2020年2月28日 (金)

関根一夫牧師のメールマガジン 「日ごとの糧」 2月25日号から

 「人はパンのみにて生くるにあらず」という言葉は、聖書の中でよく知られているものの大きな一つだと思います。「日ごとの糧」というタイトルも、そのこととつながっていると思います。 2月25日号を引用・紹介させていただきます。関根一夫先生、ありがとうございます。

    ◇     □      ○     ※      ☆

【日ごとの糧】(ローズンゲンによる)
2020.02.25

わたしはお前たちの上に人と家畜を増やす。彼らは子を産んで増える。
わたしはお前たちを昔のように人の住むところとし、初めのときよりも更に栄えさせる。
そのとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
(エゼキエル書36章11節)

神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、
あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
(コリントの信徒への手紙第二 9章8節)
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物質的な祝福も神様の与えてくださる祝福の大きなひとつです。しかし、基本的には大金持ちにするという
形の祝福というよりも「よいわざに満ち溢れるように」という背景があり、心の平和、心に愛の充満というか
そういう祝福を伴うものです。その祝福にあずかった人たちは神への礼拝、弱者への施し、自らの修養などに
丁寧に対応するようになっていき、祝福が心の中に深まっていくことを悟る事になります。

マハトマ・ガンジーは「人間の七つの大罪」という表現でこう指摘しました。

1.汗なしに得た財産
2.良心を忘れた快楽
3.人格が不在の知識
4.道徳心を欠いた商売
5.人間性を尊ばない科学
6.自己犠牲を伴わない信心
7.原則なき政治

「祝福」「繁栄」「大儲け」などを神からの祝福と考えようとする時、このガンジーの言葉はとても重要な
参考意見となるように感じます。
他者を不幸に陥れ、怠惰と不正を土台に得た儲けや利益は、神からの祝福とは言えないだろうと思います。

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◎主の平和と祝福がありますように!

関根一夫
pastor.kaz@gmail.com
https://www.kazsek.com/

   ◇    □     ○     ※      ☆

 ガンジーのことばも、示唆に富んでいますね。

 関根先生のホームページには、愛用のカメラで写された鳥の写真なども掲載されています。よろしければ、3行上のアルファベットの行列をクリックして訪れてみてください。

 今日も、良い日となりますように。

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2020年2月 9日 (日)

春を呼ぶ小さな花たち

0010_20200208182801  ウオーキングの山道で、ムーミンママが写した植物たちです。

 一輪だけ咲いていたタンポポ0012_20200208182901

 これから花を見せてくれるだろうスミレ・・・群生しています。

名前は分からないけれど、暖かさを感じさせてくれる植物・・・・

 あいまいで すみません。

0011_20200208183201  さだまさしさんの文章に、桜前線の進む速度は、お母さんの足のサイズずつほど、と書いておられました。 詩的な表現ですが、計算なさって20何センチほどと説明も添えてあったように思います。 

 えっ、「私の人生の春は いつ来るのか」とお尋ねですか。 軽はずみにはお答えできませんが、♪「寒い朝」という歌に、北風の中に呼ぼうよ 春を という歌詞がありました。 私のふるさと、飛騨高山の名産に、春慶塗りというのがあります。寒い地方ほど、春の訪れを心から慶び迎えます。 どうぞ、希望をもって、春をお呼びくださいますように。 京も良い日となりますように。

日曜日。キリスト教会の礼拝にお出かけください。

 

 「わたしの目には あなたは高価で貴い。 わたしは あなたを愛している」と、聖書の中で神さまは語りかけてくださっています。

 

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2020年2月 8日 (土)

歯の検診をおえて見上げた空に

 歯の定期検診をしていただきました。スリムな男性歯科医さん、そして明るく迎え、手際よくお仕事を進めてくださる歯科衛生士さんたち・・・近くにこの歯科医院があることを感謝しています。 けれど、やはり緊張はいたします。3か月ぶりの検診・・・きれいに磨けていますと、励ましの言葉 (これは電動歯ブラシのおかげです(^0^;)・・・ 歯科衛生士さんの丁寧な観察・お掃除が終わると、歯科医さんが交代・・・歯科衛生士さんの要を得た報告に基づいて、「軽く口を開いてください」→「この鏡を持ってください」 →「見えにくいと思いますが、この歯の奥に、このままだと虫歯に進む箇所があります」→「では、処置をします」→ 「はい、済みました。これで、大丈夫です」 → 鏡での確かめ → 「消毒しておきます。」→ 「5分間はうがいなどしないように。 お大事に」

Photo_20200207132801  予約時間10分前に入り、歯科医院の外に出たときはその38分後 ・・・ 歯科医院から一歩出ると、いつものように空を見上げたくなります。爽やかな心持ちです。すると飛行機雲が十字を描いていました。

 自分の口の中の、本人では見つけられないところにある虫歯への予兆のあるところを的確にとらえ、数分後には、その処置が終わる・・・何という幸いでしょう。

 白内障の手術をしてくださった眼科クリニックも、そんなに遠くないところにあります。

 不器用な私には考えられないほど器用で微妙な仕事、手術などを着実になしてくださるお医者さん、看護師さん、歯科衛生士さんたちがいてくださること、本当に感謝です。

 壁にネジ釘一本固定するのにも何回もネジ釘を落とし、床の上を探し回る私と、直径0.5ミリほどの眼内レンズを一回で目の中の、ここという位置に取り付けることの出来るお医者さんの技倆、専門性とは天地ほどの開きがあります。

 何と恵まれていることでしょう。 ありがとうございます。

2  ふと、青空の十字と昨日のメッセージに紹介されているイエス・キリストが投獄されたカヤパの邸宅の地下牢とがリンクしました。あるブログにその地下牢の写真がありましたので、引用掲載させていただきます。

左の写真は地下牢 右の写真はその地下牢へ囚人をつり下ろしたのではとも云われている天井の穴です。Photo_20200207140701

 青空と地下牢 ・・・ ほんとうに天と地の開きがありますね。

 小聖書と呼ばれるヨハネの福音書3章16節を、しみじみと。思い浮かべました。

 こう記されています。

  神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 今日も、良い日となりますように。

 明日は日曜日。 キリスト教会の礼拝におでかけください。

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2020年2月 7日 (金)

「苦難」についてのメッセージ  ー 盛岡みなみ教会のブログから ー

 昨日の関根一夫牧師の「日ごとの糧」を受けて、盛岡みなみ教会の牧師のメッセージを引用紹介させていただきます。

  今日も、良い日となりますように。

 ◇    □    ○  ※  ☆


「苦難」

 盛岡みなみ教会 主日礼拝 2020年1月5日のメッセージより

神は苦しむ人をその苦しみの中で助け出し、
抑圧の中で彼らの耳を開かれる。
神はまた、あなたを苦難の中から誘い出し、
束縛のない広いところに導かれる。
豊かな食物が備えられた、食卓での安らぎに。
あなたには悪しき者へのさばきが満ちている。
さばきと公正があなたを捕らえる。
人々が取り去られる夜を、
あえぎ求めてはならない。不法に向かわないように注意せよ。
あなたは苦しみよりも、これを選んだのだから。
見よ、神は力にすぐれておられる。
神のような教師が、だれかいるだろうか。
神のみわざを覚えて賛美せよ。
人々がほめ歌った、そのみわざを。
すべての人がこれを見、
人が遠くからこれを眺める。
見よ。神はいと高く、
私たちには知ることができない。
その年の数も測り知ることができない。

「ヨブ記36章15-26節」(抜粋)


牧師の言葉

1. 苦難の中で


 私たちはどこで神と出会うのでしょうか。自然界における素晴らしい創造のわざ、人生における素敵な出来事、讃美にあふれた礼拝などさまざま経験をしていることでしょう。今朝の箇所に目を留めると、私たちと神とは苦難においてことさら密接な関係になる、とあります。「神は苦しむ人をその苦しみの中で助け出し」(15節)とあるので、神の助けは苦しみの中ですでに始まっていると教えています。暗闇から出ると神と出会うのではなく、暗闇の中で神を体験し、しかも「助け出し」と完全な救いをもたらしてくださるのです。それは、神が苦しみの中に来てくださるからに他なりません。私たちが神に近づくよりも先に、神が私たちに近づき、自分の蒔いた種によって足が絡みつき、息苦しくもがいている人生の中へ神が近づき、あなたとともにいてくださるのです。詩篇には「あなたは私を最も深い穴に置かれました。暗い所に 深い淵に」(88:6)との預言がありますが、これは主イエスが十字架にかけられる前夜囚えられたことを指してもいます。聖地旅行で訪れたその場所(大祭司カヤパの邸宅で一晩過ごしたと記されている)は、光の届かない、冷たい石でできた穴ぐらでした。それは私たちが苦しみから這い上がれば神に出会えるのではなく、苦しみのただ中に降りてきてくださる主イエスを表す光景でもありました。


2. 苦難を理解する

 しかし、私たち人間は苦しみを素直に受け取ることができません。義人ヨブも自分の正しさを主張し、人の不幸を願うこともあったようでした(17-21節)。人間は実に短絡的に自分の人生を呪い、暴発的に他人も苦労すべきだと訴える危険性を誰もが持っています。苦しみを懲罰と受け取り自分や他者を傷つけるのか、訓練と受け止め謙虚になり他者を励ますのかでは雲泥の差があります。この両者の差はどこから来るのでしょうか?それは苦しみの大小ではなく、信仰の有無です。蝶は羽化する際、全身を震わせ大変な苦しみを経るそうです。そして姿を変え、羽ばたくようになります。ある実験でこの羽化の苦しみを除去し、手助けをしたところ、羽化した蝶は弱々しく程なくして死んでしまったそうです。私たちは、苦しみから学ぶ姿勢を持たなければなりません。人生を呪うよりも先に。他者を引きずり込むよりも先に。

3. 知性をどこに?


 なぜ、そのようなことを聖書は奨励するのでしょうか?それは苦しみが神からもたらされているものだからです。神は偉大な教師であり、並び立つ者はなく、いつでも讃美されるべきお方だからです(22-24節)。神はこの世界を創造し、秩序を保っておらえるお方です。その知恵と力とは計り知ることができません。私たちは自分の家のエネルギーを循環させる技術もありませんが、神は全世界に光や水を循環させておられます(27-30節)。雷鳴や稲妻で地を震わせ、家畜さえも神の力を学んでいます(32-33節)。ましてや私たち人間には知性があります。これは物事をよく見て、学び、考え、選択し、決定することのできる能力です。その素晴らしい知性を運命や法則の軍門に下らせてしまうのでしょうか?それとも、全知全能の神に信頼し、従わせていくのでしょうか?この世界を造られた素晴らしい神さまが、あなたの人生にも深く関わっておられます。人生における苦しみも、この方からの贈り物です。神と親しく、強い交わりを築きたいと願います。

      ◇     ◇      ◇       ◇      ◇ 

 よろしければ、盛岡みなみ教会のホームページを訪れてください。 「メッセージ」のページ、そして「三日牧師」のページなど どうぞ。 https://minamichurch.net/message/

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2020年2月 6日 (木)

苦難と希望  ー関根一夫牧師のメールマガジン「日ごとの糧」からー

 2月4日の関根一夫牧師の「日ごとの糧」を引用紹介させていただきます。ありがとうございます。

日ごとの糧】(ローズンゲンによる)
2020.02.04

苦しむ人、貧しい人は水を求めても得ず渇きに舌は干上がる。
主であるわたしが彼らに答えよう。
イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない。
(イザヤ書41章17節)

また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。
渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
(ヨハネの黙示録21章6節)
+++++++
聖書には人生における苦難の存在は否定されていません。クリスチャンになったら全てがハッピーになるということはありません。罪とか正義とかに敏感になることが多いので、前より、悩みは増えることのほうが多くなる可能性があります。
ただ、前と違うのは「神による希望がある」ということ。
見捨てられることもなく、私の渇きや苦労を知り、かならずいつの日にか報いてくださるお方がおられるということを知ることができるので、前に向かって進む力を得ることになるのです。また、そこを通過しながら「神の約束を学び、聖霊による助けを受け、忍耐を養われつつ」成長させていただくことにもなるのです。
祝福がありますように。

  ◇    □   ○   ※  ☆

 旧約聖書の中に、よく知られた「ヨブ記」があります。 信仰深いヨブがとても大きな苦難に見舞われるのです。 神様を信じて、誠実に歩んでいるのに、なぜ という問いが強く浮かんできます。 2月4日の関根牧師の「日ごとの糧」には端的に、クリスチャンになっても苦難はむしろ増すかも知れない。けれど、「神による希望」がある、と述べられていて考えさせられます。

 明日は、別の牧師の「苦難の意味」についてのメッセージを引用紹介させていただきます。

 今日も良い日となりますように。

 

 

 

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2018年11月 6日 (火)

フラワーアレンジメント

0003
 11月の最初の日曜日は、天に召されたクリスチャン信仰の兄弟姉妹を記念する「聖徒の日」となっています。

 フラワーデザインで有名な国はオランダなのだそうですが、日本に居てオランダのフラワーデザインを学び、指導者の資格を取得した牧師夫人が、「聖徒の日記念礼拝のフラワーアレンジメントを仕立ててくださいました。

  写真では立体感を充分にお伝えできないのが残念ですけれど、たたずまいのすてきさの何割かは感じていただけたら幸いです。

0005  上の行を読み返して、上からもう一枚撮影してみました。

 おお、視点を変えて見る、ということ、大事なんだな と改めて思いました。(^J^)

  その牧師夫人は「神様は最高のデザイナー」とおっしゃっています。

【聖書】

【新改訳2017版 マタイによる福音書6章28節~30節】

 野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたし(イエス・キリスト)はあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。

 ◇    □     ○     ※   ☆

 苦しいとき、つらいとき、悲しいとき もあります。でも、どんなときも神様は一緒にいてくださいます。  今日も、よい日となりますように。

   ※ 時々、引用させていただく関根一夫牧師さんのメールマガジンに、今日のブログと相通ずる言葉が掲載されていました。 よろしければ、「続きを読む」をクリックしてお読みいただければ、嬉しいです(^J^) 関根先生、ありがとうございます。

続きを読む "フラワーアレンジメント"

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2018年2月25日 (日)

聖書の箴言から  

 日曜日ということで、関根一夫牧師さんのメールマガジンから、引用転載させていただいて「箴言」のメッセージを紹介いたします。

【箴言】
29:17 あなたの子を諭すなら、安心していられる。彼はあなたの魂に楽しみを与える。
+++
「子どもを諭す」という作業は、「あなたがいてくれて嬉しいのだよ」という愛情の上に成り立ちます。できる、出来ないということだけを判断材料に、厳しく迫るのは、逆効果かもしれません。
しばらく前、見つけた記事を紹介しておきます。参考にしてください。
++
「学校長からの手紙」

ネットに流れていた興味ふかい文章を紹介します。
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シンガポールにある学校の校長が子供たちの試験の前にこういう文章を保護者に送りました。

拝啓、ご両親さま
子供たちのテストがまもなく始まります。
お子さんがうまくやってくれるように気をもんでおられることと思います。
でも、どうぞ忘れないでください。
テストを受ける子供たちの中には
数学を理解する必要のない芸術家
歴史や英文学についてそれほど重要と考えていない起業家
化学の点数などあまり関係のない音楽家
物理の点数よりも身体の健康状態のほうが重要だと考えている運動選手
がいることを。

もしお子さんが最高点を取れたらそれは素晴らしいことです。
しかし、息子さんや娘さんが、最高点を取れなかったとしても
彼らの自信や尊厳、面目を子供たちから奪い取らないようにしてください。
お子さんに伝えてください。
「大丈夫、大丈夫、これは単なるテストにすぎないのだから。
君たちの素質は人生の中のもっと大きなことのために生かされることになるはずだ」と

ぜひ、これを実行してください。
そして、この世界を征服し乗り越えて行くであろう子供たちを見守ってください。
一回のテストや低い点数が彼らの夢や能力を奪い去ってしまうことなどありません。
そして、医者や技術者だけがこの世の中で幸せな人たちだ、などとは考えないでください。
子供達の点数が何点だとしてもそんなことには関係なく、彼らを愛していると伝えてください。
彼らを裁いたり、軽蔑することはないと伝えてあげてください。
敬具
学校長

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この学校長の指摘する姿勢、そこに「諭し」の心が含まれています。
信頼関係こそ、最大の「諭し」の土台なのです。

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◎主の平和がありますように!

関根一夫

https://www.kazsek.com

 関根先生、そしてシンガポールの校長先生、ありがとうございました。

 今日も、よい日となりますように。

 日曜日、キリスト教会の礼拝においでください。

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2017年9月 3日 (日)

愛の章 コリント人への手紙 第一 十三章

 聖書に「愛の章」と呼ばれている箇所があります。

 聖書 第Ⅰコリント人への手紙 第13章です。

 13章の4節からの「愛は・・・」のところに、自分の名前を代入してみると、恥ずかしくなってきてとても読めなくなる。けれど、一つだけ、「愛」と置き換えて、ぴったりとおさまる名前がある。それは「イエス・キリストだ」とある牧師さんがメッセージされたことがあります。  よろしければ、試してみてください。

  ◇     □     ○    ※    ☆

 聖書 第Ⅰコリント人への手紙 第13章

13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

    ◇     □     ○    ※    ☆

 今日も、よい日となりますように。

 日曜日。キリスト教会の礼拝にお出かけください。神様に献げる礼拝が開かれます。

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2017年4月22日 (土)

聖書の学びと 持ち寄りランチ

  聖書に「人はパンのみにて生くるにあらず」ということばがあるのは有名です。そのあとに、「神の口から出る一つ一つのことばによる」と続きます。

 もちろん、身体のための食事のことも、たいせつにされています。

  という前置きをして、今日の本題に入らせていただきます。

  私の通う教会では、日曜日の礼拝のほかに、水曜日の午前中、聖書の学びをしています。牧師先生は、いろいろな質問に丁寧に答えてくださいます。その学びと祈りの後、持ち寄りランチの時間があります。 先日は、春の陽ざしが暖かく、風もありませんでした。そして桜もちょうど見頃でしたので、教会の庭でランチをしました。

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  この日は、パン焼き器で焼いたレーズン入りのパン、ヨモギの入ったパンケーキ、人参などのサラダ、そして棒餃子(円い餃子の皮を三枚連結したもの)などなどでした。別の日のデザートでしたがレモンケーキ(焼き上がって熱いときに、すかさずレモンの絞り汁を注いでしみこませたもの)の写真も添えますね。

Photo 聖書の言葉を魂の糧とし、身体の糧もいただけるめぐみのときとなっています。

  よろしければ、ご参加ください。

  お時間の都合で、聖書の学びの後、ご家族のもとへ帰宅されるかたもおられます。 そういうふうに、ゆるやかな集まりです。

  月に二回、すてきな指導者に導かれてのゴスペルの時間もあります。

  今日も、よい日となりますように。

  明日は日曜日。キリスト教会では神様に礼拝が献げられます。

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2017年2月19日 (日)

聖書 「ヨブ記」

 聖書は、キリスト誕生以前に書かれた「旧約聖書」とキリスト誕生以後のことが書かれた「新約聖書」からなっています。

 今日のタイトルの「ヨブ記」は、旧約聖書の39巻の中にあります。「ヨブ記」という名は、この書の主人公であるヨブの名をとってつけられたものです。「ヨブ記」は「正しい人がなぜ苦しまなければならないのか」という命題をテーマにした書物で、クリスチャンではないかたからも、その文学性の高さが認められている存在です。

   出だしに、こう書かれています。

 ヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。

 ※ 神を恐れ というのは、こわがっているということではなく、敬虔な心で敬っていたという意味です。 

 このように書かれているヨブに、大きな災害が連続して襲いかかりました。長年連れ添っている妻がこう言ったほどです。

「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」

 これに対し、聖書には次のように書かれています。

「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないのではないか」 ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。

 このあと、ヨブを三人の友人が訪ねてきます。息子、娘たちを喪ったお悔やみと悪性の腫物で苦しんでいるヨブを慰めるために、やってきたのです。けれど、あまりのヨブの変わりように彼らは声を上げて泣き、七日七夜、ヨブとともに地にすわって、だれも一言も話しかけなかった ・・・ それほどヨブの状態はあまりにもひどかったのです。

私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないのではないか

 こういう信仰、覚悟が私にはあるかと自問したとき、身の引き締まる思いがいたします。 神様を信じ、従うと言いながら、ふと気がつくとお祈りの内容が、お願い事の連続で、まるでアラジンがランプの精に用事を言いつけているような状態になっているのを恥ずかしく思うばかりです。

 遠藤周作さんの『沈黙』は、以前にも一度映画化されたと思います。今回は、外国の監督が構想から長い年月をかけて完成した映画が公開されています。映画館に足を運ぶかどうか、迷っているところです。

 今日も、よい日となりますように。

 日曜日、キリスト教会では、神様に礼拝が献げられます。

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