2009年9月 3日 (木)

永久に不変のもの

  猿は木から落ちても猿だが、国会議員は選挙で落ちれば議員でなくなる ・・・ 若いときに聞いたことばを、8月30日の衆議院選挙の結果を見て思い出しました。

  今、その人がどんなことをしているかを、競争原理に立って見るのでなく、一人一人の存在そのものを喜び、大切にしあう ・・・ どんな政党が政権を担当することになっても、このことを大切にしなければならないと思います。

 さて、選挙でも変わらない不変のものって一体何だろうと考えていて、聖書の愛の章と呼ばれている箇所に思い当たりました。

 愛の章の、特に4節以降の「愛」のところに自分の名を当てはめて音読することは、まず気がとがめてきてできないと思います。たったひとり、「イエス・キリスト」の名は、しっかりとおさまる ・・・それは、イエス・キリストが真に愛の人だったからである、そういうメッセージを聴いて感動したものです。

 では、愛の章(コリントⅠ 13章) をご覧ください。 今日もよい日となりますように。

1  たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

2  また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

3  また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

4  愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。

7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

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2009年8月29日 (土)

「汚れなきいたずら」

 イタリア映画に、「汚れなき悪戯」という名作があります。「マルセリーノ パンと葡萄酒」が原題(?)でしょうか。この映画の主題歌「マルセリーノの唄」も可愛らしい曲で、映画と共にヒットしました。

 この映画は白黒ですが、人気が高かったためでしょう、カラー版でリメイクされた映画もあります。

  さて、私が通うキリスト教会の牧師さんの子どもさんが、聖餐式の準備をしている大人たちのほんの少しの空白時間に、写真のような一場面を創出しました。

Photo  幼い子には、いったいこれはなにかなあと興味津々だったのでしょうね。静かにふたをとり ・・・ この後、どうするつもりだったかは分かりません。気づいた大人が別の場面へと切り替えてしまいましたから。・・・お母さんはひやっとされたそうですが、この幼な子のあどけない表情はそれを補ってあまりあります ・・・ ねっ。

 さて、幼な子だけでなく、キリスト教会に行ったことのない大人の方にも、聖餐式っていったいなんだろう と思われる方が多いことでしょう。「マルセリーノ パンと葡萄酒」というのは、それに関係があるのすね。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な作品「最後の晩餐」という絵は、イエス・キリストがパンと葡萄酒を弟子たちに与えて食事する場面です。そして、まさにこれが最初の聖餐式にあたるのです。

 聖書には、その場面がこのように書かれています。

  一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。
  これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
  言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

(マタイの福音書 26章 25節から30節)

  キリスト教会では、このことを記念し、人間のすべての罪を身代わりになって背負い、十字架にかかられたイエスキリストと、神様への感謝の思いを新たにしながら、聖餐式をおこなっているのです。二千年以上になりましょうか。ただ、葡萄酒を飲んで、運転して帰るのはよくないので、ブドウジュースを近年は用いています。

 今日も、よい日となりますように。 明日は日曜日、キリスト教会へお出かけください。

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2009年8月23日 (日)

大きな木には大きな根

1 Photo_2            ヨーロッパには、百年以上もかけて建て上げられた教会堂があります。まさに堂々とした建物 ・・・ 最初の設計図もしっかりとしているのでしょうね。

  それを建て始め、見守り、完成を喜び、維持し続けている信仰のことを思います。

 さて、写真は8月2日に起工式を行い、11月末に竣工予定の教会堂の基礎工事の写真です。・・・寒さが厳しく、雪もたくさん降る東北地方では、冬が到来する前に建て上げるのですね。

  建物を建てるとき、大切なのは、その土台です。やがて、外からは見えなくなりますが、建物を支え続けるのは、その見えなくなる土台です。

 キリスト教の教会堂の場合、写真のように目に見える土台と、目に見えない土台があります。そうです。神様への信仰ですね。

 土台に関して、聖書には次の言葉があります。

 わたし(イエス・キリスト)の教えを聞いて、そのとおり忠実に実行する人はみな、堅い岩の上に家を建てる賢い人に似ています。
 大雨が降り、大水が押し寄せ、大風が吹きつけても、その家はびくともしません。 土台がしっかりしているからです。
  反対に、わたしの教えを聞いても、それを無視する人は、砂の上に家を建てる愚かな人に似ています。
大雨、大水、大風が襲いかかると、その家はあとかたもなく、こわれてしまうからです。

   山上の垂訓の一部分です。 マタイの福音書 7章 24節~27節)

 私たちは、どんな土台の上に人生を建て上げているでしょうか。

 大きな木は、それを支える大きな根を地中に張っています。

Photo

 今日は、日曜日。 キリスト教会では聖書に基づいて神様からのメッセージが語られます。どうぞ、ご出席ください。

 

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2009年8月 3日 (月)

魂の日照時間

 梅雨が明けないままに8月に入る ・・・ 確かなデータを見たわけではありませんが、あまり例のないことではないかという気がします。

 気がかりなのは、農作物の生育状況 ・・・ 宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩にある「寒サノ夏」にならにことを願います。

 雨の日が多いと、日照時間が少なくなり、それがお米などの農作物の生長を弱めてしまうのですね。

  ふと思います。私たちの魂の成長のことです。

  魂も、明るい光に照らされる機会が少ないと、健全に成長することが困難になるのではないでしょうか。

 児童が虐待される環境は、その児童にとって暗闇といえましょう。児童の魂に光があたる環境を整えることは大人の責任です。

 その大人自身の魂も、精神的な光で照らされていないと健全な実を結ぶことの難しい状態になってしまいます。

 音楽、美術、文学、映画などのなかで、特に優れたものにふれ、その良さを享受し、いがみあう姿でなく、平和を目指し、協調し合う大人の姿を目の当たりにしながらすべての人が育つなら、世の中はどんなに希望に満ちたところとなるでしょう。

 まず、私たち自身が、自分の魂に健全な光を浴びる機会を多くしていくことを大切にできたら、と思います。

聖書の言葉

 わたし(イエス・キリスト)は、世の光です。

 今日も、よい日となりますように。 心の中の梅雨も、実際の梅雨も明けて、たくさんの実を結ぶことができますように。

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2009年6月 4日 (木)

伝道者魂

 3日の夜、ブラジルでキリスト教を宣べ伝えて40年という牧師さんのお話しをうかがいました。

 78歳とのことですが、その讃美歌を歌う声、そして聖書からのメッセージを語る声の大きくてよく通ること、驚くばかりです。

 ブラジルに開拓農民として渡った一世たちが高齢になり、なかなか話を聴いてもらえる相手がいないとのこと  牧師として訪問すると相手が何度も同じ話をされるのを、その都度新鮮な顔をするだけでなく、心から感心し、寄り添ってそのたびに初めて聴く話だという様子で聴かれるのだそうです。

 そして相手が話し疲れたときをチャンスとして、聖書の、特にイエス・キリストの話をされるのだそうです。

 こうした訪問を数え切れないほど続けて、そうやってクリスチャンになられた方も、それから短い年数で、この世での生涯を終えられるケースが多いのだそうです。

  お風呂の設備もあるのですが、水道代、電気代がかかるので、お客があれば特別に湧かすことにしてふだんはシャワーを短時間ということにしておられるほど節約の生活を積み重ねてこられたそうです。

 たいへんな苦労の連続だとお察しするのですが大きな声で明るく話され、巧まざるユーモアに満ちているので、こちらのほうがとても励まされる時間でした。

 もうしばらく、日本の各地でブラジルでの伝道の話をされ、再び、苦労の多いブラジルへ戻って行かれるとのことです。

 食べるのに困らない、物質的には豊かに見える日本本国の人たちが、あっという間にマスクが売り切れてしまうような生活の在り方をしていることを案じておられました。

 その方が本当に心の豊かな生き方をしておられることを感じ、自らの在り方を吟味した夜でした。

 今日も、よい日となりますように。  

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2009年6月 1日 (月)

日曜午後のうたげ

 復活祭(イースター)から五十日目は、五旬節(ペンテコステ)と呼ばれる記念日です。

 あまり一般には知られていませんが、みどりしたたる美しい季節ということもあって、私たちの教会では、親睦のバーベキューをペンテコステの午後におこなっています。

 すぐそばの池では、モネがスケッチに来たがるほどの睡蓮が咲き、教会の庭には、巣箱のそばのザクロが綺麗な花を咲かせました。

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 0010 朝方は雨が降っていましたが、やがて曇り空になり、次

第に晴れてきました。

 炭火もおこって、たくさんの食材が出番を待ち構えています。今年は、長良川の鮎を、冷凍しておいてたくさんもってきてくださった方があり、豪華なバーベキューとなりました。

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 食材がたくさんあって、焼きそばやウインナーなど、ここでは紹介しきれません。

 楽しいバーベキュー、親しい語らい、そして手話による讃美歌♪「主我を愛す」の合唱などなど ・・・ こうして、5月もそのフィナーレを飾って6月にバトンタッチとなりました。

 よき6月となりますように。

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2009年5月10日 (日)

母の日

 あるクリスチャンの女性が亡き母を偲んで,カーネーションをつけて礼拝に出席した ・・・ そのことが静かな感動を呼んで、ついに五月の第二日曜日が母の日として制定されるに至った ・・・ 確か、そんな経緯だったと思います。

 (インターネットで調べると,その女性の名前も、いつの礼拝なのかもすぐに分かる時代となりましたが、敢えて記憶の範囲で書かせていただきました。)

 今日は,5月10日 ・・・ くしくも,讃美歌510番には、子どものために神に祈る母の姿が歌われています。

 ♪ 汝がために 祈る母の いつまで世にあらん とわに 悔ゆる日の こぬまに

 とく 神に帰れ

 春は 軒(のき)の雨  秋は庭の露  母は 涙 乾くまなく  祈ると 知らずや

 

 聖書には、放蕩息子の帰りを大きな愛をもって喜んで迎える父のことが書かれていますが、この讃美歌からは神様から離れた生活を送っている子のために、とりなしのいのりを捧げ、神様に立ち返るように涙ながらに祈り続ける母の姿が彷彿としてまいります。

聖書の言葉   

 汝の父と母を敬え

 十戒の中の一つでもあります。

 今日は,日曜日。 ぜひ、キリスト教会の礼拝に出かけて、聖書に基づいて語られる牧師先生のメッセージをお聞きください。

 よい日となりますように。

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2009年4月23日 (木)

三つのB

 中学校の音楽の時間でしたか、ドイツの音楽家の三大Bというのを教わりました。

 Bの頭文字 がつく音楽家 たしか、  バッハ  ベートーベン  ブラームス

 だったと思います。

  お話は変わりますが、最近読んだ本に、世の中の状況があまりかんばしくないときにアメリカ人が心を平静に保つための三つのBが挙げられていました。

Bank  銀行  金だ! 金。 銀行に駆け込む。 地獄の沙汰も金次第

Bottle 酒だ! 酒 酒  えーい、しらふでいられるかい。飲んでうさを晴らそう

Bible  聖書に立ち返り、生きていく原点をもう一度見定めよう。

     ちなみにドル紙幣には「 In God We Trust 」 としっかりと印刷してあります。

 あなたの人生の拠り所は ・・・ 土台として据えられているのは何でしょうか。

 私は、聖書に示された神様を信じています。 ・・・ でも、あまえて、聖書を開かずに歩む日もありますから、ちゃんと立ち返りますね。  No Bible No Bred ・・・ これが逆にならないように、まず、魂の糧をいつも大切にできるようになりたいと願っています。

 よい日となりますように。

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2009年1月 2日 (金)

元旦の礼拝

 キリスト教会の元旦礼拝に出席してきました。ご理解いただけると思いますが、クリスチャンは、神社の初詣には行きません。

  聖書に基づく牧師のメッセージの中の、愛するとは、あなたのすばらしさを最高に光り輝かせるために私はベストを尽くしますということだとの一節が特に心に残りました。

 そういうふうに相手に期待し要求することはできても、そのように相手を愛することは、人間にはなかなかできないことです。

 聖書に「我が魂よ、神をほめまつれ」という言葉がありますが、神様に対しても、「神よ、我をほめまつれ」といわんばかりに願い事の長いリストを羅列してしまうことが私などはよくあります。 おお、これでは、魔法のランプの精に命令を下すアラジンのようではないかと反省しきりです。

 かつて、ミッション系の高校の野球部が甲子園に出場し、勝ち上がって決勝戦に臨んだとき、「神様、勝たせてください」とは祈らず、「神様、練習してきたことが発揮できるようにしてください。」と祈ったとのことです。

 結果的にこの高校、桜美林高校は優勝したのですが、私は優勝したこと以上に、その祈りの姿勢に感動いたしました。

 さて、礼拝の後に書き初めはいかがですかと、用具を準備してくださっている方がありました。 そのご婦人はとても美しい文字を書かれます。そして、何とその方の二人の娘さんの中学時代に私は国語の教科担任だったのです。その方の前で、私が書き初めをすると「こんな文字を書く人が大事な娘の国語の先生だったのですか」と叱られる ・・・ いえ、そんなことをおっしゃる方ではないのです、私がそう思うだけのことです。

 で、結局、その方に、ピアノを練習するときにその文字を眺めて、私の心の内の歌を引き出すためにとお願いして「歌」という文字を書いていただきました。

 こんなふうによいスタートの元旦でした。

 読んでくださっているあなたの元旦、それに続く2日以降も佳い日々の連なりとなりますように。  

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2009年1月 1日 (木)

2009年、どんな足跡を記されますか

 2009年、明けましておめでとうございます。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 皆様とご家族にとって佳い一年となりますように。

 ブログ「ムーミンパパのシルエット」、830を少し超えたところです。

 仮に、もし1000に達したら・・・それは半年近く後のことになりそうですが、そのときはどうしようかと、そのときに考えることにしますね。

 元旦から、引用なのですが、つぎのURLに掲載されていた「足あと」という詩を初めてではありませんが、紹介させていただきます。

 あなたは、この一年、誰と足跡を記しつつ歩まれますか。

 できれば、この詩に読まれているイエス・キリストと歩んでいただけば、嬉しく思う私です。

 それでは、よき2009年の初日となりますように。

   ◇    ○    □    ☆    ※    ☆    □    ○   ◇

http://blogs.dion.ne.jp/mrgoodnews/archives/1279044.html

「あしあと」という詩をご存知でしょうか。

Footprints という詩で、マーガレット・F・パワーズというアメリカ人女性の作った詩です。
「あしあと 多くの人を感動させた詩の背後にある物語」(太平洋放送協会刊 1996年)に掲載されています。まずその詩を紹介いたしましょう。

「あしあと」

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」


英語の原詩も紹介します。

Footprints

One night I dreamed a dream.
I was walking along the beach with my Lord.
Across the dark sky flashed scenes from my life.
For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
one belonging to me and one to my Lord.
When the last scene of my life shot before me
I looked back at the footprints in the sand.
There was only one set of footprints.
I realized that this was at the lowest and saddest times of my life.
This always bothered me and I questioned the Lord about my dilemma.
"Lord, you told me when I decided to follow You,
You would walk and talk with me all the way.
But I'm aware that during the most troublesome times of my life there
is only one set of footprints.
I just don't understand why, when I needed you most, You leave me."
He whispered, "My precious child, I love you and will never leave you
never, ever, during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints
it was then that I carried you."

いかがでしょうか。
クリスチャンではない方には違和感が残るかもしれません。
でもそれを乗り越えて、じっくり味わって感じたことをお教えください。
不思議な慰めといやしを与えられる詩だと思います。

この詩を初めて読んだのは、もう20年も前のことでした。
この詩は確か作者不詳となっていたと思います。
不思議に心に残る詩でした。
それから何度この詩に出会ったことか。

「あしあと」というこの本を読んでなぜこの詩が多くの人の感動を呼び起こすのか、少しわかった気がするのです。
こんな話しが紹介されていました。

夫(ポール)が事故で重傷をおい、集中治療室で寝ていたときに、朝早く看護婦がやってきて夫に尋ねました。
「パワーズさん、あなたと奥さんと娘さんのために、祈らせていただいてよろしいでしょうか」
ポールがうなずきましたので、看護婦は祈りました。
祈り終わったあとに、詩を書いたカードを取り出し、夫の手を握って静かに次の詩を読みました。

看護婦は読み終えると、夫を見つめていいました。「私はこの詩の作者を知りません。作者不明なのです。」
ポールは弱々しく手を上げて言いました。「私は知っています。作者を知っています。」
看護婦はクスリのために意識がもうろうとしているのだと思いました。しかし、ポールはもう一度言いました。
「私は作者をとてもよく知っています。……私の妻です。」と。

この詩は1964年に書かれた詩なのですが、その後、引っ越しのときに間違って配達されて行方不明になってしまった荷物の中に入っていました。それがいつのまにか誰かの手によって「作者不詳」ということで発表され、有名になってしまいました。
それがこのような形で作者の夫を励ます詩となって作者に戻ってきたわけです。

  ◇    ○    □    ☆    ※    ☆    □    ○   ◇

 ここまでお読みいただいて、ありがとうございました。 よき日、佳き年を !

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2008年10月 5日 (日)

肥えた牛 と 青菜の食事

 10月最初の日曜日 ・・・ 関根一夫牧師さんのメールマガジンから、聖書のことばとメッセージを引用させていただきます。

 今日も、そして今週もよき日となりますように。

    ◇  ○  □  ☆  ※  ☆  □  ○  ◇

心に愛とみ言葉を ・・・ み言葉というのは、聖書のことばのことです。

【箴言】 15章15節 ~17節
15:15 貧しい人の一生は災いが多いが心が朗らかなら、常に宴会にひとしい。
15:16 財宝を多く持って恐怖のうちにあるよりは乏しくても主を畏れる方
がよい。
15:17 肥えた牛を食べて憎み合うよりは青菜の食事で愛し合う方がよい。
  +  +  +  + +  +  +  +  +  +

 上記のことばに基づく 関根一夫牧師さんのメッセージ 

 心を朗らかに、主(神様)を畏れながら、愛し合いつつ生きることができ、衣食住に安定できていたら、私たちは幸せを味わえるのかもしれません。物に対する熱烈な執着、人への軽蔑は、幸福をもたらすものではありません。
 心を朗らかにすることや青菜の食事で愛し合うためには、何がどうなればよいのでしょう。互いの存在といのちを神様に感謝しあうこと、そして相手の存在を喜び、受け入れることがとても大事なことのように思います。
 そして笑うこと。落語の世界には貧しい人たちが登場し、笑わせてくれます。 そこには、心が朗らかなら、宴会に等しいという世界が広がっています。

 そういえば「青菜」という落語があります。おもしろい演目です。
失礼、話が逸れました。

 朗らかに、主を喜びながら、食事を楽しみながら、愛と笑いを味わえる人生を進んでいきたいものです。
                     祝福がありますように。  関根一夫

     ◇  ○  □  ☆  ※  ☆  □  ○  ◇

 肥えた牛を食べながら仲良くできたら ・・・ それは、うれしいことですね。 ・・・ 食いしん坊のムーミンパパの蛇足 でした。 すみません。

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2008年9月14日 (日)

動物の気持ち

 聖書を少しずつひもとくメッセージをメールマガジンで送り続けてくださる牧師さんたちがいます。

 今日は日曜日でもありますので、その一つ、関根一夫という牧師さんの「箴言」からのメッセージをご紹介します。この牧師さんは、ホームページもおもちです。作曲もなさって、幅広い活動を続けておられます。

 よき日曜日となりますように。

【癒す言葉:箴言 12章10節】
神に従う人は家畜の求めるものすら知っている。神に逆らう者は同情
すら残酷だ。
+++
 ペットは日本語では愛玩動物と言われていますので、ほとんどおもちゃのような取り扱われ方をしていますが、それでも「彼らの求め」よりも飼い主の思惑ばかりが優先していることがあるようです。

 「神に従う人は家畜の求めるものすら知っている」とは、思いやりが人々に対するばかりでなく、家畜にまで及ぶ人たちがいることを教えています。当時のことですから、犬や猫のことというより牛や馬のことだったと思いますが、自分たちの生活の延長線上に家畜のいのちと生活環境への配慮を持っていたのです。

 最近、ペットを捨てる人たちが増えていると言われています。いろいろな事情があるのでしょうが、出来ることなら、死ぬまでケアして欲しいものです。
 私のところにいる犬はビーグル犬ですが、前の飼い主に捨てられ、処分される2日前に救出されて、私たちのところに身請けされました。 来たばかりの頃の怯え方、人への不信感、食べ物への執着、落ち着きのなさは、自分の求めがことごとく拒否されてきたことで身についてしまった犬のそれだったように思います。2年半経って、ずいぶん穏やかで、人なつっこい、どこにでも安心して寝そべる犬になりました。

 犬も猫も馬も牛もしゃべりませんから、何を求めているのか、その表情や仕草を日常的に確認しながら考え出さなければなりません。
それには忍耐とか思いやりとか、寛容さが必要です。

 先日、ある小学校で4年生全体100名以上の子供たちにお話をする機会がありました。そこで私は質問しました。「あなたが自分の家のペットになったつもりで考えてみてください。病気になったり、おじいさんやおばあさんになったとしたら、家の飼い主にどのように取り扱われたいですか?」「もう役に立たないから捨ててしまおうって言われたいですか? 」「この犬は長く飼っていたけれど、病気になったからエサもあげずに、早く殺してしまおうって言われたいですか?」

 小学4年生の子供たちは、「せっかくかわいがっていたペットなのだから、最後まで大切にして欲しい」「捨てられたり殺されたりするのはいやです」と答えてくれました。
  まだまだ希望があると感じました。祝福がありますように。 

 牧師  関根一夫

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2008年4月10日 (木)

パンのこと

0002  写真は、我が家のある記念日の朝食の一部です。パンとオムレツ、そして野菜サラダ、コーヒーが食卓に並びました。 写真がベース板のような形なのは、写っていたサラダの部分に家内が難色を示したからです。

(結果的にはサラダの掲載も許可してくれたのですが、この日の記念日の性格上、今度は私が遠慮しました。尊重しなくては・・・) 

 パン焼き器は忠実に定刻に焼き上がりのサインを発してくれるので、いそいそと取り出しに行くのが多くの場合、私の役目です。 ・・・ 目覚まし時計よりも効果がある と、家内は思っているかも知れません。

 時々、米粉を入れたり、果実を入れるなどバリエーションを楽しんでいます。

 おお、そうでした、今日のブログにパンを登場させたのは、つぎの聖書のことばをご紹介したかったからでした。

 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

 マタイ4章4節  

 有名なことばなので、ご存じの方も多いと思います。

 荒野での四十日四十夜の断食を終えたキリストに、悪魔が「あなたが神の子であるなら、石に命じてパンにかえてごらんなさい」と誘いをかけたときにキリストが答えたことばです。

 文語でも「人はパンのみにて生くるにあらず」とあり、パンを否定しているわけではありません。もし、パン(に代表される食物)を食べるなと命じられたら、私など、どなたよりも真っ先に音を上げてしまうことでしょう。

 英語で、こんなことばを教えて下さった宣教師さんがいました。

「 No Bible, No Bread」 ・・・ 私は「聖書読まずに 飯 食うな」と訳しています。

 体のための糧を摂取するのと同等かそれ以上に魂のための糧である聖書を読む ・・・ 少なくとも、新聞で、ひいきの球団が勝ったか、負けたかを確かめるより前に、まず、聖書を読む ・・・ そういう優先順位をあやまらない歩みが積み重ねられたら  と願うものです。 

 クリスチャンの場合に限らず、たとえば、子どもが懸命に話しかけているのに、目の前の目玉焼きの焼け具合を優先している ・・・ そういう逆転現象が私たちの生活には多く見られるのではないでしょうか。

 本末転倒にならないで、本当に価値あるものを第一にする、そんな今日という日になりますように。

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2008年3月24日 (月)

エッグ

 エッグ ・・・ イースターエッグを写真入りでご紹介します。

0009  このところの春の陽気で私の通う教会の庭の杏が開花しました。

 その写真を撮っていると、同じ教会に通っている女性が庭のあちこちを歩き回っています。何をなさっているのか、その時はわかりませんでした、

 でも、イースターの礼拝の後、分かりました。子どもたちが庭で楽しそうに何かを探しているのです。   それが・・・ そうです。 朝の庭でご婦人はイースターエッグを見つかりそうで見つからなさそうで、という微妙な場所に配置しておられたのでした。

 大人にも渡るようにたくさんのイースターエッグを用意してくださったので、いただいたイースターエッグを我が家の庭で撮影しました。0005 0006 何だか、水仙がのぞき込んでいるように見えますね。

 これは、ゆでたまごにシールをかぶせてお湯をかけると卵の殻にシールが密着するという作り方のイースターエッグです。

 木製の卵に装飾を施した外国製のイースターエッグもあり、ひょっとしたらそれと今までに出会ったことのある方もおありかもしれませんね。

 ちなみに、ゆでてあるイースターエッグをそのままとっておく場合もありますが、せっかくですから、夕食のおかずとして食べてしまいました。おいっしかったです。

 今日もよき日となりますように。

 

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2008年3月23日 (日)

イースターの朝

 今年のイースターは3月23日です。

 私の通う教会ではイースターの朝、岐阜市の長良川のほとりで7時から礼拝をし、そしていわしを焼いて食べるのが恒例になっています。

 イースターといわしとは特に関連はないのですが、イエス・キリストがガリラヤ湖のほとりで、魚を焼いて準備していて、弟子たちに食べさせたという記事があります。私の通う教会には、市場で野菜や魚を仕入れる仕事をしていたかたがあって、よいいわしが入手できたことから、イースターの朝に河原で焼いて食べるのが慣習になりました。

 でも、クリスマスケーキを食べることがクリスマスの意味ではないのと同様に、鰯を焼いて食べることがイースターの意義ではありません。

 早朝の礼拝だけでなく、定例の礼拝もあり、聖書に基づくイースターのメッセージが語られますので、よろしかったらキリスト教会に足をお運びくださいますように。

 今週もよき日々の集まりとなりますように。

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2008年3月22日 (土)

イースターのこと

 明日の日曜日、3月23日はイースターです。クリスマスは12月25日と決まっていますが、イースターは年によって日が異なります。

 ちょうどイースターに関わるいくつかのことを端的に説明したホームページを見つけましたので、それを以下に引用させていただきます。

◇ ○ ◇ ☆ ※ ☆ ◇ ○ ◇

イースターって、どういう日でしょうか。そして、どうして日にちが一定ではないのでしょうか。

イースター(復活祭)とは?
 イースターは、イエス・キリストが人間の罪を背負い十字架にかけられ死んだ後、3日目によみがえらされた復活を祝う日です。
 復活された日は週の初めの日(ヨハネ20章)、すなわち日曜日でした。
復活祭をいつにするかで、いろいろな論議があったようですが、最終的には、西暦325年のニカヤ会議で、「春分の後の第一の満月後の日曜日」と定められました。このため、毎年、日にちが変ってくるのです。
 2007年のイースターは、4月8日です。ちなみに、(2002年は3月31日、2003年は4月20日)、2004年は4月11日、2005年は3月27日、2006年は4月16日でした。2007年は4月8日、2008年は3月23日です。
 一般的に、日本の教会の年度は4月から翌年の3月までですので、2007年度は年度中に2回イースターがあるわけですね。
受難週とは?
 イースター前の1週間を受難週と言います。イエス・キリストの受けた苦しみを偲びながら過ごします。
日曜日 棕梠(しゅろ)の主日といい、イエス・キリストがエルサレムに入城した日を記念
月曜日 宮清めの日
火曜日 神殿での説教の日
水曜日 オリーブ山での説教の日
木曜日 洗足の木曜日といい、最後の晩餐の時、イエス・キリストが弟子達の足を洗われたことを記念
金曜日 受難日といい、イエス・キリストが十字架にかけられた日を記念
土曜日
安息日(女弟子たちが香油を準備した日)
四旬節(レント)とは?
 灰の水曜日(復活祭の前46日目の水曜日、死への備えと罪の悔改めを覚える日)に始まり、復活日前日までの、主日(日曜日)を除いた40日間のことをいいます。
 この40という数字は、ノアの洪水の日数や、イスラエルと民の荒野の放浪の旅、イエスが断食した日数などと符合して意味深いものがあります。
 2004年の場合、2月29日から4月10日までが四旬節(レント)です。
 レントの期間では、具体的に主の御受難とみ苦しみを思い、断食をするのですが、贅沢や美味しいものを避けるという食事でその思いを表すこともできます。(たとえば、肉・乳製品・卵などを食べないとか)
講壇に花を飾らないとか結婚式をしないとか、その表し方は多様です。
イースターエッグって?
 現在、世界のキリスト教会でイースターに美しく彩色された鶏卵(イースターエッグ)が贈物として使われています。これは、中世社会ではイースターの9週間前は野鳥の卵をとることが禁止されており、禁が解かれるといっせいに野に出て野鳥の卵を探しそれを採って食べたという風習が、イースターエッグの起こりです。
 ヒヨコが殻から出てくるのをイエス・キリストの墓を打ち破ってよみがえられた事とあわせて、卵を復活のシンボルとしてイースターに用いる意味もあります。
イースターバニーって?
 ドイツの民話が出典らしい。
昔、子ども好きの貧しいおばあさんが、ある年のイースターに彩色した卵を庭に隠し、子どもたちにそれを見つけさせるゲームをした。すると野ウサギがちょうどその場所に通りかかり、それを見て子どもたちが「ウサギがこの卵を配っている」と勘違いをしてしまった。
それ以来、ウサギは卵の使者?ということで、イースターバニーと呼ばれている。
クリスマスでいうところのサンタクロースみたいに、良い子の家に配ることもするらしい。

というわけです。以上は、下記のURLのHPからコピーさせていただきました。ありがとうございます。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~saitama/tokusyu/tokusyu03.htm

◇ ○ ◇ ☆ ※ ☆ ◇ ○ ◇

 明日、キリスト教会ではイースター礼拝が行われ、聖書に基づいてメッセージが語られますので、ご出席いただければ幸いです。

今日の土曜日もよき日となりますように。



     

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2007年11月19日 (月)

動きのある影絵

 18日の日曜日・・・私の所属している教会では午前中に礼拝をし、午後にコンサートを開催しました。

  コンサートの名は「天使のつばさコンサート」・・・なかなかすてきな名前でしょう。今年は、多様なプログラムとなりました。

 ハーモニカ、リコーダー、オカリナによる讃美歌などの演奏

 クミコのシャンソン、中島美嘉の「雪の華」

 ゴスペル

 絵本 「ラヴ ユウ フォーエバー」の朗読

 そして、手作りの美しい影絵 ・・・ 動きがあるのです。

 その影絵の写真を2枚、ご紹介いたしますね。Photo_2

Photo

 出演者も多様でした  牧師さん、現職の教師、元養護学校教師、子育て真っ最中の主婦、アナウンサー ・・・

 

  教会には、特別な人が集まっているのではなく、いろいろな働きをこの世でしている方々が集まっているのです。

 クリスマスに向けて、教会ではいろいろな企画、準備が進められています。でも、特別なコンサートなどがある、ないに関わらず、どうか、お近くのキリスト教会に足をお運びくださいね。神様との出会い、そしてきっとすてきな真摯にこの世を歩んでいるあたたかい方に出会えることと思います。

聖書のことば  イザヤ書  第43章 4節

 わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。

 今日もよき日となりますように。

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2007年9月 8日 (土)

世界識字デー

 1965年にイラン国王が軍事費の一部を識字教育に回すように提案したことを記念して、ユネスコが9月8日を国際識字デーとしたそうです。

 世界中の軍事費をすべて実りのあるよいことに回したら、どんなにこの世の中はすてきになるでしょうね。

聖書のことば  マタイによる福音書 第5章 9節

 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

  そのほか、静止衛星ひまわりが初画像を送り出したのが1977年の9月8日だそうです。

  気象衛星ひまわりからの画像をテレビで喜んで見ていた幼な子が、新しく打ち上げられるひまわりの写真を見て驚いていったのを聞いたことがあります。  「あれっ、花のひまわりが宇宙をまわっているんだと思っていたのに・・・」

  本当に子どもの世界はすてきですね。そのときの幼な子は、今は人の子の親となっています。

 さて、明日は日曜日、お近くにキリスト教会がありましたら、礼拝への出席をお勧めいたします。

 よき日となりますように。 

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2007年7月18日 (水)

ヨナ書 第四章

 さあ、いよいよ、ヨナ書の第四章(最終章)です。えっ、聖書の引用でブログを進め、四日間、ムーミンパパは何をしていたのかですって・・・うーむ、鋭いお尋ねですね・・・ひとあし早い夏休み、ということにさせていただきましょうか。それは、ともかく、さあ、ヨナ書のフィナーレです。

ヨナ書 第四章 (リビングバイブルによる)

4:1 この計画変更に、ヨナはひどく腹を立て、
4:2 神様に文句を言ったのです。 「神様、やっぱり、こんなふうになさったんですね。 最初からわかっていましたよ。 国でニネベへ行けと言われた時、こうなると思ったのです。 それで、タルシシュへ逃げたのです。 神様が恵み深く、あわれみに富み、なかなかお怒りにならず、思いやりのあるお方であることを知っていましたからね。 この人々を滅ぼす計画さえ、いとも簡単に取りやめてしまわれるって、わかっていたんですよ。
4:3 ああ神様、私なんか殺してください! 〔私の語ったことが嘘になったのですから〕、死んだほうがましです。」
4:4 すると、神様はお語りになりました。 「なんで腹を立てるのか。」
4:5 ヨナは町から出て行き、ふくれっ面をして、町の東のはずれに腰をおろしました。 そこに木の葉で日よけ小屋を作り、町がどうなるかを見きわめるつもりだったのです。
4:6 ところが、葉っぱが暑さで枯れてしまったので、神様は急いでつる草を生えさせ、大きな葉で日をさえぎってくださいました。 おかげで居心地がよくなり、ヨナは大喜びでした。
4:7 ところが、神様は一匹の虫をも用意しておられました。 翌朝、その虫が茎を食いちぎると、草は見る間に枯れてしまったのです。
4:8 太陽がのぼって暑くなると、神様は焼けつくような東風を吹きつけさせました。 太陽が頭にじりじり照りつけます。 ヨナはすっかりまいってしまい、死にたいと思いました。 「こんな思いをするくらいなら、死んだほうがましだ。」 とうとう、彼は叫んだのです。
4:9 神様はヨナにお語りになりました。 「この草が枯れたことを怒るのは、正しいことだろうか。」 / 「もちろんです。 死ぬほど怒って当然です。」
4:10 「おまえは、苦労してつくったのでもない日陰がなくなっただけで、そんなにも嘆いている。 あんな草はもともと、はかない命しかないものだ。
4:11 だったら、わたしが、このニネベのように大きな町を惜しむ気持ちが、どうしてわからないのか。 そこには、事の善悪をわきまえない十二万もの人々と、たくさんの家畜がいるのだ。」

    ◇  ○  □  ☆  □  ○  ◇

  四日間にわたってヨナ書を掲載させていただきました。もし、よろしければ、第一章から読み返していただけるとヨナ書全体をご理解いただけるのではないかと思います。聖書全66巻にはこういう書もあるのだなと聖書への関心を強めていただけたら、とても嬉しく思います。

  もし、このブログを読んでくださる方で、学生さんなど、夏休みに入る方がおありでしたら、ぜひ、夏休みの日課の一つに聖書通読を組み入れてくださると、たいへん嬉しいです。

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2007年7月17日 (火)

ヨナ書 第三章

 四章あるヨナ書の今日は、第三章・・・展開も佳境に入ってまいりました。

ヨナ書 第三章 (リビングバイブルによる)

3:1 -2神様は再び、ヨナにお語りになりました。 「あの大都市ニネベへ行き、滅びが迫っていると警告せよ。」
3:3 ヨナは、言われたとおりニネベへ行きました。 ニネベは大きな都市で、回りに広大な郊外を控えていました。 歩いて町をひと回りするだけでも、三日はかかるほどです。
3:4 -5ところが、ヨナが町に入って説教を始めたその日から、人々は悔い改めたのです。 ヨナは回りを取り囲んだ群衆に、「きょうから四十日後に、ニネベは滅びるぞ!」と叫びました。 彼らはヨナのことばを信じ、断食を始めました。 上は王から下は身分の低い者に至るまで、すべての人が粗末な服をまとい、嘆き悲しんだのです。
3:6 ニネベの王は、ヨナが語ったことを聞くと、王座から立ち上がり、王服をわきへ押しやって粗末な服を着、灰の中に座りました。
3:7 そして大臣と相談し、町中に次のようなお布令を出したのです。 「何人も、動物さえも、食べ物を口にしてはならない。 水も飲んではならない。
3:8 粗末な服を着、ひたすら神様に祈ること。 また、おのおの暴力や強奪をやめ、悪の道から足を洗うこと。
3:9 はっきりとは言えないが、もしかすると、神様は憤りを静めて、いのちを助けてくださるかもしれない。」
3:10 神様は、彼らが悪の道から離れたことをご覧になりました。 それで、彼らを滅ぼす計画を中止したのです。

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2007年7月16日 (月)

ヨナ書 第二章

 昨日に続き、ヨナ書の第二章を掲載させていただきます。ヨナ書は、聖書全66巻の内の一つの書ですが、短編小説としてみても優れている、と評した人がいます。四章まであります。

ヨナ書 第二章 (リビングバイブルによる)

2:1 ヨナは魚の腹の中から、神様に祈りました。
2:2 「神様。 神様は、苦しくてどうしようもない時に祈ると、答えてくださいました。 死の深みから叫び求めた時、聞いてくださいました。
2:3 神様は私を、大海の深みに投げ込みました。 激しくさかまく波をかぶって、深い水中に私は沈みました。
2:4 そのとき私は、『ああ神様。 神様は私を退け、海に投げ込みました。 もう二度と、神様の聖なる神殿を見ることはできません』と申しました。
2:5 海中に沈み、もう少しで死ぬところでした。 水の中では、海草が頭にからみつきました。
2:6 私は海の底の底まで沈んだのです。助かる望みもなく、死の牢につながれてしまいました。 しかし神様は、ぽっかり開いた死の口から、私をすばやく助け出してくださいました。
2:7 全く望みを失った時、もう一度、私は神様に思いを向けたのです。 聖なる神殿におられる神様に、真剣な祈りをささげました。
2:8 偽りの神々を拝んでいる者は、神様が与えようとしておられる恵みに、背を向けているのです。
2:9 私は、神様以外のものを決して拝みません。 ああ、神様がしてくださったことに、どう感謝したらよいでしょう。 私は必ず約束を果たします。 私を救ってくださるのは、神様だけだからです。」
2:10 そこで神様は、ヨナを海岸に吐き出すよう魚に命じ、そのとおりになりました。

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2007年7月15日 (日)

ヨナ書 第一章

 台風4号による被害が出ています。強い風や大量の雨への備えを固くいたしましょう。

 嵐が出てくる聖書の箇所ということで、旧約聖書のヨナ書を掲載させていただきます。「リビングバイブル」という思い切って意訳するなど、分かりやすさを特長としている聖書を活用させていただいています。

  引用に当たっては、「Jばいぶる」というパソコンソフト(いのちのことば社)が活躍してくれています。9800円という値段ですが、引用、検索に特に大きな力を発揮してくれます。

 なお、ヨナ書は、4章からなっています。今日から、1章ずつ掲載させていただきますね。

聖書 ヨナ書 第一章 全文  (リビングバイブルによる)

1:1 アミタイの子ヨナに、神様から次のようなお告げがありました。
1:2 「あの大都市ニネベへ行って、神がこう語ると告げよ。 『わたしはお まえたちを滅ぼす。 おまえたちの悪行の数々が、山のように積もり、その悪臭が天にまでただよって来たからだ。』
1:3 ところが、ヨナは行くことをいやがり、神様の前から逃げ出して海岸の方へ行き、ヨッパの港へ出たのです。 ちょうど、タルシシュ行きの船が出航するところでした。 船賃を払って船に乗り込んだヨナは、神様から身を隠そうと、暗い船底に降りて行きました。
1:4 ところが、航海が始まると、突然のように神様は嵐を起こし、その船めがけて突風を吹きつけました。 船は今にも沈みそうです。
1:5 身の危険を感じた水夫たちは、必死の思いで、自分の信じている神々に助けを求めました。 また、なんとか船を軽くしようと、積み荷を海に捨てました。 その間、ヨナは船底でぐっすり眠り込んでいたのです。
1:6 あきれた船長は船底に降りて行って、どやしつけました。 「おい! どういうつもりだ、こんな時に眠りこけて。 さっさと起きて、おまえの神様に祈ったらどうだ。 そうすれば、お恵みで助かるかもしれんぞ!」
1:7 乗組員はくじを引くことにしました。 神々を怒らせて、こんな恐ろしい嵐を引き起こした張本人はだれか、見つけようというのです。 くじはヨナに当たりました。
1:8 「いったい何をしでかしたんだ。 こんなに恐ろしい嵐を起こすとは? えっ! おまえさん何者だい? 仕事は? どっから来た?どこの者だ。」
1:9 -10「ユダヤ人です。 この地と海とをお造りになった天の神様を信じ、拝んでいる者です。」 それから、その神様から逃げ回っているわけを話しました。 / 人々は話を聞くと、ますます恐ろしくなりました。 「何でそんなことをしたんだ?
1:11 ああ、この嵐を静めるために、おまえさんをどうすりゃいいんだろう」と叫ぶように言いました。 海はいっそう荒れ狂ってきたからです。
1:12 「どうか、私を海に投げ込んでください。 そうすれば、静まるでしょう。 この嵐も、私のせいなのですから。」
1:13 それでも、なんとか陸に近づこうと必死にこぎましたが、どうにもなりません。 突風が荒れ狂い、まともに吹きつけるのです。
1:14 とうとう、人々はヨナが仕えている神様に大声で祈りました。 「ああ神様。 お願いでございます。 この男のために、おれたちまで巻き添えにしないでください。 この男を海に投げ込みますが、どうぞ、おれたちを罰しないでください。 おれたちの責任じゃありません。特別なわけがあって、神様がこの男に嵐を見舞わせているのですから。」
1:15 彼らはヨナを荒れ狂う海に投げ込みました。 すると、どうでしょう。 嵐はぴたりと収まったではありませんか。
1:16 人々は神様の前に恐れをなし、いけにえをささげて、ヨナの信じていた神様に仕えることを誓いました。
1:17 ところで、神様は大きな魚に、ヨナをのみ込ませました。 ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいたのです。

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2007年7月 8日 (日)

失われた銀貨のたとえのメッセージ

 今日は日曜日、キリスト教会では神様への礼拝がささげられます。

 関根一夫という牧師さんが今日お話しされる聖書からのメッセージをご紹介いたします。

 メッセージの題    「なくした銀貨」のたとえ

聖書の箇所 ルカによる福音書   第15章  8節から10節

ルカによる福音書15章
  ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚をなくしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。  そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
  言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。

【メッセージの一部分】

「もし、あなたがいなければ、この宇宙から尊いものが消えうせ、人類の花園から一輪の花が姿を消すのです。」とジャン・バニエはある本の中に書きました。

   あなたという存在は、宇宙の中で、人類の花園の中で本当に尊い、かけがえのない存在なのです。神様の形に造られた特別な存在なのです。その神様の刻印が有効な世界、それは神様の愛の中です。イエス様によって入ることができる神様とのきずな関係の中こそ、あなたがもっともあなたとして花開く場なのです。イエス様はあなたを探しにきてくださいました。そして、あなたの存在を守り、清め、祝福しようと十字架にまでかかってくださいましta

     ◇  ○  □  ☆  ◎  ☆  □  ○  ◇

  上のメッセージは、クリスチャンにも、そしてクリスチャンではない方にも語られています。クリスチャンは、見つけていただいたことへの感謝の思いを新たにし、まだ、イエス・キリストの愛をよく知らない方のために祈ります。

  できましたら、ぜひ、今日、お近くのキリスト教会におでかけください。それぞれのキリスト教会で、聖書に基づいたメッセージが語られるからです。

  部分でなく、上のメッセージの全文を読みたい方は、「続きを読む」をクリックしてください。・・・聖書には「(門を)たたきなさい。そうすれば開かれるであろう。」と書かれています。

  今日という日が、すてきな一日となりますように。

続きを読む "失われた銀貨のたとえのメッセージ"

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2007年6月17日 (日)

主役交代、されど現役

  今日は、日曜日・・・キリスト教会での礼拝のあと、高山市の中学のミニ同窓会に向かいます。岐阜市や名古屋市などの近辺で生活している同窓生たちの集まりで、当然のことながら、みな同い年です。

  こういうときにふと生まれた川柳です。以前にも紹介したかもしれませんが・・・

  同窓会 昔の自分に 会いに行く

 還暦をすぎ、職場では主役を交代した年代ですが、それぞれの人生においては、みな現役で、そして主人公です。

 野球でも、豪速球でならした投手が、やがて技巧派になり、コーチや監督になり、テレビやラジオの中継放送の解説者になりますし、高名な女優も主役から脇役になり、引き立て役、助演の立場になります。今までとは別の心得が必要になることもあるでしょう。

 たとえば、結婚式には花嫁をかすませない配慮をして女性たちはひかえめに臨むとか・・・

  でも、下り坂を急転直下ではなく、ゆるゆると楽しみながら、重力に、そして年齢にあらがわないでおりていく・・・これも大切なことですね。

 いろいろ書きましたが、今日は、同年齢同士、まだ枯れ木ではないので話にいろとりどりの花が咲くことでしょう。

  それはともかく、まずは教会へ・・・

  お読みくださっているお一人お一人にもよき日となりますように。

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2007年6月16日 (土)

新ジャガ、新タマネギ

 この時期、麦だけでなく、ジャガイモやタマネギも収穫されるのですね。

  テーブルほどの広さの家庭菜園の責任者に任ぜられた私が畑を見ますと、虫に大きく食べられたナス、とやせ細りながら小さな実をつけているシシトウ、わき芽を摘むはずが本命の芽を摘まれた部分もあるミニトマト・・・と何らかのマイナスの修飾語をつけざるを得ない野菜たちばかりです。

  でも、順風満帆ばかりでなくても歩むのが人生ということを示してくれているようにも思います。今日は、少し別のところにヒマワリの種を蒔きました。「マティス」「ゴーギャン」「モネ」と種の袋に書かれていて、それぞれがどんな花を咲かせるのか・・・果たしてそこまで行き着けるのかと不安と楽しみをいだいています。

聖書のことば  マルコによる福音書 第4章 2節~9節

イエスが人々に教えられる時には、たとえ話を使うのが普通でしたが、この日の話は次のようなものでした。
「よく聞きなさい。 農夫が種まきをしました。 畑に種をまいていると、 ある種はあぜ道に落ちました。 すると鳥が来て、その種を食べてしまいました。
別の種は土の浅い石地に落ちました。 初めは急速に生長した種も、 土が浅いため、根から十分養分を取ることができず、強烈な日差しの中で、すぐに枯れてしまいました。
また、いばらの中に落ちた種もありましたが、いばらが茂って、生長をはばみ、結局、実を結べませんでした。
けれども中には、良い地に落ちた種もありました。 その種は、三十倍、六十倍、いや百倍もの収穫をあげることができたのです。
聞く耳のある人はよく聞きなさい。」

  このたとえ話の中で、種というのは神様のことば、いろいろな地は、人の心を表していることがこの後、解説されます。

  よき実を結ぶよき日となりますように。 明日の日曜日、キリスト教会へどうぞ。

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2007年6月15日 (金)

上を向いて

 1963年の6月15日・・・♪「上を向いて歩こう」がアメリカでのヒット曲の第一位に輝きました。永六輔作詞・中村八大作曲・坂本九歌・・・ご存じ六・八・九コンビの快挙です。

  時々、思うのですが、ヒットソングというのはねらって生まれるものではないと思います。それぞれの時代の世情、人情などが歌と合致したとき当事者にも思いもかけないうねりが生じて、あれよあれよという間に多くの人に歌われ広がっていく、という場合が大半ではないでしょうか。

  その時代という風土に真摯に向き合って生を刻んでいることが、ヒットを生む必要条件となっているように思います。・・・けれど、そのことは十分条件ではないのですね・・・おお、久しぶりに懐かしい用語を用いました、口に出していれば舌を噛みそうなところです。

聖書のことば  ピリピ人への手紙 第3章  20節

  私たちのふるさとは天にあります。 そこには救い主である主イエス・キリストがおられます。 私たちは、キリスト様がそこから帰って来られるのを、ひたすら待ち望んでいるのです。

 これは、パウロという伝道者のことばです。彼は、地上の人々の思いではなく、牢に入れられたり、ムチ打たれたり、嘲られたり、難船したりしながら、神様をいつも見上げながらこの世での人生を全うした人でした。

 今日も、神様に希望をいだいて、前向きに歩む日となりますように。

 たとえ、今日がつらい日であっても、そうです、上を向いて歩いていれば、希望の♪「明日がある」のです。

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2007年6月14日 (木)

師事

  中学生か、高校生のころ、音楽家の伝記などを読んでいて、「彼は誰々に師事した」という表現に出会いました。文字からは、こちらが誰かの師匠になって教えること、というような印象を受けたのですが、文脈からは逆になるように思って、意味を調べて確かめたように思います。   先ほど、広辞苑で確かめましたら、し‐じ【師事】 師としてつかえ、教えを受けること。となっていましたので、「ベートーベンはモーツアルトに師事した」というような遣い方でいいのだと思います。

 さて、私は、このたび、ある方にピアノを師事することにいたしました。定年退職したら、ピアノのある夜のスナックで懐かしのメロディや映画音楽、そして演歌などを弾くのに雇っていただけるという、冗談半分の会話をマスターと交わしたりしていたのですが、私よりも早く、そのお店のほうがリタイアしたので、実現にいたりませんでした。

  よくよく考え、そして自分のピアノの力量を省みると、指は真面目に楽譜をたどろうとするとずっこけやすくなっていますし、指使いを正確にと思って楽譜を見ると、細かい数字を見るのに目は戸惑いがち・・・用いる和音やパターンは固定しがち・・・という老化とマンネリのコラボレーション状態です。建物でいうと、メンテナンスが行き届かず、シロアリの侵蝕が進行中という状態でしょうか。

 これでは、いかん、と一念発起して、よいお師匠さんはいないかと思いめぐらし、ある方に弟子志願状なるものを持参いたしました。今、ファーストレッスンに備えている期間です。

  お年寄りの集まりで、童謡や懐かしのメロディを伴奏することなどを依頼されたということもあり、教会の礼拝では讃美歌のオルガニストでもありますので、腕を磨くこと、少なくとも老化の下り坂を転げ落ちるのでなく、少しはゆるやかにすることができるようにと願って、ピアノに向かう時間を努めて設けるようにいたします。

 こう、決意して脳裏に浮かんだのが「六十の手習い」ということばです。昔の人は、いいことばを残してくださっていますね。これまでは、「六十の手習い、毎日の手洗い」などと思っていたのですが、心を改めることにいたします。以前に比べたら、六十というのは比較的若い年齢という感じでもありますし・・・・。

聖書のことば  ゼカリヤ書 第14章 7節

 そこには長い連続した日がある(主はこれを知られる)。これには昼もなく、夜もない。夕暮になっても、光があるからである。

 この聖書の文脈は、特別な日のことを指しているのですが、拡大解釈して希望を強めさせていただくことにいたします。

 教わりにいくとなると、それだけ自分なりに練習と工夫をして臨むことになります。

  人間、おとろえは足から来るといいますから、土台をしっかりするためにもウオーキングを再開して、体力作りにも意を用いたいと思います。

 今日も、坂を下るのでなく、神様に力をいただいて、よき歩みを積むことができますように。

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2007年6月13日 (水)

アンネの日記

  昨6月12日は『アンネの日記』で知られるアンネ・フランクの誕生日でした。1929年生まれで、収容所で亡くなったのが1945年・・・何と短い命だったことでしょう。

  ドイツに占領されたオランダのアムステルダムの隠れ家でアンネとその家族など、計8人のユダヤ人が息を潜めるようにして暮らしたのですが、ついにゲシュタポに急襲され、秘密の扉が打ち破られようとするとき、映画「アンネの日記」でミリー・パーキンスの扮するアンネはこう言います。「今までは、不安の中で暮らしてきましたが、これからは希望に生きられます。」

 アンネの死後、『アンネの日記』、『アンネの童話集』が出版されました。また、インターネットの百科事典、ウイキペディアで調べたのですが、彼女の名に由来する小惑星アンネフランク、そして「スベニア・デ・アンネフランク」(アンネの思い出・形見)という名前のバラがあります。これは、ベルギーの園芸家が作った新種のバラで、アンネの父オットー・フランクに贈られたものだそうです。1972年12月に、オットー・フランクより10本が日本に贈られ、さらに、1976年3月再び10本が贈られ、日本全国で「アンネのバラ」として育てられているとのことです。

  アンネは日記と童話、星とバラにその名を留め、平和への願いを語りかけ続けているように思われます。

聖書のことば  マタイによる福音書  第5章 9節

  平和をつくり出そうとしている人は幸福です。 そういう人は神の子供と呼ばれるからです。

 今日という日、家庭において、職場において、平和をつくりだす人となることができますように。

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2007年6月12日 (火)

映画通?

  映画「めぐり逢い」をTVで見ました。デボラ・カーとケーリー・グラント主演です。天国に一番近いところ、という台詞と共にエンパイア・ステートビルが登場しているのですね。後年「めぐり逢えたら」(メグ・ライアンとトム・ハンクス)が作られる素地ともなった名作です。

  最近では、映画の本数も多く、見たいと思ってもなかなか映画館までは行けませんが、以前は結構、映画通だったことを思い出しました。特にミュージカルについては・・・。

 デボラ・カーは、「王様と私」の家庭教師役でユル・ブリンナーと共演し、他には「クオ・ヴァディス」「ジュリアス・シーザー」「キング・ソロモン」などに出演し、気品のある美しさで人気を博した女優です。

 ちなみに「王様と私」のデボラ・カー、「ウエストサイド・ストーリー」のナタリー・ウッド、「マイ・フェア・レディ」のオードリー・ヘップバーンの歌の部分の吹き替えを務めた人は、同一人物で、マルニ・ニクソンです。

 この三つのミュージカルでは姿を現さなかった彼女がついに登場したのが「サウンド・オブ・ミュージック」の尼僧役でした。

 ・・・ということを知っているのが一つの自慢ですが、私が知っているくらいですから有名な話なのかも知れません。

  カトリーヌ・ドヌーヴが主演した「シェルブールの雨傘」は台詞が全部歌になっていたことも話題を呼びました。音楽を担当したミシェル・ルグランが来日し、この方と喜々としてこの映画の主題歌を協演していた羽田健太郎さんの姿は長く私の心に残ることでしょう。

聖書のことば  詩篇  第126編  5節  

  涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。

 「いやー、映画って本当にすばらしいですね」 そして、音楽もすばらしいですね。「さよなら、さよなら、さよなら」・・・

 さて、今日も神様に祝福していただいてよき日となりますように。

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2007年6月11日 (月)

羽田健太郎さん

  「題名のない音楽会」の司会と演奏者を続けてきた羽田健太郎、愛称ハネケンさんが6月2日になくなり、6月10日のこの番組は、ハネケンさんの名演奏の場面を放送しておりました。

  ハネケンさんは58歳と4か月少し・・・テレビの画面でにこやかに話し、華麗にピアノを弾き、指揮をする姿を見ていると、何か、ことばにならない思いがこみ上げて来ました。

  ハネケンさんのことだけでなく、かつてピアノを連弾したり、一緒にアマチュアのオーケストラで演奏したりしたことのあった若くして逝去した友だちのことなども思い出しました。

  けれど、せっかくの追悼番組を見ていて心が沈んでいてはいけませんね。心の元気を回復して、希望と喜びをいだき、下に引用する聖書のことばにある「新しい歌」を歌い、あるいは奏でられるように、神様から力をいただきたいと思います。 

聖書のことば  イザヤ書 第42章 10節

  神様に新しい歌をうたいなさい。 地の果てに住む人たちは、こぞって神様をたたえる歌をうたいなさい。 海も、海の向こうの遠い国々に住む人たちも、こぞって歌いなさい。

  人のこの世での命には限りがあります・・・それだからこそ、これからますます、生きている間に、周囲の人と心を響かせ合う時間・・・必ずしも楽器での協演に限定せず、会話や協働作業・・などなどを大切にして歩みたいとの願いが私の中で強まっています。

  ♪日はまた昇る・・・今日もよき一日となりますように。

  

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2007年6月10日 (日)

自由が丘

 『窓ぎわのトットちゃん』に描かれているトモヱ学園の前身は自由ヶ丘学園・・・その学園のあったところに所有者の厚意から土地が与えられて1988年、記念の碑が建てられたということが『不思議の国のトットちゃん』黒柳徹子著・新潮社(2005年5月30日発行)に書かれているのを読みました。今、東横線の駅の名に「自由が丘」の名が文字通り名残(なごり)をとどめているとのことです。

  学園があったことの記念碑を覆う布を引くのは卒業生の中の三人、黒柳徹子さんと、有名なバレーリーナである谷桃子さん、そして、現在NHKで再放送中の「さくら」のハワイのおばあさん役、津島恵子さんだったそうです。ちなみに自由ヶ丘学園とトモヱ学園の卒業生は合わせて百数十人なのだそうです。

  有名な人がでるかどうかは、学校の規模の大小や歴史の長さによるのではない・・・そんなことを思いました。唐突かもしれませんが、松下村塾を訪れたときにもそのように思ったことを覚えています。

  黒柳徹子さんが単位時間に口にすることのできる文字数同様、著書の一章、一章の情報量は多いと感じました。しばらく前に読んだ『マイフレンズ』も、越路吹雪さんや渥美清さん、そしてユル・ブリンナーなど多くの方との親交が描かれているのを驚きながら読んだものでした。

 1984年以来、ユニセフの親善大使としても広い範囲にわたって足を運び、中身の濃い活動を展開しておられることをご存じの方は多いことでしょう。日本におけるテレビ女優第一号ということもありますが、テレビだけでなく、黒柳さんの本も、まだのかたはぜひお読みになってください。

  戦争や饑餓、津波など深刻な題材もありますが、そこでくじけることなく前向きに呼びかけながら歩んでおられるたくましさが伝わってきます。

聖書のことば  ヘブル人への手紙 第10章  23節

  いま私たちは、神様が約束してくださった救いを、希望をいだいて待ち望むことができます。 今や私たちは、一点の疑いもなく、救いが確実であることを、だれにでも話せます。 神様のことばは、必ず実現するからです。

  黒柳さんは、自分がスポーツ関係の知識に弱く、ゴールキーパーをゴールドキーパーだと思いこんでいたり、「ホームランのサインはどう出すのですか?」と尋ねて「(ホームランは打てと言われて打てるものではないので)そういうサインはありません」と教えられたりしたことも隠さずに書いておられます・・・そういう飾らないところが、また大きな魅力になっているように思います。

 きょうは、日曜日です。キリスト教会へ行くことが出来る方はどうぞおちかくの教会の礼拝にお出かけくださいますように。

 天候が不安定ですけれど、どうぞ体調をくずさないようになさってください。

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2007年6月 9日 (土)

オールド・ルーキー

  録画しておいた「オールド・ルーキー」という映画を見ました。けがをしてプロを引退して教師となり、高校生の野球チームの監督をしていた人が、若い頃より速い球が投げられるようになっているのに気がつきました。率いるチームにこの監督が「夢を持て」と語ると、「じゃあ、俺たちが優勝したら、監督も自分の夢・・・大リーガーになることに挑戦するか」と逆襲され、OKと応えます。弱かったチームは連勝し、選手たちから「今度は監督の番だ」と励まされます。

  この監督は入団テストに挑戦し、若い頃の球速は138キロだったのに実に158キロを記録します。まずマイナーリーグの選手になり、そしてついに昇格してメジャーリーグの選手となって2シーズン活躍するのです。

  感動したのは、この映画の主人公ジミー・モリスが実在の人物ということ、つまり、この映画は実話に基づいて制作されたということです。

 「夢を失うとき人は老いる」・・・その対となるのは「夢を抱き続ける限り人は老いることがない」ということばです。

  人間は生きている限り人生の現役・・・定年退職した私にも、大いに希望を与えてくれた映画でした。

 オールド・ルーキー・・・まだまだ老け込まずに情熱と希望をもって新しい自分作りにチャレンジし続けたいと思います・・・なんだかチャンバラ映画やカンフー映画などを観て映画館から出てきた人がしばらく映画の中の人物になりきった気分でどことなく歩き方などに力みが感じられるような状態に近いのかもしれませんけれど・・・。

聖書のことば  コリント人への手紙 第二 第4章16節

  私たちは決して落胆しません。 肉体はしだいに衰えますが、うちにある力は日ごとに強くなってゆきます

 泉に連なっている川は涸れることがありません。本当に信じられるものに根ざした人生は先細りになることなく、本人と周囲に新たな力が満たされつつ歩めるのだと思います。

 夢ある限り、人は老いない・・・さあ、今日も元気に歩むことができますように。ヤング・ルーキーはもちろん、ミドル・ルーキーも、そしてオールド・ルーキーも・・・

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2007年6月 8日 (金)

六月の別名たち

 もう、6月も8日まできたのですね。「水無月」というのは、旧暦六月は夏の盛りだったことから水が涸れる月という説と、田に水をひくので「水の月」という説、そのほか田植えなどの農作業を「みなやりつくした・・・皆し尽き」という説などがあるそうです。

 ほかに「松風月」「涼暮れ月」などとの呼び名もあるそうですが、そうした中で、暑くなったので風が恋しいという気持ちを込めて「風待月」という呼び方は、味があると思いました。

  私たちの人生、暴風は願い下げにしたいですが、心地よい風、順風が吹いてくれると嬉しいですね。

聖書のことば  伝道者の書 第1章

  風は南に吹き、巡って北に吹く。 / 巡り巡って風は吹く。 / しかし、その巡る道に風は帰る。
川はみな海に流れ込むが、 / 海は満ちることがない。 / 川は流れ込む所に、また流れる。

  「海は満つることなし」・・・若いときの深夜のラジオかテレビ放送の終了時、この一節が朗読される局があったように思います。

  風立ちぬ、いざ生きめやも・・・ 堀辰雄の名作の結びのこのことばも、おりにふれて脳裏に浮かびます。

  自然の力が満ちていく季節・・・私たちも日々、実を結ぶ時を描きつつ希望をいだいて歩んでまいりましょう。収穫の時期は同じではないかも知れませんけれど、いつか実を結ぶときがくるということでは思いを一つにして歩むことが出来るのではないでしょうか。  今日もよき日となりますように。

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2007年6月 7日 (木)

ある画家の話

  6月7日は、ゴーギャンの誕生日だそうです。1848年生まれ、画家になったのは、35歳の時・・・今でいう脱サラ。「私は野蛮人だし、今後も野蛮人のままでいるつもりだ」とのことばが有名。文明社会に訣別し、タヒチへ。

  私たちにも、キャンプに出かけたり、山に登ったり、海に泳ぎに行ったりと自然に憧れる心はあり、都会を離れて山里に住まいを移り住んだりする人の話もよく耳にします。

  いろいろな物が欲しくなったり、ますます便利な生活のために器具を購入したくなっりするということと自然の中での生活への回帰願望・・・きっと一人一人の中でバランスがとられるのでしょうね。

  花や野菜を丹誠込めて世話しておられる知人、友人は、総じて健康で、穏やかに思われます。

  けれど、自分には根気よく植物の世話をし続けることは難しいように思われます。花をいただいたり、野菜をいただいておいしさを味わう役どころに今のところ喜んで着任していますが、さて、この先、どのように舵をとることになるでしょうか。

  ちなみに、昨日は積み立てのイチゴと新鮮なレタスをどっさりといただき、幸せを味わわせていただきました。

聖書のことば  コリント人への手紙 第一  第3章6節

私(パウロ)が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

 パウロという人は、最初はクリスチャンを迫害していたのですが、イエス・キリストを信ずるようになり、命をかけてイエス・キリストの愛をのべ伝えるようになった人です。新約聖書のおよそ半分を神様に用いられてパウロは書きました。アポロは、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なユダヤ人で聖書に通じているひとだったことが使徒の働き(第18章24節)に書かれています。

  初代の教会を築き、多くのクリスチャンを誕生させたその功績をパウロは、自分やアポロやペテロなどの個人の誰かのものだと主張することなく、神様に栄光を帰しているのですね。

  今日の一日、私たちも自分を誇るのでなく、謙虚に神様に栄光を帰しながら、しかし、力強く歩みたいと思います。

 

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2007年6月 6日 (水)

麦の秋

0002  6月6日は楽器の日・・・昔から、邦楽や踊りなどの芸事は、6歳の6月6日から始めると上達するといわれていることから、1970年に全国楽器協会が制定・・・とのことです。

 「麦秋」という小津安二郎監督の映画もありますが、麦の収穫期の今ごろをいうそうです。

  知識としてだけでなく、目で見ると印象に残りやすいと考え、今朝、色づいて収穫を待つばかりの麦畑の写真を写してきました。雲雀(ひばり)もさえずり、田植えの終わった田には青い苗がしっかりと根付き・・・6月もなかなか、よい月だなあと感じました。

  麦畑を見ることも少なくなりましたが、写真は岐阜市の芥見小学校の東側一帯を写したものです。

聖書のことば  ヨハネによる福音書 第12章 24節

  畑にまかれる一粒の麦のように、わたし(イエス・キリスト)も地に落ちて死ななければなりません。 そうしなければ、いつまでたっても、一人のまま、一粒の種のままです。 だが、死ねば、多くの新しい実が生じ、新しいいのちが豊かに実を結ぶことになります。

 これは、イエス・キリストが十字架の上での死を遂げること、そして、それを通して神様の愛が現されて神様を信じる人がたくさん興されてこの世での人生に豊かな実を結ぶようになることを述べています。

  さて、今日の一日、すぐに収穫の刈り入れはないかもしれませんが、仕事、生活を通してよき種を蒔く歩みが出来ますように。

  楽器や何かの習い事をしておられる方、厳しい練習を通して、すてきな花を咲かすことが出来ますように。

  ピアニストで作曲家でもある羽田健太郎さんが亡くなり、少し、しんみりした心でいますが、元気に私も歩みます。ある方が私をハネケンさんに似ていると言ってくださったことがありました。もちろんピアノの技倆など私は遠く及ばないのですが、ハネケンさんの演奏を見るなどして励みにしている面もありました。今度、お年寄りの方と懐かしのメロディを楽しむ会のお世話をさせていただく機会もありますので、毎日ピアノに向かうよう、心がけたいと思います。

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2007年6月 5日 (火)

伝統を引き継ぐとは

  百年以上も続いている老舗のご主人が「のれんを守るとは、日々、新しいことに挑戦し続けることです。決して先代のやっていたことをそのまま引き継ぐことではありません。そんなことをしていたら、すぐ店は古びてしまいます。」と語っていました。

  先人のしていたことではなく、先人の求めていたところを求める・・・情熱の炎を受け継ぐつもりで、炎の燃えかすである灰をかき集めるようなことにならない歩みを築きたいと思います。

 私たちの歩みが、惰性に陥らないで、日々新しい情熱の炎に燃えて前進していくことができますように。

聖書のことば  コリント人への手紙 第二 4章 16節

  私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

 今日の歩みを納得のいくものと為すことが出来ますように・・・、そして神様がそのために必要な力を満たしてくださいますように。

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2007年6月 4日 (月)

思い出の一年生たち

  虫歯予防デーを迎えると思い出すことがあります。38年の教職生活で一度だけ小学一年生を担任したときのことです。

 小学一年生というと、給食を時間内に食べ終わらせるのにも苦心する場合があるのですが、なぜか、そういうことでは苦労のない子たちでした。(食べることの好きな担任ゆえ、という声が聞こえてきそう・・・)

 ところが、その日は、いつもと様子が異なっていました。食べ終わるのにとても時間がかかったのです。どうしてかなと不思議に思ったら、何と子どもたちは一口ごとに「1,2,3,4・・・・」と勘定しながら食べているのです。

 実は、その日は6月4日、虫歯予防デーでした。その日の朝、子どもたちに私は「小学生の時、歯医者さんが丈夫な歯でしっかり噛んで食べることが健康な体を作ります。一口、30回噛むといいのです、という話を聞きました。」と話したのでした。子どもたちは、それを給食時間に実行していたのです。話した私は、そう話したことも忘れかけていたというのに・・・。何と素直で可愛い子どもたちだったことでしょう。

 そのときの小学校では、もう少し上のクラスを受け持ったときにも心に残っている場面があります。給食時間になると持ってきていたフィルムのケースの砂糖で砂糖水を作り、給食を食べる自分の横でクワガタムシなどにその砂糖水を与えていたのです。牛などの世話をする子どもたちでしたから、昆虫にも優しかったのですね。

聖書のことば ルカによる福音書 第16章 10節

  小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実です。 小さなことに不忠実な人は、大きな責任を与えられても、忠実に果たすことはできません。

 そのときの小学生たちも、今では成人しています。きっと家族を大切にし、周囲の人を愛し、責任をもってしっかりした仕事を果たしていることでしょう。それは、彼らが幼いときから家庭の中で愛されてはぐくまれてきたことの所産だと思います。親さんがたも、「うちの地域の子はスクールバスで通わせてもらっているけれど、学校まで乗せるのでなく、途中でおろして歩かせてくれ。」というような、子どもを鍛えることに見識のあるかたたちでした。

 小さな歯を大切にすることは健康な生活の大きな土台です。そして、日々聖書を読むことは、神様からたった一度限りで招待されているこの世での人生を生きるための確かな糧(かて)となります。

 今日も、神様に祝福をいただいて、よき一日となりますように。

 

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2007年6月 3日 (日)

衣更え

  6月1日は衣更えの日でした。でも、どうしても、というわけではなく気温や体調に合わせて半袖でも長袖でも一人一人が主体的に選べばいいのですよね。

  衣を替えると、それなりに内面の構えがうながされるのか、心も一新したような気持ちになる面もあります。

  「馬子にも衣装」を今では「孫にも衣装」とは物入りで大変なこっちゃと勘違いされる人もあるかもしれませんが、形と内面とは相互につながりあっている面があると思います。

聖書のことば  ヨハネによる福音書 第3章 3節

 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできません。」

 心替えは衣更えよりも難しいとお思いになるかもしれませんが、イエス・キリストを私たち一人一人のために身代わりになって十字架にかかってくださった方として受け入れるとき、その人は新しく生まれることになります。

 今日は、日曜日、どうか、お近くのキリスト教会へお出かけになってイエス・キリストと出会ってくださいますように。  教会に行くことができない方も、よい一日となりますように。

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2007年6月 2日 (土)

お礼肥え

  花が咲き終わったあとなどに肥料を施すのを「お礼肥え」というのだと教わり、何とすてきな行為、そしてすてきなことばなのだろうと感じました。よく綺麗な花を咲かせてなごませてくれたね、ありがとうという心が込められているのですよね。

  これは一つの成果が出たときに、「よーし、終わった」という気持ちになると同時に、次の実りに向けて布石をする、ということでもありましょうが、まずは感謝の心を前面に出しているのがすてきだと思ったのです。

聖書のことば  ルカによる福音書 第17章 12節~19節

  ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 上の箇所で重い皮膚病となっているところは、以前は「らい病」と訳されていたことばです。

 十人が治していただいたのに、お礼に戻ってきたのは一人だけでした。

 「苦しいときの神頼み」をすることは人にはあると思います。けれど、その苦しさが解消されたときに、心からの感謝を神様にささげること・・・これができにくいのが人間なのですね。

  三浦綾子さんは、書いています。がんと闘っている人は、この病が治ったらどんなにいいことだろうと心から願っている。では、がんでない健康な人は、自分ががんでないことを同じ真剣さで心から喜んで感謝しているだろうか・・・そういうことを考えもしないで、何か別のことを願っているのではないだろうか・・・

 せっかく「お礼肥え」というすてきなことばから書き始めたのに、我田引水が過ぎる内容へと進んだかも知れません。お許しください。

 気温の変化が大きく、所によってはものすごい大雨が降った今週でした。よき休養とリフレッシュの時をおすごしになることができますように。

 

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2007年6月 1日 (金)

六月のスタート

 新しい月となりました。赤毛のアン流に申しますと、「まだ失敗のない月」ということになります。何だか、希望が湧いてきますね。

聖書のことば 詩篇 第118篇 24節

   きょうこそ、主がお造りになった日です。 さあ、この日をぞんぶんに楽しみましょう。

  「日々これ好日」ということばがあります。最近では招待状などに「何月吉日」と印刷されることが少なくなってきたように思います。「吉日」と改めて書くと、そうでない日もあるということを認めることになるからではないでしょうか。

 神様が、悪い日と定めている日はありません。今日というこの日、そしてどの一日一日も希望をもって歩み出し、新しい命の一歩一歩を刻んでいこうではありませんか。

  神様とともに歩んでよき一日としていただけますように。

 

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2007年5月31日 (木)

煙にまかないで

  5月31日は世界禁煙デー・・・国連の世界保健機関(WHO)が、世界人類の健康のためにと1989(平成元)年に設けました・・・とのことです。

  タバコは、コロンブスがアメリカから持ち帰った悪しき習慣の一つだと言われています。

  それはともかく喫煙者は自分で出している煙を全部責任を持って自分の体で回収している訳ではありません。いえ、むしろ、喫煙者自身はフィルターを通してタバコを味わい、周囲の人はより有毒な煙が漂っている空気を呼吸することになるのです。

  先進国が、核実験を自分の国の近くでは行わないで植民地としているところの洋上で行うという身勝手さに匹敵する行為ではないかとさえ思います。・・・  タバコは小さな核兵器だとさえ、思うのですよ。

 「タバコを買うと税収に寄与することになる」と言い訳する人もいますが、その何倍もの医療費がかかるもとになっていますし、タバコが原因で火事が起こっていることもこれまた確かです。

  私は、勤めた学校で、生徒たちに「私はタバコをすったことがありません。皆さんにもすってほしくありません。最初の一本に手を出さないことが秘訣です」と話してきました。

  ある人が禁煙すれば、周囲の人を毒の煙から守るだけでなく、喫煙者自身も変わることができます。

 かつて、ジャイアンツにいた桑田選手は体を大事にし、タバコを吸ったことがないのに、レントゲンがタバコの煙で曇っていたそうです。周囲の選手がおおっぴらに喫煙する環境に置かれている時間帯が少なからずあったのでしょうね。プロのスポーツ選手がその程度の健康認識しかなく、非喫煙者のことも考えられないのか・・・とその話を聞いて情けなく思いました。

  喫煙をしている方・・・あなたを愛している人、あなたの愛している人のために、そして、あなた自身のために、ぜひ、今日だけでなくタバコと縁を切られることを心からお勧めいたします。タバコを吸わない人・・・乳児も幼児も含まれます・・・が喫煙するあなたの煙によって肺ガンになったとき、喫煙者であるあなたはどうやって償うことができると思いますか。

  冬の寒い日に、タバコの煙が部屋に充満して、やむなく換気のために私が窓を開けると「寒いなあ」と間髪を入れずに文句を言った喫煙者の無神経さに、(それだからタバコも吸えるのだ)と、腹立たしさを通り越した思いをいだいたこともあります。

  と、禁煙論を展開していますが、「煙を憎んで人を憎まず」を心がけたいとは思っています。

  それは、私自身も、タバコこそ、吸いませんが、人から見れば「あんなこともやめられないのか」という克服できないことをたくさんかかえている弱い存在であるからです。

聖書のことば  ローマ人への手紙 第7章 20節

 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

 私も含めて、こういう状態にある人間を救うために来てくださったのが、ほかならぬイエス・キリストです。

聖書 ヨハネの手紙 第一 4章 20節

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

  ぜひキリスト教会に足を運んでここに書かれている神様の愛を、受け入れてくださるようにと願い、お祈りしています。

  今日も、神様があなたとご家族を豊かに愛し、祝福してくださっていることをあなたが感じ取ることができますように。

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2007年5月30日 (水)

野菜作り

  家庭菜園と呼べるほどのものではありませんが、我が家の一角に野菜が生長しています。

 すでに実を供給してくれているのがイチゴ・・・朝の収穫は、小柄な数粒でもとても豊かな思いにしてくれます。

 このほか、シシトウ、そして苗をくださった方がいて、ナスとミニトマトが加わりました。ナスは花を咲かせたら必ず実を結ぶということでしょうか、「親の教えと茄子びの花は千に一つのはずれなし」ということばを教えていただきました。「万に一つのはずれなし」とおっしゃるかたもあります。

 「菊のこやしは主(ぬし)の足音」とも、「菊には、お米という字が入っている。やはり八十八回といわずに、とにかく足繁く世話をすることが大切」とも耳にします。

 土に馴染んで根気よく作物の声を聴きながら世話をする・・・その内に養い、育てられているのは野菜ではなく、実は自分のほうだったと気がつくことになるのかもしれません。

 児童の権利条約の根幹の精神は「すべての大人は子どもに最善のものを贈る義務を負う」ということばだそうです。

 学校に限らず、家庭・地域において、すべての大人が子どもたちをいつくしんで育てるとき、実は、育てられ、支えられているのは自分たち大人のほうだったということが実感できるようになるのではないか・・・そんなことも思います。

聖書のことば   ガラテヤ人への手紙 第6章 9節

  正しい行ないをすることに疲れ果ててしまわないようにしましょう。 失望せず、あきらめずにいれば、やがて祝福を刈り取る日が来るからです。

 聖書には、人は蒔いた種にしたがって、その実を刈り取ることになるとも書かれています。

 今日という日、神様と自分の心に恥じない種を蒔くことができますように。

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2007年5月29日 (火)

存在そのものを愛してくださる方

  「最後の晩餐」という絵をご覧になったことがあると思います。イエス・キリストは十二人の弟子たちと特別の晩餐をしてから、ゲツセマネというところに行かれました。オリーブからオイルを絞るところだったようです。

聖書 マタイによる福音書 第26章  ゲツセマネでの祈り

26:36 それから(最後の晩餐を終えてから)イエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
26:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
26:44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。

  すべての人の罪を背負って、その身代わりに十字架にかかることはイエス・キリストにとって、肉体的にも想像を絶するつらいことでしたが、それにも増して、神から隔絶される状態に入る耐え難いことでありました。それでも、「どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」と神様にゆだねて、御心にしたがったイエス・キリストの姿が描かれています。

 弟子たちは、このゲツセマネに来る前に、イエス・キリストから離れないと口々に語ったのでしたが、これから起こることへの大きな不安と悲しみがあったのでしょう、再三、イエスに「目をさまして祈っていなさい。」と言われても起きていることができなかったのです。

 イエス・キリストは、さびしかったでしょう。この世に遣わされて、一番大事な時を迎えようとしているのに、弟子たちは眠り込んでしまい、起きて祈っていることができなかったのですから。

 けれど、イエスは、「心は燃えていても、肉体は弱い」弟子たちを見捨てることなく、激怒して責めることもなさらず、十字架の死への道に進んで行かれました。弟子たちを、そして救い主としてイエス・キリストと、キリストを遣わされた神様を信ずる人たちを救うために・・・・・。

  わたしたちには、心で願っていることをやり抜き、成就する力がいつも備えられているわけではありません。起きていなければ、と思っていても睡魔に勝てず、逆に、眠りが必要なのに眠れない状態になってしまうこともあります。為そうとしていることがあるのに、やりとげることができないで病のために成し遂げることができないこともあるのです。

  けれど、そういう弱さをかかえている人をそのまま、まるごと、・・・何を成し遂げたか、あるいは何を成し遂げられなかったかということではなく、その人の存在そのものを愛してくださっているのが、イエス・キリストであり、キリストを遣わされた神様なのです。

聖書のことば  コリント人への手紙 第一  第13章 13節

  いつまでも残るものが三つあります。 信仰と希望と愛です。 その中で一番すぐれたものは愛です。

  つらい状況の中にあっても、弱さを感じる状況にあっても、そうした自分をそのままで愛してくださっている深い神様の愛を身近に感じてそれを受け入れ、今日という日を歩むことができますように、お祈りいたします。

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2007年5月27日 (日)

DNA・・・

 今日は、私の身内の書いた文章を掲載させていただきます。

   ◇ ◇ ◇ ○ □ ○ ◇ ◇ ◇

「伝言ゲーム」

 妻から、お客さんに「コーヒーどうぞ~」と伝えてねと言われた娘。それから2度ほど練習して「コーヒーどうぞ」と言いながらやって来ました。そして、いざそのお客さんの前に来ると「あそぼ・・・・・・」。

 一部始終を知っていた私たちはなんとも和やかな気分になりました。

  子どもらしいその姿から、本音を隠して生きる方がこっけいなんだろうなと教えられました。

    ◇ ◇ ◇ ○ □ ○ ◇ ◇ ◇

 というのです。この文に出てくる娘というのは私の孫にあたり、今、一歳十カ月と少しです。

聖書のことば ルカによる福音書 第18章 16節

 イエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

 幼子に、信仰のDNAが継承され、豊かに成長できるようにと祈っております。

  さて、今日は、日曜日、ぜひ、キリスト教会にお出かけください。ちなみに私の所属している教会では、今日の午後はバーベキューをいたします。・・・それが楽しみで教会に行くのではありませんけれど、それも楽しみです。  よき祝福の一日となりますように。

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2007年5月26日 (土)

「啓発」と孔子

 これも昨日掲載の記事で紹介させていただいた『この一冊で中国古典がわかる!』の一節なのです・・・

  しばらく前まで使われていた「啓蒙」が相手より上に立って「教化してやる」というニュアンスが感じられるということから用いるのがひかえられるようになりました。

  代わって登場したのが「啓発」ということばですが、そのもとになっているのが、論語のことばだそうです。

 「子曰く、憤(ふん)せずんば啓(けい)せず、悱(ひ)せずんば発(はっ)せず。一隅を挙げて三隅を以て反(かえ)らざれば、即(すなわ)ち復(また)せざるなり」

 憤(ふん)・・・気持ちが盛り上がってくること

 悱(ひ)・・・ことばが口もとまで出かかっている状態

  上の文の意味は、相手の気持ちが盛り上がって来なかったら、手を貸してやらない。相手のことばが口もとから出かかっているのでなかったら、助け舟は出してやらない。一つの隅を示しただけで他の三つの隅にも鋭く類推を働かせるようでなかったら、それ以上の指導は差し控える。・・・

 「啓」「発」も、中に隠れているものを、開いて外に出してやること、だそうで、ここから啓発ということばが生まれたのだということです。

  本人のやる気、前向きに一所懸命学ぶことが教えるときの前提であるということで、あまりにも親切すぎる教え方は却って相手を受け身にし、ひよわな学び手にしてしまうことにもなります。

 うーむ・・・実際には見極めが難しいところがありますが、奥の深い構えですね。

 さて、明日は日曜日、キリスト教会にお出かけになれますように。

 これも、神様がお一人お一人の内に願いを起こさせてくださるときがあると思いつつお祈りしております。 

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2007年5月25日 (金)

孔子の説く「孝行」

 孔子は紀元前551年に生まれた人だそうですが、「孝行」の根本について次のように語っているそうです。(『この一冊で中国古典がわかる』守屋洋 著 三笠書房1998年7月10日発行)

 「今の孝は、これ能(よ)く養うを謂(い)う。犬馬に至るまで、みな能く養うことあり。敬せずんば、何を以て別かたんや」

 ・・・親孝行とは食べ物に不自由をさせないこと、というのが最近の風潮であるように思われる。もちろん、それは必要なことだけれど、それに尊敬する、敬愛してつかえるということがなかったら、動物を飼っているのとどこに区別があるだろうか。

 人として敬う心・・・そのことをお年寄りを介護するときにも、幼子を育てるときにも決して忘れないでいたいと思います。

  己の欲せざるところを人に施すことなかれ・・・これも論語にあることばですね。

聖書のことば マタイによる福音書  第19章 19節

 『父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』。

  人を軽んずることなく、親はもちろん、周りの人、小さな存在にいたるまで、自分と同じように大切にして今日を歩む力が神様からいただけますように。

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2007年5月24日 (木)

アイーダの作曲者ヴェルディ

  歌劇「アイーダ」には、若い頃決して上手とは言えない(いえ、はっきり言って下手でした)トランペッターであった私の血を騒がせた堂々とした行進曲があります。この行進曲の華やかな旋律を吹くためにわざわざ造られた「アイーダ・トランペット」というのがあると耳にしたこともあります。

  その歌劇「アイーダ」「椿姫」などたくさんの歌劇を作曲したヴェルディの生き方に関して、心を打たれたことがあります。

 これは、ヴェルディの生涯を紹介したテレビ番組で見かけ、インターネット上のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で確かめたことですが、それには、次のような記述がされています。 

  彼(ヴェルディ)は貧しい芸術家のための老人ホーム「憩いの家」を完成させたあと、1901年にミラノで卒中のため亡くなった。彼の葬儀は非常に多くの参列者を集め、25万人もの弔問客がイタリア音楽の最も重要な人物の一人に弔意を表した。ヴェルディと妻は、彼がユーモアをこめて「生涯最高の傑作」と呼んだ「憩いの家」に埋葬されている。

  今から百年以上も前に、年老いた貧しい芸術家のために老人ホームを造り、妻もそれを「生涯最高の傑作」と呼んだ・・・それはすごいことだなと感動しました。

  歌劇「アイーダ」は、時には本物の像なども登場して公開されることもあったほどスケールの大きな作品です。いつの日か機会があったら鑑賞し、ヴェルディの音楽に全身で浸りたいと思います。

聖書のことば 使徒の働き 第20章 35節

  また、(私、パウロは)貧しい人たちを助けることでも、常に良い手本となったつもりです。 それは『与えることは受けることよりも幸いである』という、主イエス様のことばが、いつも頭にあったからです。」

 オペラによる収益は、とても大きな金額だったようです。名前は挙げませんが、若い内にオペラの作曲で大金を手にしたためか、あるいは才能が枯渇したためかわかりませんが、人生の後半は作曲することなく暮らした有名な作曲家もいます。

 人それぞれに事情はありましょうから、他の作曲家のことは持ち出さなくてもいいのですが、ヴェルディの志が今も引き継がれて、その最高傑作である「憩いの家」は運営されているようです。何か、すてきですね。

 今日も、神様に祝福をいただきながら歩みことができますように。

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2007年5月23日 (水)

強さとは・・・

  突然の書き出しですが、このところ、人間の強さということについて考えています。

  あまりに輝いている太陽のもとでは、人は安らぎを覚えることはできません。アラビアのロレンスでもそうだと思います。

 人がくつろいで憩うことが出来るのは、たとえば木漏れ日の中、よしずの陰などではないでしょうか。

 以前、ギターの前身であるリュートという楽器を造る職人が、リュートの完成寸前に楽器の胴体にあやまってひびを入れてしまい、落胆しながらも試しに弾いてみると、何と、とても深みのある音色がして、それ以後その職人の仲間たちもどのようにひびを入れると深みのある音色になるのかを熱心に追究したそうだとの文章を掲載させていただきました。

 陽光も、リュートも完全であるよりも、むしろそうではないほうが人の心を包み、憩わせることになるのは、不思議です。

 そう考えてみると、まったく悩みのない、幸せな人生をすごしていると感じている人は、他の人の心のいたみが分かりませんから、たとえばカウンセラーなどには向かないのかも知れません。

 深い悩みを体験し、そしてそこからなおも前進しようとした苦しみを経ている人ほど、悩みの中にある人から心を打ち明けられやすく、悩んでいる人とともに歩む力を豊かに備えることになる・・・全部が全部そうではないかもしれませんけれど、そういう面があるのではないでしょうか。

  人の強さとは・・・悩みや挫折を経験しないことではなく、たとえ苦しみにあってもそこから立ち上がること、立ち上がろうとし続けることではないか・・・と思うのです。

聖書のことば コリント人への手紙 第二 第12章10節

 ・・・弱い時にこそ、私(パウロ)は強いからです。――無力であればあるほど、それだけしっかりと、キリスト様によりすがるようになるからです。

 わたしたち、一人一人は神様に愛されているVIP( Very  Important

People)です。いろいろな重荷の重さをこの世の人生にしっかりと足跡を刻んで進むための力として、歩んでまいりましょう。

 新緑の五月も下旬となりました。今日の一日も前向きに歩んでいくことができますように。

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2007年5月22日 (火)

田植えを待つ田んぼ

Photo_7  クリックしていただくと写真が大きくなります・・・(大きくなりすぎるので、研修の余地があるのですが)・・・、飛騨の高山は田植えの進行中です。遠方には雪の残る北アルプスがたたずんでいます。

 高山に帰省し、幼いときに眺めたのとあまりかわらない景観に心安らぐ思いがいたしました。

聖書のことば  詩篇 第121篇 1節 2節

私は山に向かって目を上げる。 / 私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた【主】から来る。

 今日も心穏やかに、一日のわざを進めていくことが出来ますように。

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2007年5月21日 (月)

リンドバーグ

  5月21日は、リンドバーグ翼の日・・・1927年、アメリカのチャールズ・リンドバーグが「スピリット・オブ・セントルイス号」で、世界初の大西洋無着陸横断単独飛行に成功した日・・・だそうです。

  この冒険は、映画「翼よ、あれが巴里(パリ)の灯だ」にもなりましたね。

  あまり、この快挙がすばらしかったので、リンドバーグは時の人となりました。別の映画にもリンドバーグがもてはやされたことが描かれています。その映画の中でリンドバーグが突然店にやってきたので、みんなの視線、関心がそちらに向いてしまい、その店の歌手としてデビューしようとしていた女性が自分の歌が皆にそっぽを向かれたのだと勘違いして店を去ろうとし、リンドバーグが来店したためと聞かされて思い直すシーンがあるのです。

 その女性はその後たくさんの人に愛されるようになったシャンソン歌手のエディット・ピアフ、歌った歌は、そうです、ご存じ、「愛の賛歌」でした。

 翼・・・いいことばですね。人には、誰も大きな夢があり、それに向かって羽ばたこうとする翼があります。でも、夢に向かって本気で努力していないと、いざ翼を広げて飛ぼうとしても、いつのまにか羽がなくなってしまっていた・・・ということになりかねません。

 リンドバーグは、巴里に向かって飛び立ちました。あなたの目的地は、どこでしょうか。

聖書のことば  コリント人への手紙 第一 第13章 13節

  いつまでも残るものが三つあります。 信仰と希望と愛です。 その中で一番すぐれたものは愛です。

 

 有限なこの世での命の日々、私たちは何に希望をいだいて、歩み、どこに向かっていくのでしょうか。

 神様の愛・・・大事なそのことについて知るには大空へ飛び立つ必要はありません。お近くのキリスト教会に足を運んでくださいますように。

 今日もすてきな航海となりますように  ボン・ボヤージュ !

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2007年5月20日 (日)

大樹の深き根

  みどりの豊かな季節になってまいりました。草花のみどりもそうですが、特に山々のみどりのみずみずしい生命力は目と心をどんなにうるおしてくれていることでしょう。

  岐阜市の木は「つぶらじい」ですが、頂上に岐阜城の建っている金華山の名は、このつぶらじいの葉が黄金色の花が咲いているように見えるところからつけられたとのことです。金華山は方向によっては牛が臥(ふ)しているように見えるので、古くは、臥牛山(がぎゅうざん)と呼ばれていたようです。

 みどり豊かな金華山を見て、「コタンの口笛」などの作者であり、国語教育に造詣の深かった石森延男さんは「マヨネーズをかけて食べてしまいたい」とおっしゃったそうですが、ユーモアと気宇の壮大さが伝わってくるエピソードだと思います。

 したたるようなみどりの葉を茂らせている木々は、強い根を張っています。大樹になるほどその根はしっかりしています。・・・というのは順序が反対でしょうね。地中に深くしっかりと根を張ったからこそ、地上に大樹として勇姿を現しているということなのでしょう。

 今、教育に企業のように競争原理を持ち込み、学校間の成績を競わせる動きが活発化しています。

 目に見える成果を求める性急さは、本来、「国家百年の大計」といわれる教育には馴染まないものです。目に見える成果を促成栽培的に重視することによって、目に見えないところで熟成される大切なものが切り捨てられれば、浅い根しか張っていない木が背伸びして目立とうとするようなもので、ちょっと強い風が吹けば、あっけなく倒れてしまいます。

 大きな展望を持って歩んでいない大人がどうして子どもを深い根を張った大樹のような人物に育成できるでしょうか。

  まずは、「早く芽を出せ、柿の種・・・」式の構えを改めることから始め、どんな人間に子どもを育てるのかをこそ見つめて大人が歩もうではありませんか。

聖書のことば   詩篇  第37編 23節・24節

 正しい人は、神様の指示に従って歩みます。 神様はその一歩一歩をお喜びになるのです。
たとい倒れても、それで終わりではありません。 神様がしっかり支えておられるからです。

  この世の刹那的な利害にとらわれて永遠なる神様を見失うことなく、まず大人が確かな志と展望をもって、子どもに恥じることのない一歩一歩を日々、刻んで歩んでまいりましょう。

  今日も、神様がそのような一日を歩ませてくださいますように。

 今日は日曜日、ぜひキリスト教会へお出かけください。

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2007年5月19日 (土)

誕生・・・この崇高なること

 今年の2月1日に「天使の歌」と題して下記の文章を掲載しました。ある思いがあってもう一度掲載させていただきます。

           ◇ ◇ ◇ ◇ ○ ☆ ○ ◇ ◇ ◇ ◇

 すてきな本に出会いました。短いことばと美しい絵の小さな本なのですが、魅せられてしまいました。『心の歌』文 アントニー・デ・メロ 絵 矢野滋子 出版 女子パウロ会 です。 アントニーさんはインドの方のようです。

 今日は、その中の一つをご紹介いたします。

「あなたが生まれたときに うたわれた 天使の歌声を聴こう。

 あなたの心のなかの歌に 耳を傾けなさい。」

 あまりにすてきなので、何をかいても余分になりそうですけれど

 私たち、ひとりひとりが神様からこの世にたった一度限りの招待を受けて誕生したときに、天使が歌ってくれた歌・・・おそらくその歌はそれぞれの人のための特別なオリジナルソングなのでしょう。

 その歌が心を静めるとその人の心の中から聴こえてくる・・・耳を傾けて聴いてみたくなりますね。  

      ◇ ◇ ◇ ◇ ○ ☆ ○ ◇ ◇ ◇ ◇

  上記が2月1日の掲載文です。

 「すべての赤ちゃんは、神様がまだ人類に絶望していないというメッセージを携えて生まれてくる」ということばもあります。すべての赤ちゃんがそうだということは、その赤ちゃんが育って大きくなった大人もそのメッセージをもって生きているということにほかなりません。

聖書のことば  イザヤ書 第43章 4節

 わたし(神様)の目には、あなたは高価で尊い。 / わたしはあなたを愛している。

 赤ちゃんポスト「こうのとりのゆりかご」の設置については賛否両論ありますが、神様は上のことばを聖書を通じてすべての人を愛していると語っていてくださいます。

 神様に愛されているという確信、希望、喜びをいだいて今日も、そして今日以後も歩むことができますように。

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2007年5月16日 (水)

仲代達矢さん・・・種の話

 平成12年に、その年の美濃加茂市の坪内逍遙大賞を受賞された俳優の仲代達矢さんと映画の篠田正浩監督や美濃加茂市長さんとの対談をすぐ間近でお聞きする機会がありました。

  仲代達矢さんが俳優になる前に、資本がなくても何とか食べていける仕事をと考え 、最初はボクサーになろうと思い、実際に何カ月かジムでトレーニングしたそうです。

 けれど、殴られると痛いし、人を殴るのも気が引けるということで、友人に相談しますと、「お前は顔がいいから役者になったらどうか。」と言われ、顔のことは分からないけれど、その道に進んで今日に至ったと、ユーモアを交えて語られました。今でもこの道よりも自分に合っている仕事があるのではないかという気がするとも言っておられました。俳優として数々の賞を受賞されている名優ですのに、何と謙遜なことばでしょう。

 その仲代達矢さんが奥様と力を合わせて後輩を育てる意図で続けてきた無名塾についても話されました。この人はきっと大成するぞと見込んで入塾させた人が必ずしも順調に伸びるとは限らないそうです。あまりに成長がないので「種だと思ったけれど、もしかして石を見間違ったのだろうか。」と思いかけたころに、「あっ、芽が出ているじゃないか、やっぱり石ではなく種だったのだ。」と再認識させられる経験が何回もおありだとのことでした。
 私がこの話を何人かにしたところ、「テレビで見たのだけれど、オーストラリアには山火事に遭って初めて種が発芽する植物があるそうですよ。」と教えてくれる人がありました。一人ではなかったので、きっと実在する植物だと思います。

 学校に通っているどの子どもにも可能性の種が内在していると思います。そして「先生の将来の夢は?」と突然子どもに尋ねられてどきっとした私の中にも、ひょっとすると山火事に遭ってさえ発芽していないような種がまだ眠っているかもしれません。

  人がいだく夢、願いは種と共通するところがあるように思います。夢も、願いも、そして種も、命が内在していれば、いつの日かきっと花開くときがくるのではないでしょうか。

聖書のことば  マタイによる福音書 第17章 20節

 イエスはお答えになりました。 「・・(中略)・・・ もしあなたがたに、からしの種ほどの信仰があったら、この山に向かって『動け』と言えば、そのとおり山は動くのです。 何でもできないことはありません。」

  これは、神様を信ずる信仰に基づいて願うことですから、わがままで横暴な願いも聞き届けられるということではありません。また、時を指定できることでもありません。

  けれど、神様に信頼し、心から願うならば、きっと神様は神様の選んだ方法と時に、その願いに応えてくださいます。

 今日という一日、謙虚に、しかしたくましく、しなやかに歩むことができますように。

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2007年5月15日 (火)

思わぬ余波

  ある方が、私の二男と二人がかりで大きな木の株を引っこ抜くという大仕事を成し遂げたことをブログに書いておられました。「おおきなかぶ」の民話になぞらえて楽しい文章でした。

 そのことを家内に知らせましたら、思わぬ余波が・・・「ウチの庭にも長年、気になっている株があるんだけど・・・」

  ・・・二男は趣味を「筋肉トレーニング」と公言しているほどですが、こちらは別に体に悪いところはないのですが、安静にしてごろごろしているのが好きな性分です。そういう大きな土台の異なりを越えて、久しぶりに土を掘り、株を抜くという仕事に挑戦いたしました。(別に兵糧攻めをおそれたのではなく、一家の主人としての崇高な決意からです。)

  幸い、成果が上がり、(私の息もあがりましたけれど)、にこやかな家内の笑顔に接することができました。

  人生、いつどんな形で意外な局面に立たされることがあるか、わかりません。「備えあれば憂いなし」ということわざもありますが、心していろいろなことに備えておきましょう。

聖書のことば   マタイによる福音書 第25章

25:1 天国は、ランプを持って花婿を迎えに出た、十人の娘〔花嫁の付き添い〕の話でも説明できます。
25:2 -4そのうちの五人は賢く、ランプの油を十分用意していましたが、残りの五人は愚かで、うっかり忘れていました。
25:5 さて、花婿の到着が遅れたので、みな横になり寝入ってしまいました。
25:6 真夜中ごろ、ようやく、『花婿のお着きーっ。 迎えに出なさーい』と叫ぶ声がします。
25:7 -8娘たちはとび起きると、めいめい自分のランプを整えました。 その時、油を用意していなかった五人の娘は、ランプが今にも消えそうなので、ほかの五人に油を分けてほしいと頼みました。
25:9 『ごめんなさい。 でも、分けてあげるほどはないの。 それよりもお店に行って、買ってきたほうがいいんじゃないかしら。』
25:10 こう言われて、あわてて買いに行っているうちに、花婿が到着しました。 用意のできていた娘たちは、花婿といっしょに披露宴に行き、戸は閉じられました。
25:11 そのあとで、例の五人が帰って来て、『ご主人様ーっ、戸を、戸を開けてくださーい』と叫びました。
25:12 ところが主人は、『さっさと行ってしまえ。 もう遅すぎる!』と冷たく答えました。
25:13 こんなことにならないために、目を覚まして、いつでもわたしを迎える準備をしていなさい。 わたしが来るその日、その時が、いつかわからないのですから……。

 13節の「わたし」はイエス・キリストで、「わたしが来る日」というのは、イエス・キリストの再臨の日のことです。

 イエス・キリストが再び、この世に来るときには、すべての人を裁く権威をもって来られることが聖書に書かれています。

 裁かれるのが恐ろしいから、正しく生きなければ・・・というのとはニュアンスが異なるのですが、「誰も見ていないから好き勝手に生きる」という生き方と「いつも神様が見ておられるから、心に恥じる行為、生き方は私はしないぞ」という生き方とを比べるとしたら、後者のほうがよい実を結ぶであろうことは言うまでもありません。

 今日の一日、眠る前に振り返って心に平安を覚える歩みをすることができますように。

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2007年5月14日 (月)

旬の山菜

  「タラノメ」・「コシアブラ」・「コゴミ」、そして「ワラビ」・「ゼンマイ」など、緑の勢いが加わるにつれて、山菜にお目にかかれるようになりました。

  本当は、早朝に出かけて自分で摘んでくることができれば健康面でもさらに恩恵にあずかれるのでしょうけれど、私が自信をもって収穫できるのはふるさと高山における「ワラビ」くらいなものです。

 岐阜市に住んで長くなりますが、どの山のどこに行けば、他の方の喜びを奪うことなくどんな山菜が入手できるかも見当がつきません。

  そんな我が家に丁寧に新聞紙などで包んで鮮度を保った山菜が送られてきました。大喜びで、天麩羅にしたり、マヨネーズ和えにしたりして、幸せを味わっております。「ウド」は皮もきんぴらにし、本体は酢味噌で和えました。

  こちらから請求したのではないのに、こうした旬のものをいただいて味わうことができることを心から感謝しています。贈り主は、私たち以上に喜んでくださっているようです。

聖書のことば  使徒の働き 第20章  35節

『受けるよりも与えるほうが幸いである』

  上の聖書のことばもありますので、感謝の思いを今度はこちらから表明したいと思っています。

 受けるだけで、そこからよいものを発することがなければ、霊的な死海のようになってしまいますよね。

 必ずしも物ではなく、相手の方のために心から神様に祈ることも、大きな幸いとなります。

 この一日も神様の愛を受けて、よき歩みを為すことができますように。

 

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2007年5月13日 (日)

ギフト

  大垣のロックシティの東側にリサイクルショップ「あゆみの家」というお店があります。ボーマンという宣教師ご夫妻(ご主人は天に召されました)の伝道の働きと福祉活動とが実を結んで生まれ、継続されているお店です。

 女性の衣料品が中心ですが、上物のネクタイもあり、値段は百円単位ですから、気に入った品に出会うと、たいへん幸せな思いを味わうことができます。

  同伴者に対して、「気に入る物が見つかったら、どれだけ買ってもいいよ」と、まるで自分がお金持ちのようなせりふを安心して口に出すことができる、この世で数少ないお店の一つです。日曜日と月曜日はお休みですが、火曜日から土曜日の10時から夕方まで開店していますから、場所が分かる方で、お時間の都合がつく方は一度訪れてみてください。

  ロックシティの駐車場に車を止め、リサイクルショップ「あゆみの家」とロックシティのお店に寄る、というのが我が家の楽しみのコースです。

聖書のことば  ヨハネによる福音書 第3章 16節

 実に神は、ひとり子をさえ惜しまず与えるほどに、世を愛してくださいました。 それは、神の御子を信じる者が、だれ一人滅びず、永遠のいのちを得るためです。

 リサイクルショップ「あゆみの家」は、高価な衣料をとても値打ちに提供していますが、これは、上に書いた聖書のことばにある永遠のいのちをイエス・キリストという代償を惜しまずに信ずる人に与えてくださる神様の愛を象徴しているのではないかと思います。

  いのちを維持するのに必要な空気を無償で与えてくださっているのも神様です。

  リサイクルショップ「あゆみの家」以上にお勧めするのは、キリスト教会に足を運んでくださることです。

  日曜日はぜひ、教会へお出かけください。

  今日も、そして今週も豊かな祝福を神様がそそいでくださいますように。

 

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2007年5月12日 (土)

ナイチンゲールの誕生日

 5月12日はナイチンゲール・デー・・・「赤十字の母」と呼ばれるフローレンス・ナイチンゲールが、1820年に誕生したことを記念し、赤十字社が制定・・・そして、出来事としては1898年のこの日、キュリー夫人がラジウムを発見したのだそうです。

  このことにちなんで「偉大な女性たち」と見出しをつけようかと思いましたが、「赤十字の父」アンリ・デュナン、そしてピエール・キュリーというご主人の存在も思い浮かべて、女性を強調することをひかえることにいたしました。

 これは、ことさら強調しないことでより平等に、あるいは対等にということを考えたからですが、けれど、当時の社会が女性が社会的に何かを為すことに男性と同じように道が開かれていたかどうかを考えると、敬服に値することだと思わないわけではありません。

  男性と女性は、理解し合い、敬意を払い合いつつ、よきパートナーとして家庭でも、社会でも力を合わせて歩んでいくべき存在だと思います。

聖書のことば  創世記 第2章

 地のあちこちから泉がわき出て、全地を潤していました。やがて神様が人間を造る時がきました。 まず、地のちりで体を造り上げ、それにいのちの息を吹き込んだのです。 そこで人は、生きた人格をもつ者となりました。
 それから神様は、東の方のエデンに園をつくり、そこに人を住まわせました。
  園には、あらゆる種類の美しい木が植えられています。 どれもこれも、おいしい実をつける木ばかりです。 園の中央には、「いのちの木」と、「善悪を判断する力のつく木」とがありました。
  さて、エデンの地からは一つの川が流れ出て園を潤し、それはやがて四つの流れに分かれるのでした。
  その一つピション川は、ハビラ地方全域を蛇行していました。 その地方からは、純度の高い金と美しいブドラフ(香りのよい樹脂を出す木)や、しまめのうが採れます。
  第二の川はギホンと呼ばれ、クシュの全域を流れる川です。
  第三がティグリス川で、アシュルの町の東側を流れていました。 そして第四がユーフラテス川です。
  神様は、人をエデンの園の番人にし、その管理を任せました。
ただし、一つだけきびしい注意がありました。 「園の果物はどれでも食べてかまわない。 だが『善悪を判断する力のつく木』の実だけは絶対にいけない。 それを食べると、正しいこととまちがったこと、よいことと悪いことの区別について、自分勝手な判断を下すようになるからだ。そんなことになったら、必ず死ぬ。」
 ところで、神様はこう考えました。 「どうも人が一人でいるのはよくない。 彼を助ける者がいなくては。」
  そこで、土からあらゆる種類の動物と鳥を造り、アダムのところへ連れて来て、名前をつけさせました。 それぞれみな、アダムがつけたとおりの名前をもらいましたが、アダムの助けになるようなものは見あたりません。

  そこでアダムをぐっすり眠らせ、その体から肋骨を一本取り出すことにしました。 取ったあとをきちんとふさぐと、
その骨で女を造り、彼のところへ連れて来ました。
「ああ、これならぴったりです!」 アダムは思わず叫びました。 「まさに私の半身です。 そうだ、『男』から造ったのだから、『女』と呼ぶことにしますよ(一種の語呂合わせ。ヘブル語では男をイーシュ、女をイシャーと言う)。」
人が両親のもとを離れて妻と結ばれ、二人が一体となるのは、こうした背景があるからです。

  創世記は、66の書物から成る聖書の一番最初に位置しており、天地創造から書き起こされています。

  創造論か、進化論かという課題については私にお答えする力はありませんけれど、上に紹介した聖書の記述は学術書として書かれているのではないことは確かです。

  大きな課題に対しては、性急に結論を出さないで時間をかけて取りくみ続けることが大切です。

  宇宙や生命の誕生について創造論、進化論それぞれがどう考えているのか、今、世界ではそれぞれの考え方についてどんな議論があり、いろいろな国の教科書はどうなっているのかなど、解決済みではなく、進行中といってよいかと思います。

  聖書に書かれていることは非科学的、と一笑に付すことは、それこそ科学的に公正な態度とは言えないのです。たくさんの科学者が、その学んだところを通じてクリスチャンになりました。

  クリスチャンであった人が、科学を学ぶにつれ、聖書から遠ざかった例もあるのかもしれません。

 けれど、大切なのは「こういう例があるから」ということではなく、あなた自身が、聖書を読み、科学を学んでどう結論を出すかということではないでしょうか。

  その意味からも、お近くのキリスト教会に足を運ばれることをお勧めいたします。

  ナイチンゲールから書き始めてこういう展開になろうとは、私自身思っていませんでした。こうした書き手の文章にここまで忍耐強くつきあってくださって、本当にありがとうございます。

  今日も、神様が一人一人の歩みを、光で照らして導いてくださいまうように。

  

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2007年5月10日 (木)

くじけないエジソン

  AMラジオ(周波数1431)の岐阜ラジオでは月曜から土曜日まで「さわやか世の光」という聖書からのメッセージの聞ける番組を朝6時10分から放送しています。

 今朝は、エジソンの話がそのなかにありました。エジソンの研究所などが全焼したことがあります。彼の息子はエジソンが失望、落胆し、再起できないのではないかと気遣ったのですが、エジソンは「失敗も皆、燃えてしまった」と生き生きと活動を再開し、火事のあと、3週間後には蓄音機をこの世に送り出していたとのことです。

( 高校生の頃に私が読んだ伝記には、このときの火事の原因はエジソンの頭脳をおそれたヒットラーのなせるわざではないかとのうわさも流れたとありましたけれど、真偽のほどはわかりません。)とにかく、エジソンは火事にも負けなかったのです。

聖書のことば  ローマ人への手紙 第5章

(私たち・・・パウロたちは)患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

  苦しいことに出会うことはおそらく誰の人生においても避けられないと思います。けれど、そうしたときにさえ、あるいはそうした時にこそ、望みをいよいよ燃やして歩むことができる力を神様は与えてくださいます。

 闇夜を進むときこそ、光は大きな働きを果たします。

 日曜日にはキリスト教会を訪ねてみられることをお勧めいたします。

 今日も、一人一人がそれぞれの人生において、また職場などでの持ち場において、困難に負けず、光をはなつことができますように。

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2007年5月 7日 (月)

整理・整頓

  「人生の貴重な時間の何分の一かは、捜し物をする時間である」というような統計があるそうです。

  そして自慢ではありませんが、私はその平均値を上回っている自信があります。

  ほかにこうした自信があるのは、エレベーターの定員数で制限重量を割った値よりも私の体重は上回っているということくらいなものです・・・などということは特に書かなくてもいいのですよね。

  今日は、私とはまるで対照的に片づけ物が三度の食事よりも好きな家内に、ふだんは遠くにいる息子という強力な働き手が現れて、以前から気にかけていたタンスなどの大物をすっすと動かしてくれたので、ずいぶん家の中がすっきりしました。

  家内が「さあ、家の中の余分なものを片付けるぞ」という目をして張り切っているときは実に嬉しそうな表情をしています。そして実際に家の中がすっきりすると私もすっきりした気分になるのです。遅まきながら、私自身も整理する能力、シンプルライフを創出する力を育てていこうと思います。

聖書のことば  イザヤ書 第43章 4節

わたし(神様)の目には、あなたは高価で尊い。 / わたしはあなたを愛している。

  ほかならぬ、創造者である神様が私たち一人一人を愛してこう言ってくださっているのです。ですから、不安の中でなく、明るい希望の中を今日も歩ませていただこうではありませんか。

 エイエイオーッ 連休明けもこわくない。今日も神様の祝福が豊かにいただけますように。

 でも、やはり、私自身も整理能力を、遅まきながら伸ばしていこうと、すっきりした家の中で呼吸しながら今は思っています。

聖書のことば  イザヤ書 43章 4節

  わたし(神様)の目には、あなたは高価で尊い。 / わたしはあなたを愛している。

  神様が、私たち一人一人を愛してこのように言ってくださっているのです。ですから、棄てられたり、整理されたりするのではないかと不安を抱かずに、安心して神様を信頼して今日も歩んでまいりましょう。

 

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2007年5月 6日 (日)

五月の雨

  ゴールデンウイークの最終日、岐阜では雨の一日になりました。

  五月の雨からの連想で、五月雨を広辞苑で引いてみました。

五月雨・・・さつき‐あめ【五月雨】 「さみだれ」に同じ。夏の季語

さ‐みだれ【五月雨】
(サはサツキ(五月)のサに同じ、ミダレは水垂(みだれ)の意という)
陰暦5月頃に降る長雨。また、その時期。つゆ。梅雨。さつきあめ。夏。古今和歌集(夏)「―に物思ひをれば」。奥の細道「―をあつめて早し最上川」
(のように)途切れがちに繰り返すこと。「―式」「―スト」
→―‐ぐも【五月雨雲】
広辞苑 第五版 (C)1998,2004  株式会社岩波書店

  と載っており、旧暦だと6月になるので、つゆということになるのでしょうね。

 ついでに「五月蝿」はうるさいと読み、追っても追ってもしつこく戻ってくるハエをあてたものと思われます。

 ある方が、「5月6日の5と6の語呂合わせで、ごろごろしてすごします」というメールをくださいました。連休のフィナーレの日、英気を養うためにごろごろの日というのを家庭によっては設けるのもいいかもしれませんね。

  中国のことばに、尺取り虫は伸びて進むために縮むという意味の表現があります。人間を尺取り虫になぞらえるのには、ためらいがありますが、張り詰めすぎた弦はよい音を奏でることができませんので、適度に休養することは、人生の達人になるために大切なことだと思われます。

 えっ、あんたのようにいつもゆるんでいてもあかんのではないかって・・・いえ、私だって、見かけよりは励んでいるつもりです。あの野球漫画の名作『巨人の星』で星飛雄馬のライバルである花形満も言いました。「優雅に浮かんでいるように見える白鳥も、水面下では必死に足を動かしている。」

 ・・・と書きながら、白鳥に自分をなぞらえることは我ながら得心がいかないことに気づきました。  ということで、今日のブログは、この辺で。

 休日の日にもブログにお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

聖書のことば  マタイによる福音書 第6章  34節

 明日のことを心配するのはやめなさい。 神は明日のことも心にかけてくださるのですから、一日一日を力いっぱい生き抜きなさい。

  神様にエネルギーを充填していただいて、元気に明日に向かうことができますように。

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2007年5月 5日 (土)

陶器祭り

0001_1   土岐で5月3日から5日まで開かれている陶器祭りに行ってまいりました。数年来、誘ってくださっていたご家族があるのですが、行きたい行きたいと思いながら行けずにいた長年の願いがようやくかなったのです。

  この祭りの会期中に30万人以上の人が訪れるとお聞きしていたのですが、本当に多くの車、多くの人でした。そして驚いたのが、それ以上に多くの陶器、陶器、陶器・・・もとより、掘り出し物を見る目は私にはなく、掘り出し物を見つけるどころか、しっかりと展示してあるよい物まで目にとまらない自信があります。そうですね、掘り出し物に対して埋め戻し人とでも申し上げればよろしいでしょうか・・・

  それでも、勇気を出して、南蛮切り子のコップ、箸置き、そしてオカリナなどを購入しました。

  千円で、あるいは五百円で陶器を袋に詰め放題というコーナーもあって、本当に驚きました。

  最終日の五日は、店じまいということもあって、さらに値打ちになる光景もあるそうですが、お目当ての品がそれまで残っているかどうかということもありますので、このへんは自己責任でどうぞ。

 混み合う前に陶器祭りの会場に着くのがいいですね。私たち夫婦は4日にそのご家族に連れて行っていただいて、午前9時に着いたのですが、この時間がラッシュ前、ぎりぎりセーフという感じでした。

聖書のことば  コリント人への手紙 第二  第4章 7節

  私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

  作家、三浦綾子さんの『この土の器をも』は上の聖書のことばから名付けられた書名だと思います。

  土が、陶器師の手によって世界に二つとない陶器に形作られるように、私たち一人一人はかけがえのない神様の恵みを受け、神様の栄光を表す器としていただいたのです。

  今日は、こどもの日、一人一人のこどもに、そしてその家族に神様の祝福が豊かにいただけますように。

 

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2007年5月 4日 (金)

うぐいす

  今朝、家の近くでうぐいすが鳴きました。練習期間が終わったのか、つっかえることもなく、メロディといい、声といい、とても美しいのです。朝の目覚めにこのようにすてきなプレゼントをいただけるとは、なんとすばらしいことでしょう。

  昨日の午後、長良シンフォニックバンドの演奏会に行きました。司会者も指揮者も演奏者もすばらしく、とてもすてきな演奏会でした。特に私自身が若い頃に吹いていた楽器、トランペットがソロを吹くところでは、血が騒ぎ、心が高揚しました。

 うぐいすがうぐいすの歌を歌い上げ、トランペットがトランペットの受け持つメロディを高らかに奏でる・・・まことにすてきなことです。一人一人の人生もそうなのですね。

 学級でも、アンサンブルでも、オーケストラでも、家庭でも職場でも、一人一人がその持ち味を調和的に最高に磨き上げて発揮するとき、すばらしいハーモニーが現出します。

 聖書には、次に引用するように、一人一人を体の各器官に見立ててかけがえのない大切な存在であることが書かれています。

 今日も私たち一人一人が神様から与えられている音色で、精一杯のメロディを奏でることができますように。聖書の引用が長くなりましたので、先に思いを書かせていただきました。

聖書のことば  コリント人への手紙 第一  第12章 14節から

12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

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2007年5月 2日 (水)

カモにされる!

Photo_6   4月から、教育の道を志す学生さんのお世話をする仕事をいただき、大学に通うことになりました。広いキャンパスには緑が多く、水路にはカモもいます。学内には動物病院もあるそうです。

  カモを見ながらランチしていたら、気がつくとたくさんのカモが近づいてきてこちらのほうがカモにされそうな状態に陥っていました。早々に距離をとったのですが、最初におそれげもなく近づいてきたのはメスでした。色合いの美しいのがオスなのだそうですね。(別に他意はなく、事実をのべているだけであります(^o^)

 身内にメールしたら「明日は、ねぎを背負っていったら。」などとコメントが返ってきました。

聖書のことば     箴言 第22章  5節

  神様の教えに背く者の道には、危険な罠(わな)がいっぱいです。 自分をたいせつにする人は決して近寄りません。

  カモに囲まれたくらいで上のことばを引用するのは大げさだとお思いになるかもしれません。

  けれど、今の世の中、自分の中にある思いを清くし、そして欲ばらないようにしていないと、ねぎを背負ったカモにされてしまう危険なわながいっぱいあるように思えます。

 今日の一日も、神様に守っていただき、そしてはぐくんでいただいていることを感謝しながら歩むことができますように。

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2007年4月30日 (月)

図書館記念日

  4月30日は図書館記念日・・・説明・・・1950(昭和25)年、図書館法が公布されたことに因み、1971(昭和46)年の全国図書館大会で決定、翌年より記念日として行事を行なっている・・・とのことです。

 「ある本と自分の関係は、買って持っているかどうかでなく、読んだかどうかが大事・・・買うよりも人に借りたり、図書館で借りたりするほうが期限も意識するので、本が読めるのではないか」と大学の先生に教わりました。

  けれど、取り寄せてもらわないとない本などはなかなかこういう訳にはいかないので上の原則はなかなか貫けないものですね。

  少し前にも書いたように思いますが、子どもの学力が現在世界一といわれるフィンランドでは、公立図書館がとても充実し、そしてよく活用されているのだそうです。

  お近くに公立の図書館がありましたら、新刊書も購入を希望したりするなどして、大いに活用いたしましょう。

  「読んだ本の厚みが一年間で身長に達するほど読めるといいね」、という働きかけをし、実際にそれぞれの子が読んだ本の厚みをカラーテープで表し、つなぎ合わせて読書の足跡を視覚的に記録している先生もおられるそうです。

 えっ、私ですか・・・読む本の厚みの合計は、身長を軽くオーバーしていると思います。読んだ本の総重量が体重にまで達するように、という設定にするとどうかなあという思いがあります。・・・誰も尋ねていないのに、よけいなことを書いてしまいました。

聖書のことば  箴言  第10章 5節

  夏のうちに集める者は思慮深い子であり、 / 刈り入れ時に眠る者は恥知らずの子である。 

 あの有名な寓話「アリとキリギリス」を連想しますね。

  苦労と思わずに、歯ごたえのある本を楽しんで読めるとよいのですが・・・・・・。

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2007年4月29日 (日)

ジンギスカン

 4月29日は、羊肉の日なのだそうです。 ・・説明・・・「よう(4)に(2)く(9)」の語呂合せで、北海道のジンギスカン食普及拡大促進協議会が2004(平成16)年に制定。

  ジンギスカンということばで、ある子のことを思い出しました。

  小学校に勤めていたとき、廊下で出会った男の子が何だかいつものような元気がないように思えました。足が痛そうに見えたのです。

その子は言いました。「先生、ジンギスカンが痛い!」

  一瞬、聞き間違えたのではないかと思いました。「先生、ジンギスカンが食いたい!」と言ったのではないかと・・・。けれど、それはあまりにも状況にあいません。・・・・・閃いて聞き直しました。

「もしかして、アキレス腱が痛いの?」

  その子は、自分の言い間違いに気がついたのですね。「あっ、そう、アキレス腱が痛いの。・・・でも先生、よく分かったね。」

「足が痛そうに見えたからね。」

聖書のことば  エペソ人への手紙 第3章20節

  どうか、私たちのなしうるかぎりの祈り、願い、考え、望みを無限に超えて、つまり、私たちが大胆に願い求め、夢見ることもはるかに及ばないすばらしいことを、その偉大な力でなされる神様に、栄光がありますように。

  ジンギスカン・・・アキレス腱 というのは、たまたまの例であって、子どもたちの願い、本当に言いたいことをいつも理解できていた教師である自信は私にはありません。むしろ、慚愧(ざんき)に堪えないこと、今からでは追いつかない反省も多くもっているのです。いえ、子どもたちの心に添えなかったことにさえ気づけず、反省にさえいたっていないことがたくさんあるに違いないと思います。

  けれど、神様は、私たちの願いをはるかに超えたすばらしいことを既に私たちのために為してくださっているのです。

  今日は日曜日、キリスト教会にお出かけになることができますように。教会では牧師さんや宣教師さんが神様に祈りつつ準備したメッセージを聖書をもとに語ってくださいます。

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2007年4月27日 (金)

少子化の波を越えるくふう

  昨日、少し話題にした遠足のことをもう少し。以前勤務した学校の遠足では、1年生と6年生のコースを途中まで重ねていました。

 そして、1年生と6年生のペアで、1年生の目的地まで一緒に行くのです。同行といっても、6年生はエスコートすることになります。このとき、大半の1年生のしゃべることしゃべること・・・ほとんどしゃべり詰めになるのです。お兄さん、お姉さんが話を聞いてくれる時間、機会が得られて夢のように楽しい時間をすごす子が多いのです。

  6年生は、一年生の話のよい聴き手の役を務めつつ、車道側を歩んで1年生を守りながら進みます。1年生の目的地に着くと、そこからは6年生単独の遠足に切り替わり、6年生の目的地に向かいます。

  もちろん、1年生の担任も6年生の担任も引率しているのですが、6年生は1年生と別れると、少しのさびしさと、かなりの安堵感、解放感を覚えるようです。上級生としての自覚が育つ機会ともなるのですね。

  少子化になると兄弟が居ない一人っ子、あるいは兄弟は一人という子が多くなります。学校で学年を越えて活動する縦割り活動の時間を設けることが、以前より大きな意味をもっているように思います。

聖書のことば 箴言 第27章 17節

 鉄は鉄によってとがれ、 / 人はその友によってとがれる。

  人は、大人でも子どもでも、友だち同士によって切磋琢磨されます。付和雷同でなく、お互いを高め合うような人間関係を築き上げることに意を大いに用いたいと思います。

  今日も、お互いがよき聴き手となりあいながら、神様の祝福の中を歩むことができますように。

  

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2007年4月26日 (木)

子どもの優しさ

 春も深まり、木々の緑も勢いをましてきました。今週は遠足を実施している小学校も多いようです。

  小学校に勤めていたとき、運動場の遊具の点検を自分の体を使ってするようにしていました。ブランコ、ジャングル、平均台・・・スリムとは言い難い大人の私が乗っても大丈夫ならば、子どもたちの体重ならばもっと大丈夫ですから。

  えっ、私が乗ったためにこわれるのではないか、ですって・・・たしかに、エレベーターに乗るときは、最後の一人にならないようにできるだけ気をつけていますけれど、現在の体重は70キロ台ですよ (^o^)

  それは、ともかく、ちょっと困ったのが、滑り台につながっている円柱の中のはしごの点検です。中に入ると出られなくなるのではないかという不安を感じる太さの柱なのでちゅうちょしていると、それを察した子がいるのですね、「先生、ぼくがこの中を見ます。」と声をかけて、中に入りするすると上に登って顔を出し、「だいじょうぶです。」と報告してくれました。

 私の体型と柱についての考察について改めて何かを述べることなく、さらっと助けてくれたこの子の心、何とやさしいのでしょう。退職した今も忘れることができません。

聖書のことば  ルカによる福音書 第18章 16節

  イエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

  幼子もそのままでは神様を信じて成長するとは限りません。キリスト教会では子どもたちのためのクラス、時間を設けています。ぜひ、お子さんと一緒にキリスト教会にいらしてくださいますように。

  今日も、神様の守りと祝福の中を歩むことができますように。

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2007年4月25日 (水)

大局を見る

  こんな話を思い出しました。

  国連の事務総長を勤めたアナンさんの大学生時代に、学長がいろいろな模様のついた大きな紙を提示して、「諸君、何が見えますか?」と尋ねたそうです。

  おそらく、ロールシャッハテストに出てくるような模様だったのでしょう、いろいろな意見が出たようです。

 一つ一つの意見を丁寧に聞いて、最後に学長はこういったそうです。「どれも間違っているとは言わないが、諸君にはもっと大きな視野をもってほしいね。私は、まず大きな紙が見えますと言ってほしかったんだよ。」

  細部に注目しながらも、大きなことを見逃さない目、それはその人の生き方と通ずるものであると思います。

聖書のことば  マタイによる福音書 第16章 26節

  たとい、全世界を自分のものにしても、永遠のいのちを失ってしまったら、何の得になるでしょう。 いったい、永遠のいのちほど価値のあるものが、ほかにあるでしょうか。 

 「朝三暮四」ということばもありましたね。これも目先のことにとらわれて大局が目に入っていないことを端的に表したことばだと思います。

  永遠のいのちを神様からいただける目先のことにとらわれない大きな目、大きな心で毎日を歩むことができますように。そのために神様の守り、祝福がいただけますように。

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2007年4月24日 (火)

植物・・・この美しきもの

 4月24日は、次のような日なのだそうです。

記念日・・・植物学の日・・・植物の研究に生涯を費やし、新種・変種約2500種を発見・命名し、「植物学の父」と呼ばれた牧野富太郎さんの1862(文久2)年の誕生日に由来しています。

出来事・・・・1989年 カラヤンさんが、34年間在任したベルリン・フィルの指揮者を辞任
 
誕生日
 ・1946年 星野富弘さん (詩画作家) 

Photo_4 私は、自信をもっていえる花の名前がそれほど多くありません。でも簡単に「名もない花が咲いていた」などと書くと植物学者に「それは、新種ということになります。大発見です。」などと突っ込まれたり、叱られたりするでしょうから、できるだけ、詳しい人に名前を教えていただくことにしています。けれど、悲しいことに、教えていただいた回数とちょうど同じ回数だけ、忘れてしまうということになってきました。それはともかく、私の通っている教会の庭と、そこに咲いた牡丹・・・(多分、シャクヤクではなくて牡丹)の画像を掲載させていただきます。 Photo_5 

聖書のことば  イザヤ書 第40章 8節

 草はしおれ、花はしぼむ。 しかし神様のおことばは、いつまでもすたれることはない。」

4月24日に関係のあるカラヤンと星野さんのことはまた別の機会に・・・

 今日も神様の祝福をいただけますように。

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2007年4月22日 (日)

信仰・・・希望を生む力

  関根一夫牧師さんからのメールレターをご紹介いたします。

  私たちの人生における元気は「望んでいる事柄」を持っているかどうかで決まるようです。私たちは「希望」や「将来」についての楽しみを持っていないと、今をしっかり生きることが難しいのです。これからああしたい、こうしたい、きっとこうなって欲しいという意識を私たちはそれぞれどこかに持っています。それがどんなものであれ、今この時だけでなく、明日以降の出来事を期待し、夢をもっているかどうか、それが私たちの今を元気にします。
 逆に、それが崩れてしまったり、絶望的になると、間違いなく「生きる意欲」はそがれてしまうのです。

 ルーサーキング牧師は「私には夢がある」と語りました。それが彼の差別と戦う力でした。私たちにも、明日がこうなればいいな、来週こういうことが起こるといいな、来年こういう風に出来ていればいいなという意欲や夢や希望があるとそれに向って意欲的に生きることができるようになるのです。

 生物学者の方にお話を伺ったとき、脳の話になりました。その方が言うには、私たちの脳は、いつも難しいことや未知のことにチャレンジすることが好きなのだそうです。そして、いくらでも成長し、いくらでも難しい問題にチャレンジする力を持っているのだそうです。しかも人間が使っている脳は全体の中のほんの一部なのだと言われています。つまり、私たちの脳は、いろいろな場面で「望んでいることを確認したい」という意欲を持っているのです。
 「わからないことをわかるようになりたい」という意欲と方向性を脳は生まれながらにして持っていると言われています。しかも、それは何歳になっても失われることはないようです。新しいことへのチャレンジは何歳からでも遅すぎることはないと言われています。
人間らしい生き方のためにも、脳の活性化のために希望は重要であり、脳はそれを確認させる「信仰の役目」を担うように出来ているのです。
  望んでいる事柄は、できるだけ到達が困難なものでないと脳はスランプを起こしやすいとその先生は言っていました。入手が簡単なものを手に入れるだけでは脳は喜ばないし、満足しないのです。脳は常に私たちが最善のものを、最高のものを手に入れるように意欲を作り出しているのです。

 それをさせる力は信仰そのものなのです。つまり人間は将来を語ろうと思うとき、信仰が必要なのです。そしてすべての人に信仰が持てるように脳が作られていると考えることもできます。

    ◇  ◇  ◇  ○  ○  ○  ☆  ☆  ☆ 

  私自身の脳は上に書かれているような勤勉さをそなえているかどうか、自信が持てない面もありますが、印象に残りましたので、紹介させていただきました。

 今日は、日曜日・・・ぜひ、キリスト教会に足をお運びくださいますように。  キリスト教会に行くことができない方の上にも神様の愛がそそがれています。どうぞ、神様の祝福の中を今日もお歩みくださいますように。

※ 関根一夫先生のメッセージの全文を「続き」に引用させていただき ました。

続きを読む "信仰・・・希望を生む力"

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2007年4月21日 (土)

コミュニケーションのてだて

 4月21日は、こんな日だそうです・

 民放の日・・・ 日本民間放送連盟が1968(昭和43)年に制定しました。1951(昭和26)、日本で初めて民放16社に放送の予備免許が与えられたことに由来します。

出来事
 ・1932年 東京市内4か所に自動式公衆電話を設置
 ・1934年 渋谷駅前の忠犬ハチ公像が完成し除幕式

  ハチ公の像のことは別として、放送と公衆電話のことから、こんなことを思いました。

  放送・・・マス・コミュニケーションの手段。一度にたくさんの人に伝えることが出来る・・・ただし、一方的であり、相互に考えを伝え合うというのは、(アンケートに答える形が出てきたけれど)、一般的なところまではきていない

 公衆電話・・・双方向の通信手段。けれど、東京に4カ所というのでは使える人、使える場所がいかにも限られていたなあと思います。

 付録ですが、一番最初に自宅に電話機を取り付けた人は、いったいどこに電話をかけたのでしょうね。

 現在の携帯電話、パソコンのインターネット利用のさかんな時代とは隔世の感があります。

 けれど、もっともっと大切なのは「祈り」だと思います。「祈り」は神様と一人一人とのコミュニケーションの一番重要なてだてです。たとえ祈ることさえできないような苦しみ、悩みの状況に陥っても、神様は決して見捨てないで一人一人を愛し、呼びかけていてくださいます。

 静かに神様に祈る時を生活の中に位置づけることをお勧めいたします。装置も電力も要りません。神様は、きっと応えてくださいます。

  祈りについて、知りたい方はキリスト教会にお出かけください。最初は勇気が要るかもしれませんが聖書に次のことばがあるように、必ず門は開かれます。

聖書のことば マタイによる福音書 第7章 7節 8節

  求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
  すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

 今日も神様の祝福がありますようにお祈りいたします。

 

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2007年4月20日 (金)

木を植え、山を育てる心

  「教育は国家百年の大計」ということばもあるのに、教育改革、教育改革と、何とかまびすしいことでしょう。

  教育には、稲作、野菜作りのように1年周期のように思える側面もありますが、もっと長い期間をかけて構想して林や山を育成する林業のようなところに本質があるように思います。

  古来、木を植える人は、自分の代で利を得るのでなく、孫、あるいはその先の子孫のことまでおもんぱかって苗木を植え、雪起こしや枝打ちなどをして次代にバトンタッチしてきたものです。

  私は下呂の小学校に勤めたとき、学校林の活動に初めて参加する機会を得ました。その企画にとても熱心で、先頭に立って地味な作業に打ち込まれたのは、白髪の校長先生でした。ひのきの苗木を植えてもそれが大きくなるころには、この世にはおられないであろう校長先生が情熱をもって育林される姿に、頭が下がり、これこそ未来を信じ、自分の利害を越えて力を尽くす教育の心だ、と感じ入ったものです。

  教科書のこのページの内容が分かるように、また、ドリルのこの問題が解けるようにという思いにかられやすいのですが、子どもがどんな人間に育ってほしいかという大きな観点、遠い将来への展望をこそ大切にしたいと思います。

  即効的で促成栽培的な構えで、目先の成果にとらわれている目に応えようとすると、すぐに形に表れてこない、それだけにとても大事なものを育てる地味な歩みは切り捨てられてしまうおそれがあります。

  化学肥料とビニールハウスの効用について、異を唱えるものではありませんけれど、堆肥をじっくりと効かせて土を養い、自然の風雪に耐えて実を結ぶ露地栽培の作物の味わいを、より大切にしたいものです。

聖書のことば  第3章 23節 

 何をするにも、人に対してではなく、主(神様)に対してするように、心からしなさい。

  目先のことにとらわれず、自分を利することに走らず、小さい存在を軽んじることのない大人のみが、教育のことを論ずる資格をもつのだと思います。『国家の品格』の中で藤原正彦さんが、愛国心ということばよりも「祖国愛」ということばとその理念を自分は広めていきたいと書いておられますが、どっしりとした構えと展望を私は感じました。

  今年のNHKの大河ドラマは「風林火山」ですが、教育には特に「動かざること、山のごとし」というところが必要だと思います。「大山鳴動して鼠一匹」というようなこと、あるいは「大山を鳴動させて子どもの将来を閉ざす」というようなことは、決してあってはならないのです。

  神様に対して何かをさせていただくような構えで、子どもたちに対すること、そういう身の引き締まるような厳然としたものを教育の根底に据えていたいと思います。

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2007年4月19日 (木)

最初の一歩の日

 4月19日は「最初の一歩の日」(地図の日)だそうです。説明・・・1800(寛政12)年、伊能忠敬が蝦夷地の測量に出発したことに由来します。16年間に渡って全国を測量して歩き、日本初の実測地図作成を手がけました。

  伊能忠敬の作成した地図は、驚くほど精確だったことで賞賛されています。簡単な道具によるものだったのに精度の高い仕事を成し遂げたのですね。ごく最近、彼の地図が確かアメリカの図書館にたくさん保管されていることが明らかになったというニュースが報道されたように思います。

 千里の道もまず一歩から・・・新学期のスタートが励まされるような今日の記念日ですね。

聖書のことば 創世記 第1章 第1節

初めに、神が天と地を創造した。

  これは、聖書の一番最初のことばです。神様はこの宇宙を創られた方、そして私たちも神様によって創られた存在です。その逆であるような考え方、生き方にならないように心いたしましょう。

 「我が魂よ、神をほめまつれ」が正しい在り方で、「神よ、我が魂をほめよ」では決してないのです。

 今日も神様に力をいただいて歩むことができますように。

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2007年4月18日 (水)

DVDプレーヤー

  今まで、DVDはノートパソコンなどで見ていたのですが、迷った末にDVDプレーヤーを購入しました。

 一番の要因は、ビデオテープが増えてきて場所をとるので、何とかしたいということでした。ただし、せっかくの機会なので、アナログ放送が終了してもテレビを見ることができるように、デジタル放送の受信できるチューナーのついたDVDプレーヤーにしました。

  デジタル放送対応のテレビは、まだまだ安くなる日がきそうなので、しばらくこの体制で過ごせるようにし、現在のテレビの生き残り作戦を立てたわけです。(デジタル放送だけになるのは4年先でしたか、そんなに先のことを考えたのは、我ながら不思議です。いえいえ、単にテレビの買い換えキャンペーンに踊らされているだけとも言えましょうか。)

  おかげで、新聞の番組表でタイトルしか見ることのできなかったデジタル放送を実際に見ることができるようになりましたし、テレビの画面とスピーカーでDVDを楽しめるようになったのも嬉しいことです。そうそう、これで、「パイレーツ・オブ・カリビアン」のDVDを友人から借りて観ることもできますし、友人の送ってくれたモーツアルトのDVDをよりよい環境で楽しむこともできます。

  ただ、思うのです。楽しめるチャンネルやメディアが増えても体は一つなのだから、自分の人生の時間の使い方、心の在りどころをしっかりさせておかないと、深い生き方はできないぞ・・・と。早い話が、アナログ放送終了の時期よりも早く自分のこの世での人生は終わるかもしれないのですよね。

聖書のことば  ルカによる福音書 第12章 15節~21節

 (イエスは)人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
 それから人々にたとえを話された。 / 「ある金持ちの畑が豊作であった。 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

  人間にとって一番大切なのは、神様の声を聞くアンテナを磨き、神様に喜んでいただける生き方を日々実行することだと思います。そのためには、設備投資はほとんど要らず、必要なのは、聖書を読み、キリスト教会を訪れること、そして神様に祈ることです。聖書を贈ることを大切にしているギデオン協会の働きにあずかるならば、聖書を無料で入手することもできます。

 今日も、神様の守りと祝福の中を歩むことができますように。

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2007年4月17日 (火)

春はあけぼの

 春が深まってきましたね。春は曙、夏は夜、秋は夕暮れ、冬は早朝・・・『枕草子』の冒頭で清少納言が綴っている四季それぞれへの情感の何と豊かなことでしょう。

 古典という文字を分解してみると、「古」は「十代にわたって口で語り伝えられてきたほど長い時間を経ていること」、「典」は机の上に置かれている本の象形文字で、寝転がって読むのでなく、きちんと机に向かって姿勢を正して読むべき価値ある本を意味するそうです。

 古典中の古典、世界のベストセラー、聖書が多くの人に読むことが可能になったのは、グーテンベルグが印刷機を発明したことと、もう一つ、聖書を翻訳する人たちの苦心惨憺の信仰に基づく努力の成果です。

 ぜひ、聖書をお読みになる時間を生活の中に位置づけてください。

聖書のことば  ヨハネによる福音書 第5章 39節

  あなたがたは、永遠のいのちを見つけようと、熱心に聖書を調べています。 その聖書は、わたし(イエス・キリスト)を指し示しているのです。

テモテ人への手紙  第3章15節

  聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

  このブログ、時に長くなりますので、反省し、古典の歯切れのよい文章にならって、引き締めたいなと願っています。耐えて読んでくださlっていること、感謝申し上げます。

  今日も私たち一人一人を愛してくださっている神様が豊かに力を与えてくださいますように。

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2007年4月16日 (月)

モールス信号の発明者

Photo_3  昨日のエジソンのところで、彼が信号技手時代、モールス信号の送受信の達人だったことを書きました。

 たまたま、その信号を考案したモールスのことを調べていましたら、新しい発見がありました。こんな記事に出会ったのです。

「 モース(モールス)は、日本ではモールス信号の発明者として知られています。しかし、電信の実験に打ち込む前は、19世紀前半のアメリカで最も活躍した肖像画家の一人で、アメリカ美術史にその名を残しています。」※上の写真はモールスの自画像です。

 有名な人には、「この人は何をやらせても一流になっただろう」とコメントされることが多いような気がします。それはそれですばらしいことです。けれど、一つのことにこつこつと取り組んで花を咲かせることも、またすばらしいことだと思います。

聖書のことば タラントの教え・・・タラントはお金の単位(分かりやすく意訳されたリビングバイブルでは1タラントを30万円と訳しています。原文では5タラントとあるところを150万円と訳していますから。

マタイによる福音書 第25章 14節から

 25:14 天国はまた、他国へ出かけたある人の例で説明できます。 彼は出発前に、使用人たちを呼び、『さあ、元手をやるから、これで留守中に商売をしろ』と、それぞれにお金を預けました。
25:15 めいめいの能力に応じて、一人には百五十万円、ほかの一人には六十万円、もう一人には三十万円というふうに。 こうして、彼は旅に出ました。
25:16 百五十万円受け取った男は、それを元手にさっそく商売を始め、じきに百五十万円もうけました。
25:17 六十万円受け取った男もすぐ仕事を始め、六十万円もうけました。
25:18 ところが、三十万円受け取った男は、地面に穴を掘ると、その中にお金を隠してしまいました。
25:19 だいぶ時がたち、主人が帰って来ました。 すぐに使用人たちが呼ばれ、清算が始まりました。
25:20 百五十万円預かった男は三百万円を差し出しました。
25:21 主人は彼の働きをほめました。 『おまえはわずかなお金を忠実に使ったな。 今度はもっと大きな責任のある仕事をやろう。 私といっしょに喜んでくれ。』
25:22 次に、六十万円受け取った男が来て、報告しました。 『ご主人様。 ごらんください。 あの六十万円を倍にしました。』
25:23 『よくやった。 おまえはやり手で、しかも忠実なやつだ。 わずかなお金を忠実に使ったから、次はもっとたくさんの仕事をやろう。』主人はこの男もほめてやりました。
25:24 -25最後に、三十万円受け取った男が進み出て、言いました。 『ご主人様。 あなた様はたいそうひどい方でございます。 私は前々から、それを存じ上げておりましたから、せっかくお金をもうけても、あなた様が横取りなさるのではないかと、こわくてしかたがなかったのです。 それで、あなた様のお金を土の中に隠しておきました。 はい、これがそのお金でございます。』
25:26 これを聞いて、主人は答えて言いました。 『なんという悪いやつだ! なまけ者めが! 私がおまえのもうけを取り上げるのが、わかっていたというのか。
25:27 だったら、せめて、そのお金を銀行にでも預金しておけばよかったのだ。 そうすりゃあ、利息がついたじゃないか。
25:28 さあ、こいつのお金を取り上げて、三百万円持っている者にやってしまえ。
25:29 与えられたものを上手に使う者にはもっと多くのものが与えられて、ますます豊かになる。 だが不忠実な者は、与えられたわずかなものさえ取り上げられてしまうのだ。

 このタラントということばは、「タレント」・・・才能という意味もあります。

 私たち、一人一人に神様からタラントが与えられています。それを人と比べることなく、かけがえのないものとして感謝し、磨き上げつつ、一日一日を歩んでまいりましょう。

 今日、この日も、神様の祝福は私たちにそそがれているのです。よき日となりますように。

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2007年4月11日 (水)

「虫歯があっても・・・」

 ♪「ぴっかぴかの 一年生」というCMソングというには短いようにも思うのですが、印象的な歌がかつてありました。

 この春、いったい何人の新一年生が小学校に入学したことでしょう。

 そう考えていて思い出したのが、入学を半年ほどあとに控えた時期に行われる「就学時健診」での出来事です。

 「来年の四月には、元気で入学式に来てくださいね」と声をかけたら、その男の子は、間髪を入れずにこう言ったのです。

「虫歯があっても、入学していいの?」

  就学時健診で、虫歯が見つかったことをよほど気にしていたのでしょうね。

「もちろんです。待っていますよ」

 その子の顔が、ぱっと明るくなりました。

 今朝、その子の顔を思い出しながら(今年は2年生になりました)神様の愛のことを考えています。

 「さあ、あなたも洗礼を受けてクリスチャンになりなさい」

 「清く正しいとはいえない私でもいいのですか?」

「もちろんです。イエス・キリストは、すべての人の罪を背負って十字架にかかってくださったのですから、そのキリストを救い主として受け入れる人は、誰でも洗礼を受けてクリスチャンになっていいのですよ」

聖書のことば  ヨハネによる福音書 第3章16節

 実に神は、ひとり子をさえ惜しまず与えるほどに、世を愛してくださいました。 それは、神の御子を信じる者が、だれ一人滅びず、永遠のいのちを得るためです。

 この箇所は、聖書の内容が凝縮して書かれていることから「小聖書」と呼ばれています。

 あなたがお近くのキリスト教会に足を運び、イエス・キリストの愛を確信して生きる道の新入生になられることをお祈りさせていただきます。

 今日も、神様があなたを守ってくださいますように。

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2007年4月10日 (火)

初登板

 数年前、「将来の夢は?」といきなり四年生の女の子に尋ねられたことがあります。

  わおっ、こちらから尋ねることがあっても、まさか、初老の私に、この質問が向けられるとは・・・

 不意を突かれてどぎまぎし、とりあえず「皆が元気に成長することだよ。」とか答えたものの、私自身がどうなりたいか、という答えにはなっていなくて反省しました。

  実は、4月9日に新しい仕事で初登板し、「将来の夢は?」と尋ねられたときには形をなしていなかった夢の第一歩を踏み出しました。教育学部の学生さんを教職経験を生かしてサポートさせていただく仕事です。

 大リーグの松坂投手は初登板の日を勝利で飾りました。教育に関する仕事は、その日の内に結果が出るものではありませんけれど、大学構内の桜を見ていたら「おはようございます!」と明るい表情、元気な声をかけてくれる学生さんがかなり居て、すがすがしい気持ちで午後からの初登板に臨むことができました。

 改めて、明るい表情でのあいさつのすばらしさを感じました。

聖書のことば  マタイによる福音書 第28章 9節

 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。

 このイエス・キリストの「おはよう」はとりわけ、すばらしい挨拶でした。十字架の死からよみがえられての挨拶だったからです。闇の中にいた心にさーっと明るい光が差し込む「おはよう」でした。

 子どもとの会話、出会った人との挨拶・・・神様への朝、夕、時を分かたぬ祈りは、特に大きな喜び、慰め、支えをもたらします。

 今日も、明るい笑顔であいさつを交わしながら、ともに神様の祝福をいただいて歩むことが出来ますようお祈りいたします。「行ってらっしゃーい」「行ってきまーす」

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2007年4月 9日 (月)

満開のさくらたち

 いよいよ入学式、始業式の季節到来です。ふと思いました。諸外国は9月が新年度スタートのところが多いようですけれど、なぜ、日本は四月なのかと。

  あっ、ここまで読んで今日の題と結んでくださったあなた、なんとすてきな感性の持ち主なのでしょう。そう、そうなのです。さだまさしさんの本にも「桜の開花が全国ニュースになるなんて、なんとすてきな国でしょう」というようなコマーシャルがかつてあったと書かれていますが、その桜が咲くこの四月以上に入学式、始業式にふさわしい月があるでしょうか。

  とにかく、満開の桜に祝福されて2007年度はスタートしました。桜は散ってもその事実は残ります。新入生も、そうでない人も人生の花をすてきに咲かせ、よき実を結ぶことができますように。

聖書のことば  コリント人への手紙 第二  第2章 15節

 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

 星野富弘さんの詩に、今、私を通り過ぎた風はどんな風になったのだろう・・・というような詩句がありましたね。

  さあ、神様があなたとともに歩んでくださってさわやかな一日となりますように。  行っていらっしゃい  そして私も  行って来まーす。

 

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2007年4月 8日 (日)

復活祭

  今年の4月8日、日曜日はクリスチャンが復活祭(イースター)としてお祝いする日にあたっています。

  イエス・キリストの誕生を祝うのがクリスマス、十字架につけられたキリストが死からよみがえったことを祝うのが復活祭です。

  復活祭は、「立春後の初めての満月が終わって迎える最初の日曜日」となっています。毎年、何月何日という決め方ではないので、今年は4月8日、という言い方になるわけです。

  キリストのよみがえりは、臨死体験をした人が蘇生したというのとは、はっきりと一線を画す出来事として聖書に記されています。

聖書のことば  ヨハネによる福音書  第11章25節

 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

  このことばをすんなりと受け入れることは、難しいでしょう。イエス・キリストと寝食を共にし、最後の晩餐にもあずかった弟子たちでさえもすぐには受け入れがたかったのです。けれど神様はこのことについて理解できるようにきっと助けてくださいます。

  あなたは、人生が死で終わることは理不尽であり、不条理だと思われたことはないでしょうか。

  人間には生死を越えて求めるべき大切なことがあるように思います。

  人は創られてあるもの、神様は在って在るもの、永遠から永遠まで支配されるかたなのです。聖書を読み、祈り、キリスト教会を訪れてくださることをお勧めいたします。

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2007年4月 7日 (土)

入学式・始業式

  いよいよ、入学式・始業式・・・スタート時の感激を大事にして一年間をすごすことは難しいことですけれど、何とか竜頭蛇尾にならないように一日一日を励みたいものです。

 毎日、食事をすることは、あまり努力せずに続けられるでしょうから、「このことは、毎日必ずするぞ」ということを習慣化するとよいのでしょうね。このことをしないうちは心がすっきりしないというほどまでに。

 「No bible, No bread.」ということばがあります。「聖書読まずに飯食うな」というところでしょうか。

 体の食事を摂るのと同じように、魂の糧として毎日聖書を読むことができたらと思います。

聖書のことば  マタイによる福音書 第4章 4節

「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』

 「衣食足りて礼節を知る」と申しますが、「武士は食わねど高楊枝」ということばもあります。

 食べること以上に、まず魂を飢えさせない生活、志を大切に貫く生活を目指せたら、と思います。兵糧攻めには弱い私ではありますけれど。

 よき19年度となりますように。

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2007年4月 6日 (金)

えっ、そんな・・・

Photo_2  今日書くのは本来は内輪の話なのですけれど、まあ、聞いてください。一昨日のことです。

  せっかく桜が咲いているからどこかへ見に行こう、と家内と出かけることにしました。

 岐阜公園、各務原市の境川沿いなどを想定していたのですが、「友だちと一緒に行った寺田の千本桜がいい、おでんもあるし、団子屋さんもあったから・・・」との家内の意見で方向を定め、車を走らせると・・・ありました。見事に咲いた桜が花明かりのトンネルを形成しています。

 「友だちと来たときは、駐車場がいっぱいで、車がおけないくらいだった。夕方だから人が少ないのかな。桜、綺麗ね、あ、ほら、団子屋さんもあるでしょ。」

 などと話していた家内が、「でも、何だか、前来たときと違う感じがするの、反対方向から来たのかなあ。」というので、家に帰る前に、しばらく道を進んでUターンして反対方向から桜並木と店を眺めて帰途に着きました。「これで、前に来たときと同じ感じになった?」「そうねえ・・・。」

  これでしっくりとおさまったと思っていた私に、夜もふけて大打撃が訪れました。家内が、何とこういったからです。

「あっ、分かった・・・友だちと見に行ったのは桜ではなくて紅葉だった。別の所だったから、イメージが違っていたんだ。」

  こんなとき、あなただったら、どんなコメントをなさいますか・・・まあ、どんな思い違いがひとにあろうと、桜は桜、きれいでしたよ。団子もおいしかったですし・・・。

聖書のことば  コロサイ人への手紙 第3章 18節 19節

妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。
夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。

  これは、結婚式の夫婦の誓いの時に読まれる聖書のことばの一部分です。上に書きましたエピソードと結んでいいのかどうか、書き手にも迷いはありますけれど、先日37回目の結婚記念日を無事(!?!)迎えたことでもありますから引用させていただきます。

 今日も、神様があなたを守り、祝福してくださいますようにお祈りいたします。

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2007年4月 5日 (木)

デビューの日

 4月5日はデビューの日・・・説明・・・1958(昭和33)年、プロ野球界に当時の超大型新人・長嶋茂雄さんがデビューしたことにちなんで、その年デビューした新人にエールを送る日。

出来事
 ・1978年 池袋に60階建の高層ビル・サンシャイン60が完成
 ・1998年 明石海峡大橋開通、つり橋としては世界最長

  あの長嶋さん、そしてサンシャイン60、そして明石海峡大橋がデビューした日なのですね。

 そして、学校でも新年度の学級担任がデビューに備えて春休み中も情熱に燃えて励んでいます。

  長嶋選手は、国鉄スワローズの金田投手に4三振させられたのです。けれど、金田投手は三振させても三振させても思いっきり堂々とバットを振る新人に心の中でこれは大物だとの手応えを感じていたのだそうです。四百勝を越える実績を残した大投手の目もまたさすがですね。

聖書のことば  サムエル記 第一  第16章7節

人はうわべを見るが、【主】(神様)は心を見る。」

  神様の目は、もっともっと確かです。人の評価を気にして小さくまとまらないで、のびのびと自分の賜物を発揮いたしましょう。

 さあ、私たち一人一人が思いっきり持ち味を出してこの世で与えられている場で輝くデビューの日です。

生きている 一日一日 (ひとひ ひとひ)が 晴れ舞台

 今日も、神様がともに歩んですてきな日としてくださいますように。

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2007年4月 4日 (水)

あんぱんの日

 4月4日はあんぱんの日だそうです。説明・・・1875(明治8)年、木村屋の初代・木村安兵衛さんが明治天皇にあんぱんを初献上したことに由来して、株式会社木村屋総本店が制定。

 あんぱんはすごい発明なのだそうです。和洋折衷を高い次元で実現している見本のような存在なのだそうです。

 アンパンマンは子どもたちに人気があります。作者のやなせたかしさんはクリスチャンなのだそうです。森永製菓の商標に天使が登場しているのは、森永の初代の社長がクリスチャンだったからだと聞いたことがあります。

  三浦綾子さんの書にドライクリーニングの白羊舎を興したクリスチャンの生涯を描いたものがあります。

 誰かが始めないと始まらなかったものがこの世にはたくさんあるのですね。私は小さい頃、発明、発見の話を読むことが好きでした。エジソンには特に惹かれたものです。あなたは、いかがでしたか。

聖書のことば  創世記 第1章 1節

初めに、神が天と地を創造した。

  天と地を創られた神様が私たち人間を創造してくださったのです。これが逆転することのないように心して歩みましょう。

  高校選抜野球・・・大垣日大高校は8回に逆転されて準優勝となりましたが、さわやかなチームでしたね。甲子園出場の夢に向かって幼いときから積み重ねてきた練習が実を結んだ喜びを一つ一つのプレーをする姿から感じさせ、力を与えてくれました。決勝戦が終わった直後に、夏の大会への思いを語った優勝校の選手もすごいと思います。

 いつも前へ、未来へまなざしを向けて新しい日の歩みを創り出す若人たちに教えられる思いです。今日も、神様の祝福の中を前進できますように。

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2007年4月 3日 (火)

出発への備え

  4月は子どもたちには入学、進学の季節、大人にとっても社会人になったり、異動して新しい職場の一員になったりする新たな出発のときです。

  昨年度と同じ職場におられる方も、職場のメンバーが一人でも代われば、それは新しい人間関係を構築する新風が吹き込む機会です。また、たとえ、メンバーが代わらなくても、心機一転の機会でもあるのがこの4月です。

  小鳥が羽繕いをして空へ飛び立つように、私たちもまた、心身を整えて毎日の歩みへ船出してまいりましょう。

 パウロという人が、イエス・キリストのことを伝えるためにどんな備えを呼びかけているかを聖書のことばでご紹介させてください。

聖書のことば  エペソ人への手紙 第6章 10節から

 主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての 武具を身に着けなさい。
 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、 足には平和の福音の備えをはきなさい。
これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

 パウロは この世に生きるクリスチャンたちに、出陣する戦士のように、神様の武具を身にまとうことを呼びかけています聖書にこんな箇所があるのかと驚かれる方もあると思います。

 けれど、現代はある意味ではパウロの生きた紀元1世紀以上にいろいろな誘惑が巧妙に張り巡らされており、魂が健全に生きるためには多くの戦いが必要である時代といえましょう。

  さまざまな誘惑に負けることなく、また、正しく生きることをはばむ壁にもたじろがず生きるには、このパウロのような決意と備えが現代人にも必要だと思います。

  会議への提案資料、財布、免許証、お弁当、明るい笑顔・・・それらも大事ですが、まず、神様に今日、み心にかなう歩みへの導きを祈って、出発いたしましょう。  神様と共に進むよき日としていただけますように。

 毎日のわざが神様とのコラボレーションとなっている人は、何と幸いなことでしょう。

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2007年4月 2日 (月)

こどもの本の日

  4月2日は国際こどもの本の日だそうです。説明・・・デンマークの童話作家・アンデルセンの誕生日にちなんで、日本国際児童図書評議会等が1996(平成8)年に制定。

  多分、秋田雨雀というかただと思うのですが、童話について次のようなことを書いておられました。(メモを紛失してしまったので、書いた人について不正確なので、すみません。)

 記憶に残っているのは、こんな内容です。「童話は、子どものために書かれるが、書き手の中の永遠の子どもを読み手として書かれるものでもある。永遠の子どもは真・善・美を好み、それに憧れる。永遠の子どもの最もうるわしい性質は、真・善・美を一体のものとしてとらえていることである。」

  原文は、もっと迫力、説得力があり、読んでいて胸が高鳴ったことを覚えています。

  アンデルセン童話は、ハッピーエンドのものばかりではなく、悲しいものも多いのですが、ギリシャ悲劇のようなカタルシスの作用を果たす悲しさとは異なるように思います。※「続きを読む」に「カタルシス」の意味を添えさせていただきます。

 それはともあれ、すぐれた童話は、「すべての大人は子どもに最善のものを贈る義務を負う」という児童の権利条約の根幹の精神を具現しているように思います。

 また、この精神は、北原白秋や芥川龍之介、有島武郎などが賛同して作品を寄せた『赤い鳥』(鈴木三重吉主宰)の心とも通じていると、私は考えています。

 読み返してみると、今日の文章は内容・文体ともに年度当初のりきみがあるようですが、お許しください。(まだまだ青い自分を感じます。)

聖書のことば  マタイによる福音書 7章9節~12節

7:9 パンをねだる子供に、石ころを与える父親がいるでしょうか。
7:10 『魚が食べたい』と言う子供に、毒蛇を与える父親がいるでしょ うか。 いるわけがありません。
7:11 罪深いあなたがたでさえ、自分の子供には良い物をやりたいと思うのです。 だったらなおのこと、あなたがたの天の父が、求める者に良い物を下さらないことがあるでしょうか。

 私たちが子どもに最善のものを贈りたいと願う以上に、神様は私たちに最善のもの、救い主としてのイエス・キリストを贈ってくださっているのです。

  今日も、その神様に信頼し、その祝福の中を歩ませていただきましょう。よき日となりますように。

 

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2007年4月 1日 (日)

本当に4月1日

 エープリル・フールではなく、本当に4月1日、昨夜の雨も上がり、晴れて無職の身となりました。まだ実感がわきませんけれど、今はどこかほっとしています。定年退職初日の感想です。

 さて、今日はトレーニングの日なのだそうです。説明・・・スポーツ用品メーカー・ミズノの直営店エスポートミズノが1994(平成6)年に制定しました。年度始めからトレーニングを始めようという日です。

 元旦も一年の計画のよい起点になりますが、すでに三日坊主に終わっている計画に新しい決意を込めて再挑戦するチャンスが4月1日なのですね。うーん、ウオーキング再開への意欲と希望が湧いてきました。

 何事にも、初めがありますね。

聖書のことば 箴言  第10章  9節

【主】を恐れることは知恵の初め、 / 聖なる方を知ることは悟りである。

 分かりやすく意訳したリビングバイブルでは次のように訳されています。

  知恵の基本は、神様を恐れ、たいせつにすることです。 物事がよくわかりたかったら、まず神様を知りなさい。

 おりしも今日は日曜日、キリスト教会へ行くことで一週間を始めることができたら、どんなにすばらしいことでしょう。ぜひ、お行きになることをお勧めいたします。

 ところで、九州には「四月一日」と書いて「わたぬき」と読む名字があるのだそうですね。暖かさが本格的になるこの時期に、綿入れの綿をぬいて夏用に仕立て直したことからきていると何かで読んだことがあります。 

 神様の祝福の中を今日も歩ませていただくことができますように。

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2007年3月31日 (土)

初恋の来た道

  映画「初恋の来た道」に、村にやってきた青年教師が村人と一緒に学校を建てる場面があります。ついに学校が完成し、最初の授業をする日がやってきました。村人たちが建物の周囲に集まって見守り耳を澄ます中、青年教師は子どもたちに向かって第一声を発します。

「人は人生において志を持つべし」

  素朴な中に、美しく、ユーモアもちりばめて、教育とそれに対する信頼があたたかく、そして確かに息づいている映画で、私は好きです。

 今日、3月31日は年度の最後の日、私にとって初めて経験する定年退職の期限の日です。(何度も定年退職を経験する人は、そんなには居ないでしょうね。)

  職を離れ、肩書きがなくなって、それでいて一人の人間としてちゃんと自分の足で立っている人・・・そうあるためには、まさに人生に志を持っていること大きなポイントだと思います。

  「志」といえば、札幌の農学校でクラーク博士が語った「少年よ、大志をいだけ」はよく知られていますが、全文は「少年よ、イエス・キリストにあって大志をいだけ」だそうです。

 クラーク博士が札幌農学校に勤務したのは、本当に短い期間でした。けれど、その札幌農学校から、多くの、大きな人材が育ちました。

  私の小中学校勤務は38年目の今日をもって終わります。いたらぬところが多く、振り返ると汗顔の至りですが、前を向いて懸命に歩んでいくことが、これまで出会った児童生徒たち、大人の方たちとの日々を大切にすることにもなるのだと思います。

  志を持って、明日からも生きてまいりたいと思います。

聖書のことば  ピリピ人への手紙 第2章13節

  神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。

 そうそう、数年前、私にいきなりこう問いかけた女の子がいました。「先生の将来の夢って何?」・・・面食らいました。子どもに問いかけることはあっても、子どもからこちらに問いかけられようとは思っていなかった問いだったからです。

 でも、次の瞬間、嬉しくなりました。そうだ、自分にも将来があるのだ・・・そのときの思いをまさにこれからへの活力にしていこうと思うのです。

  今日も、そして今日に続く明日も、神様が力を注いで、豊かな実を結ばせてくださいますように。

 

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2007年3月30日 (金)

ふるさとの山

Photo  自称ムーミン・パパのふるさとは、飛騨の高山です。逆光気味ですが、左の写真は日本北アルプス連邦の一つ、乗鞍岳(3026メートル)です。朝な夕な、四季を通じて眺めたなつかしい山です。

 乗鞍だけでなく、穂高や笠ヶ岳などをPhoto_1

眺めることのできる高山市の郊外に、

「飛騨高山教会」があります。

 この春休みに限らず、飛騨に行かれることがありましたら、お立ち寄りください。

 それぞれの写真をクリックしていただくと、少し大きい画像でご覧いただけます。

聖書のことば  詩篇 第121篇 1節・2節

 私は山に向かって目を上げる。 / 私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた【主】から来る。

 「ふるさとの山に向ひて言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな」

 石川啄木ならねども、それぞれのかたにそれぞれのふるさとの山河があること、すばらしいことだと思います。

 山そのものを信仰の対象とするのでなく、その山を創られた方にこそ目を向けて歩んでまいりましょう。 3月の結びの日、よき日となりますように。

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年々歳々

  春は、出会いと別れの季節です。次の詩は、特に色をつけたところが有名ですが、全文を掲載させていただきます。

題名 白頭を悲しむ翁に代る  
    劉廷芝作(初唐時代)
洛陽城東桃李の花
飛び来たり飛び去って誰が家にか落つる
洛陽の女児顔色を惜しみ
行く行く落花に逢って長く嘆息す
今年花落ちて顔色改まり
明年花開くとき復た誰か在る
己に見る松柏の摧かれて薪と為り
更に聞く桑田の変じて海と成るを
古人復た洛城の東に無し
今人還た対す落花の風
年々歳々花相似たり
歳々年々人同じからず
言を寄す全盛の紅顔子
応に憐れむべし半死の白頭翁

 あまりにすてきな表現なので、著者だと名乗る権利をお金で買おうとした人がいたそうですが、譲ろうとしなかった作者は、命を奪われたというエピソードがある、と高校時代の授業で教えていただいたように思います。詩人は、命がけで詩を生み出しているのですね。

聖書のことば  イザヤ書 第40章8節

草は枯れ、花はしぼむ。 だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。

 上には上があると申しますか、年々歳々,変わらないように見える花も,木々も、やがては老いていきます。けれど、神様のことばはとこしえに変わらないと聖書はいいます。

 新たな年度に向けて、新たな希望とエネルギーをもって歩んでまいりましょう。   神様の祝福をいただけますように。

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2007年3月29日 (木)

花に目をとめる

 小学1年生を担任したことが一度だけあります。入学式が終わり、教室での話を終え、子どもと保護者を送り出して、一人で教室にたたずんでいると、花の香りがしてきました。目の前の教師机の花瓶に黄色い花がありました。フリージア・・・同僚のどなたかの心遣いに違いありません。

 フリージアは、朝から教室に香りをはなちながらたたずんでいたはずなのですが、私が気がついたのは、夕方でした。入学式の日の緊張と予定をこなすことにいっぱいで、目に入らず、したがって心に花の入ってくる余地がなかったのですね。

 このブログの初めの頃に「斧を見る日間(ひま)」という文を掲載しました。日間(ひま)の語源は、「日光のさし込む空間」だそうです。畑や花壇にぎっしりと花や野菜を植え込んだら、日光のさし込む空間がなくなってしまい、育ちもよくありません。

 年度末、そして年度初めの心もあわただしい時期・・・けれど、そうした時であるからこそ、自分がもっている斧が刃こぼれしていないかどうかをよく見て、切れ味を整えて、ことにあたりたいと思います

聖書のことば     マタイによる福音書 第6章 33節

神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。 そうすれば、必要なものは、神が与えてくださいます。

コリント人への手紙 第2章 15節
神様に関するかぎり、私たちの生活には、すばらしい、かぐわしい香りが漂っています。 それは、私たちのうちにあるキリスト様の香りであって、回りの救われている人々にも、救われていない人々にも、一つの香りなのです。

 ルオーという画家の絵には十字架がどこかに描かれているのだそうですが、ルオー展でキリストが十字架に架けられて息を引き取る絵に「白檀はそれを伐る斧にさえ芳香を与える」ということばを見ました。イエス・キリストの十字架における死は、まさにそういうことでありました。

 今日の一日も、キリストの香りをまとって歩むことができますように。

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2007年3月26日 (月)

ヘレン・ケラー

   1890年の3月26日にヘレン・ケラーが発音訓練を始めたのだそうです。「見えない・聞こえない・話せない」という状態であったヘレンには、サリバン先生が明るい光の差し込む窓となりました。

 よく知られているヘレン・ケラーの言葉に「あなたの手のともしびをもう少したかく掲げてください。私の足もとも明るくなるように」というのがあります。

 そう語ったヘレン・ケラー自身が、多くのかたに輝く光の存在となりました。まさに「奇跡の人」ですね。

聖書のことば  マタイによる福音書 第5章 14節・15節

あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

 神様は、私たち一人一人を「奇跡の人」にして輝かせてくださいます。

  私たちが生を受け、この世に生かされていること自体、一つの奇跡といえるかもしれません。そして、神様は「あなたがたは世の光です」と言ってくださっているのです。「世の光になりなさい」でも、「世の光になれるように努力しなさい」でもないのです。

 りきまずに、地に咲いている花、空に光っている星のように、存在そのものを愛してくださっている神様におゆだねして、歩んでまいりましょう。

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2007年3月25日 (日)

命のパン

 「私たちは、生きるために食べるのであって、食べるために生きるのではない」という言葉に出会ったことがあります。

 英語で不定詞の勉強をしたときの例文 We eat to live, not live to eat..  の日本語訳が上記の文章だったように思います。

 食べることの好きな私にとっては耳の痛いことばですが、それをわざわざ持ち出したのは、今日の聖書のことばへと続けたいからです。今日の箇所は、イエス・キリストが荒野で四十日四十夜の断食をされた後の状態の時のことです。

聖書のことば マタイによる福音書 第4章

4:3 その時です、悪魔が誘いかけてきたのは。 「どうだい。 ひとつ、ここに転がっている石をパンに変えてみたら? そうすりゃあ、あんたが神の子だということも一目瞭然だろうが。」

4:4 しかしイエスは、お答えになりました。 「それは違う。 聖書(旧約)には、『人はただパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。 わたしたちは、神のすべてのことばに従うべきなのです。」

 分かりやすく意訳したリビングバイブルを掲載しました。文語訳では「人はパンのみにて生くるにあらず」と端的に述べられています。

 キリスト教会は、ここに書かれている神様のことばの語られる場所であり、礼拝では聖書のメッセージが牧師さんをとおして語られます。

 今日は、その礼拝がおこなわれる日曜日です。ぜひ、キリスト教会にお出かけください。

 もちろん、朝食にパンなり、ご飯なり、お好きな物を召し上がってからでよろしいのですよ。満腹して寝てしまっては、行くことがむずかしくなりますけれど。

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2007年3月24日 (土)

秘密兵器

 ずっと以前、新聞の投稿欄にこんな記事がありました。

 「秘密兵器 ・・・ ぼくの友人は高校時代、野球部でした。監督に、お前は我が野球部の秘密兵器だとずっと言われ続け・・・とうとう彼は秘密のまま、卒業してしまいました。」

 読んで思わず笑ってしまいました。けれど、自省もせずにはいられませんでした。昨日は卒業式・・・秘密兵器のまま、卒業させてしまった子はいなかったかと。

聖書 イザヤ書 第43章 4節

  わたしの目には、あなたは高価で尊い。 / わたしはあなたを愛している。

 神様は、私たちひとりひとりにこう語りかけてくださっています。

  私たち自身を秘密兵器に終わらせることなく、平和のために、神様の愛を伝えるために神様が生かしてくださっていることを信ずることができますように。

  これは聖書のことばではありませんが、こんなことばがあります。

「すべての赤ちゃんは、神様がまだこの世を見捨ててはいないというメッセージを携えて生まれてくる」

  今日も、祝福の中を歩ませていただくことができますように。

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2007年3月23日 (金)

世界気象デー

 3月23日は、世界気象デーだそうです。説明・・・1950(昭和25)年、世界気象機関条約が発効し、WMOが発足しました。WMOは、加盟諸国の気象観測や気象資料の交換を行っている世界組織です。

 ということだそうです。ふと、思いました。人間は気象観測はできるが、気象を思いのままにあやつることはできない存在なのだと・・・。起こっていることを解釈し、原因を突き止めることはある程度できるでしょうが、「明日は運動会だから、晴れさせよう」ということは基本的にはできないのです。

 それは、いいことでもあるかもしれません。晴れて欲しいという人ばかりでなく、「明日あたり、一雨来ると畑の作物が助かるのだけれど」という人もいるでしょうから、一部の人の思いで天候が左右されるようになったら、きっと困る事態が頻発することでしょう。

聖書のことば  マタイによる福音書 第8章

8:23 (それから、)イエスと弟子たちの一行は舟に乗り込み、湖を渡り始めました。
8:24 すると突然、激しい嵐になりました。 舟は今にも、山のような大波にのまれそうです。 ところが、イエスはぐっすり眠っておられます。
8:25 弟子たちはあわてて、イエスを揺り起こし、「主よ。 お助けください。 沈みそうです」と叫びました。
8:26 ところがイエスは、「なんということでしょう! それでも神を信じているのですか。 そんなにこわがったりして」と答えられると、ゆっくり立ち上がり、風と波をおしかりになりました。 するとどうでしょう。 嵐はぴたりとやみ、大なぎになったではありませんか。
8:27 弟子たちは恐ろしさのあまり、その場に座り込み、「いやはや、なんというお方だろう。 風や湖までが従うとはなあ!」と、ささやき合いました。

 ここでは、イエス・キリストの神性が語られていると思います。「そんな非科学的なことが・・・」とお笑いになるか、「人にはできないことが、神にはできるのです、と聖書に書いてあるとおりだな・・・」と受けとめられるか・・・聖書のできるだけ広い範囲をお読みくださって時間をかけてお考えくださることをお勧めします。そして、できるならば、キリスト教会に足を運んで牧師さんから聖書の話を聞いていただくことをお勧めいたします。

 さあ、今日は晴れるでしょうか・・・卒業式なのです。

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2007年3月22日 (木)

最初に起き出す勇気

  今年は暖冬でしたけれど、それでも朝、一番早く布団から起き出して、ストーブなどを点火して部屋を暖かくするのは、なかなか勇気というか、決意が要ることではないかと思います。

  「うちは、時間をセットしておくとストーブ自身がちゃんと点火して部屋が暖まっているよ」とおっしゃるかもしれませんけれど。

 我が家では、じゃんけんするなどしていましたが、ほんのいっとき、最年少の存在である二男が、寒い朝のストーブ点火係を引き受けていました。「一段ロケット発射」というと「わーいわーい」という感じで喜んで布団から飛び出していったのです。残りの家族はその恩恵にあずかり、ぬくぬくしていました。

  それが長続きしなかったのは、二男がそのうちにたくらみに気づいて、こういうようになったからです。

「一段ロケット発射ー」「あっ、ロケット爆発してまった」

  以来、一段ロケットは最初に飛び出さずに横たわったままになりました。・・・残念、でも考えてみると、もともと、一段ロケットは一番大きく重いのですよね、そうなると・・・

  しばらく我が家では、また、じゃんけんが復活したように思います。

 多分、暖房具にもよりますけれど、多くの家庭では家族への愛の一番深い方がこの栄光在る役目をになっておられるのでしょうね。

聖書のことば マルコによる福音書 第12章31節

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

 今日も、神様が喜んでくださる歩みを為すことができますように。

祝福をお祈りいたします。

 

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2007年3月21日 (水)

D51・・・デゴイチ

 岐阜市の梅林公園には蒸気機関車D51(愛称デゴイチ)が設置されており、運転席にも乗り降りできるので人気があります。

 この蒸気機関車が坂道でスリップするのを防ぐために線路に砂をまくと聞いたとき、(えっ、かえって滑りやすくなるのではないか)と驚きました。けれど、砂で滑りやすくなるのは、車体が軽いときで、デゴイチはしっかりと線路に動力が伝わるようにするため、車体を重くしてあるのだ、と教わりました。

 ほう、そういうものか、と感心したのが中学2年生か3年生の理科の時間だったと思います。熱効率が8%ほどの蒸気機関車に対して、電車は熱効率が80~90%ほどだということだったでしょうか。

 ジーゼル車が高山線を走り始めて、クラスから代表が乗りに行ったのが小学3年生か4年生のころだったと覚えています。その代表がうらやましかったのですが、蒸し暑い車内だったのに、危ないからと窓を閉め切って走ったので、と体調をくずして帰ってきたので許してあげることにしました。・・・なんで、いまだにこんなことを覚えているのでしょうね。

 デゴイチを重く作ってスリップしないようにする・・・私たちの人生の歩みが上滑りしないで、生きることにしっかりと足が食い込むような、文字通り地に足のついた歩みをするのに人生の重荷はあるのかもしれません。でも、正直に申しますと、地面に足が食い込むような重い人生ではなく、できれば小鳥のように空を自由に飛んでいたいと思います。あなたも、そうではありませんか。

聖書のことば  ヨハネによる福音書 第16章33節

  あなたがたは、世にあっては患難があります。
  しかし、勇敢でありなさい。
    わたし(イエス・キリスト)はすでに世に勝ったのです。

 私たちの身代わりとなって重い十字架をにない、その命をもって私たちを救ってくださった方がおられるのです。

 ある意味で、デゴイチになって、車輪を空転させず、私たちの人生をともに歩んでくださるのがイエス・キリストです。

 空を飛ぶ鳥を養ってくださる神様は、私たち人間をそれ以上に愛してくださっています。そのことを信じ、感謝して今日も歩ませていただきましょう。よき日としていただけますように。
         

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2007年3月20日 (火)

初めてのレコード

 3月20日は、上野動物園開園記念日・・・1882(明治15)年、上野に日本初の動物園として、上野動物園が開園。開園当初は、水牛、猿、鷲などが人気を集めていた・・・だそうです。

 ここまでは、話のきっかけで、もう一つ・・・1951年の3月20日に日本コロムビアが日本初のLPレコードを発売したとのことです。

 あなたは、レコードかCDをおもちでしょうか。どんなレコード、CDが購入第一号ですか?

  私の場合は、ダニー・ケイ、ルイ・アームストロングが出演した音楽映画「五つの銅貨」のサウンド・トラック盤が最初でした。そして「グレンミラー物語」、「ウエストサイド物語」、エディ・デュウティンというピアニストの伝記映画「愛情物語」のテーマ音楽トゥラブアゲインの入ったレコード(原曲はショパンのノクターン)へと続きます。

  一枚のレコードを買うのに、わくわくしたことを覚えています。中学時代の友だちは、確か成人式を迎えたお姉さんに、小遣いをためてレコードを贈っていました。

  それはかなり前のことなのですが、不思議なことに当時のLPレコードと現在のCDの値段はほとんど同じように思えます。卵の値段が長期にわたってあまり変わったように思えないのと似ています。

  今、レコードをかけようと思うとプレーヤーや針を準備するのが難しい時代になってきました。アナログの音源をデジタルへ、ということができるようになっています。けれど、レコードはレコードとして持っていたいし、レコードとして聴きたい思いがあります。単なるノスタルジーでしょうか。

  とにかく、時間を大切に・・・そして遠ざかっていく青春を、すなわち少なくともそのときには若々しく生きていた自分を、恥ずかしがらずにいとおしんで生きよう・・・初めて買ったレコードを思い出しながらそんなことを思うのです。

聖書のことば  雅歌 第2章12節

花が咲き、小鳥の歌う季節になった。 そう、もう春なんだよ。

 花や小鳥のように、すなおに、神様にしたがって心から春を楽しむことができたら、と願います。これは青春への郷愁ということ以上の思いでもあります。 今日という春の日、心に豊かな音楽が響きますように。

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2007年3月18日 (日)

心の内側からわき出る歌

  「白雪姫」「ダンボ」などのアニメーション映画の元祖ディズニーは、いくつもの映画の主題歌を作曲したそうです。

  また、映画「ライムライト」の主題歌を作曲したのは、その映画を制作、主演したチャップリン自身だそうです。

  不思議なのですが、この二人は、楽譜を読んだり、記したりすることはできなかったそうです。・・・ずっとそうだったのか、やがて楽譜が読み書きできるようになったのかは定かではありませんけれど。

  上のような例を聞くと作曲法を習うこと、楽譜の書き方を身につけること人を魅了するメロディをつくり出すこととはどんな関係にあるのかと思います。どちらかを選べと言われたら、私は楽譜を読み書きできなくてもすてきなメロディをつくれるほうを選びたいと思います。

  もちろん、メロディを口ずさむと、それを楽譜にしてくれる人が居てこそ音楽として仕上がり、映画も完成できるわけですから、ハートの部分と技術の部分の一方だけを優遇するわけにはいきませんけれど・・・。

聖書のことば  詩篇 第40篇 3節

神様は私の口に、新しい賛美の歌を授けてくださいました。

  神様を信じ、神様に愛されている喜びを表現するために歌う歌声は、たとえリサイタルを開くような域に達していなくても、神様は喜んでくださいます。

 歌だけでなく、私たちの発することば、おこない・・・そのすべてが春の訪れを告げる鳥の声のように、神様を讃え、感謝するためものであったら、どんなに幸いでしょう。

 今日のひと日、神様の祝福の内を歩むことができますように。日曜日にはキリスト教会におでかけになることをお奨めいたします。

  

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2007年3月16日 (金)

聖書を書いたのは

 聖書は、キリストが誕生する以前のことを記した旧約聖書39巻と、キリスト誕生後のことを記した新約聖書27巻、合計66巻からなる書物です。

 それぞれの巻を記した人が特定できている場合とそうでない場合とがあります。長い年月にわたって、そして国籍も異なる人たちによって書かれているのですが、どの人も神様に用いられ、神様に与えられた霊感に導かれて信仰をもって聖書を記した、と信じられています。

  上記の考え方を土台として、聖書全体の著者は誰かということをこんなふうに考えてはどうかと話してくださった方がいました。私には、分かりやすく思えたのでそれを書かせていただきます。

 この世界に、聖書の著者となることが考えられる存在として、1.神様 2.善人・天使

3.悪人・悪魔 が居るとする。

 3の悪人・悪魔は、自分たちにとって神様のこと、キリストのことを正しく伝える書物を書くことは自分たちの存在を追い詰めることになるので、聖書を書くことはしない。

 2の善人・天使は、自分を神の座においてしまって、神様がおっしゃらないことを神がおっしゃった、と聖書に記述することはしない。

 そうすると、聖書全体の著者として(書き手を用いるということはされても)考えられるのは、1の神様しかおられない。

というのです。このブログを読んでくださるあなたは、どのように思われますか。

聖書のことば   ヨハネによる福音書 第5章39節

 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたし(イエス・キリスト)について証言しているのです。

 聖書について詳しいことは、牧師さんを通して学んでくださると、ヘブル語やラテン語、ギリシャ語などのことも含めて、説き明かしていただけることと思います。もちろん、牧師さんといえども、得意、不得意がおありですので、お尋ねしてその日の内に、というのは難しい場合もあると思いますので、時間的な猶予も設けていただくことになると思いますけれども。

 今日も、神様がわたしたちをただ一度限り招待してくださっているこの世でのかけがえのない日として、謙遜に、そして内側からの力で満たされて歩むことができますように。

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2007年3月15日 (木)

祝賀

  年齢が高くなると、記憶力に代わって忘却力が強まってきます。これを嘆かないで、いいことだけを覚えておき、覚えていてもあまりよくないことは・・・たとえば「いついつのとき、あの人はこんなことばで私を傷つけた」というようなことは、せっせと忘れてしまうことにすると世の中が明るくなってくるように思います。

 このところ、宮城谷昌光さんの『子産』を読んでいるのですが、たしか、一度は読んだはずなのに、とても新鮮に読めるのです。これも忘却力のもたらすプレゼントでしょう。

 さて、その中に、「祝」「賀」はどちらもいわうことだけれど、「賀」は、今日までにいたることをいわい、「祝」はこれからのことをいわうのだと書かれていました。

 漢字の世界の奥の深さに改めて目を開かれた思いがしました。

聖書のことば  イザヤ書 第43章13節

 永遠から永遠まで、わたしは神だ。 わたしが何かをしようと身構える時、その前に立ちはだかる者は一人もいない。」

 神様は、来し方行く末にわたって永遠から永遠まで神である方です。本当の意味で「祝賀」してくださる方です。

 この方に信頼して、今日も歩んでまいりましょう。

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2007年3月14日 (水)

はぐくむこと、春のごとし

  「はぐくむこと、春のごとし」ということばを教えてくださった方があります。

 春になると、いろいろな植物が芽吹き、花を咲かせます。

 「教育」「教え育てる」と読み下すと、教えるのも育てるのも一方からの働きかけとなります。「教え、育つ」となると、一歩前進かも知れません。「教え合い、育て合う」という相互からの啓発が為される、あたたかく、そして厳しい緊張関係が「教育」でありたいというのが、今のところの私の思いです。

  学校や家庭が、よく肥えた大地となって、そこに存在する一つ一つの種が根付いて伸びるように春のようにはぐくむところとなる・・・そうでありたいと思います。

  ただし、種も、蝶の卵やさなぎも低温を経験してこそ、健康に育つのだそうです。

聖書のことば・・・今日は、毎日、聖書のメッセージを届けてくださる関根一夫牧師さんのメールレターをそのまま紹介させていただきます。

今日のひとこと箴言
13:24 鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。

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 これは決して暴力的に子供を威嚇すると言う意味ではありません。むしろ、誤りを正す場合の厳しい言葉の鞭でしょう。この鞭を与える場合、親にとっても「痛いものだ」という自覚を持って語る必要があるように思います。つまり、子供への厳しい言葉を楽しんではならないのです。

 そこには「諭し」「戒め」「赦し」の心が添えられなければなりません。鞭を控えるという態度は、子供がどんなことをしても、黙って見過ごし、放任し、決して正そうとしない、親の怠慢につながっています。そして、それは結果的に子供を憎んでいることと同じ意味になってしまうのです。子供のことなどどうでもよいという雰囲気がそこにはあります。

 愛の反対語は憎しみではなく、無関心だとある人が言いましたが、無関心はいつしか相手に対する憎悪を生み出してしまうことがあるのです。わずらわしいと感じてしまうことが多いからです。

 神様のわたしたちへのまなざしは、常に熱心な愛にあふれたものです。そこには、ほほえみとうながしの言葉があふれています。
それを希望、また教訓としてわたしたちは生きるのです。
  祝福がありますように。 関根一夫

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 関根一夫牧師さん、ありがとうございました。今日の箴言のもとにある神様の愛は、麦を踏む心と通ずるように思います。

 今日も元気に歩み、よき実を結ぶことができますように。

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2007年3月13日 (火)

星の世界

  3月13日というのは、天王星が1781年のこの日に発見され、1930年のやはりこの日に冥王星の発見が公表されたという、何だか映画「バック トゥ ザ フューチャー」に出てくる雷が落ちた日のような特別の日に思えてくる日です。(その映画を見たことのある方には分かるという書き方で申し訳ありません。)

 天王星を発見したハーシェルは本職は宮廷音楽家で、趣味は天体観測だったそうです。後に、この発見の手柄によって王室付きの天文官になったと『今日は何の日』(PHP研究所刊)に書かれています。

 さて、冥王星のほうは、2006年8月25日に惑星からはずされましたから、惑星の座にいたのはちょうどハレー彗星の一周期間分ほどの年月だったわけですね。

 ディズニー映画「ピノキオ」の主題歌、♪「星に願いを」は多くの人に愛されています。けれど、星を、そして全世界を創造された方、神様にこそ祈りをというのがまとをはずさない在り方だと私は思います。

聖書のことば  マタイによる福音書 第5章 34節~36節

  わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。

 ロミオとジュリエットに、「夜ごと位置の変わる月などに誓ってはいけません」というような台詞があったように思います。法廷における宣誓も本当に神様を信じている場合の宣誓は意味を持つのでしょうけれど・・・。

  太古の昔から輝いている星さえも創造された永遠なる神様に思いを馳せ、その方が私たちを愛してひとり子、イエス・キリストを救い主としておつかわしくださったそのことを深く考えていただくことができますように。

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2007年3月12日 (月)

アンネ・フランク

 『アンネの日記』を書いたアンネ・フランクは、1945年3月12日に収容所で亡くなったのだそうです。隠れ家で暮らしていることが見つからなかったら、あるいは、終戦まで生き延びることができたら、いくつかは出版されている童話も彼女の望んでいたようにもっとのびのびとたくさん創り続けることができたことでしょうね。

 アンネのお父さんによって、『アンネの日記』は出版され、「アンネのばら」も平和を願っていろいろな国で咲き続けているようです。

 戦争によって、あまりにも多くの方の命と夢がうしなわれ、家族を亡くした方の人生も、願っていたのとは全然別のものに変えられざるを得ませんでした。

  いえ、今も戦火はこの地球上から消えてはいません。戦争をなくすために、歴史からもっともっと学ばなくてはならない私たちではないでしょうか。

聖書のことば  マタイによる福音書 第5章 9節

  平和をつくり出そうとしている人は幸福です。 そういう人は神の子供と呼ばれるからです。

  まず、自分の家族、職場の人とのあいだなど、身近なところに平和を保ったり、つくり出したりすることができますように。

 さらに、それ以前に、自分自身に対して心の中に平和をつくり出すこと・・・まず、そのことを神様から力をいただいて実現できる日としていただけますように。

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2007年3月10日 (土)

塩狩峠

 北海道の手塩地方と石狩地方の間に両方の地名をあわせたのでしょうか、塩狩峠という峠があります。三浦綾子さんの小説『塩狩峠』は、この峠で実際に起こった列車事故で、自分の命と引き替えに乗客の命を救ったクリスチャンの生涯をもとに描いた作品です。

 この峠は勾配がきついので、客車の前後に機関車がつくことになっていたそうですが、事故の起こった当日は、何かの事情があって客車の後ろから押す機関車がついていなかったそうです。峠を登る途中で最後の客車がはずれ、坂道を暴走する状態になってしまったとき、一人のクリスチャンが自分の身命を投げ出して列車の下敷きになり、その犠牲によって客車の暴走が食い止められたのが明治42年2月28日のことだそうです。

  小説『塩狩峠』では、このクリスチャンは事故の当日、自分自身の結納の場に向かう設定になっていますが、実際に命を投げ出した方は、いつ、自分の命が召されるときが来てもいいように、毎年、年頭に遺言状をしたためて、世のためにこの命を用いてくださいとの覚悟をいつもしていたそうです。普段からその決意をもって歩んでいればこそ、とっさのときに決断できるのだと思うと心身の引き締まる思いがいたします。

  『塩狩峠』は映画化もされましたので、ご存じの方も多くおられることと思いますが、最近、改めて鑑賞して改めて感動しましたので、ブログに掲載させていただきます。

聖書の言葉   ヨハネによる福音書 第15章13節

  人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

 もちろん、家族もあることですし、自分自身の命を含めてどの命もかけがえのないものです。

  神様からたった一度限り、この世に招待されている私たち一人一人の人生をかけがえのないものとして受けとめ、世の光、地の塩として歩めたらと願います。 本日も神様が豊かに祝福して歩ませてくださいますように。

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2007年3月 9日 (金)

875回・・・蜜の話続編

 875回・・・昨日のミツバチの日の続編です・・・スプーン一杯の蜂蜜を得るために花と巣をミツバチが往復する回数なのだそうです。

 月曜日から土曜日の朝6時15分から10分間、ラジオ岐阜で「さわやか世の光」という聖書に基づいて語られる牧師さんのショートメッセージと賛美歌などの音楽が放送されています。「875回・・・」は昨日のその番組で耳にしました。

 よろしかったら、この放送もお聞きください。

聖書のことば  箴言25章16節 

  蜜を見つけたら、十分、食べよ。 / しかし、食べすぎて吐き出すことがないように。

リビングバイブルでは次のように訳されています。

いくら好きな物でも、食べすぎたら気持ちが悪くなります。

 これは、蜂蜜などの食べ物についてだけでなく、いろいろなことに応用できる聖句(聖書のことば)ですね。

 今日も神様の祝福がありますように。

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2007年3月 8日 (木)

みつばちの話

 3月8日は、そうです、3と8の語呂合わせでミツバチの日・・・全日本蜂蜜協同組合と日本養蜂はちみつ協会が制定したのだそうです。

 せっせと働くミツバチの一匹が生涯かかって集める蜜の量は、次のどれでしょうか。1.大さじ一杯分 2.小さじ一杯分 3.耳かきの先っぽに少しつけたくらい

 いつもあたるとは限りませんが、選択肢の問題があって、一つの選択肢だけが長い場合、それが正解である確率は高いのです・・・

 というわけで、今回の正解は3番です。一生かかってそれだけというのはいかにも少ないのですが、ミツバチも食事をして生きていかなければなりませんので、集めた量ー消費量=耳かきのさきほど ということなのだと思います。

聖書のことば  士師記 第14章

14:5 サムソンと両親がティムナへ行くと、町はずれのぶどう畑で、一頭の若いライオンがサムソンに襲いかかりました。
14:6 その瞬間、神の霊が激しい力をサムソンに注ぎました。 サムソンは武器を持っていませんでしたが、素手でライオンのあごをつかむと、真っ二つに引き裂いてしまいました。 まるで子やぎを引き裂くように、難なくやってのけたのです。 しかし、このことは両親には黙っていました。
14:7 ティムナに着くとさっそく、サムソンはその娘と語り合い、ますます気に入って、結婚の約束を交わしました。
14:8 結婚式のためにまた出かけて来たサムソンは、途中ライオンの死骸のことが気になり、その場所へ立ち寄ってみました。 すると、死骸に蜜ばちが群がり、蜜がしたたっているではありませんか。
14:9 彼は蜜をかき集め、歩きながら食べました。 また、両親にも食べさせたのです。 しかし、どこで手に入れたかは教えませんでした。
14:10 -11父親が結婚の手はず万端を整えてくれると、サムソンはしきたりどおり村の若者三十人を招き、祝宴を催しました。
14:12 サムソンがなぞ解きをしないかと持ちかけると、皆は乗り気になりました。
「もし君たちが、七日間の祝宴中に私のなぞを解いたら、白生地の着物三十着と柄もの三十着を差し出そう。
14:13 だが、もし解けなかったら、同じものをもらうぞ。」
「よかろう。 言ってみろよ。」
14:14 「食らうやつから食い物が出、強いやつから甘い物が出た。」 三日たちましたが、まだ解けません。

  サムソンは、神様が力をくださるときには、天下無双の怪力を発揮しました。神様のお言葉に従って髪の毛を切らないときには、という状況においては、ということなのですが・・・。

  サムソンの生涯からはいろいろな教訓を読み取ることができるのですが、神様のことばに従うとき、神様は私たちにも大きな力を与えてくださるということをサムソンは象徴しているように私は思います。

 聖書には上の箇所のように、なぞなぞが登場することもあるのですね。さて、このなぞ解きの勝負は、若者たちがある手段をつかって正解を出したので、サムソンの負けとなりました。

 どのようにしてなぞは解かれ、その後の展開はどうだったのか・・・お知りになりたい方は、ビクター・マチュアという俳優が主演した「サムソンとデリラ」という映画をご覧ください・・・というのは気を持たせすぎなので、続き読むをクリックしてください。

続きを読む "みつばちの話"

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2007年3月 6日 (火)

「笑点」

  日本テレビの人気長寿番組「笑点」は3月4日で2055回を数えました。昨年の12月18日のブログに、三浦綾子さんの『氷点』のことを書いていますが、「笑点」は氷点をもじって名付けられ、1966年5月にスタートしたのだそうです。

 三浦綾子さんも笑いは体によいからと、楽しみにしてごらんになっていたことを『命ある限り』という著書の中で書いておられます。その本の中に、ご主人に「わたし、笑いたいの。笑わせて」と綾子さんがご主人に頼んだそうです。すると、ご主人である光世さんは、にこりともせずに只ひとこと大声で「笑え」と言い、綾子さんは噴き出して、実に笑ったのだそうです。

 何とすてきなご夫婦なのでしょう。三浦綾子さんは天に召されましたけれど、永遠の夫婦と呼んでよろしいでしょうね。

聖書のことば 箴言 第17章 1節

一切れのかわいたパンがあって、 / 平和であるのは、 / ごちそうと争いに満ちた家にまさる。

 分かりやすく意訳したリビングバイブルでは、次のように書かれています。

けんかしながら毎日ビフテキをぱくつくより、冷や飯を仲よく食べるほうがましです。

 どうか、明るい笑顔の交わされる毎日でありますように。そうなるように神様が祝福してくださいますように。

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2007年3月 5日 (月)