2018年11月 6日 (火)

フラワーアレンジメント

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 11月の最初の日曜日は、天に召されたクリスチャン信仰の兄弟姉妹を記念する「聖徒の日」となっています。

 フラワーデザインで有名な国はオランダなのだそうですが、日本に居てオランダのフラワーデザインを学び、指導者の資格を取得した牧師夫人が、「聖徒の日記念礼拝のフラワーアレンジメントを仕立ててくださいました。

  写真では立体感を充分にお伝えできないのが残念ですけれど、たたずまいのすてきさの何割かは感じていただけたら幸いです。

0005  上の行を読み返して、上からもう一枚撮影してみました。

 おお、視点を変えて見る、ということ、大事なんだな と改めて思いました。(^J^)

  その牧師夫人は「神様は最高のデザイナー」とおっしゃっています。

【聖書】

【新改訳2017版 マタイによる福音書6章28節~30節】

 野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたし(イエス・キリスト)はあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。

 ◇    □     ○     ※   ☆

 苦しいとき、つらいとき、悲しいとき もあります。でも、どんなときも神様は一緒にいてくださいます。  今日も、よい日となりますように。

   ※ 時々、引用させていただく関根一夫牧師さんのメールマガジンに、今日のブログと相通ずる言葉が掲載されていました。 よろしければ、「続きを読む」をクリックしてお読みいただければ、嬉しいです(^J^) 関根先生、ありがとうございます。

続きを読む "フラワーアレンジメント"

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2018年2月25日 (日)

聖書の箴言から  

 日曜日ということで、関根一夫牧師さんのメールマガジンから、引用転載させていただいて「箴言」のメッセージを紹介いたします。

【箴言】
29:17 あなたの子を諭すなら、安心していられる。彼はあなたの魂に楽しみを与える。
+++
「子どもを諭す」という作業は、「あなたがいてくれて嬉しいのだよ」という愛情の上に成り立ちます。できる、出来ないということだけを判断材料に、厳しく迫るのは、逆効果かもしれません。
しばらく前、見つけた記事を紹介しておきます。参考にしてください。
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「学校長からの手紙」

ネットに流れていた興味ふかい文章を紹介します。
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シンガポールにある学校の校長が子供たちの試験の前にこういう文章を保護者に送りました。

拝啓、ご両親さま
子供たちのテストがまもなく始まります。
お子さんがうまくやってくれるように気をもんでおられることと思います。
でも、どうぞ忘れないでください。
テストを受ける子供たちの中には
数学を理解する必要のない芸術家
歴史や英文学についてそれほど重要と考えていない起業家
化学の点数などあまり関係のない音楽家
物理の点数よりも身体の健康状態のほうが重要だと考えている運動選手
がいることを。

もしお子さんが最高点を取れたらそれは素晴らしいことです。
しかし、息子さんや娘さんが、最高点を取れなかったとしても
彼らの自信や尊厳、面目を子供たちから奪い取らないようにしてください。
お子さんに伝えてください。
「大丈夫、大丈夫、これは単なるテストにすぎないのだから。
君たちの素質は人生の中のもっと大きなことのために生かされることになるはずだ」と

ぜひ、これを実行してください。
そして、この世界を征服し乗り越えて行くであろう子供たちを見守ってください。
一回のテストや低い点数が彼らの夢や能力を奪い去ってしまうことなどありません。
そして、医者や技術者だけがこの世の中で幸せな人たちだ、などとは考えないでください。
子供達の点数が何点だとしてもそんなことには関係なく、彼らを愛していると伝えてください。
彼らを裁いたり、軽蔑することはないと伝えてあげてください。
敬具
学校長

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この学校長の指摘する姿勢、そこに「諭し」の心が含まれています。
信頼関係こそ、最大の「諭し」の土台なのです。

+++++++++++

◎主の平和がありますように!

関根一夫

https://www.kazsek.com

 関根先生、そしてシンガポールの校長先生、ありがとうございました。

 今日も、よい日となりますように。

 日曜日、キリスト教会の礼拝においでください。

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2017年9月 3日 (日)

愛の章 コリント人への手紙 第一 十三章

 聖書に「愛の章」と呼ばれている箇所があります。

 聖書 第Ⅰコリント人への手紙 第13章です。

 13章の4節からの「愛は・・・」のところに、自分の名前を代入してみると、恥ずかしくなってきてとても読めなくなる。けれど、一つだけ、「愛」と置き換えて、ぴったりとおさまる名前がある。それは「イエス・キリストだ」とある牧師さんがメッセージされたことがあります。  よろしければ、試してみてください。

  ◇     □     ○    ※    ☆

 聖書 第Ⅰコリント人への手紙 第13章

13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

    ◇     □     ○    ※    ☆

 今日も、よい日となりますように。

 日曜日。キリスト教会の礼拝にお出かけください。神様に献げる礼拝が開かれます。

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2017年4月22日 (土)

聖書の学びと 持ち寄りランチ

  聖書に「人はパンのみにて生くるにあらず」ということばがあるのは有名です。そのあとに、「神の口から出る一つ一つのことばによる」と続きます。

 もちろん、身体のための食事のことも、たいせつにされています。

  という前置きをして、今日の本題に入らせていただきます。

  私の通う教会では、日曜日の礼拝のほかに、水曜日の午前中、聖書の学びをしています。牧師先生は、いろいろな質問に丁寧に答えてくださいます。その学びと祈りの後、持ち寄りランチの時間があります。 先日は、春の陽ざしが暖かく、風もありませんでした。そして桜もちょうど見頃でしたので、教会の庭でランチをしました。

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  この日は、パン焼き器で焼いたレーズン入りのパン、ヨモギの入ったパンケーキ、人参などのサラダ、そして棒餃子(円い餃子の皮を三枚連結したもの)などなどでした。別の日のデザートでしたがレモンケーキ(焼き上がって熱いときに、すかさずレモンの絞り汁を注いでしみこませたもの)の写真も添えますね。

Photo 聖書の言葉を魂の糧とし、身体の糧もいただけるめぐみのときとなっています。

  よろしければ、ご参加ください。

  お時間の都合で、聖書の学びの後、ご家族のもとへ帰宅されるかたもおられます。 そういうふうに、ゆるやかな集まりです。

  月に二回、すてきな指導者に導かれてのゴスペルの時間もあります。

  今日も、よい日となりますように。

  明日は日曜日。キリスト教会では神様に礼拝が献げられます。

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2017年2月19日 (日)

聖書 「ヨブ記」

 聖書は、キリスト誕生以前に書かれた「旧約聖書」とキリスト誕生以後のことが書かれた「新約聖書」からなっています。

 今日のタイトルの「ヨブ記」は、旧約聖書の39巻の中にあります。「ヨブ記」という名は、この書の主人公であるヨブの名をとってつけられたものです。「ヨブ記」は「正しい人がなぜ苦しまなければならないのか」という命題をテーマにした書物で、クリスチャンではないかたからも、その文学性の高さが認められている存在です。

   出だしに、こう書かれています。

 ヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。

 ※ 神を恐れ というのは、こわがっているということではなく、敬虔な心で敬っていたという意味です。 

 このように書かれているヨブに、大きな災害が連続して襲いかかりました。長年連れ添っている妻がこう言ったほどです。

「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」

 これに対し、聖書には次のように書かれています。

「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないのではないか」 ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。

 このあと、ヨブを三人の友人が訪ねてきます。息子、娘たちを喪ったお悔やみと悪性の腫物で苦しんでいるヨブを慰めるために、やってきたのです。けれど、あまりのヨブの変わりように彼らは声を上げて泣き、七日七夜、ヨブとともに地にすわって、だれも一言も話しかけなかった ・・・ それほどヨブの状態はあまりにもひどかったのです。

私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないのではないか

 こういう信仰、覚悟が私にはあるかと自問したとき、身の引き締まる思いがいたします。 神様を信じ、従うと言いながら、ふと気がつくとお祈りの内容が、お願い事の連続で、まるでアラジンがランプの精に用事を言いつけているような状態になっているのを恥ずかしく思うばかりです。

 遠藤周作さんの『沈黙』は、以前にも一度映画化されたと思います。今回は、外国の監督が構想から長い年月をかけて完成した映画が公開されています。映画館に足を運ぶかどうか、迷っているところです。

 今日も、よい日となりますように。

 日曜日、キリスト教会では、神様に礼拝が献げられます。

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2016年11月13日 (日)

大きな目と心で

 おはようございます。 昨日に続いて、イチョウの木の写真で、申しわけありません。けれど、印象がだいぶん異なることと思います。 そうです。今日のは青空が背景で、明るい陽ざしのなかで撮影したのですね。
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 そして、後方の建物は岐阜市の幼稚園です。この幼稚園は、残念なことに少子化に伴って廃園となったのですが、育った子どもたちは、元気に成長していろいろなところで、活躍しています。 昨日掲載した夕暮れが迫る街の中で撮影したイチョウの木の写真とは、こんなにも印象が変わってくるのですね。
   昨日は、生と死のことについて書かせていただきました。私の手に余ることを書いてしまい、振り返って恐縮しています。 「虎は死して皮を残し、人は死んで名を残す」という言葉がありますが、今日は、そのことについてある牧師さんのお話を紹介させてください。
  以下は、昨11月12日の関根一夫さんという牧師のメール通信からの引用です。、こんなお話でした。
聖書の言葉 「箴言」 11章30節
神に従う人の結ぶ実は命の木となる。知恵ある人は多くの魂をとらえる。
+++
  神様に教えられつつ、謙遜に生きる人の後ろには「人を生かす実」がついてきます。
「実」はその人の生きた結果、結ばれるものです。
  この箴言の言葉を借りれば、神に従い続けた人、神の心を求めつつ生きた人は、その結果「人を生かす実」をたくさん結実させたことが「他者」によって、また「神」によってわかることになるのです。
  自分の人生の結果としての「実」は、自分ではわからないことも多くあるように思います。また、不遇な作曲家や芸術家の傑作は彼らは死んでから、大いに評価され世の人に知られることになったというものがたくさんありますが、これなどは、「実」を生きている間に味わえなかった実例なのかもしれません。
  でも、間違いなく誰かを癒し、誰かを励ます音楽や絵画をこの世に残し、それによって実が結ばれたと評価されることになるわけです。
  もしかすると、私たちはあまりに近視眼的に「実」を求める傾向があるのかもしれません。神様に従い、礼拝の心を大切にしながら、与えられた役目を丁寧に果たし、与えられた能力を活用し、怠惰にならないよう心がけながら生きる時、いつになるかわかりませんが、「実」はどこかに稔っているはずなのだと思います。  後略
    ◇    □   ○   ※   ☆
 たとえば、多くの人に、愛され、親しまれているバッハの名曲は、バッハの死後、メンデルスゾーンが楽譜に巡り合って演奏するまで、実に長い年数、眠り続けていました。そんな風に発見されることなく、今も眠り続けている素晴らしい作品が、まだまだたくさんあるのではないかと思えてきました。
 人生の実りを、大きな目・大きな心で見つめてみたい、と思います。
 今日も、よい日となりますように。
 日曜日。キリスト教会の礼拝にお出かけくださいますように。

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2016年5月 1日 (日)

平和をつくる

 イエス・キリストが、山に登って群衆に語られたことから、山上の垂訓と呼ばれている教えがあります。その中に「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子と呼ばれるから。」という言葉があります。(新約聖書 マタイによる福音書5章9節)

 今日と明日のブログは、『婦人之友』5月号掲載の憲法特集1 あの夏、おとなたちは何をしていたの? を参考・引用して、書かせていただきます。

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 昨年の夏休み、2014年にノーベル賞を受けたマララ・ユスフザイさんのことをきっかけに、、女の子が学校に行くことが銃撃の対象にされることがあるなんて・・・と自分が生きる社会の仕組みを研究した小学6年生の女の子がいました。中学2年生のお姉さんは、修学旅行先の長崎で、昔は「戦争を禁じるしくみはなかったの?」という疑問を感じ、憲法のことを調べました。
 妹さんは、一つのことから始めた研究がどんどん広いことにつながっていくことに驚き、毎日考えるのが楽しいといっています。
 だれも戦争で死にたくなかったのに ・・・ お姉さんは、研究を続けながら、こんな言葉を述べています。
  私たちが大人になった時、不安なことがたくさんあります。今、真剣に考えていない大人のみなさん! 子どもに選挙権をゆずってください!
 こうした子どもたちに恥ずかしくない大人として考え、生きることが、「平和をつくる」ことの一つの具体的な姿ではないでしょうか。
 今日も、よい日となりますように。
 日曜日、キリスト教会の礼拝にお出かけください。
 ちなみに、山上の垂訓では、「心の貧しい者」・「悲しむ者」・「柔和な者」・「義に飢え乾く者」・「あわれみ深い者」・「心のきよい者」「平和をつくる者」・「義のために迫害されている者」が幸いである と語られています。このところを八福の教えと呼ぶかたもあるそうです。山上の垂訓は、マタイの福音書、5章から7章まで・・・ 主の祈り や 狭き門 空の鳥を見なさい なども、ここに書かれています。 (その他の福音書にも書かれているところがあります)
 

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2015年7月 4日 (土)

生まれた時から・・・老いる日まで

 母が読み終わって、私にまわしてくれた本の一つ、『信徒の友』(日本キリスト教団出版局発行)2013年9月号に、「生まれた時から・・・・・・老いる日まで」と題する文章があり、聖書のイザヤ書のことばが引用されていました。

  あなたたちは生まれたときから負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。 イザヤ書46章3から4節
 驚きました。紀元前700年ころに記された聖書に、現代の国家が「ゆりかごから墓場まで」と標榜しながら達成できないでいる課題が、力強く述べられているからです。
 よく知られている「足跡」という詩を改めて掲載させていただきます。
足 跡

ある夜、わたしは夢を見た・・・
わたしは、主とともに、海岸を歩いていた。

暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上にふたりの”足跡”が残されていた。

ひとつはわたしの”足跡”、

もう一つは主の”足跡”であった・・・

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

わたしは、砂の上の”足跡”に目を留めた・・・

そこには一つの”足跡”しかなかった・・・

わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。


このことがいつもわたしの心を乱していたので、

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ・・・

 わたしがあなたに従うと決心したとき、

 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、

 わたしと語り合ってくださると約束されました。

 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、

 ひとりのあしあとしかなかったのです・・・

 最もあなたを必要としたときに、

 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

 わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた・・・

「わたしの大切な子よ・・・

 わたしは、あなたを愛している。

 あなたを決して捨てたりはしない。

 ましてや、苦しみや試みの時に・・・

 ”足跡”がひとつだったとき、

 わたしはあなたを背負って歩いていたんだよ。」

マーガレット・F・パワーズ

 今日も、よい日となりますように。 

 明日は、日曜日。キリスト教会の礼拝にお出かけください。 祈りの内に。

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2015年3月17日 (火)

「人は パンのみにて 生くるに あらず」

 NHK朝のテレビ小説「マッサン」も、あと2週間ほどになりました。16日の放送を見ていますと、15年かけて醸造したウイスキーを格安の値段で売り出そうとするマッサンに、原酒3%以下の3級酒を大量に売り出せと出資者が命じる場面がありました。 ← 3%ではなく5%でした。訂正させていただきます。
 本場をしのぐような本物の国産ウイスキー作りを志してきたマッサンの悩みは深いようです。 さて、マッサンは、どのように志を貫くでしょうか。 ウイスキーそのものには縁の遠い私ですが、このことがどう決着するかということには関心を抱きました。
 ところで、私は、この場面で、聖書の言葉を想起しました。
 マタイによる福音書の4章のことば、特に第4節です。
4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
 これは、広く知られている言葉だと思います。パンを食べるなというのではなく、身体のための食物で満足するのでなく、魂の糧として、神様の言葉をより大切にしなさいということです。
 ある宣教師さんは、「ノー バイブル  ノー ブレッド」 とおっしゃいました。
「聖書読まずに 食事するな」 と訳せば良いでしょうか。 三度の食事は忘れないけれど、聖書を読まない日はたくさんある私には耳の痛い言葉です。
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 一人では、なかなか実行出来ない聖書の通読に、ムーミンママと取り組むことにしました。  今年は、おかげでだいぶん読み進むことが出来ています。
 今日も、よい日となりますように。
 追伸  3月17日、朝、ムーミンママと聖書を読んでいますと ・・・ ウグイスが啼きました。 姿を見ることは出来ませんでしたけれど、 この春、初めての美しい声でした。

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2014年3月16日 (日)

聖書の核心 ・・・ ヨハネによる福音書3章16節

 3月16日・・・これにちなんで、聖書の大切なメッセージをすべて含んでいるとして「小聖書」と呼ばれているヨハネによる福音書3章16節を紹介させていただきます。

 神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 

 この世に与えられた御子、イエス・キリストは、私たち一人一人の身代わりとなって、十字架につけられ、苦しい死を遂げられました。そのことを信ずる人は、永遠のいのちを持ちます。 

 「友のためにいのちを棄てる。これより大きな愛はほかにありません」という言葉も聖書には書かれています。 その愛を、身をもって実行してくださったのが、イエス・キリストです。 

 このイエス・キリストの誕生を祝うのがクリスマス、十字架の死からのよみがえりを記念するのが、復活祭(イースター)です。 

 今日は、日曜日、キリスト教会の礼拝にお出かけください。 

 よい日となりますように。

 

 

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