2009年4月24日 (金)

フラワーアレンジメント

 私の通うキリスト教会は、三つの建物でキリストの教えを広める活動をしています。牧師さんは二人おられます。

 日曜日の礼拝がその中心ですが、ほかにゴスペルを習い、歌う場を提供したり、英語を学ぶ教室を開いたり、フラワーアレンジメントの教室を開いたりしています。こうした活動には牧師さんを支えておられる牧師夫人の働きが大きな力となっています。

Ca390002  写真は、牧師夫人に手ほどきいただいて家内が取り組んだ作品です。タイトルは「ダイヤモンド」とのこと。確か、四月の誕生石はダイヤモンドでしたね。

 この牧師夫人は、フラワーアートの本場、オランダでも指導できる資格をお持ちとのことで、教会での結婚式のときなどには教会全体がすてきな花々で彩られます。

 もう一人の牧師夫人は、ゴスペルの活動を支え、こんなブログも立ち上げられました。

http://praiseofozaki.blog26.fc2.com/

 聖書には、このようなことばがあります。

  神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。

 コリント人への手紙 第二  2章14節

 キリスト教会にとってかけがえのない働きをしてくださる方々、とりわけ、牧師夫人は、キリストのかおりをこの世に漂わせてくださる大切な存在です。

 今日もよい日となりますように。

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2008年12月28日 (日)

自分のして欲しいように人にも・・・

 不況の波が押し寄せ、この暮れに、職と住むところまで失う人がたくさんおられるとの報道があります。

 派遣の方が契約を打ち切られるそばで、正社員にはボーナスの明細が配られるという場合もあるようで、この大きな違いには胸がいたみます。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」 マタイによる福音書 19章19節

  自分のして欲しいようにあなたのとなりびとにしてあげなさい ・・・ マザーテレサが貧しい方々に生涯を捧げたのは、まさにこのことばを実行したのですね。

 勝ち組と負け組 というような経済優先の価値観ではなく、こうした聖書のことばを生き方の根底に据えることができたら、と願います。

 ・・・と書きながら、自分でどれだけそれができたか、これからできるか、心もとないです。

 祈りつつ、ささやかでも、実行できる自分になっていきたく思います。

 今日は、日曜日、キリスト教会では聖書に基づくメッセージが語られます。

 今日も、よい日となりますように。

 

 

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2008年8月 6日 (水)

争いに終止符を打つ

 8月6日 ・・・ 広島に原子爆弾が、 そして8月9日には長崎に原子爆弾が落とされました。

 二度と、誰もこんな悲惨なめに合うことのないように ・・・ 「ノーモア ヒロシマ・ナガサキ」には憎しみを越えた強い願い、祈りが込められています。

 単純に比較は出来ないのですが、「リメンバー パールハーバー」(真珠湾を忘れるな)ということばを生んだ12月8日の開戦

 戦争が終結して 「ノーモア ヒロシマ・ナガサキ」

 この8月6日、静かに平和への思いを深めたく思います。

聖書のことば  マタイによる福音書 5章 9節

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

 リビングバイブルというわかりやすさを大切にした聖書では、同じ箇所が次のように訳されています。  

平和をつくり出そうとしている人は幸福です。 そういう人は神の子供と呼ばれるからです。

 今日も、よい日となりますように。

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2008年7月10日 (木)

聖書の「ゴールデンルール」

 私はクリスチャンですので、このブログでは日曜日にキリスト教会の礼拝に行かれるようにお勧めしています。
 でも、なかなかそれが実現するのはむずかしいことであるようです。
それで、今日は、牧師さんのブログから、聖書に基づくメッセージを引用し、皆さんが居ながらにしてそれを読んでいただけるようにいたしました。
 ・・・実は、昨夜、夕食後から早い時間にぐっすりと寝込んでしまい、このブログの記事を更新することができなかったので、こういう方法をとらせていただいているということでもあります。でも、すてきなメッセージですので、お読みくださいね (^o^)
   ◇   ○   ☆   ※   ☆   ○   ◇
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」   (マタイによる福音書7章12節)

 これは、ゴールデンルール(黄金律)と呼ばれる有名なイエス・キリストの言葉です。
  皆さんも良くご存知かもしれませんね。

 人にしてもらいたいと思うことは、まず自分から積極的になすべきこと。人からしてもらうことばかり考えているのではなく、自分の方から与えること、祝福すること。それが幸せに生きるための大切なルールということです。

 人々のために祝福を祈り、誰かの役に立てることは、本当にうれしいことです。

 でも、毎日そんなふうに生きることができたら良いのはわかるけど・・・なかなか難しいんだよなぁ、なんて思う時はないでしょうか?

 そんな時には、ぜひこの“前の箇所”をゆっくり読んでみてください。
そこには、こんなことが書かれています。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。(マタイによる福音書7章7~11節)

 私たちには良い物を豊かに与えてくださる神様がいらっしゃる、と教えられています。
 だから、遠慮なく求めなさい、積極的に探しなさい、どんどん門をたたきなさい。
 求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
 それが神様が造られた宇宙の原理であり、約束です。

あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。

私たちを取り巻く宇宙は、神様の祝福に満ちあふれているところであるようです。
その約束、その祝福を、しっかり味わいつつ、ゴールデンルールに則って幸せに生きたいものです。

神様の祝福が豊かにありますように!
    ◇   ○   ☆   ※   ☆   ○   ◇
 この平塚修久牧師さんのブログは、美しい花の写真なども載っていて、すてきです。よろしかったら訪れてみてください。
 最近、ウオーキングや山登りを日課からはずしていたら、足の筋力がてきめんに弱くなっていました。小さなことでも積み重ねることの大切さを体で思い知りました。
 えっ、頭も使っていないとさびるのではないか ・・・ おっしゃるとおりです。ちょっとむずかしいことを考えようとすると油の切れた機械がギギッときしむような感じ ・・・ でも、潤滑油をさして、何とか動くようにしたいと思います。
 さて、今日は、二つの小学校を訪問し、国語の授業を見せていただいて若い先生方と授業研究ができるのです ・・・ よい機会をいただき喜んでいます。
 今日もよい日となりますように。

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2007年2月28日 (水)

死海

  「死海というところは、塩分の濃度が高く、泳がなくても体が浮き、したがって浮いたまま読書が出来る」と聞いたことがあります。そして実際にそうしている人の写真を見たこともあります。

  ただし、読書をするためにわざわざ死海まで出かける人はいないでしょうし、私も死海まで行って本を読むよりも、家で読書するほうを選びます。第一、長時間、塩分の濃い水につかって読書していたら、皮膚は、きっとひりひりといたむことでしょう。

 死海では、魚も塩漬けになってしまうので、その中で生きていける生物はいないことからその名がついたわけでしょうね。

  なぜ、そんなに塩分の濃度が濃いのでしょうか。広辞苑には死海について次のように書かれています。

し‐かい【死海】
(Dead Sea)イスラエルとヨルダンとの境にある内陸の塩湖。ヨルダン川が流入。面積約1020平方キロメートル、琵琶湖の約1.5倍。水面は海面下392メートルで、地球上で水面の最も低い所。最大深度410メートル。塩度が非常に高い。聖書に関係した史跡が多い

 つまり、地球上で最も低いくぼみなので、一度流れ込んだ水は、どこへも流れていきようがなく、蒸発するしかありません。そういう状況だと岩塩などもある地域なので、濃縮されて塩分濃度は高まる一方だということになり、生物が生きられない死の世界が形成されたわけです。

 私たちの魂の状態をかえりみたとき、霊的な死海がそこに展開することがありませんように。・・・「癌(がん)」という漢字は「品物が山のように積まれて病んでいると見ることができる」と言った人がいます。

聖書のことば  使徒による働き 第20章35節

『受けるよりも与えるほうが幸いである』

 イエス・キリストは、命までも与え尽くされた方でした。

  マザー・テレサの要請に応えて膨大な資金・物資が寄せられたのも、彼女が私利私欲で行動しているのでなく、愛の人であることが広く世の人に知られていたからです。

  たとえ、世の中を動かす地位、権力を手に入れたとしても、それを用いる魂が貧弱であったとしたら、その害は図り知れません。

祈り

  神様に感謝し、私たち一人一人に与えられている賜物を・・・それは必ずしも物質やお金ではなく、優しい言動、まなざしかもしれません・・・その賜物を惜しみなく生かして今日という日を歩むことができますように。

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2006年12月 1日 (金)

創造主

   この地球上の生物は、創造によってつくられたのでしょうか、それとも進化によって現在のようになってきたのでしょうか。「創造論」と「進化論」は教科書にどのように記述するかという具体的な場面においても大きな論議を巻き起こします。かつてのように進化論一辺倒ではなくなってきているのが世界の趨勢だそうです。進化論を最初に唱えたのは、チャールズ・ダーウインです。彼は、晩年クリスチャンになったそうですが、そのことをもって上記の論争に決着をつけるのはダーウインに大きな役割を押しつけすぎだということになりましょう。少し、問題は広がりますが、科学と宗教について書いてみたいと思います。科学が発達する分、宗教の領域は後退していくという言い方をする人もいますが、科学が進めば進むほど、この世界の整然とした仕組みのすばらしさが明らかになり、科学を通して神様の創造のわざに目が開かれ、創造主として神様を信ずるにいたる人が増えるというケースがむしろ多いのではないかと思います。聖書にはこのように書かれています。

  神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる・・・・・・ ローマ書第1章20節

 「神様を信じているから、病気になっても神様にまかせてお祈りしていれば、薬や手術は使わなくていい。」という考え方もありますが、神様は医学をも発達させることができるように人間を創造してくださっているのだと私は思います。ですから医学の恩恵にあずかり、神様に感謝するのが正しい在り方だと思います。今の医学で解決できない病による苦しみのなかにある方・・・その苦しみについて私などが軽はずみにコメントしてはいけないのですが、次のように書くことをお許しください。その苦しみを神様になぜですかと問いかけ続けることで神様により深く出会っていただければと思います。90歳を越えて現役の医師であり続けるクリスチャンの日野原重明医師の著作なども力を与えてくれるかもしれません。親族の作ったカレンダーは31日分なので、小の月である11月にはご紹介できなかった31日のことばを「続きを読む」で表示させていただきます。月初めの1日の聖書のことばは次のとおりです。これで一か月にわたった「今日の聖書のことば」シリーズの結びとさせていただきます。お読みいただいてありがとうございました。

2006年12月1日
神を信じる人は天国への道を歩いているので、死を恐れません。
箴言 12章28節
In the way of righteousness there is life ; along that path is immortality.
Proverbs 12:28

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2006年11月30日 (木)

クリスマスの語源

  クリスマスソングが流れ、クリスマスの飾り付けが見られるようになりました。このごろは、綺麗なイルミネーションで道行く人たちの目を楽しませてくださる家も見られるようになりました。

 さて、このように美しく彩られるクリスマスシーズンですが、クリスマスということば本来の意味は何でしょうか。英語ではChristmasと書かれますが、これは「Christ」=キリスト、救い主 と「mas」=ミサ、礼拝が一緒になったことばです。直訳すれば、クリスマス=救い主礼拝ということになります。意訳してキリスト降誕祭といわれていますね。今日は最初のクリスマスについて書かれている聖書の箇所の一つをご紹介させていただきます。ルカによる福音書第2章の一部です。

2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
2:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
  地の上に、平和が、
  御心にかなう人々にあるように。」

2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

14節を緑色にしたのは、今日の聖書のことばと私の頭の中でリンクする箇所だったからです。旧約聖書においても、新約聖書においても、神様は天でも地でも栄光を現し、時を越えて私たちを愛し続けていてくださるお方なのです。天地をも創造された神様について理解し尽くすことは、海を小さな器で汲み尽くすことができないのと似ていて人間という器ではできないと思います。けれど、地上の一滴の露も満天の星の姿を宿すことができますから、特にクリスマスシーズンには、心を静めて聖書の語る神様の愛を心に映し出したいと思います。

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2006年11月29日 (水)

靴屋のマルチン

 『靴屋のマルチン』は、トルストイが書いた「愛あるところ神あり」という副題のついている小品です。あらすじを紹介させていただこうと思いましたら、ラジオ牧師山下正雄先生のホームページの2002年12月15日のところにメッセージ付きで掲載されていましたので、それを活用させていただくことにしました。

  おはようございます。山下正雄です。
 ロシアの文豪トルストイの作品に『靴屋のマルチン』というお話があります。

 靴屋のマルチンは妻や子供に先立たれ、そんな辛い出来事の中で生きる希望も失いかけてしまいます。周りの人との関わりもだんだん疎ましく感じられ、ただ惰性で続ける仕事に支えられて毎日を送っています。

 ある日、教会の神父さんが傷んだ革の聖書を修理してほしいと、聖書をおいていきます。マルチンは今までの辛い経験から神への不満をもっていましたが、それでも、神父さんが置いていった聖書をちらちらと読みはじめます。
 そんなある日の夜、夢の中に現れたキリストがマルチンにこう言います。

 「マルチン、明日、おまえのところに行くから、窓の外をよく見てご覧。」

 次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外の様子に気をとめます。外には寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはそのおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。

 それから、今度は赤ちゃんを抱えた貧しいお母さんに目がとまります。マルチンは出て行って、その親子を家に迎え、ショールをあげました。

 まだかまだかと、キリストがおいでになるのを待っていると、おばあさんの籠から一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなしをして、いっしょに謝りました。

 そうして、一日が終りましたが、とうとうマルチンが期待していたキリストは現れませんでした。「やっぱり、あれは夢だったのか」とがっかりしているマルチンに、キリストが現れて言いました。

 「マルチン、今日お前のところに行ったのがわかったか」

 そう言い終わると、キリストの姿は雪かきの老人や貧しい親子やリンゴを盗んだ少年の姿に次々と変わりました。

 さて、この話の題材は言うまでもなく、マタイによる福音書25章40節に出てくるイエス.キリストがおっしゃった言葉です。

 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」

 今、キリスト教会では待降節、つまり、イエス.キリストがおいでになることを覚えながら過ごす季節を迎えています。しかし、それはただ天を見上げて、いつ来るかいつ来るかと、キリストが神々しいお姿でやってくるのをじっと待っているのとは違います。

 かつてイエス.キリストは私たちを救われるために貧しい様で私たちのこの世にまで降りてきてくださいました。この地上で生きる私たち人間に最大の関心を払ってくださったのです。

 やがて世の終わりの時にやってきてくださるイエス.キリストを待ち望むとは、決してこの世の苦しみや悲しみから目をそらせることではありません。今日出会う一人一人に対して、目を見開き、手を差し伸べること、あたかもキリストご自身を迎えるかのようにそれらの人々に接することです。接する人間を通して、私たちの思いはますますキリストへと向かうことができるのです。逆説的ですが、人間への関心を深める時に、キリストへの思いも深まり、整えられていくのです。

  山下先生、ありがとうございました。マタイによる福音書25章をもう少し長く引用させていただきます。 

25:31 人の子(イエス・キリスト)が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
  今年の待降節(アドヴェント)は12月3日から始まります。教会にもよりますが、4本のろうそくのついたアドヴェント・リースをつるして、日曜日ごとに点火するろうそくを一本ずつ増やしていく教会もあります。4本全部がともるときがクリスマスです。お近くのキリスト教会を訪れてくだされば嬉しいです。その教会の牧師さんやクリスチャンたち、そして神様が喜んでくださることでしょう。

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2006年11月28日 (火)

『クオ・ヴァディス』

 『クオ・ヴァディス』という文学作品には、ローマ帝国の皇帝ネロによってクリスチャンがコロッセウムでライオンの餌食にされるなどたくさんの人が殺される場面が出てきます。時の権力者に従わずに神様への信仰を貫くがゆえに命を奪われるのですから殉教ですね。『クオ・ヴァディス』の映画を観てから原作を読んだのですが、この殉教ということにまだ少年だった私はいろいろ思いめぐらすことになりました。よりよく生きるために信仰を持つのだろうと思うのに、その信仰を持つがために殺されるとはどういうことなのか、というふうに考えて思考の迷路に入ったのです。ご存じのように、日本のクリスチャンにも殉教の歴史があり、『沈黙』(遠藤周作)という文学作品があります。心の中は誰ものぞけないのだから、口では棄教するといって難を逃れ、心の中で神様を信じていればよいではないか、それをしないで殺されるのはバカ正直というものではないか、とまず思いました。けれど、誰だって命は惜しいはずなのに、なぜ、島原で殉教したクリスチャンは踏み絵を踏まなかったのだろうという問いにぶつかりました。人が何を描こうと、何を刻もうとそれは人の作った物であって神そのものではないのだから踏んでしまえばいいではないか、という考えが頭を去らないのでした。だいぶん時間がかかりましたが、この迷路から抜け出すのに聖書のことばが大きな働きをしてくれました。その中から三つをご紹介いたします。

  からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。マタイによる福音書10章28節

 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

ヨハネによる福音書1章5節

  あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。 ルカによる福音書8章16節

 余談ですが、『クオ・ヴァディス』は最近新たに映画化され、ずいぶん大がかりな作品になっているようです。

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2006年11月27日 (月)

大掃除の要らない生き方

 「何が分からないといって、明日、ハウスキーパーが来るから、とあわてて家の中を片付けている家内の気持ちほど分からないものはない。一体、何のためにハウスキーパーを雇ったんだい?」というジョークがあります。でも、本当はこの夫は分かっているのです。ハウスキーパーといってもやはり、他人様、我が家のあまりにもちらかった状態は見せたくないということが。もう一歩進んで言うと、何軒かの家に仕事に行くハウスキーパーが、我が家の状態を他の家でどう話すかが心配な主婦の気持ちも。これは、パーティなどを開く習慣のある外国の話で、日本では多くの家庭では家族で大掃除すれば、他に人手を頼む必要はないというのがほとんどの場合だと思います。

 けれど、私たちの心の状態はどうでしょうか。以前、ご紹介した八木重吉の「ねがい」という詩「どこを 断ち切っても うつくしくあればいいなあ」のように、美しいところばかりとは言えないことを私たちは自覚しています。

 それに比べ、今日の聖書のことばの人物は、何と落ち着いていることでしょう。自分の心は神様にいつ見ていただいても完璧であるという自信があるからでしょうか。いえ、いえ、罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として魂に迎えて日々を歩んでいる人は、もう既にイエス・キリストと毎日を暮らしているのです。ですから、現実にこの世を裁くためにイエス・キリストが来られても、困ることなく、喜んでお迎えすることができるのです。とは言え、イエス様がお生まれになった家畜小屋よりもみすぼらしいのが私の心の現実です・・・・・・神様のはかりしれない大きな愛を心から感謝いたします。

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