木についてのお話ですが、今まで、そのイチジクの木のことを他人事のように考えていた私の心に、いきなり「実を付けないイチジク ・・・ボーッと考えていてはいけないよ」と切り込まれたお話だったのです。 身が引き締まって、体重が減ったような思いになりました。関根一夫先生 ありがとうございます。

 それは、ともかく、良い日となりますように。

  ◇   □   ○  ※  ☆

MACF礼拝説教要旨  2019.05.26
イエスの生涯16
「懇願する番人  ~イエスのたとえ話~
ルカによる福音書
13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」
+++
これもイエス様のたとえ話です。
神様の目から見て「祝福を受け」「特権にあずかり」
「実を結んで当然」の状況にある人達の姿が描かれています。
彼らは、良い土地に植えられており、きちんとケアもされていたのです。そして植えられた時そのいちじくの木には生命がありました。
つまり、その木の何かが成長や成熟を阻んだのです。
人間的な状況を考えれば、彼らは自分たちの生活に満足しており、それほど困窮しているわけではありませんでした。
彼らの心の中にあったであろう問題はいくつか考えることができます。そして、まさに、これらの問題こそがいちじくの木の生命を枯らしてしまう原因だったのではないかと思うのです。

1)選民意識による慢心:エリート意識
彼らはユダヤ民族に属し、旧約の歴史に精通しており、神様の歴史に対する介入もよく知っていました。
神殿も彼らの自慢であり、神はどんなときにも守り、支えてくださるということについては、自信を持っていました。。
しかも、異邦人たちを拒否し、滅ぼし自分たちだけに祝福が届くことを嬉しいこととして、心に育てていました。そこにはエリート意識からの慢心がありました。
自分たちこそ祝福を受けた存在であり、これからも自分たちだけが祝福を受け続けるのだという意識、他者はどうなっても構わないというような意識、それがここに語られている「実を結ばない」という事例に結びつくのです。

2)社会的優位からくる傲慢
彼らは全体数から言えば、それほど多くはありませんでした。しかし、ユダヤ教徒の指導的立場にいる人達のかたまりとしては孤立してはいませんでしたから、ある程度の勢力を誇っていました。いわば、国会で言えば、安定勢力、安定与党の立場に生きていたのです。
それは知らず知らずのうちに、神の心で民に仕える姿勢を奪っていきました。彼らはしもべとして生きるべきでしたが、教える人としての意識が強すぎて、高慢な、上から目線でしかものを語らない人たちになっていきました。
「土地をふさいでいる」という言葉が出てきますが、イメージとしては、彼らが新鮮ないのちの発露を潰してしまっているのです。言論統制、思想統制のような息苦しさがそこにはありました。死の雰囲気を振りまきながら集団で社会を動かそうとしているわけです。

3)自分自身への心の健康診断の怠慢
番人の言葉「木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。」というのが書かれています。
これは、根が枯れてしまっている可能性があることから、その部分をチェックし、根の部分に栄養分を与えるという作業です。
これは言い換えれば、多数を占める高慢な指導者たちの心の土台の部分が腐り始めていることの証拠です。
自分自身の健康診断、心の健康診断を彼らは怠っているのです。
聖書を読む、祈るということをしていなかったわけではないでしょう。しかし、それがいつの間にか「習慣」になり「義務感」になり、「形式的なパターン」になっていたのでしょう。そこには喜びも、悔い改めも、新しい発見もないのです。
根本を掘り下げることで、その部分に新鮮な空気を入れ、新しい活力を注ごうとしています。

本来は祝福を受け、他者に対して祝福の源としての役目を果たすべき存在だったユダヤの人たち、ことに指導者たち。
残念ながら彼らは神の心に沿った生き方をしていませんでした。もう、切り倒してしまおうかと言われるほどの腐敗ぶり。
全く不毛な状況にある集団、国、特権階級の人たち、また、そこに住む人たち、イエス様は彼らのために泣いて、こう叫びました。同じ章の先の方に書かれています。
13:34 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
13:35 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」

4)番人の忍耐と努力
この例えには、しかし、希望があります。それはこの番人の存在です。彼は、まだ希望を捨てていないのです。むしろ、積極的に働いて実を結ばせようとがんばろうとしています。
13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

これはまさに、わたしたちに対するイエスさまの姿でもあると思います。
前回も良い土地になるということが「人の痛みを知る、神の心に沿って弱者の存在を認め、彼らを無視しない」ということと関係しているとお伝えしましたが、ここでも「実を結ぶ」というのは、「その実で誰かが潤される」ための実です。
つまり、豊かな実を結ぶのは「すごいでしょ、こんなにたくさんの実がなりました」と誇るためではなく、それらの実によって誰が潤い、助けられ、飢えから救われるための実です。
イエス様はわたしたちの心に働きかけて、今尚、実りをもたらそうと水や栄養を与えてくださっています。
それは、わたしたちが、誰かに向かって「祝福がありますように」と祈れるようになるためであり、「何かお手伝いできることがありますか」と尋ねることができるためであり、「いてくれてありがとう」としっかり挨拶できるようになるためです。
そして、何より、生かしてくださっている神様に感謝と賛美、礼拝を捧げることができるためです。神への礼拝は、わたしたちの最大の実なのです。

神様は今朝、あなたの心を見て、なんとお語りになるでしょう。
その際、出来栄えが問題ではありません。むしろ、わたしたちの心の内側の姿勢が大きな問題なのです。自分の中にまかれた神様からの福音と恵みの種を殺してしまっていないでしょうか。
生活の中に「慢心(エリート意識)」「傲慢」「怠慢」が入り込んでいるなら、種は死に、木は枯れます。
キリストはそういう心を新しく創り変えることがおできになります。「しもべの姿勢で、謙遜に、自らの心を丁寧にチェックしながら生きる時、わたしたちは自分のことだけでなく他者の痛みや喜びにも共感できるようになり、神の期待している実をつけながら生きられるようになるのです。まずは、自分の心の状態を吟味する必要があります。そして、もし、ふさわしくないものがあったら、それを今朝、心から悔い改め、新しい出発の日にしたいと思います。
祝福がありますように。

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◎主の平和と祝福がありますように!

関根一夫
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